サンタクロース

大昔の記憶をほじくり返してみても、サンタクロースを信じていた頃を思い出すことができない。小さい頃からかなり理屈っぽく、ある意味ませた子供だったので、サンタクロースの話を聞いても、そんなわけはない、と思ったのだろうか。ただ、朝起きたら枕元にプレゼントが置いてあるのを初めて「発見」した日の記憶はある。たしか、コース付きのレーシングカーセットの大きな箱が枕元にあったのだ。8の字型のレーシングコースを組み立てて、その上を小さなレーシングカーが飛ぶように走った。すごく嬉しかったのだが、サンタクロースがくれたのだ、とは思わなかった。両親のほうも、サンタクロースが持ってきた、という「建前」をあまり押し出してはいなかったように思う。クリスマスそのものが、あの頃(昭和40年代)は、今ほど大きなイベントでもなかった。

以前勤めていた会社のマネージャーが、サンタクロースを信じる娘のために、飲みかけの牛乳と一口かじったクッキーを夜中にテーブルにセットしたり、ちょっとした足跡を屋根につけたり、とそれはそれは微笑ましい努力をする人だった。そのかいあって、小学校低学年の娘さんはまだサンタクロースを信じていると言っていた。もう10数年前の話なので、もう信じてはいないだろうけれど、きっと子供の頃の楽しい思い出としていつまでも残るんだろうなぁ、とこちらまでほっこりと温かい気持ちになる。

クリスマスプレゼントといえば、4歳か5歳の頃にドラムセットを買ってくれとねだったことがある。どこかのデパートのおもちゃ売り場だったか楽器売場だったかの片隅に、子供用のドラムセットが置いてあったのだ。小さなサイズながら、バスドラ、スネア、ハイハット、タム、シンバルとフルセットでついているけっこう本格的なやつだったと思う。物心ついてからずっとバンドとか音楽が好きで、3歳ごろからホウキをギターに見立てて、弾きながら歌うマネゴトをしているような子供だったが1)、そのドラムセット見た瞬間、電気に打たれたようにこれは僕が叩かねば、と思い込んだのだった。

当時は団地住まいだったので、冷静に考えれば、どう考えてもドラムセットなんてあり得ないわけで、もちろん親にはケンモホロロにダメだと言われた。でも、そこはまだ幼稚園の子供。「もしかして」という期待は大きくはちきれんばかりに膨らんだままクリスマスの朝を迎えた。起きると枕元に何やら大きな袋が。でも、どう見てもドラムセットほどは大きくない。開けてみると、木目も鮮やかなオレンジがかった木琴が出てきた。母親いわく、叩いて音が出るものという点では同じだから、これで我慢せよ、と。ドラムを欲しがる息子に木琴というセンスが今でも信じられないが、彼女は何故かどこか自慢げですらあった。いやいや、ぜんぜん違うにもホドがあるでしょ。木琴の入ったバンドなんて見たことないし。

今でもクリスマスになるとこのことをよく思い出す。もしあのときにドラムが与えられていたなら、今頃はきっとサイモン・フィリップスくらい世界的なドラマーになっていたはずなのだが。世の中思い通りにはいかないものだ。

1 今でもギターを弾いてバンドで歌っているのだから、その頃から何も変わっていない。三つ子の魂恐るべしである。

小籠包

小籠包の名店、台湾の鼎泰豊(ディンタイフォン)にはじめて行ったのは、たぶん95年ごろだったと思う。台北の知人が、信義路にある本店に連れて行ってくれた。お昼時をだいぶ過ぎていたが、お店の外に順番待ちの長い列ができていた。

そこで初めて本格的な小籠包というのを食べたのだが、もうもうと湯気のあがるセイロから次々と出てくる、蒸したて熱々、肉汁たっぷりの小籠包ってこんなに美味しいのかとびっくりした。蒸し物以外もみなじつに美味しくて、食べてる最中からすでに、あぁまたすぐに来たいと思っていたくらいだ。

翌年、新宿のタカシマヤに、海外出店一号店ができた。期待に胸をふくらませて早速行ってみたのだが、本店ほどの感動はなくがっかりした。きっと、僕のアタマの中で、本店の記憶が美化され、勝手に期待値が膨らみすぎていたのだと思う。記憶の中の小籠包は、セイロのフタを開けた瞬間、眩しいほどに白く燦然と輝いていたような気すらしていたから。もうひとつには、当時はまだお店の海外出店ノウハウがこなれておらず、手探りだったのかもしれない。

勝手にがっかりした後は、しばらく台湾に行く機会もなく、そのうちに東京でもあちらこちらで美味しい小籠包が食べられるようになったこともあって、鼎泰豊はすっかり意識の外に押し出されてしまった。ところが、4、5年前に突然カムバックを果たす1)。出張先のあちらこちらで、鼎泰豊の文字と小籠包のかたちのマスコットを見かけるようになったのだ。海外出張のひとりメシのとき、中華というのは大変に重宝する。アメリカではよくパンダエクスプレスにお世話になったが、アジアの大都市のあちらこちらに鼎泰豊の支店ができていたのだ。ジャカルタ、バンコク、シンガポール、ソウル、メルボルン、シドニー2)。あまり時間がなく、ひとりで手軽に済ませたい。でもそこそこ美味しいものが食べたいなぁ、というときにピッタリである。そしてパンダエクスプレスより断然美味しい。

そうこうしているうち、台北の本店も再訪する機会があった。以前訪問したときよりもお店が綺麗になっていて3)、やはり、海外のどの支店よりも断然美味しかった。初訪問のときの記憶はあながち間違いでもなかったのであった。

1 カムバックを果たす、って言っても、鼎泰豊にしてみればこの20年、着実に海外進出を果たし、グローバル企業として成長を続けてきたわけで、こっちの都合など知ったこっちゃないわけだが。
2 余談だがトロント郊外にもおなじ「鼎泰豊」という名だが、全く無関係の中華料理屋があり、そこも小籠包が美味しい。
3 専用のスマホアプリまであって、並んだ順番がくると通知してくれる。相変わらず予約は受けていないらしい。

破天荒

若い頃は、「破天荒」とか「無頼」みたいな形容詞で語られる人生に憧れを抱いていた。平凡なレールに乗った人生じゃなくて、人と違った格好いい生き方がしたい、と鼻息も荒く思っていた。若者らしい青い憧れだけれど、平成も終わろうというこの時期に振り返ってみると、甚だ昭和っぽい憧れでもあったのだなぁと思う。

こんなことを考えたのは、「ボヘミアン・ラプソディ」と「エリック・クラプトン~12小節の人生~」を立て続けに見たからだ。フレディとエリックが「破天荒」だったかどうかはさておき、ふたりともセックス・ドラッグ・アルコールといった退廃をたっぷり経験している。70年代から80年代にかけて、世の中への「異議申し立て」にあたっては、このセックス、ドラッグ、アルコールというのは必須科目のようなもので、一般常識や良識を踏み外すためのお決まりの方法論だった。ロックミュージシャンや無頼派の作家などは、みな揃ってこの泥沼にはまり込み、若者は憧れの眼差しでその姿を見ていた。

憧れてはみたものの、この泥沼にハマるのはけっこうハードルが高かった。男子校育ちのやや自意識過剰な男子としては、女子に並々ならぬ興味はあったものの、手当たり次第というほど器用な真似はできなかった。ドラッグは、戦後のヒロポンのようにそこらに転がっていれば試すことも出来たのかもしれないが、マリファナのようなソフトなものであっても入手手段などなかった。代わりに、タバコを吸って、クラプトンのように、ギターヘッドの弦の間に火のついたタバコを挟んで演奏してみたりもしたが、ニオイが生理的に駄目だった。酒は一時期頑張って飲んでみたものの、酔っ払う前に、気持ち悪くなって動けなくなるか、眠り込んでしまうかで、記憶をなくして「破天荒」なことをしでかすはるか手前の段階でダウンしていた。

その後、身の回りで、ドラッグはともかく女や酒に耽溺する人を見てきたが、みな生理的に、というか、ナチュラルボーン・酒好き女好きであって、ムリして溺れている人というのはあまりいない1)。なぜそんなに飲みたいのか、なぜそんなにヤりたいのか、という問いにはあまり意味がない。「破天荒」に生きたくて、なんて人はおらず、ただ、そこに酒があるから、とかそこに女がいるから、みたいな人ばかりである。聞きようによっては孤高の登山家の深淵な哲学と勘違いしそうになるが、何のことはない、好きだから、という生理的な反射に近いのだった。

話がすっかり逸れた。この「破天荒」への憧れが昭和っぽいというのは、つまり、「普通の」人生が、レールに乗ったらそのまま年をとっていくだけの退屈なもの、という前提があるからだ。いい学校に行き、いい会社に就職し、定年までつつがなく勤めて、退職後は年金暮らし、というレール。高度経済成長と終身雇用があたかもずっと続く「真理」のように思い込んでいた昭和が背景にどどんと鎮座していたのである。言うまでもなくこの昭和の思い込みは雲散霧消し、レールなんて探しても見当たらない時代になった。これから、ますます先が読み通せない時代になり、みなそれぞれに変化に機敏に対応しながら生きていくのだとすれば、「破天荒」になるのはますます難しい。だってもはや踏み外すべき「普通」がないのだから。

1 もちろんアルコール依存の問題は深刻で、いつしかアルコールがその人をコントロールするようになってしまう。クラプトンが映画の中で「当時、自殺しなかった理由は、死んだら酒が飲めなくなると思っていたからだ」と語っていたが、まさに酒が人格を乗っ取ってしまうこともあるのだ。

ちょっとの距離

遠い、近い、という距離感覚は個人差が大きい。たとえば、普段あまり出歩かない人にとっては、電車で数駅、あるいはクルマで30分の距離を「遠い」と感じるだろうし、普段から2時間近く長距離通勤しているような人ならば、その同じ距離を「近い」と感じるだろう。それでも、日本という小さめな国土の平均的な町で過ごす人にとっての最大公約数的な距離感覚はあるはずで、たぶん所要時間2時間とか3時間あたりが近い・遠いの境目なのではなかろうか。

アメリカ人と話すと、この感覚がずいぶん違うのだなぁと思わせられることが多々ある。若い頃ニューヨークに赴任していたとき、ミネアポリスにある小さな会社と取引があった。その会社はシカゴにも事務所があり、そこの社長は、ミネアポリスとシカゴをよく行ったり来たりしていた。この2つの都市は、東京と大阪くらい1)離れており、飛行機なら1時間半、車だと6時間半ほどの距離だ。彼は、こともなげに「近いからすぐだよ」と鼻歌交じりで2つの都市をしょっちゅうクルマで往復していた。東京と大阪を月に何度もクルマで往復しろと言われたら、運送業でもない限り、僕ならかなり怯む2)。やはり広大な国土に住んでいると、距離感覚がぐっと伸びるのだなぁと感心したものだった。

この、日本人にはかなりの「遠距離」でも、それをものともしないアメリカ人の感覚は、いろいろな場面でひょっこりと顔を出す。同じミネソタで、「美味いアイスクリームがあるからちょっと食べに行こう」と連れて行ってもらった先が、ハイウェイで40分くらいかかる場所だったこともある。全然「ちょっと」食べに行く距離じゃなかった。某IT企業の入社面接で、当否を決める最終段階というわけでもないのに、「ちょっとカリフォルニアまで来られないかな?」と、カジュアルな調子で聞かれたときは面食らった。太平洋は、「ちょっと」越えるような距離ではない。この手の話は珍しくなくて、つい先日も、別のIT企業から、面談したいのでカリフォルニアまで来てくれ、と言われたばかりだ。あ、書いていて思い出した。シンガポールでちょっとディナーをするから、参加しろ、と言われてそのディナーのためだけに6時間かけて飛んだこともある。仕事といえば仕事だけれど、別段大した話でもなかった。本当に「ちょっと」ディナーしただけなので嘘ではなかったわけだが、僕の往復12時間を返してほしい。

アメリカ系企業に勤めてずいぶん経つので、僕の距離感覚も、もしかすると平均的日本人よりもだいぶ伸びた、というか、伸ばされた感がある。たとえばソウルに出張するときは、それこそ「ちょっと」行ってくるわ、てなもんで基本日帰りである。往路は朝一番の羽田発、復路は最終便の金浦発を使うとそれほどムリなく日帰りできる。このパターンだと、夜の付き合いで深酒しなくて済むという利点もあるのだった。

1 正確には東京と姫路くらい。
2 もちろん新幹線なら十分アリだけれども。

キャベツの謎

お好み焼きといえばもちろんキャベツ。焼きそばにもキャベツ。串揚げ(串カツ)屋に行けば、つまみ代わりにキャベツが壺に入っている。最近では、ホットドックにもカレー風味のキャベツが挟まっているらしい。大阪に行くと、東京よりもキャベツの姿が目につく。関西ではそれだけ消費量も多いのだろうと思ってちょっと調べてみた。

すると意外なことが判明。総務省の家計調査によると、大阪市の世帯あたりの消費量は全国平均以下で、調査対象の52都市中34位。真ん中よりだいぶ下という結果であった。ちなみに上位を見ると、1位は長野市、2位相模原市、3位新潟市の順になっている。ふーむ、これはどういうことだろうか。お好み焼きや焼きそば以外のキャベツ料理といえば、ロールキャベツくらいしか思い浮かばないけれど、ロールキャベツをしょっちゅう、たとえば毎週のように、食べているという人を寡聞にして知らない。新宿に「アカシア」というロールキャベツの名店があるが、月に一度いけば多い方だろう。さて、最近キャベツを食べたのはいつだっけ、と思い出してみる。と、昨日食べたぞ。トンカツだ。キャベツの千切りがとんかつにはつきもの。さらにトンカツ屋ではたいていの場合、キャベツのおかわりは自由だったりするではないか。トンカツの方がお好み焼きよりもキャベツの消費を牽引するのではなかろうか。

そこで、今度は豚肉の消費量を調べてみたところ、1位相模原市、2位新潟市ときている。実は、豚肉の消費は東高西低で、21位までは、広島市と岡山市のふたつを除き、すべて東日本の都市で占められている。ほら、思ったとおりでしょ、と冴えた推理に、満足気にあごひげを撫でながら、改めてしげしげとキャベツのランキングを眺めてみると、3位以下は東西が入り乱れており、キャベツと豚肉の消費にそれほどの相関関係があるようには見えない。薄目で見ればほんのりとそれらしき「傾向」があるようにも見えるけれど、気のせいだよと言われればそうとも思える程度のほんのり加減なのである。

キャベツの消費が、お好み焼きともとんかつともそれほどの関連がないとすると、一体どのようにして消費されれているのだろう。けっこう大きな謎1)である。

1 ちなみに「はくさい」は見事なまでに西高東低で、トップ16までを、浜松を除き、西日本の都市が占める。西日本の鍋物好きとキムチが主因ではないか、と言われているようだ。

ゲレンデを上る

先日、しばらくぶりに赤倉観光ホテルに行ってきた。気疲れすることが続いて、ちょっと風呂でも入ってのんびりしたいなぁと思いつつインターネットを眺めていたら、露天風呂つきの部屋にたまたま空きが出ていたので、すぐに予約したのであった。

いつもはチェックインすると、ほとんど部屋から外に出ることもなく、1. バルコニーの露天風呂 2. 読書 3. うたたね 4. ごはん、以下1から4を繰り返す、の永久ループでひたすら呆けて過ごすのだが、露天風呂に浸かりながら目の前に広がるひろびろとした山の斜面を眺めているうち、最近読んだスコット・ジュレクの「EAT & RUN」という本を思い出し、ふと「ちょっと走ってみようかな」と思い立った。トレイルランニングに興味があるのだけれど、山の未舗装の斜面を走ったことはまだないのだ1)

ホテルのすぐそばを「妙高高原スカイケーブル」というケーブルカーが麓から標高およそ1300メートルの山頂駅までを11分で結んでおり、山頂駅周辺にはトレッキングコースもあるらしい。でも、残念なことに今年の営業は11月初旬で終了してしまった。まぁちょっとトレイルランのマネごとをするだけなので、バルコニーから見えているスキーリフト(今は動いていない)にそって山麓からホテル、ホテルからさらにもう一つ上のリフトステーションくらいまで上り下りしてみることにした。

意気揚々とハイペースで歩きだしてみたところ、12月中旬からはスキーゲレンデになる斜面なだけに、斜度がけっこうあり、ものの5、6分で息が上がる。心拍計は持ってこなかったので正確なところはわからないけれど、どうも150オーバーのレッドゾーンに入っている感じだ。それでも空気は澄んでいるし、足元は落ち葉と冬枯れした芝でふかふかと気持ち良い。やはり舗装路に比べて、関節への負担は相当に軽い気がする。とはいえ、ふくらはぎや腿の筋肉への負荷が想像以上に高く、かなりキツい。「走る」なんてとてもムリで、一定のペースで「歩く」ので精一杯、そのうち「這う」に近い有様になる。こんなのでも、トレーニングすれば少しは「走れる」くらいになるのだろうか?スコットの最新刊「North 北へ」によると、彼はアパラチアン・トレイルを一日60キロから80キロのペースで進み、3,500キロをおよそ47日間で走破している。一日80キロを47日間なんて平地だって至難の業だと思うけれど、それをこんな傾斜の坂や岩登りが随所に現れるトレイルで達成したのだから恐れ入る。

結局、ハアハア言いながらも、およそ60分、なんとか休まずに斜面を上り下りし、スコットがいかにものすごい偉業を成し遂げたのか、ほんの少しだけ自らの身体で実感したのであった。iPhoneのヘルスケアアプリによると、昇った階数は113階分2)。このあとにまた部屋で浸かった温泉は、ひときわ身体に染み渡り極楽至極だった。

1 平地の舗装路なら家の近所を週に何度か走っている
2 どういう計算なのかはよくわからないけれど。

きんぽうげ(甲斐バンド)

甲斐バンドと言われても、若い世代はもうぱっと曲が思い浮かばないかもしれない。でも、きっと「HERO(ヒーローになる時、それは今)」や「安奈」は、どこかで聴いたことがあるはずだ。

甲斐バンドは、ボーカルの甲斐よしひろを中心としたロックバンドで1974年にデビュー。1970年代には、チューリップ、海援隊など、福岡・天神のライブハウス「照和」から多くのミュージシャンがプロデビューしたが、甲斐バンドもそんなバンドのひとつだった。79年にリリースした「HERO(ヒーローになる時、それは今)」が腕時計のSEIKOのCMタイアップと合わせて大ヒット。同じ年の10月に発売された「安奈」のヒット1)と合わせ、人気を不動のものとした。

「きんぽうげ」は、僕が高校一年のときに、同級生と組んだバンドで、はじめて人前で演奏した曲のうちのひとつ。文化祭だったか、何かの校内行事のアトラクションの一部だったと思う。今思えば、みな楽器を始めたばかりで、初々しさだけが取り柄。音作りも、楽器の音量バランスも、なにひとつわかっておらず、せーのでスタートしたら、わーっと最後まで自分のパートを間違えずに弾き通すことくらいしかできなかった。よくぞあれで人前に出たものだと感心する。

初めて生で観たロックコンサートも、甲斐バンドだった。埼玉会館大ホール。スモークの焚かれたステージ、交錯する照明、大音響。16歳の少年にとって、あまりに強烈なインパクトで、その後、高校、大学から今に至るまでバンド活動とギターをこよなく愛するようになった原点はたぶんあそこにある。そのコンサートでも「きんぽうげ」は、たしかオープニングとして演奏されたはずだ。

この曲のギターソロは、今聴いても完成されていて、ヘンにアドリブで変化させる余地がない。このビデオでも、二度目のソロ(半音下げ転調のソロ)ではギター二本でオクターブ違いのユニゾンになっているが、レコードのオリジナルと全く同じフレーズを弾いている。ギターの大森信和2)のソロは、この曲に限らず、ブルージーで印象的なフレーズが多く、曲に変化をつけながらも全体を大きくまとめるような役割を果たしている。ところで、甲斐よしひろも、ギターを弾きながら歌うことも多かったが、彼は左利きで、通常の右利き用のギターをくるりと半回転させてそのまま使っている。そのため、一番太い6弦が一番下側、細い1弦が一番上側になり、右手の弦の押さえ方がかなりヘンテコリンに見える。

1 昔、カラオケでクリスマスソングを何か歌え、ということになって「安奈」を歌ったら、これはクリスマスソングではない、と不評だったのが未だに納得がいかない。れっきとしたクリスマスソングだと思うのだが。
2 2004年に急逝

Reaching Out / Tie Your Mother Down (Queen+Paul Rodgers)

何人たりとも、クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーに代わることはできない。これは誰もが認める事実だろう。歌唱力、声質、カリスマ的エンターテナー性、曲作りの能力。どれをとっても唯一無二であり、クイーンというバンドとその創り出す世界のフロントマンとして絶対的な存在であった。だからこそ、1991年に彼が亡くなった後、クイーンは長らくバンドとしての活動を停止していたし、せざるをえなかったのだと思う。2005年、本当にしばらくぶりにワールドツアーを行うにあたって迎え入れたボーカリストがポール・ロジャースだったというのは、古くからのロックファンにとってはかなり「意外な」人選に映ったはずだ。

ポール・ロジャースは、クイーンに比べれば、日本での知名度はないに等しいかもしれないが、クラッシクロック好きならばたいていの人は知っている実力派ブルーズ・ロックボーカリスト。フリー、バッド・カンパニー、ザ・ファームなどでの活動で知られる。ホワイトスネイクのデイヴィッド・カヴァデールや、元ディープパープルのグレン・ヒューズのようなボーカリストにとっては、ブルーズとロックを融合させた偉大なる先達といえる。

僕にとっても当初「意外」であり若干「懐疑的」にも思えたこの起用だったけれど、ライブアルバム「リターン・オブ・ザ・チャンピオンズ」を聴いて認識を180度改めることになった。僕にとっては、何ならオリジナルよりも好きかもしれない、と思わせるほどに素晴らしい出来だったのだ。鮨とステーキとどっちが美味いかを比べても意味がない。あえて言うならどちらが好きか、くらいしか表現しようがない。例えは少々雑だけれど、同じ理屈で、フレディとポールは、あまりにスタイルが違っていて、お互いを比べても意味がないのだ。フレディが、ヨーロッパ大陸的な、クラッシックやオペラの耽美的な匂いをまとっていた1)のに対し、ポールは大西洋の反対側の、アメリカのブルーズとその英国的解釈としてのブルースロックの土の匂いを持ち込んだ2)。これほど違うボーカリストを立てることで、僕らはフレディへの気持ちをそのままに、「別物」としてポールの歌うクイーンを楽しむことができるようになった。ポール・ロジャースとして唯一無二のボーカルは、クイーンの楽曲を、クイーン自身による別次元の解釈で演奏することを可能にしたのだ。面白いことに、ポールのブルースロック的世界に呼応するように、ブライアン・メイのギターも、どこか普段よりも粘りのあるリズムとノリでプレイされているように聞こえる。

2005年さいたまスーパーアリーナでのコンサートを観に行った。アルバムと全く同じように、静かなオルガンのバックにのせて「Reaching Out」3)が始まる。思わず涙腺がゆるんでしまうほどの、心が締め付けられるようなポールのシャウトが “Are you reaching out for me…” と響き、雪崩のように「Tie Your Mother Down」のハードなイントロに続く。これまで何本のコンサートを観たか数えきれないけれど、ベスト3に入る圧巻のコンサートであった。

1 それがクイーンというバンドそのものでもあったわけだが。
2 そういうクイーンなんて嫌いだという人がいるのもわかる。
3 1996年にチャリティのためにブライアン・メイ、チャーリ・ワッツらによって結成されたプロジェクトRock Therapyでリリースされた3曲入りアルバムの中の一曲。

EAT & RUN

「EAT&RUN 100マイルを走る僕の旅」
スコット・ジュレク、スティーヴ・フリードマン 著、小原 久典 、北村 ポーリン 訳、NHK出版。

以前レビューを書いた「Born to Run」に出てくる主要登場人物のひとり、スコット・ジュレクが、なぜ走るのかを自らに問いかけつつ、その考え方、食生活、トレーニングなどを気取らない筆致で綴った本。スコット・ジュレクは、全米のみならず世界的にも「最強」のウルトラランナーのひとりであり、ウェスタンステーツ・エンデュランスラン(カリフォルニア州の山岳地帯を161キロ走るトレイルマラソン)7連覇をはじめ、世界的なウルトラマラソンで多くの優勝を果たした。大量のエネルギーを消費するウルトラマラソンにおいて、ヴィーガン(完全菜食主義者)であることが何らハンデにならないどころか、体調を整え、良質のタンパク質と必要なエネルギーをとるのにむしろ大切な要因になっているのも、彼のスタイルを際立たせる特徴になっている。

彼は、ミネソタの片田舎で、幼い頃から、ALSを患い日に日に身体の自由を失っていく母親と、厳しく強権的な父親の間で、経済的にも恵まれないなかでも、長男として家族のバランスを必死でとりながら生活をしてきた。彼が走りはじめた理由のひとつは、自分の心配事を忘れ、自分の中に入っていく一人きりの時間を過ごせるから、だったようだ。スポーツ界に限らず、アメリカで成功した人たちの少なからずは、「強くある自分」を意識的に外に打ち出し、弱さと受け取られる要因をなるべく見せたがらないタイプが多いように思うが、本書のスコットはむしろその逆で、不安や葛藤、弱さや泣き言、友人から受けた刺激や支えを素直に記している。

「Born to Run」を読んだときから、なんとなく感じてはいたが、長距離を走ることで到達する境地と仏教的な瞑想の境地とは、その本質において似通っている。どちらも、呼吸を見つめ「今」に集中することで、将来や過去といったしがらみを捨て去り、無我の境地を目指す。スコットの思索は、どちらかといえば東洋的で、我々には馴染み深い側面をもっている。第10章ではヘンリー・ソロー1)と武士道について、第12章では、比叡山の千日回峰行2)について触れている。

人生はレースじゃない。ウルトラマラソンだってレースじゃない。そう見えるかもしれないけれど、そうじゃない。ゴールラインはない。目標に向かって努力をして、それを達成するのは大切だけれど、一番大事なことではない。大事なのは、どうやってそのゴールに向かうかだ。決定的に重要なのは今の一歩、今あなたが踏み出した一歩だ。(「エピローグ」)

ビジネスであれ、スポーツであれ、結果が全て、勝者が全て。ゴールに最短距離で到達したものが勝者であり、全てを手にする、といった勝利至上主義の考え方はここにはない。ランニングを含め、あらゆることの「見返り」は、すべて自分の中に存在し、ゴールに向かった「プロセス」だけが自分に喜びや平穏を与えてくれるのだ、という彼の言葉は、説得力と温かさをもって胸に染みる。

本書に続く「NORTH 北へ アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道」(NHK出版)が9月に刊行された。ジョージア州からメイン州に至る3,500キロもの「アパラチアン・トレイル」を北上し、最速踏破記録を樹立しようとする日々の記録だ。とくに後半の壮絶さと、その中で思索が深まっていく様子は、この本のあとにぜひ読むと良よい。

1 「ウォールデン・森の生活」著者。長距離の散歩を日課としていた。
2 見方によってはまさに究極のウルトラマラソンでもある。

四万温泉・積善館(2)

本館での食事は2階奥にある食堂でとる。夕食は6時から7時の間。お重にはいったおかずが部屋ごとのテーブルにセットされていて、温かいごはんとお味噌汁が別に用意されている。お重は3重になっていて品数は多く、優しい味付けで悪くない。頼めば部屋に持ち帰って食べることもできるようだ。飲み物は、外で買ってきたものであっても、自由に持ち込むことができる。商店街にある酒屋で地酒を買って一献なんてのも楽しい。(食堂にも、それほど種類はないけれど、ビールやお酒が有料で用意されている。)

なにせ古い木造建築なので、廊下を人が歩くとぎいぎいときしむし、足音が響いたりする。また、本館の部屋は、トイレ、洗面所が共同で、いちいち部屋の外に出なければならないのが面倒といえば面倒だけれど、それも風情だと思って楽しむとよい。

積善館は、古い歴史や由緒ある建築が温泉ガイドにとりあげられるけれど、それに劣らず、接客も丁寧だ。本館での宿泊は「湯治」スタイルなので、客が自分のペースで時間を過ごせるように、日本旅館では普通とされるサービスのいくつかをあえて「しない」選択をしている。たとえば、部屋ごとに何くれと世話をしてくれる接客係はいないし、布団を敷くのも客が自分でやることになっている1)。それでも、スタッフのみなさんは、チェックイン・アウト、食堂での給仕といった要所要所で、気配りの効いた、落ち着いた品のある接客をしていて、客が心地よく過ごせるよう気を使っているのを随所に感じることができる。また、宿のウェブサイトはとても充実していて、宿の自負と誇りを随所に感じる読みものが満載だ。

四万温泉の周辺には、徒歩やクルマで訪れることのできる観光ポイントがいくかある。紅葉のシーズンであれば、日向見薬師堂や四万川ダムに立ち寄ってみることをお勧めする。

1 普段、ホテルに泊まりなれている身からすると、日本旅館のサービスは時に過剰で、かえってわずらわしいことが多い。布団だって、部屋のどこにいつ敷くのか自分で決めたいので、放っておいてくれる仕組みのほうがありがたい。フルサービスが好みの場合には、山荘か佳松亭に泊まるとよい。