夢伝説(スターダスト・レビュー)

「夢伝説」を聞くとカルピスが飲みたくなる中高年は少なくないのではないか。84年発売のこの曲はカルピスのコマーシャルに使われ、バンドとして全国的な人気を獲得する原動力となった。

スターダスト・レビューは81年デビュー。ボーカル&ギターの根本要を中心とした5人編成のバンドだが、全員がボーカルをとれるほどの高い歌唱力を活かした分厚いコーラスワークと洗練された曲調が魅力だ。根本の声がハスキーなので、ちょっと聴いただけだとわかりにくいが、男性ボーカルとしてはキーが非常に高く、一般人がカラオケで歌おうとすると愕然とする。全体的には、エレピ、シンセサウンドを中心としたキーボードが全面に出て曲の色を決めるタイプのバンドだが、カッティングと中間部のソロワークでは根本のギターがロック・ブルーズ色を加えて、単なるおしゃれポップとは一線を画する深みと複雑さを演出している1)。実際、根本はギターには並々ならぬ思い入れを持っているようで、以前読んだインタビューでは、「ボーカルは他人に譲ってもかまわないけれど、ギターだけは譲れない」という意味のことを話していた記憶がある。ブラウンサンバーストのストラトを愛用している。「夢伝説」もそうだが、イントロを省いてサビのメロディを冒頭に持ってくる曲が比較的多く2)、また、それがスタレビらしさをうまく演出している。

僕が熱心に聴いていた頃、キーボードは結成以来のメンバーである三谷泰弘が担当しており、アルバムでもライブでも彼がメインボーカルを担当する曲が取り上げられている。僕から見ると、根本と三谷はいい意味での「競合」関係があり3)、それがバンドの魅力のひとつを形作っていたと思う。94年にソロプロジェクトのために脱退してしまったのはとても残念だった。

ライブ版アルバムや映像を見るとわかるが、ライブでは、曲間のしゃべりも含め、笑いあり涙ありの、誰もが存分に楽しめるエンターテイメントに仕上げてられており、何度見ても楽しい。

1 「木蘭の涙」などが好例。
2 「木蘭の涙」「今夜だけきっと」「トワイライトアベニュー」など
3 オフコースにおける、小田和正と鈴木康博のような

個人授業(フィンガー5)

よく行くラーメン屋ではいつも70年代から80年代の「懐かしの歌謡曲」が有線から流れている。子供の頃に親しんだ音楽は、早い段階で神経細胞に深く刻み込まれるようで、何年いや何十年ぶりに聴いた曲でも、スラスラと歌詞が浮かび一緒に歌えたりする。先日も冷やし中華を待っていたところ、フィンガー5の「個人授業」のイントロが流れ、気がつけば指でリズムをとりつつノリノリで聴き入ってしまった。

おそらく若い世代の人たちはもはやフィンガー5など知らないだろう。曲を知っていたとしても後年カバーされたバージョンの方ではないだろうか1)。フィンガー5は沖縄出身の男性4人、女性1人の5人兄妹からなるグループ。73年に発売された「個人授業」は、みるみるうちにミリオンヒットになり、その後リリースされた「恋のダイヤル6700」「学園天国」も立て続けにミリオンセラー、一躍トップアイドルの仲間入りを果たした。

グループ名でわかる通り、「ジャクソン・ファイブ」を強く意識した売り方で、シングル曲だけでなくアルバム収録曲も、当時の歌謡曲の中では、飛び抜けて垢抜けた洋楽的な雰囲気を強く漂わせていた。ヒット曲の多くは、作詞が阿久悠、作曲が井上忠夫または都倉俊一といった当時の売れっ子コンビによる作だが、アルバム収録曲の中には玉元一夫(長男)ほかメンバーのクレジットも散見される。おそらく、日本に返還される前の沖縄でアメリカのヒットチャートを聴いて育ったことが、垢抜けた音楽センスを身に着ける要因になったのではないか。本家で声変わり前のマイケル・ジャクソンが担っていたハイトーンのメインボーカルは、同じく声変わり前の玉元晃(四男)が、本家に負けないほど伸びのあるハイトーンで歌っていた。実際にアルバムには日本語詞によるジャクソン・ファイブの曲が収録されており、『I want you back』(「帰ってほしいの」)『I’ll Be There』(「愛はどこへ」)『Goin’ Back To Indiana』(「オキナワへ帰ろう」)などが原曲の雰囲気をそれほどこわさずにカバーされているのが面白い。

この時代、「和製~」と形容されることは、どちらかといえばポジティブなトーンを帯びていたように思う2)。ポップスやロックの分野では、洋楽の方が「格好いい」というコンセンサスが強くあったため、今に比べてもっと純粋なあこがれがあり、ヘンに自分たち独自のカラーを加えたりせず、リスペクトを込めたコピーに近い形で3)そのあこがれに近づこうとしていた。そのせいか、フィンガー5を40数年の時を経て今改めて聴き直してみても古臭さはほとんど感じることがなく、むしろ素朴でピュアなアプローチだった分、新鮮にさえ感じるというおもしろいパラドックスが起きている。

1 たとえば、小泉今日子がカバーした「学園天国」。まぁこのカバーバージョンも十分古いのだが。
2 「劣化版コピー」といったニュアンスはなかった。
3 柳ジョージとエリック・クラプトンの関係もこのニュアンスを感じる。

青田茶館

もう20年以上前だと思うが、台北を訪ねた時に、知り合いが「茶藝館」に連れて行ってくれた。日本で言えば古民家や由緒ある豊かな家といった風情の場所で、小さな茶器で淹れた台湾のお茶を、お茶請けの甘い小さなお菓子とともに、時間をかけて楽しむ。街の喧騒から離れ、静かでのんびりとした時間が流れ、中庭や棚に飾られた茶器や書を眺めながらほっとするひとときを過ごす。あれはなかなかいいものだったなぁ、と東京に戻ってからも何度か思い返したりしていた。

20年を経た今でも茶藝館は健在で、台北市内にも、新しいもの、古くからあるもの含めいくつもの茶藝館が開いている。そのうちのひとつ、青田街にある「青田茶館」を訪ねてみた。「青田茶館」は、日本統治時代(1920年代?)に建てられた古い日本式家屋を再生して、茶藝館として運営されている。隣接して「敦煌畫廊」というギャラリーがある。中庭のマンゴーの老木を眺めながら、ほのかに蜜のような香りがするというお茶を飲む。奥のテーブルに男性ばかり5、6人のグループ、隣のテーブルに日本人らしき女性二人連れが同じように茶を楽しんでいるが、広々としてテーブルの間隔も大きくとられているので、話し声もまったく気にならない。子供の頃、夏休みに田舎の祖父母のところに遊びに行き、心地よい風が通る古い家の縁側に腰を掛けて、冷たい麦茶を飲みながら、夏の日差しにそよぐ庭の古い木々を眺めている、そんな心地がする。いやいや、僕にはそんな祖父母はいないし、田舎の家もないのだが、どこかで見たような、古き良き夏の思い出みたいなものを、なぜか自然に思い浮かべるほどしっくりと心に馴染む空間だった。

青田茶館に立ち寄ったときには知らなかったのだが、青田街は、日本統治時代には「昭和町」と呼ばれ、南側に台北帝国大学(現在の国立台湾大学)、西側には台北高校(現在の国立台湾師範大学)があった場所で、台北帝大に招聘された日本人学生や教授などの住居として日本式の家屋が多く建てられ、それが今も残っているとのこと。風景がどこか懐かしく心に馴染むのも道理で、それで「おばあちゃんちの夏休み」みたいな景色を思い浮かべてしまったわけだ。

豆花(とうふぁ)

豆漿につづく大豆ネタ。台湾スイーツは、タピオカミルクティーを筆頭に日本でも大いに盛り上がりを見せているが、「豆花」も台湾では代表的なスイーツらしく、日本にも台湾の有名店が出店してきている。

豆花というのは、つまり、豆乳プリンのようなものである。ウィキペディアによれば、食用石膏(硫酸カルシウム)やかん水を入れて凝固・成形したものだそうだが、最近はよりぷるんぷるんの食感を求めて、凝固剤に工夫が凝らされているらしい。この豆花に、優しい甘さのシロップがかかっており、そこにやはりほのかに甘く茹でられた柔らかな小豆やピーナッツ、季節のフルーツ(マンゴーやいちご)を好みで乗せてもらって食べる。こうして書き記してみても、婦女子がグループでお互いのトッピングについて「美味しそうだね~」なんて言いながら楽しそうに食べてこそ似合うものであって、おっさんが黙々と食べて似合うものではない。しかしながら、大豆探究家としては、豆漿に続く台湾名物として試さないわけにはいかない。うむ、仕方がない。

というわけで古くからの問屋街である迪化街にある「夏樹甜品」に行ってみた1)。ここは「豆花」というよりは、杏仁豆腐・杏仁豆花の専門店らしい。杏仁の香りの豆花にほんのり甘いシロップがかかっていて、そこにいくつかトッピングを乗せる。豆花もシロップもたっぷりしているので、トッピング2)はすぐに沈んでしまうが、スプーンですくって口に運ぶ。よく日本の中華料理店で出てくる杏仁豆腐にくらべるとかなり控えめな「ほのかな」甘さのせいで杏仁が引き立っている。これなら食事代わりにも食べられそうだ。

「春水堂」は元祖タピオカミルクティーのお店。ウェブサイトによるとここにも豆花があるはずだ。松山空港の第1ターミナルビルの2階にあったはずなので、帰国便のチェックインをした後の待ち時間で食べてみようか、などと思っていたところ、お店が見当たらない。どうやらなくなってしまったらしい。「春水堂」はいまや日本にもある。心残りだったので帰国してから行ってみた。こちらは杏仁ではなく普通の豆花。「夏樹甜品」よりも少し甘みが強くよりデザート感がある。それでも「ほのか」と形容できる甘さで、男性でも難儀することはなくするすると食べられる。

1 あとでわかったことだが、中山の誠品生活(新光三越の隣)地下のフードコートにもあった。
2 ピーナツをやわらかく煮たトッピングは台北だとどこにでもあるが、日本でピーナツを柔らかく煮て食べる、というのはあまり聞かない。千葉の方には人知れずあるのだろうか。

台北の朝食

豆腐の味噌汁に、納豆、醤油とくれば日本の朝ごはん。よく見れば大豆ばかり。世界一大豆を食べているのは日本人だろうなぁとしみじみ食卓を見渡すが、これは正しくもあり、誤りでもある。たしかに、ひとりあたりの食用供給量(消費量)は日本が世界一なのだが、総供給量でみると世界一は、人口の差が歴然というべきか、中国である1)

というわけで、中華圏でも大豆を使った食品や料理は多く、それは台湾も例外ではない。豆漿(ドゥジャン)というのは、台湾ではポピュラーな朝食で、街のあちらこちらに豆漿を出すお店がある。これはつまり豆乳。あるいは豆乳が粥状に固まり始めたくらいの、おぼろ豆腐よりもちょっとゆるいくらいの感じのもの。

阜杭豆漿(フーハンドゥジャン)は、この豆漿の名物店。華山市場という商店ビルの二階、フードコートの一角にある。2018年、19年と二年連続で台湾版ミシュランガイドの「ビブグルマン」2)に選ばれている。朝5時半から昼くらいまで開いているが、朝食時には1時間以上ならぶこともザラという超人気店である。朝飯に1時間並ぶってあり得る?とか、そんなに並んでたらそれは昼飯になってしまうやん?とかいろいろと疑問は浮かぶが、何はともあれ行ってみた。

10時前という朝食にはやや遅い時間だったものの、ビルの壁に沿ってすでにズラリと人が並んでいる。観光客ばかりかと思いきや、地元の人たちも多数。テイクアウトで買っていく人も多く、回転が早いせいだろう、列は絶え間なく進み、30分かからないくらいで注文レジまでたどり着いた。レジのおばさんたちは中国語の通じない観光客も扱いなれていて、メニューの指差しと片言の日本語、英語など駆使しつつ、良く言えばてきぱきと、悪く言えば問答無用な感じで客をさばいていく。

鹹豆漿(鹹は塩味の意味)と厚餅夾蛋(中国パンのタマゴサンド)を注文。鹹豆漿は、味の形容が実に難しいが、ほんのりとやさしい塩味に小エビの出汁が効いて豆の旨味を引き出し、小さくちぎって入っている油絛(中国風揚げパン)の油気とコクが一体となってするすると喉を通過していく。厚餅夾蛋はいわば台湾風タマゴサンド。インドのナンのように窯の壁に貼り付けて焼いたパン生地には塩気とネギ風味がついていて、そこに挟まったふるふるとした卵焼きがいいバランス。適度にお腹がいっぱいになりつつ、もたれるという感じはなく、なるほど朝食にちょうどよい加減だった。

1 世界的に見ると大豆のほとんどは油、燃料、あるいは飼料として消費され、人間の食用として消費されるのは10%程度にすぎない。中国は食用だけでなく総消費量でも世界一である。
2 安価でコストパフォーマンスに優れたお店。日本だとおよそ5,000円以下。

ひとんちのニオイ

子供の頃から誰かの家に行くのが苦手だった。友達と遊ぶにしても、野球をする、あるいは「泥棒と探偵」で外を走り回る、といったことは大好きだったが、誰かの家に遊びに行く、それも先方のお母さんが在宅している家にお邪魔する、っていうのがどうにもダメだった。緊張するし、気を使うし、リラックスして遊ぶなんてまるでできない。トイレにも行けない。この傾向は、三つ子の魂というべきか、今に至るまで続いていて、人様の家にお邪魔するのは全力で避けている1)

世の中には全く気にしない人もいて、酔うと「誰々の家に行こうか」とか言い出す輩にたまに遭遇する。行って何がしたいのかわからないが、誰かの生活のニオイみたいなものを体験するのが楽しいのであろうか。あ、そういえば、逆に酔うと「俺んちに泊まれ」と言い出す人もいるな。あれはなんだろう。おもてなし精神の発露なのか、一人で帰るのが寂しくて嫌なのか、飲んで帰るのに援軍がほしいのか。こっちはたとえ実家であっても泊まるのはいまひとつ気が進まないので、万一そういう必要が出てきたときには、近くのホテルに泊まる算段をするというのに。

そういうわけでAirbnbも利用したことがない。出張でよく行くサンフランシスコ近郊ではホテルが高騰していて、Airbnbの方が安くていいとよく言われるのだが、頑なにホテルに泊まっている。Airbnbなんて、ホストの生活の片隅にお邪魔するようなものもけっこうあると聞くし、行ったら主が出てきて「我が家へようこそ!」などとニコヤカに言われた日には固まってしまいそうだ2)。シリコンバレー近郊では、ただのビジネスホテル程度のところでも場合によっては一泊350ドルから400ドルすることもあり、そこにもってきてあらゆることが「ザツ」なサービスをみるにつけ、「ドーミーイン」の爪の垢でも煎じて飲めと憤慨するが、だからといってAirbnbを使う気にはならない。

最近では、この傾向がさらに高じて、個人タクシーまで避けるようになってきている。個人タクシーって、まぁ言ってみればその運転手さん所有のクルマであって、ダッシュボードの端っことかグラブボックスのあたりとか、細かいところの端々に、タクシー会社のクルマにはない「人の家」感が滲み出ている。クルマを停めてドアが開き、乗り込もうとしたその瞬間、運転手さんは言うであろう。「ワタシのクルマにようこそ!」いや、まぁそうは言わないけれど、車内のニオイも、運転手さんご本人の体臭と混じり合って独特なものがあり、どうにも落ち着かない。若い頃は全然気にならなくて、むしろグレードの高いクルマが多いからと個人タクシーを積極的に選んでいた時期もあったのだが。

1 例外は兄弟と法事だけ。
2 そうでないところがほとんどなのだろうけれど、こうしたケースを想像して怖気づいている。

Miami 2017 (Billy Joel)

ビリー・ジョエルが世界的に売れたのは1977年発表のアルバム「ストレンジャー」からだが、これは彼の5枚目のアルバム。デビューは1971年のアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」1)まで遡る。

アルバム「ストレンジャー」が出た頃、僕はちょうど小学校から中学校にあがる頃だった。タイトル曲の哀愁を帯びた出だしや、やや放り出すように歌いつつも、力強くかつ繊細なヴォーカル。それまで日本の「ニューミュージック」ばかり聴いていた耳には、この都会的で垢抜けた音楽は鮮烈で、続く78年の「ニューヨーク52番街」、80年の「グラスハウス」と合わせ、それこそレコードが擦り切れるほど2)聴き込んだものだ。小学校の低学年の頃からずっとヤマハの「エレクトーン」を習っていたのだが、ああこんなことならピアノを習っておくんだった、と何度思ったことか。後年、実際にニューヨークを訪れたとき、ビリーの曲が自動的にBGMとして脳裏に流れたものだが、僕ら世代のニューヨークという都市へのイメージは、ほとんどビリー・ジョエルによって作られたと言ってよい。

「ストレンジャー」より前の4枚のアルバムについては、「ピアノ・マン」などいくつかのヒットを除いてはあまり聴く機会がなかったのだが、81年に初のライブ盤「ソングス・イン・ジ・アティック」(原題:Songs In The Attic)がリリースされる。これは「屋根裏に放り込んだ曲」という意味のアルバム・タイトル通り、すべてブレイク前の初期のアルバムから選曲されており、まだ聴いたことのなかった曲がいくつも入っていた。中でもこの「マイアミ2017」と「さよならハリウッド」の二曲は強烈なインパクトだった。

「マイアミ2017」(原題:Miami 2017 (Seen the Lights Go Out on Broadway))は、廃墟となったニューヨークを逃げ出してマイアミに移住した人が2017年に当時を振り返ってニューヨークが破壊されていった様子を語る、という歌。76年にリリースされた歌なので、40年後の未来から過去を振り返っている近未来SF的な設定だ。75年頃にニューヨーク市は財政破綻に瀕しており、そこからインスピレーションを得て作った曲だというが、彼の多くの曲同様、ニューヨークへの愛情に溢れている。あの頃の未来だった2017年はすでに過去となり、ニューヨークは相変わらずネオンを煌々と輝かせてますます健在である。

1 この「Cold Spring Harbor」が町の名前だと知ったのはずいぶんと後のことだ。ロングアイランド島北岸にある町の名前で、ビリー・ジョエルの故郷の近くらしい。ロングアイランド鉄道のポートジェファーソン支線に「Cold Spring Harbor」という駅がある。
2 CDはまだなかった。

Don’t Tell Me You Love Me (Night Ranger)

ツインギターのハードロックバンドは数あれど、ナイト・レンジャーほどの「完成度」を誇るバンドはなかなかない。ここでいう「完成度」は、主にギタリストふたりのテクニックとオリジナリティ、役割分担、ギターソロの構成と難度を指していて、バンド全体の完成度とか曲のよさ、みたいなものはちょっと脇に置く。

82年発表のデビューアルバム「ドーン・パトロール」(原題 「Dawn Patrol」)のオープニング曲「ドント・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」(Don’t Tell Me You Love Me)からツインリードが炸裂する。ハードロックとしては何の変哲もない前半を過ぎ、ギターソロパートに入った途端、当時のギター少年はみな口をあんぐり開けて呆然としたものだった。

ギターソロ前半はブラッド・ギルスで、当時出たばかりのフロイドローズ1)を使わないと絶対にできないピッチ変化極大のアーミングをフルに使ったソロを披露する。弦のテンションがゼロ(弦がベロベロに緩んだ状態)近くまでアームダウンした状態からハーモニクスで倍音を出しつつ今度は2オクターブ以上上までアームアップしていき、シンセサイザーのピッチシフトをつかったような音程変化をギターで叩き出す。正確なピッキングで速弾きもこなすが、フロイドローズの申し子のような多彩なアーミングがトレードマークだ。

後半はジェフ・ワトソン。ブラッドとは「正反対」にレスポール使いでアームは使わない。その代わり、と言っては何だが、超高速・正確無比なピッキングで機械的な繰り返しフレーズを中心にソロを組み立てている。複数弦にまたがった弦飛びのピッキングが必要で、ギタリスト的には最高難度といっていいフレーズが次々飛び出す。さらにセカンド・アルバムからは、左右合計8本の指先をフルに使ったタッピング(ライトハンド)奏法も披露している。ギターソロ構成はブラッドの「柔」とジェフの「豪」それぞれのソロパートの後に、ふたりのハーモニープレイ(それもけっこうな速弾き)が続くというのが王道だ。

おもしろいことにボーカルもジャック・ブレイズ(B)とケリー・ケイギー(Dr)のツインリードで、曲調によってボーカルが変わり、ハモりも美しい。こうした「ツイン」をふた組フィーチャーしたオリジナリティあふれるバンドの「かたち」は、デビューアルバムにしてすでに100%完成されていたが、皮肉なことに、全米トップ10に入るヒットは、「シスター・クリスチャン」「センチメンタル・ストリート」などバンドの「本領」とても言えないような甘ったるいバラードが先行した。このため、レコード会社の売り方とバンド本来の「音楽性」が乖離してしまったのが、このバンドのある種の不幸だろう。

1 彼はいまだにチューニング調整機能のない「初代」のフロイドローズを愛用している。

三つ子の魂

新宿の東急ハンズをうろうろしていたところ、すごいものを発見した。鈴木式輪ゴム鉄砲。単発式からなんと20連発のマシンガンタイプまである。すべてヒノキを使った手作りだそうで、手に持ってみると、滑らかな優しい温もりと同時に男子のメンタルを鷲掴みにする造形の美しさを兼ね備えている。6連発ガバメントタイプで4,000円という値段は安いのか高いのか1)。ひとつひとつ職人さんの手作りと考えれば高くはないような気がするし、小学生の頃よく割り箸でつくったゴム鉄砲の仲間だと考えると高い。アタマを冷やすためにいったん売り場を離れてみたが、気になってすぐにまた戻ってしまい、ゴールデン・ウィークの10%割引があるのを言い訳に買ってしまった。

ゴム鉄砲なのになぜ連発式が可能なのか。ゴムを先端の照星とグリップの上あたりにある木片にひっかけて飛ばす力を得るという点では割り箸製単発銃と基本的な仕組みは変わらない。違うのは手前側の(ゴムを引っ掛ける)木片が三角形で回転するようになっており、一辺ごとに二本の輪ゴムを引っ掛けられるので合計6本。引き金を引くたびに木片が回転してひっかかりが外れゴムが発射されるという仕組みだ2)

小学生の頃、割り箸で骨組みを組んで「ゴム鉄砲」をよく作って遊んだ。合計すれば20コや30コくらいは作ったのではないか。男子の性として、友達よりよく飛ぶ強力なやつを作りたい。いや、もっと有り体に言えば、友達に自分より痛い思いをさせて悔しがらせたい。いきおい、ゴムの限界まで引っ張ることになり、銃身がどんどん長くなっていったが、なんせ割り箸製だから強度的に問題があり、製作中あるいは戦闘中に勝手に崩壊して「暴発」し、自分で痛い思いをすることも多かった。小学生にしてこのような「軍拡競争」が起きるわけだから、世界から武器がなくならないものむべなるかな、ではある。

同じくひのき製の的も売っていたので、一緒に買って家で的当てをしてみた。きちんと作られているだけあって、ゴムの飛んでいく先がブレずに精度が良い。昔から射的の類いは得意だったが、二メートルくらい離れても8割ぐらいの確率で的に当てられるようになった。子供向けのおもちゃガンでは、スポンジの銃弾を飛ばすNerfというハズブロ社製のものが人気があるそうだが、僕にはこの輪ゴム鉄砲のほうがずっと魅力的にみえる。これって単に三つ子の魂ってやつなのだろうか。今度甥っ子3)に見せて、どのくらい食いつくか観察しようと思う。

1 ウェブサイトには8連発式7,000円のものが出ているが、ハンズには6連発式のものもあった。
2 と、書いてみたところでよくわからないと思うので、興味のある人はフェイスブックにある動画を見てください。
3 ヤツはNerfもたくさん持っている。

ROSHANI

サーキュラー・キー(Circular Quay)をぶらぶらと散歩しながら写真を撮っていたら、ストリートミュージシャンの歌声が聞こえてきた。アコースティック・ギターにのせて、魂の震えがそのまま伝わってくるようなブルージーな歌声。思わず足を止めて聴き入ってしまった。声の主は小柄な女性で、アップにした髪に黒いサングラス、白地にプリント柄のふわりとしたワンピースが褐色の肌によく似合う。深く豊かな倍音を含んだ声は、落ち着いたトーンの中に哀切の情が溢れ、聴く者の心の奥までぐっと入り込んでくる。オーストラリアのミュージックシーンはよく知らないけれど、ブルーズ的な要素はほとんどないと勝手に思い込んでいたので、こんなにも「泥臭い」ブルーズを奏でるミュージシャンがストリートで歌っているのか、と驚いた。

何曲か聴いて、ブレイクタイムに本人からCDを二枚買った。名前はROSHANIというらしい。ホテルに戻って改めて聴いてみると、これがまぁ実に良い。どんなミュージシャンなんだろうと検索してみたところ、2015年のオーストラリア版 X-Factor(アマチュアのオーディション番組)に登場するや一夜にしてiTunesのブルーズチャートの一位を攫ったシンガーであった。生まれはスリランカ。生後6週間でオーストラリア人夫妻に養子に出され、以来オーストラリアで育った。X-Factorで注目された後、「60 Minutes」というドキュメンタリー番組の企画で、28歳にして初めて産みの母親をスリ・ランカに訪ねている。現在は、パートナーのミュージシャンとオーストラリアをクルマであちこち旅しながら歌っているようだ。こういう生き方もブルーズミュージシャンらしいし、こうして歌がますます魅力的になっていくのだろうな、と思う。ライブハウスのような小さな会場でじっくりと聴きたいミュージシャンだ。

2015年と16年に発売されたアルバム2枚がiTunes、Google Play Musicなどで見つかる。その後に発表した2枚については、本人のウェブサイトで購入できるようになっている。ロック・ブルーズ的なものが好きな人なら聴いて損はないと思います。