男子校という世界

文部科学省の学校基本調査によると、男女別学の高校(つまり、男子校とか女子校のことね)は近年激減している。2017年(平成29年度)のデータによると、全国に4,907ある高校のうち、別学は415校、校数の単純な割合でいえば8.5%である。僕が高校に入った年(1981年)には全国5,219校のうち、1,135校、21.7%だった。公立高校に限ればその減少幅はずっと大きくて、1981年に全国340校あったものが、2017年には、群馬県、栃木県、埼玉県を中心にわずか48校が残っているだけで、男子校にいたっては、たった14校。ああ、我が母校は知らぬ間に絶滅危惧種になっていたのである。

別学がいいのか、共学がいいのか、人それぞれ考えはあるだろう。僕は生まれ変わってもまた同じ高校に通いたいと思っているくらいに高校時代が楽しかったので、できれば母校には、いつまでも変わらぬ男子校であってほしいと思っている。

入学式の日、集合場所の前庭に行った瞬間、「黒いな」と思った。ずらりと並んだ新入生が全員黒い詰め襟だから、そりゃ黒いわけだ。そして新入生であるにもかかわらず、フレッシュというよりはすでにむさ苦しい。女子がいないだけで、世界はこんなにむさ苦しくなるのだ、というのは新たな発見であった。

「質実剛健」を校訓とする古い学校で、当時は、埼玉県下で最も古いコンクリート造りといわれる何の飾りっ気もない実用一点張りの校舎だった。上履きというものがなく、教室まで外靴でどかどかと入り、夏に冷房などないのはもちろんのこと、冬に暖房もなかったが、どういうわけか誰も風邪を引かなかった。男子だけの学校生活は、異性の目を気にする必要もなく、とにかく気楽で、自由闊達に青春を謳歌できた。

ただ、そうは言っても男子高校生、普段接することがないだけに、女子に対する興味は否応なく妄想となって膨張し1)、年に一度の文化祭だけは、女子にアピールするための最も重要な学校行事となった。頭脳で勝負しようとするもの、肉体で勝負しようとするもの、アートに訴えるもの、食欲に訴えるものなど、多少の違いはあれど、なんとかして女子とお近づきになるための仕掛けを未熟なアタマで考える2)のだが、どこか間が抜けていて、顕著な成功例を寡聞にして知らない。

ところで、今こうして思い返してみると、SNSがない時代の記憶は、もはや遠くに見える美しい風景のように、いい具合に霞がかかっている。写真やコメントが色褪せず残るのも、それはそれで一興だけれど、青春のバカさ加減は、記憶の中で美化風化するからよいのだ。当時のクラスメイト諸氏はきっとみな同意してくれると思う。

1 おおむね、同年代の女性はみな女神のように神聖なものと思い始める。
2 ある年、模擬喫茶店で出すスイーツを、差別化のために「和菓子」にしてみたのだが、意に相違して父兄のたまり場みたいになってしまったのは痛恨の極みであった。

音声操縦

「オーケー、グーグル」って小学生がAIスピーカーに向かって言う姿は、かつて大作少年がジャイアント・ロボ1)を操縦していた姿を彷彿とさせる。大作くんがジャイアント・ロボを操って悪の組織BF団と戦っていたのは1967年なので、かれこれ50年ほど前のことだ。ジャイアント・ロボは腕時計型の音声操縦システムで動くロボットで、大作くんの声にしか反応しない。

最近、AIスピーカーが人気だ。アマゾン・エコーとかグーグル・ホームみたいなやつ。インターネット(とその先にあるAI的なプログラム)につながっており、スマートフォンを使う代わりに、音声だけで操作できる。まさにジャイアント・ロボである。このスマートスピーカーを使うには、「今から話しかけるぞ」ということをまずAIに伝えるために、決められた「符丁」を言う必要がある。グーグル・ホームだと「OK、グーグル」がその符丁だが、これが意外とハードルが高い。自意識過剰なのかもしれないけれど、えーと発音は「オーケー」でいいんだっけ、それとも英語っぽく「オゥケィ」かしらん?、「グーグル」のアクセントはどこ?最初の「グ」あとの「グ」?などと余計なことを考えて躊躇する。とても人前でなど言えない。

この「符丁」部分を自分の好きな言葉に設定できればいいのに。そうすればもっと自然に呼びかけができる。もちろん「ジャイアント・ロボ」にするのだ。

「ジャイアント・ロボ、電気をつけて」
「ジャイアント・ロボ、タクシーを呼んで」
「ジャイアント・ロボ、もっと楽しい曲をかけて」

素晴らしい。身長30メートル、体重500トンの、スフィンクスみたいないかつい顔の巨大ロボットがタクシーを呼ぶ姿が目に浮かぶようだ。50年の時を経て、ジャイアント・ロボはもう悪と戦う必要はなくなり、僕らと平和な余生を過ごすことになったのだ。

1 「鉄人28号」の横山光輝がテレビ化を前提につくったロボットもの。漫画版は少年サンデーに連載された。テレビ版は、どうやらインドでも最近まで放送されていたようで、僕よりだいぶ年下のインド人同僚も、子供の頃にこの番組を見ていたらしい。

療養所(サナトリウム)(さだまさし)

近所に最近できた喫茶店に行ったところ、BGMにチューリップとハイ・ファイ・セットが流れていた。若い男の子3人でやっているお店なのに、あまりに昭和な選曲なので、「どうして?」と聞いてみると、「この頃の音楽が好きなんです」と30代半ばくらいの男の子がちょっと恥ずかしそうに答えた。リズムより言葉がひとつひとつ大切にされてる感じとか、歌詞にものがたりを感じるところとか、ボーカルの透明さが良いのだそうだ。

70年台のフォーク、フォーク・ロック、ニューミュージックは、今のロックやポップスとは、音作りはもちろん、世界観や歌詞の音への乗せ方が大きく違う。日本語によるポップス、ロックの音楽表現が、試行錯誤しながらだんだん垢抜けていく過程1)を、リアルタイムに経験した僕らには、ちょっと野暮ったかったり古臭く思うけれど、若い今の世代には新鮮に映るのかもしれない。

日本語フォークソング、特に歌詞の完成度という意味で僕が最高峰だと思っているのは、さだまさしの「夢供養」2)という1979年発売のアルバムである。このアルバム収録曲はみな、このアルバムに前後して発表された「案山子」や山口百恵に提供された「秋桜」といったヒット曲と合わせ、情景がありありと脳裏に浮かぶ。日本語フォークによる歌詞表現として唯一無二の高みにあったと思う。

「療養所(サナトリウム)」は、結核療養所にいる孤独なおばあさんと短期で入院していた「自分」との交流をモチーフにした曲。当時、関西から関東に引っ越し・転校することになっていた僕は、転校の予定を誰にも言わず直前までずっと黙っていた。どういうわけかこの曲に、自分と、学校の友達や淡い恋心を抱いていた女の子との別離を重ねていて、聴くたびにひとり胸が締め付けられるような気分になるのだった。

1 歌詞のブレイクスルーは、井上陽水ー桑田佳祐ー桜井和寿という流れで象徴されると思っているけれど、それはまた別途詳しく書きたい。
2 「ゆめくよう」と読む。「むきょうよう」と読むな、とアルバムのライナーノーツに書いてあった。

冷たい麺

暑くなると冷たい麺が食べたくなる。というか、それ以外食べたくないというくらいの気分になる。暑くてだるくて食欲がわかないときでも、冷たい麺であれば、食べられる。つるつる、という擬音がアタマにうかび、食欲がわかないなどと言っていたのもどこへやら、今すぐにでも麺が食べたいっ、くらいの気持ちになるのだから現金なものだ。冷たい麺といっても、いろいろある。もり蕎麦、ひやむぎやそうめん、冷やし中華につけめんに冷麺。最近は、桜がおわると即、盛夏くらいに気温が上がるせいか、ラーメン店もいろいろと冷たい麺を工夫して早めに投入してくるようになった。

そばつゆに山葵、そうめんつゆにおろし生姜と刻みネギ、なんてのもいいけれど、それはどこか夏休みの匂いがする。6月だとまだ少しだけ早い感じ。もう少しボリュームがあって、今の時期に食べたい麺といえば、

高田馬場、「えぞ菊」の冷やし中華。札幌味噌ラーメンの老舗で、明治通りと早稲田通りの交差点から早稲田大学方向に100メートルほど。冷やしは、ゆでもやし、レタス、トマト、きゅうり、つめたい半熟卵に細切りチャーシューとボリュームたっぷり。醤油スープででてくるけれど、ゴマペーストを別に出してくれるので、それを途中で入れると両方の味が楽しめる。僕は最初からたっぷりゴマペーストを入れて食べる。

同じく高田馬場、「ティーヌン」の冷やしトムヤムヌードル。「えぞ菊」とは早稲田通りを挟んで斜向い。トムヤムクンに麺をいれたトムヤムヌードル発祥のお店だけれど、夏になると冷やしも食べられる。麺はセンレック(米粉の麺)かバミー(中華麺)を選べる。酸っぱ辛いスープはバテ気味のカラダと心がしゃきっとする。ランチタイムには出しておらず、14時以降なのでご注意。

ウェスティン東京(恵比寿)「龍天門」の冷やし担々麺。もともと隠しメニューだったようだが、人気のせいか最近では「表」メニューに載るようになった。温かいものもおいしいけれど、何と言っても冷やしが素晴らしい。行儀が悪いとわかっていても、スープを残らず飲んでしまう。いつも混んでいるので、ランチでも予約したほうが確実。

死言状(山田風太郎)

「死言状」山田風太郎著(筑摩文庫)に面白い一節があった。「死言状」は94年の発行。すくなくとも25年以上前に書かれたエッセイの一節である。

八十、九十の翁や嫗は、みな脱俗の仙人か福徳円満の好々爺になるかというと、聖マリアンナ医大教授、日本老年社会学会理事の長谷川和夫博士の言葉の大意を紹介すると、
「私、最初老人というのは、温厚でいつもニコニコと柔軟性があって、あまりストレスもない、というような理想的な人ではないかと想像していたら、決してそうじゃない。そこで感じたことはみな我が強いということ。ただ性格が強いから長生きしたのか、長生きしたから性格が強くなったのか、そこはむつかしいところですが」(『 病気とからだの読本』)
読んで私は破顔するとともに、さもあらんと思った。最後の疑問はおそらく前者だ。
心やさしい人々は早く死んでゆく。それをおしのけ、踏みつける我の強い人が、そのバイタリティのゆえに長生きしてゆくのだ。

2016年のデータによると、日本人の男性の平均寿命は80.98歳。女性にいたっては87.14歳。平均でこんなに長く生きるのだから、性格にかかわらず、今では誰も彼もみな80歳、90歳になるとなれば、山田風太郎の見立てとは逆に、「長生きしたから性格が強くなった」という方を採りたくなる。昼日中の街中でよく見かける老人(とくに爺さん)を見ていると、実態としては、長生きしたために柔軟性を失って、ストレスに弱くなり、わがままになる、というのが正解ではなかろうか。もともと我の強い連中は、これに輪をかけて、我欲に執着して醜態を晒す。日大アメフト事件や企業のトップ人事のゴタゴタなど、そのサンプルには事欠かない。

もちろん自分もそうならないとは限らない(まぁ権力はないから、そこは心配いらないけれど)。将来の戒めとしてここに一筆。

マカロニほうれん荘原画展

先日、中野ブロードウェイの「Animanga Zingaro」で開催中の「マカロニほうれん荘原画展」へ行った。中野駅北口からサンモールという狭い屋根付きの商店街を通り抜けて、中野ブロードウェイへ。数十年ぶりに行ったけれど、相変わらずの魔窟っぷり。サブカルチャーのごった煮をさらに煮詰めたような場所だが、会場はこの2階にある。

以前のエントリーで「マカロニほうれん荘」について書いた。マンガのレビューを書くのも野暮だと思ったけれど、僕にとっては何せ大きなインパクトを残した作品なのだ。この原画展に行ってみて、このマンガがいかに「ロック」だったのか改めて思い知ることになった。

SGのダブルネックを持ったジミーペイジはよくモチーフとして使われた。
最後のふたコマにつながるリズム感がもう最高

会場には、BGMとして、著者の鴨川つばめが選んだロックの名曲が流れていて、そのプレイリストには、AC/DC、シン・リジィ、クイーン、UFO、スコーピオンズ、アイアン・メイデン、タイガース・オブ・パンタン、ヴァン・ヘイレン、ハート、エアロスミス、キッス、グランド・ファンク・レイルロード、サンタナ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、レインボー、ブラック・サバス、ジミ・ヘンドリックスなどなどなど…70年代のハードロックばかりがずらり。登場人物をつかったイラスト作品にも、そういったアーティストをモチーフとした作品がたくさん。

シン・リジィ「ライヴ・アンド・デンジャラス」ジャケットのパロディ

小学生でこのマンガを読んだときには、その5年か6年あとに、自分も、総司やトシちゃんみたいにエレキギター抱えてコピーバンドやるなんて思いもしなかった。このマンガと西城秀樹による早期教育が、のちに大学生になってハードロックに青春を捧げる下地となっていたわけだ。

アグルーカの行方 – 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極

「アグルーカの行方 – 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」角幡唯介 著 (集英社)

1845年から48年にかけて、英国のジョン・フランクリン率いる129人の探検隊が、英国からグリーンランドを抜け、カナダの北極圏を探査する旅に出た。そのミッションはヨーロッパから北回りにベーリング海峡を経て太平洋に抜ける航路(北西航路)を発見することであったが、航路の発見は果たせず、129人全員が死亡したとされる。

「アグルーカ」とはイヌイットの言葉で「大股で歩く男」の意味。フランクリン死亡後に隊を率いて北極圏からの脱出を図ったフランシス・クロージャーはイヌイットから「アグルーカ」と呼ばれていた。口承されてきた目撃談によれば、彼と二人の従者は最後まで生き残り、母国に帰るべくツンドラと湿地の不毛地帯を抜け、ハドソン湾交易所まで南下しようとしていたという。

本書は、著者の角幡唯介が荻田泰永1)とともに、カナダ北極圏のレゾリュート湾からツンドラ地帯にあるベイカー湖まで、フランクリン隊の足跡をたどるように3ヶ月以上にわたり1600キロもの徒歩行をした記録である。旅の前半は、フランクリン隊の船が氷に囲まれて動けなくなり、多くの隊員が死亡したキングウィリアム島まで、後半は、フランシス・クロージャーが辿った可能性の高いルートを探しながらツンドラ・湿地地帯をベイカー湖までという構成になっている。

フランクリン隊の遭難を扱った記録を古くから丹念に当たった上で旅のルート取りがされていて、零下30度から40度にも下がる酷寒の厳しい環境を旅する著者ら自身の体験から、160年前のフランクリン隊の苦難を見事に浮かび上がらせている。とはいえ、旅はフランクリン隊全滅の謎2)を解明しようとするものではなく、同じルートを旅することで、フランクリン隊と最後まで残されたフランシス・クロージャーが、現場で何を思い感じたのか、またなぜそこに挑もうとしたのかを追体験することに重きが置かれている。寒さや行く手を阻む氷との闘い、白熊や野生動物、疲労と飢餓感など現場に身を運んだ者だけが描きうるリアリティが読む者を強く惹きつける。

一方で、地図とGPSを使う旅が、地図もなく先が読めない状態で彷徨ったフランクリン隊に比べて、「冒険」を本質的に異なるものにしてしまうこと、また、他人の冒険行をトレースしようとする旅がどうしても予定調和的なトーンをはらんでしまうことに対し、著者は否定的な立場をとる。「前人未到」で先が読めないヒリヒリした感触こそが、人が「生きる」意味を実感するための冒険には欠かせないという認識が、著者の次の冒険となった「極夜行」に繋がることになる。

2013年第35回講談社ノンフィクション賞受賞作。

1 極地探検家。2018年1月6日(日本時間)には、日本人初となる南極点無補給単独徒歩到達に成功。
2 壊血病、不良品の缶詰による病気、缶詰のはんだによる鉛中毒などが示唆されている。

新宿アルタ裏

学生時代、学校に近かったせいもあって新宿にしばしば行った。紀伊國屋書店、カメラ量販店、楽器店、ライブハウス。別に金銭的にそれほど困窮しているわけでなくても、若者はたいていいつもお腹を空かせているので、安くて美味しい店に敏い。当時よく行ったのは、「アカシア」と「桂花」だ。

アカシアといえば、ロールキャベツ。1963年(昭和38年)に新宿で開業の老舗だ。新宿東口アルタの裏路地にあって、クリームシチューに浸かったロールキャベツが看板メニュー。カレーやコロッケなどもある。当時は食欲最優先でロールキャベツしか見ていなかったけれど、つい先日訪ねた時にあらためてよく見ると、ドイツビールが生で飲めるのだった。夕方早めの時間に、自家製のソーセージで一杯なんてのもよさそうだ。

「桂花」は1955年(昭和30年)に熊本で創業。とんこつ濃厚な熊本ラーメンの老舗。今でこそ一風堂や一蘭など、九州のとんこつラーメンは誰もが知る人気ジャンルになったけれど、僕が学生の頃はまだそれほどでもなかった。独特のクセのせいで「ラーメン通」向けのニッチだったように思う。太肉麺(たーろーめん)は豚の角煮のような肉塊がどかんと載ったボリュームたっぷりのラーメンで、ここ一番がっつり食べたい時にぴったりだった。こちらも東口の裏路地、アカシアから歩いて1、2分のところに今もある。

学生の頃から30年近く経つけれど、アルタ裏の路地は、当時とほとんど雰囲気が変わらない。小さなお店は入れ替わっているのだろうけれど、アカシアと桂花以外にも、三平ストア、オカダヤ、沖縄そばのやんばる、ダッキーダックなどあのエリアの雰囲気を形作っている象徴的なお店が今も生き残っている。

Forever Man (Eric Clapton)

エリック・クラプトンの、ヤードバーズ以来の長いキャリアの中で、僕は80年代から90年代にかけて1)のソロ作品が一番好みである。ギターについては何よりもその唯一無二の音色が魂を震わせる。まさに「エリック・クラプトン」という音色であって、ギターが、アンプが、テクニックがどうのといった技術論はどこか「机上の空論」の虚しささえ感じさせてしまう。その音は、余人の到達し得ない巨大な「素数」というか、因数分解を許さない次元の凄みがある。ギターと同じくらい魅力的なのが彼のボーカルだろう。ギタリストとしての評価が先行したが、キャリアの中盤以降、彼の声の魅力はギターと切り離すことはできない。歌とギターが継ぎ目なく一体となって音楽を編み上げてゆく魅力は、ブルーズギタリストの王道2)とも言える。とくに80年代後半からはアルバムごとにボーカリストとしての魅力が増しているように思う。

「フォーエヴァー・マン」は85年発売のアルバム「ビハインド・ザ・サン」に収録。このアルバムはフィル・コリンズがプロデューサー兼ドラムス・パーカッションとして参加3)しており、従来よりもポップな音、曲調にまとめられているので、ファンの中でも好き嫌いが分かれる。「フォーエヴァー・マン」はシングルカット用の曲を入れる必要から制作されたようで、作曲はクラプトンではなくJerry Lynn Williams、プロデューサーもフィル・コリンズではない4)けれど、クラプトンの魅力をよく引き出していると思う。ドロップDチューニング(ギターの6弦開放をE音ではなくD音に下げたチューニング)をうまくつかった印象的なイントロのリフ、そしてボーカルのAメロ(最初のフレーズ)が素晴らしい。のっけから高音部をちょっと気張ってシャウトっぽく発声するクラプトン節炸裂である。でも、何より心に突き刺さってくるのは、ギターソロの第一音のチョーキング。もうこの音、このチョーキングだけでご飯3杯食べられます、くらいの代物で、タイミング、音色、とてもマネできるものではない。技術的にはロックギターの基本中の基本ともいえるチョーキングだが、それ一発をここまで聴かせるギタリストっていない。生きるレジェンドたる所以である。

1 この年代は、MTVの隆盛とともに「ロック」というジャンルが最も元気だった時代だ。英国のミュージシャンは米国でのセールスを意識せざるを得ず、良くも悪くもアメリカ向けにややポップでわかりやすい曲作りを求められることが多かった。
2 ゲイリー・ムーアもまさにこのタイプだ。
3 次のアルバム「August」もフィル・コリンズのプロデュース。さらに次の「Journeyman」でもドラムス、コーラスとして参加している。
4 ちなみに、ドラムスはTOTOのジェフ・ポーカロ、バッキングのギターはスティーブ・ルカサーが弾いている。

有毒植物

花や草木を見ても、綺麗だなぁとか青々としているなぁ、といった漠然とした感想以上のものが出てこない。いい歳をしてそれでいいのか、と反省するが、どうにも興味を惹かれない。ところが、「毒のある植物」となると、がぜん前のめりになる。どういうわけか「毒」には禍々しい魅力がある。こわい、でも、見てみたい — まるで小学生のメンタリティだが仕方がない。

先日、小平市にある東京薬用植物園を訪ねる機会があった。観賞用というよりは、漢方薬の原料や民間療法で利用されてきたもの、染料などに利用されてきたものといった、実利用されてきた植物を主に栽培・研究している施設である。ここに「毒のある植物」ばかりを集めた区画があり、気がつくと一時間以上熱心に見入ってしまった。

意外なことに植物の毒は身の回りいたるところにある。植物園でもらったパンフレットによると、過去10年の食中毒例では、患者数の上位から、ジャガイモ、スイセン、クワズイモ、バイケイソウ、チョウセンアサガオ、と続く。このうち、スイセンはニラと、バイケイソウはオオバギボウシやギョウジャニンニクと、クワズイモはサトイモと、チョウセンアサガオはゴボウ、オクラ、ルッコラ、ゴマと間違えて食べてしまい、食中毒を起こしている。おもしろいのはジャガイモで、芽や緑色の皮にソラニンという有毒物質を多く含み、家庭菜園や学校菜園で未熟なジャガイモを収穫して料理したことから食中毒が起こる例が見られるそうだ。ありふれた園芸品種であっても油断してはいけない。キョウチクトウはびっくりするほどの毒を持っているし、ヤツデ、クリスマスローズ、スズラン、アジサイ、ヒガンバナなども有毒である。

我々が草木一般に対して勝手に抱いている「癒やし」とか「優しさ」みたいなポジティブなイメージをとは無関係に、実は禍々しいパワーを隠し持った連中があちこちに生えているのだ。こういうことを知ると、見慣れた公園の緑が、ちょっとワイルドなものに見える。