Jump (Van Halen)

エドワード・ヴァン・ヘイレンは、80年代はじめにはもうすでに、無条件にすごい!ということになっていて、そこに疑問を差し挟むことは不可能な存在だった。いわゆる「ライトハンド奏法」であったり、部品をあちこちから調達して自分で組み上げた「フランケンシュタイン」という名のギターであったり、盛大に歪んでいるようでいて粒立ちのはっきりした一聴してわかる音作りであったり、独特のタイム感であったりと、その高い評価はすっかり確立し、ギター雑誌で語られない号はなかった。

僕の周囲のヴァン・ヘイレン好きは総じてキーボードの入ったHR/HMバンドを「軟弱」呼ばわりし、エディのギターがあればキーボなんて邪魔、みたいなことを言っていた。そこにアルバム「1984」とシングルカット曲「Jump」が登場する。当の御大が、にこやかにシンセサイザーを弾き倒す1)ミュージックビデオが連日流れたのだから、あらビックリである。

僕はと言えば、この「1984」とそれに続くサミー・ヘイガー時代になって、はじめてヴァン・ヘイレンっていいなと思うようになった。それまでは正直あまりピンとこなかったけれど、世間の(というかサークルだとかバンド仲間の)高評価に阿るように一応聴いてます、みたいな立ち位置だったのだ。今思うと、単純にデヴィッド・リー・ロスのボーカルがあまり好きじゃなかっただけで、「1984」の前も後もエディのギターは変わらず格好いいのだが。

ところで、デヴィッド・リー・ロスが復帰した2013年の武道館公演に行って驚いた。まぁよく声が出てうまいのなんの。加えて、KONISHIKIをフィーチャーした10分近い時代劇風寸劇ビデオみたいなものまでつくって観客を楽しませていた2)。彼は初めから、ロックボーカリストというより、エンターテナーだったのだと思い知った一夜であった。

1 ビデオではギターソロの後に続くキーボードソロで楽しそうに弾いている。それにしても弾いてるシンセがホコリだらけで妙にきたないのが面白い。撮影時に誰か気づかなかったのか。
2 あと、妙に日本語が上手い。真偽は定かではないが、活発に活動していなかった時期には日本にしばらく滞在したりしてたらしい。

Still Loving You (Scorpions)

大学1年のときに組んでいたバンドでライブ用の曲を決めているとき、ベーシストがぼそりと言った。「『Still Loving You』やろうよ。俺、別れた彼女ライブに呼びたいんだけど…」

いや~、どうなん、それ。あまりにベタなんとちゃう?と出かかった言葉を何とか飲み込み、何食わぬ顔で「あ、別にいいけど歌える奴いるかなぁ?」と答えた記憶がある。

スコーピオンズの84年発表のアルバム「禁断の刺青」(原題 Love at First Sting)1)の最後に収録されているバラードである。ルドルフ・シェンカー(リズムギター&作曲)とクラウス・マイネ(ボーカル)を中心として、おそらくアメリカ市場で大成功した唯一のジャーマン・メタルバンドだろう。ただ、僕の周りには、ルドルフの弟のバンド、マイケル・シェンカー・グループ(MSG)とセットで認知していたやつが多かったように思う。二人とも白黒に塗り分けたGibsonのフライングVを愛器としていたが、弟マイケルが技術的に難度の高いソロを繰り出すギターヒーローで日本では「神」と崇められていたのに対し、兄ルドルフはカッティングとリフに時折鋭さを見せるものの、ギタープレイより曲作りにその才能を発揮していた2)

その一方で、MSGがことごとくボーカリストに恵まれなかった3)のに比べ、クラウス・マイネのどこまでも伸びるハイトーンボーカル4)は圧巻で、男子大学生ではまるで歯が立たないのであった。当時のアマチュアバンドの曲決めは、a. ギタリストがコピーできる5) b. 男子ボーカルが歌える6)、の a x b で決まったが、スコーピオンズでbを満たすのは甚だ難しかった。結果として、MSGの曲はライブをやれば必ずどこかのバンドがプレイしていたが、スコーピオンズをコピーするバンドはほとんど見なかったように思う。

Still Loving Youは、多少甘ったるくてベタではあるけれど、今聞いても美しいバラードだ。でもやはりbを満たすボーカリストはおらず、結局当時の僕もやはりプレイしなかった。その後、ベーシストが別れた彼女とよりを戻したという話は聞いていない。

 

1 もちろん「一目惚れ」の意味の Love at first sight とサソリが刺す sting を掛けたタイトル。日本語タイトルの「禁断の刺青」ってなんだよ。まぁ、アルバムカバーのイメージにひっかけたんだろうけれど、それにしてもヒドい。
2 リードギタリストのマティアス・ヤプスはけっこう上手いのに、何故か全くギターヒーロー扱いされない。このあたりの扱いがBon Joviのリッチー・サンボラに似てる。
3 有名どころはグラハム・ボネットくらいだが、バンドの歴史を通じてろくなボーカルがひとりもいないというのは珍しい。
4 HR/HMボーカリストによくあるように裏声を表みたいにパワーをかけて発声するのではなく、ナチュラルに高音まで伸びるような声。歳を取って多少高域が落ちた感はあるが、もうすぐ70歳にならんとする今も健在である。
5 完コピを目指す心意気くらいは必要…たとえできなくても。
6 女子が歌うのは不可だった。

Hiroshima Mon Amour (Alcatrazz)

イングヴェイ・マルムスティーンが彗星のようにロック・シーン現れたのは僕が予備校生の時だ。グラハム・ボネット率いるアルカトラスの「ヒロシマ・モナムール」は衝撃的だった。ゆったり物哀しいフレーズから突然堰を切ったように炸裂するクラシカルな超高速ソロは多くのギターキッズを虜にした。

だがイングヴェイが与えた衝撃は、そのギタープレイに留まらなかったのである。ある日、予備校のラウンジで友人と喋っていたところ、入り口のガラス扉から、高校時代の知り合いが颯爽と現れた。黒いスリムジーンズに、白のブーツ、胸辺りに昔の貴族風のフリルがあしらわれたシルクっぽい黒のドレスシャツに、黒のライダースジャケットという出立ちで、なぜかギターケースまで肩に背負っている。その姿は、つまり、イングウェイ100%そのまんまであった。スタジオやらライブ会場であればともかく、予備校のラウンジでの違和感たるや、あたかも足ひれ・ボンベにウェットスーツのスキューバダイバーが沖縄の海から何かの拍子に時空転移してきたかのようだ。しばらくすると予備校の事務員が出てきて、彼は事務室の奥に連れて行かれた。後で聞いた話によると、予備校には勉強するのにふさわしい服装で、ときつく注意されたらしい。

ファッションセンスはともかく1)、クラッシック・スケールを超高速で弾くギタリストは、彼のデビュー以降、すべからく「イングヴェイのコピー」と形容されるくらい、今に至るまで強烈な存在感を見せつけている。ところで、一見すると、同じスキャロップド2)・ストラトキャスター+シングルコイルピックアップ+マーシャルアンプの組み合わせだけれど、リッチー・ブラックモアの音とイングヴェイの音って随分違う。リッチーがガラスを引っ掻くようなキーキーした若干耳障りな音で、ソロの音程も不安定に揺れる傾向があるのに比べて、イングヴェイはよりスムーズで艶のある美しいオーバードライブサウンドで、音程も寸分の狂いもなく安定している。

1 イングヴェイ好きな人は、ステージ衣装も彼と同じような、中世的黒っぽいコーディネートの人が多い気がする。アルカトラスで言えば、グラハム・ボネットも個性派だった。リーゼントでグラサンでスーツって。今でもHR/HM界の横山やすしとして記憶されている。
2 フレットとフレットの間が浅いU字型に抉られたネック。リッチー・ブラックモアとイングヴェイが愛用しているので、これを使うと早く弾けるような気がするが、彼ら二人以外で使っている人を見たことがない。

Still Got the Blues (Gary Moore)

ゲイリー・ムーアは、日本で「人間国宝」1)とまで賞賛され愛されたギタリストだ。弦を引きちぎらんばかりのハードピッキングから繰り出される速弾きと、ゆったりと悲しく響く「泣き」のフレーズの組み合わせは世界中のギター少年を夢中にさせた2)。初期のフュージョン寄りのテクニカルな音楽からThin Lizzyを経てハードロックの王道を歩んでいた彼が、自らのルーツと語るブルーズのアルバムを出したのが1990年。「Still Got the Blues」はアルバム・タイトルにもなっている代表曲である。

このアルバムが発売された頃、ニューヨークに駐在していた僕は Beacon Theatreでのライブを見に行った。二階のバルコニーの最前列。秋の落ち葉のようなレモン・イエローに退色したレスポールの音色は官能的なまでに美しかった。ハードロックよりも抑えられた音量3)とシンプルなバックのおかげで、彼のギターがより際立ち心を鷲掴みにされる。たしかアンコール前の最後の曲として「Still Got the Blues」がプレイされた時、気づいたら涙ぐんでた4)。コンサートで泣いたなんて後にも先にもこのときだけだ。

BBキングやエリック・クラプトンの例をひくまでもなく、ブルーズギタリストの多くは自ら歌う。声とギターが境目なく繋がって行ったり来たりする。よくメロディアスなギタリストを評して「ギターが歌う」などと表現するが、ブルーズの達人たちにとってギターは歌の一部であり、歌はギターの一部なのだ。ゲイリー・ムーアもまさにギターとボーカルが一体となって魂が響くような音楽を聞かせてくれる。

1 © 伊藤政則 実にしっくりくる形容だと思う。
2 彼のアイルランド・ルーツとアジアの演歌的な泣きの音階との相性がよいためか、アジアのギターキッズからの絶大な支持があったように思う。ソウル、バンコク、バリのライブハウスでゲイリー・ムーアのコピーバンドが演奏しているのを見たことがある。
3 それでもBBキングから「音がでかすぎる」とからかわれていた。
4 後半のソロ(アウトロ)の真ん中くらいでフロントピックアップからリアピックアップに切り替えるところがあって、そこで涙腺が決壊した。優しく歌うような前半から、叫ぶようなエッジの効いた音に切り替わるところ。

Georgy Porgy (TOTO)

TOTOを初めて聞いたのは多分高校2年か3年の頃だったと思う。エレキギター1)を買って友達とロックバンドを組んだ頃だ。最初は初期のハウンドドッグとか甲斐バンドあたりのコピーから入った。そのうちギタリスト中心に洋モノバンドを物色し始めた頃に聞いたのではなかったか。

「Georgy Porgy」は、1978年発売のファーストアルバム2)の3曲めに入っている。ギター少年としては急速にハードロックに傾倒しつつあった頃なので、妙にジャズっぽいというかR&Bっぽいというか、なよなよした感じが嫌いで、アルバムを聞くときはこの曲を必ず飛ばしていた3)。そうでなくとも、なんせこのファーストアルバムにはロックチューンの名曲がそろっている。1曲めのインスト「Child’s Anthem」から、今でもTOTOのライブで頻繁に演奏される「I’ll Supply the Love」「Girl Good-bye」「Hold the Line」とくれば、そっちを練習するのに精一杯。ギター少年にとって「Georgy Porgy」が退屈だったのも仕方がないと言えよう。

ところが、ずいぶん経って、92年に発売された「LIVE」というコンサートビデオ4)に収録されたバージョンを見て腰を抜かした。格好いいのだ、これが。リズム裏打ちで始まるオープニングからDavid Paichのソロっぽいイントロ、Steve Lukatherのヴォーカルも迫力がある。ギターソロもスライド・バーを使わずによりロックっぽいアプローチで弾いている。早速Valley Artsのストラト(もちろんルカサーモデル)で真似して弾き始めたりして、そこから急にお気に入りリストに不動の位置を占めるようになったのだった。速弾き原理主義にのめり込んでいたギターおたくが少しだけ大人になった瞬間である。今ではアルバムのオリジナルアレンジもいいなぁ、などと思っている。

 

1 トーカイの赤いストラトキャスターのコピーモデル、たしか4万5千円。
2 オリジナルのアルバム・タイトルは「TOTO」だが、邦題として「宇宙の騎士」というふざけた名前がついている。アルバムには「宇宙」も「騎士」も全く関係ない。多分、ジャケットの紋章からの連想なのだろう。この頃は洋楽に妙な日本語タイトルがついているのはごくあたりまえだった。
3 もちろんカセットテープを早送りする。
4 90年の PAST TO PRESENT ツアー、パリ公演の模様を収録したライヴ映像。このときのVoは第4代のジャン・ミッシェル・バイロンだが、全くバンドにフィットせずあっという間にいなくなった。「LIVE」の編集でも(その後のTOTOの歴史でも)、あたかも存在しなかった人のように扱われている。