レス・ポール

レス・ポールがレス・ポールを弾くのをニューヨークのジャズクラブで観たことがある1)。たぶん1993年か94年だと思う。ニューヨークのミッドタウンにあったFat Tuesday’sというジャズクラブで毎週月曜日の夜、レス・ポール・トリオが演奏していたのだ。ジャズクラブのニューヨークらしい雰囲気や、ギターの優しい音色についてはおぼろげに記憶があるのだが、当時の僕はハードロックばかり聴いていたせいもあって、そのライブにはすぐに退屈してしまい、残念ながら曲についてはなにも覚えていない。

ギブソン2)といえば、レス・ポール・モデル。レス・ポールは戦前から1950年代にかけてのギタリストだが、ギターのモデル名としての知名度が圧倒的で、曲やプレイを聴いたことのある人はほとんどいないのではなかろうか。でも彼の名を冠したギターは、プロ、アマチュアを問わず、ロックギターを弾く人ならば、絶対に弾いたことがあるはずの定番中の定番となった。ギブソン派かフェンダー派かの差はあれど、レス・ポールとストラトキャスターはギターの世界における、はじまりにして究極。誰もが憧れて最初に手にし、最後にまた戻っていく到達点だと思う。

88年ごろ撮った写真。まだ新しい。

大学の頃にずっと愛用していたギターは、フェルナンデスが「Burny」というブランド名で出していたレス・ポールのコピーモデルだった。ギブソン本家のレス・ポールは、たしか安くても30万とか40万円の値札がついていて、学生の身ではとても手が出るものではなかった。「はじまりにして究極」と書いたが、少なくとも80年代において、アマチュアが最初に手にするのは、ほとんどがコピーモデルだったと思う。僕の愛器も、コピーモデルではあったけれど、チェリーサンバーストの塗装の奥にうっすらと「虎目」が出て美しいギターだった。音は清明で太くてくっきりと芯があり、歪ませてもクリーンでもとても良い音がした。調べてみると、この頃の国産コピーモデルは、製造年や価格帯によってばらつきが大きいものの、当たり個体はクオリティが高く、今でも好事家は中古を探したりしているらしい。その意味では、身びいきも含めて言えば、僕の買った一本は大当たりだった3)と言える。

レス・ポールをよく使うギタリストでは、ジミー・ペイジ、ゲイリー・ムーア、トム・ショルツ、スラッシュ、ヴィヴィアン・キャンベル、松本孝弘、ダグ・アルドリッチ、ジョエル・ホークストラ、ジョン・サイクス4)がまず頭に浮かぶ。

1 ギターを弾かない人には「意味がわからん」という出だしで申し訳ない。
2 ギブソン社が経営破綻したという5月のニュースには驚いたけれど、原因は、音響メーカーなどを買収して拡大路線をとったことによる失敗のようで、本業たるギター製造・販売は堅調に成長していたようだ。
3 7、8年前にフレットを打ち替え、ピックアップはEMGに交換した。長年の酷使のせいで、ナットの裏側にヒビが入っていることが判明し、いまではギターラックで「安静」にしている。
4 最後の3人はみなホワイトスネイクのギタリスト。もしかして、契約にあたって「レス・ポールを使うこと」という約束事でもあるのだろうか。

療養所(サナトリウム)(さだまさし)

近所に最近できた喫茶店に行ったところ、BGMにチューリップとハイ・ファイ・セットが流れていた。若い男の子3人でやっているお店なのに、あまりに昭和な選曲なので、「どうして?」と聞いてみると、「この頃の音楽が好きなんです」と30代半ばくらいの男の子がちょっと恥ずかしそうに答えた。リズムより言葉がひとつひとつ大切にされてる感じとか、歌詞にものがたりを感じるところとか、ボーカルの透明さが良いのだそうだ。

70年台のフォーク、フォーク・ロック、ニューミュージックは、今のロックやポップスとは、音作りはもちろん、世界観や歌詞の音への乗せ方が大きく違う。日本語によるポップス、ロックの音楽表現が、試行錯誤しながらだんだん垢抜けていく過程1)を、リアルタイムに経験した僕らには、ちょっと野暮ったかったり古臭く思うけれど、若い今の世代には新鮮に映るのかもしれない。

日本語フォークソング、特に歌詞の完成度という意味で僕が最高峰だと思っているのは、さだまさしの「夢供養」2)という1979年発売のアルバムである。このアルバム収録曲はみな、このアルバムに前後して発表された「案山子」や山口百恵に提供された「秋桜」といったヒット曲と合わせ、情景がありありと脳裏に浮かぶ。日本語フォークによる歌詞表現として唯一無二の高みにあったと思う。

「療養所(サナトリウム)」は、結核療養所にいる孤独なおばあさんと短期で入院していた「自分」との交流をモチーフにした曲。当時、関西から関東に引っ越し・転校することになっていた僕は、転校の予定を誰にも言わず直前までずっと黙っていた。どういうわけかこの曲に、自分と、学校の友達や淡い恋心を抱いていた女の子との別離を重ねていて、聴くたびにひとり胸が締め付けられるような気分になるのだった。

1 歌詞のブレイクスルーは、井上陽水ー桑田佳祐ー桜井和寿という流れで象徴されると思っているけれど、それはまた別途詳しく書きたい。
2 「ゆめくよう」と読む。「むきょうよう」と読むな、とアルバムのライナーノーツに書いてあった。

マカロニほうれん荘原画展

先日、中野ブロードウェイの「Animanga Zingaro」で開催中の「マカロニほうれん荘原画展」へ行った。中野駅北口からサンモールという狭い屋根付きの商店街を通り抜けて、中野ブロードウェイへ。数十年ぶりに行ったけれど、相変わらずの魔窟っぷり。サブカルチャーのごった煮をさらに煮詰めたような場所だが、会場はこの2階にある。

以前のエントリーで「マカロニほうれん荘」について書いた。マンガのレビューを書くのも野暮だと思ったけれど、僕にとっては何せ大きなインパクトを残した作品なのだ。この原画展に行ってみて、このマンガがいかに「ロック」だったのか改めて思い知ることになった。

SGのダブルネックを持ったジミーペイジはよくモチーフとして使われた。
最後のふたコマにつながるリズム感がもう最高

会場には、BGMとして、著者の鴨川つばめが選んだロックの名曲が流れていて、そのプレイリストには、AC/DC、シン・リジィ、クイーン、UFO、スコーピオンズ、アイアン・メイデン、タイガース・オブ・パンタン、ヴァン・ヘイレン、ハート、エアロスミス、キッス、グランド・ファンク・レイルロード、サンタナ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、レインボー、ブラック・サバス、ジミ・ヘンドリックスなどなどなど…70年代のハードロックばかりがずらり。登場人物をつかったイラスト作品にも、そういったアーティストをモチーフとした作品がたくさん。

シン・リジィ「ライヴ・アンド・デンジャラス」ジャケットのパロディ

小学生でこのマンガを読んだときには、その5年か6年あとに、自分も、総司やトシちゃんみたいにエレキギター抱えてコピーバンドやるなんて思いもしなかった。このマンガと西城秀樹による早期教育が、のちに大学生になってハードロックに青春を捧げる下地となっていたわけだ。

Forever Man (Eric Clapton)

エリック・クラプトンの、ヤードバーズ以来の長いキャリアの中で、僕は80年代から90年代にかけて1)のソロ作品が一番好みである。ギターについては何よりもその唯一無二の音色が魂を震わせる。まさに「エリック・クラプトン」という音色であって、ギターが、アンプが、テクニックがどうのといった技術論はどこか「机上の空論」の虚しささえ感じさせてしまう。その音は、余人の到達し得ない巨大な「素数」というか、因数分解を許さない次元の凄みがある。ギターと同じくらい魅力的なのが彼のボーカルだろう。ギタリストとしての評価が先行したが、キャリアの中盤以降、彼の声の魅力はギターと切り離すことはできない。歌とギターが継ぎ目なく一体となって音楽を編み上げてゆく魅力は、ブルーズギタリストの王道2)とも言える。とくに80年代後半からはアルバムごとにボーカリストとしての魅力が増しているように思う。

「フォーエヴァー・マン」は85年発売のアルバム「ビハインド・ザ・サン」に収録。このアルバムはフィル・コリンズがプロデューサー兼ドラムス・パーカッションとして参加3)しており、従来よりもポップな音、曲調にまとめられているので、ファンの中でも好き嫌いが分かれる。「フォーエヴァー・マン」はシングルカット用の曲を入れる必要から制作されたようで、作曲はクラプトンではなくJerry Lynn Williams、プロデューサーもフィル・コリンズではない4)けれど、クラプトンの魅力をよく引き出していると思う。ドロップDチューニング(ギターの6弦開放をE音ではなくD音に下げたチューニング)をうまくつかった印象的なイントロのリフ、そしてボーカルのAメロ(最初のフレーズ)が素晴らしい。のっけから高音部をちょっと気張ってシャウトっぽく発声するクラプトン節炸裂である。でも、何より心に突き刺さってくるのは、ギターソロの第一音のチョーキング。もうこの音、このチョーキングだけでご飯3杯食べられます、くらいの代物で、タイミング、音色、とてもマネできるものではない。技術的にはロックギターの基本中の基本ともいえるチョーキングだが、それ一発をここまで聴かせるギタリストっていない。生きるレジェンドたる所以である。

1 この年代は、MTVの隆盛とともに「ロック」というジャンルが最も元気だった時代だ。英国のミュージシャンは米国でのセールスを意識せざるを得ず、良くも悪くもアメリカ向けにややポップでわかりやすい曲作りを求められることが多かった。
2 ゲイリー・ムーアもまさにこのタイプだ。
3 次のアルバム「August」もフィル・コリンズのプロデュース。さらに次の「Journeyman」でもドラムス、コーラスとして参加している。
4 ちなみに、ドラムスはTOTOのジェフ・ポーカロ、バッキングのギターはスティーブ・ルカサーが弾いている。

ブルースカイブルー(西城秀樹)

子供の頃、西城秀樹のいない歌番組などありえなかった。同時期に活躍した他のいわゆる「アイドル歌手」と比べて、その歌唱力は際立っていた1)。僕が高校以降、ハードロックに傾倒してゆく素地を作ったのは、多分に西城秀樹のハスキーボイスとシャウトの迫力だったと思う。少々マセて自意識過剰気味だった小学生は、アイドル歌手なんてどこがええねん2)、と興味のないフリをしていたが、僕もあんな風に歌えたらカッコええやろなぁ、と心中ひそかに思っていた。

西城秀樹本人もハードロック好きで、ライブでは「アイ・サレンダー」、「ロスト・イン・ハリウッド」などレインボーの曲をカバーしている。レインボーのジョー・リン・ターナーなんてアメリカ版・西城秀樹3)と言っても良いのではないか、ダメか? ハスキーボイスとシャウト、大きめのビブラートのかけ方がそっくりである。シングルとしてリリースされた「ナイト・ゲームス」は、レインボー時代ではないけれど、グラハム・ボネットの曲だ。ほかに、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」や「時への誓い」(Faithfully)も取り上げている。

「ブルースカイ・ブルー」は1978年8月リリースの26枚目シングル。これをはじめて聴いた時、なんちゅー格好いい曲や、とため息が出た。大きなゆったりとしたサビのメロディが美しい。でもこれで終わらないところがこの曲の最大の魅力で、2番のサビが終わった後、サビと同じコード進行で別のメロディの第二サビが加わっている。この部分のメロディがなんとも切なく、西城秀樹の声の魅力を最大限に引き出す高さになっている4)

63歳での若すぎる突然の訃報。ずいぶん長いこと彼の歌を聴くこともなくなっていたけれど、自分でも不思議なほどの喪失感がある。子供の頃の大切なアルバムが、突然ガラス戸の向こうにしまわれて、手が届かなくなってしまったような寂しさを感じる。つつしんでご冥福をお祈りします。

1 女性では岩崎宏美が圧倒的にうまかった。
2 当時は大阪に住んでいた。
3 西城秀樹のほうが4つ年下だが、デビューは4年早い。
4 作詞は阿久悠。ものがたりをありありと喚起させる歌詞世界がさすがである。

Lay It Down (RATT)

RATT(ラット)は、80年代にロックシーンを席巻したいわゆる「LAメタル」の代表的バンド。「LAメタル」というのは、日本のメディアが便宜的に使った名称で、はっきりした定義があるわけでもない。ふわっとした括りでは、80年代に活躍した西海岸出身のHR/HMバンドで、MTV的に見栄えのする外見1)、わかりやすいメロディとヘヴィでテクニカルなギターが共通項だろう。ほかには、モトリー・クルー、クワイエット・ライオット、ドッケンなどをイメージするとわかりやすい。

ギタリストの立場からは、深く歪んだディストーションサウンド、高域と低域を強調したいわゆる「ドンシャリ」な音、技術的に難度の高い速弾きとフロイドローズのトレモロを使った派手なアーミングが特徴。リードギタリストはボーカルと並ぶバンドの顔で2)、ギターソロのない曲は考えられない。

RATTはロビン・クロスビー3)とウォーレン・デ・マルティーニによるツインギター。巨漢で横幅もあるロビンと、ほっそりとした色男のウォーレンというビジュアル上の対比は、音楽的な役割分担にも通じていて、時期によって濃淡はある4)けれど、ロビンがリズム、ウォーレンがリードをとる。

「レイ・イット・ダウン」(Lay It Down)は、85年発売の2枚目のアルバム「インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー」(Invasion Of Your Privacy)の2曲めに収録されている。当時のバンド仲間、ギタリスト友達の中では、RATTで最も評価の高い、人気のある曲だったと思う。ウォーレンのギターが響いた瞬間に誰もがわかる特徴的なイントロ。ギターソロは、拍子のアタマでキッチリ入らずに、ちょっとズラして入るフレーズがちりばめられていて、スリリングで格好良い。バンドでプレイしたことはないけれど、当時よく家で練習してた。スティーブン・パーシーのボーカルは、まぁ、なんというか、もうちょっと何とかならんかと思うものの、これがRATTなのだと言われれば5)、仕方がない。それにしてもこのプロモビデオ、ひどすぎるな。

1 長髪・今で言うビジュアル系っぽい化粧・黒のスリムジーンズか革パンツ・バンダナなどなど
2 もちろんバンドにもよるけれど。モトリーはむしろベースとドラムの方が派手だし、クワイエット・ライオットはボーカルのエラの張った顔が強力すぎて、ギタリストが前に出てくる感じでもないし。
3 2002年にエイズ/薬物過剰摂取により他界。
4 ファースト、セカンド・アルバムくらいまではロビンがソロをとる曲もある。
5 歌の好き嫌いはともかく、曲作りでも貢献度が高い。

MOVE(上原ひろみ・ザ・トリオ・プロジェクト)

ジャズ、それもギターの入っていないジャズにはほとんど興味を惹かれることはないのだが、このトリオだけは別。なんせドラムがサイモン・フィリップス御大なのだ。サイモン・フィリップスといえば、ロック、ハードロック分野のビッグネームとの共演で広く知られている。ジェフ・ベック、マイケル・シェンカー、ゲイリー・ムーア、ジューダス・プリースト、ホワイトスネイク、ミック・ジャガーなどなど挙げればキリがない。セッション以外では、急逝したジェフ・ポーカロの後任としてTOTOのドラムを2014年まで20年に渡って担当。ジェフ・ポーカロの、端正で繊細なドラムにとって代われるとしたら、サイモンしかいない、とファンの誰もが納得の人選だった。

この人が叩くと何かが違う。ドラミングの切れ、タイトさ、グルーブ。曲とバンドをもうひとつ上のレベルに押し上げる何かがある。常人離れした技術1)を持ちつつ、でも同時に、そのドラミングはどこまでもストレートで、出しゃばりすぎることなく、余韻と余裕を残している。

そのサイモン・フィリップスをドラムに、アンソニー・ジャクソンをベースに配した上原ひろみのプロジェクトがザ・トリオ・プロジェクト。このトリオのライブを国際フォーラムとブルーノート東京で観たことがあるけれど、もう圧巻の一言。上原ひろみのピアノは、若さのパワーが漲っていて、アタックの効いた強い音から、優しく繊細な音まで表現の幅が広い。それを円熟のおっさん二人が盛りたて、いなし、煽り、押さえながら、それぞれが超絶プレイで応える。ジャズらしい変拍子がくるくると入れ替わる曲2)も、一瞬たりともグルーヴが途切れることなく、大きなうねりが会場を包み込む。ジャズというより、ロック的なグルーヴに近いかもしれない3)

コンサートを観に行くと、自信過剰にも、僕も死ぬほど練習すればこのくらい演奏できるようになるかな、などとぼんやり考えたりすることがある。でも、この3人の場合、同じ「ヒト」の地平にいるとはとても思えず、どう逆立ちしてもこのレベルに到達することなど想像すらできない。

1 一応右利きのようだが、左でハイハットを操るオープンスタイル。ツーバスも左右両方で魔法のように複雑なビートを刻むので、プレイを見ていてもどこを叩いて音が出てきているのかわからず手品を見ている気分になる。
2 あれだけの変拍子の中で、ソロやアドリブパートの終わりに、とくに拍子を数えてる様子もなく、どんぴしゃで3人が合わせられるというのが神業で、もう何がどうなっているのやら。
3 かつてTOTOのギタリスト、スティーブ・ルカサーが「ジャズのセンスでロックする」と言ったが、このトリオでは「ロックのセンスでジャズをする」だと思う。

Tonight Tonight Tonight (Genesis)

ジェネシスは活動期間が非常に長く、デビューは1969年。乱暴に分けるなら、ピーター・ガブリエル在籍時のプログレ色の濃い時期と、その脱退後、フィル・コリンズがボーカルも兼任するようになってからのポップ路線に分けられるように思う。

86年発売の「インビジブル・タッチ」(Invisible Touch)は後者の代表的アルバム。バンド最大のヒットで、メンバーは、フィル・コリンズ(Vo&Dr)、トニー・バンクス(Key)、マイク・ラザフォード(G&B)の3人編成。プログレバンドの「ポップ化」では最大の成功例とも言えるかもしれない。このアルバムからは何曲もシングルヒットが出ているが、一番有名なのは、「混迷の地」(Land of Confusion)だろう。イギリスのTV番組で有名なパペット(人形)を使って、当時のレーガン大統領やナンシー夫人、カダフィ大佐やら東西の政治家が登場する、イギリスらしい悪意たっぷりのビデオを覚えている人も多いのではないか。

僕がジェネシスを熱心に聴いたのはまさにこの時期で、「インビジブル・タッチ」とその後に出た「ウィ・キャント・ダンス」はよく聴いた。当時ニューヨークにいたので、「ウィ・キャント・ダンス」ツアーは、ニュージャージーのフットボールスタジアムまで観に行ったりした。

「トゥナイト・トゥナイト・トゥナイト」(Tonight Tonight Tonight)はアルバムの2曲めに収録された、プログレっぽい匂いを残した曲で、9分ちかくある大作。中間部のインストパートが長めだがまるで飽きさせない。打楽器のフィルイン、キーボードのアルペジオから壮大なメロディ、そしてギターがオーバードライブでバッキングに入るブリッジ部に繋がるところが何とも格好いい。フィル・コリンズが「Get me out of here!」とシャウトするところもまさに魂の叫びで鳥肌モノである。ギター・ソロのパートはないが、アーミングを使った効果音的なコードの入れ方や、後半のドライブ感溢れるリフなど、ハードロック好きにも勉強になる。

Blue Revolution(浜田麻里)

浜田麻里といえば、88年ソウルオリンピックでNHKのテーマソングとして使われた「Heart and Soul」や、翌89年発売の「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のヒットを思い浮かべる人も多いだろう。でもアルバムデビューは83年。圧倒的な声域と声量、歌唱力と美貌を兼ね備えた女性HR/HMボーカリストとして認知され、絶大な人気を誇った。当時のHR/HMファンから見ると、前述の2曲はどちらかというと、浜田麻里らしいというより、一般ウケを狙ったポップス路線に見えたのだった1)

Blue Revolutionは、意外なことに彼女の初シングルで85年リリース。同名のアルバムからの先行シングルだったようだ。作曲はMake-Upのギター松沢浩明で、彼の高度な作曲センスが凝縮されている。レコーディングでのギターは、その後B’zでスーパースターに昇りつめる松本孝弘2)。アルバム全体を彼が弾いているが、Blue Revolutionでは、そのギターが冴え渡っていて、特にギター・ソロは、日本のHR/HM史上でもベストプレイに上げたいほど素晴らしい。スケール的にかなり緊張音(というかブルーノートというか)を織り交ぜたランニングフレーズ、絶妙なリズム感、ソロ中の中ダレを防ぐリフ的フレーズの組入れかた、正確なピッキング、曲全体との調和とどこをとっても完璧だと思う。後のB’zでの成功もなるほど納得のギタリストだ。

ボーカルは、伸びやかでパワフルな高音を聴かせる浜田麻里の真骨頂3)。今も全く衰え知らずなのは驚異的だ。ちなみにサビ部分のコーラス/バックボーカルでさらに高音でハモっているのは妹の浜田絵里。姉妹に与えられた声帯のすごさを思わずにはいられない。

1 もちろん、表現力の引き出しの広さを示す好例だったわけだが、HR/HM好きはどうも「原理主義」に走りがちなので、否定的にみる向きも多かったように記憶している。
2 キーボードはVow Wowの厚見玲衣。
3 高音部でのビブラートのかけ方は好き嫌いが分かれそう。個人的にはちょっとオーバーかなと思う。

Bark at the Moon (Ozzy Osbourne)

オジーのギタリストといえばランディ・ローズ。飛行機事故で夭折した才能あふれるギタリストであり、クラッシクギターあるいはクラッシク音楽の要素をハードロックに取り入れたパイオニアの一人。ギターソロだけで曲として成り立ちそうなくらいドラマチックな展開と考え抜かれたフレージング、それを支える正確なプレイ。端正で優しげなルックスと相まって「伝説」となったギタリストだ。そのランディ・ローズに代わるギタリストとしてプレイするのは誰にとっても至難の業だっただろう。

ジェイク・E・リーは、83年に発売されたオジー3枚目のアルバム「月に吠える」(原題 Bark at the Moon)から参加。アルバムタイトルにもなっている「月に吠える」はロック史に残る名曲だと思う。イントロのリフから疾走感溢れるバッキング、大きな展開のブリッジ、そしてギターソロ。ランディ・ローズのソロ構成に似て、叙情的な大きなメロディとメカニカルなスケール速弾きの組み合わせ。アウトロではスリリングな16分音符の繰り返し上昇フレーズ。技術的にとても高度な演奏だけれど、全体としてこれ以外ありえない、という完成度でとにかく格好いい。

ライブ映像を見るとわかるが、ランディ時代の曲も見事に弾きこなしていて、まったく遜色がない。自己流に変えてしまうことなく、オリジナルを尊重し忠実になぞりながら、それでいて自分の個性を出せるのが凄い。天の配剤というべきか、オジーはこれ以上ない後任を得たわけだ。ところが、ジェイクとオジーの関係は加入当初から悪かったようで1)、1986年発表の4枚目のアルバム「罪と罰」(原題 The Ultimate Sin)とそのツアーを終えた段階でジェイクは脱退してしまう。その後、Badlandsを結成して活動するも、商業的には成功せず、今に至るも余り活躍の場がないのは残念。

1 作った曲の著作権・クレジット等、加入にあたって非常に不利な契約を結ばされていたらしい。