I Wish It Would Rain Down (Phil Collins)

フィル・コリンズは80年代に入るとGenesisでの活動と並行してソロ活動も活発に行った。81年にソロアルバムの第一弾として「夜の囁き」1)(原題 「In the Air Tonight」)をリリースしたが、世界的なヒットとしてはやはり、84年発売の「見つめて欲しい」(原題「Against All Odds (Take a Look At Me Now)」)や「イージー・ラバー」(原題「Easy Lover」)があげられる。ちなみにこの間にソロ作品で見せたいわゆる「ポップ路線」がGenesisでの曲作りにも影響を与えたのか、86年発表の「インビジブル・タッチ」では大きくポップ路線に舵を切りバンド最大のヒットアルバムとなっている。

「I wish It Would Rain Down」(日本語タイトルは「雨にお願い」というなんともトホホな訳がついている)は、89年発表の「バット・シリアスリー」(原題「…But Seriously」)に収録されたバラード曲。ギターにエリック・クラプトンが参加しており、イントロからすぐにそれとわかるプレイをきかせてくれる。80年代半ばのこの時期は、「ビハインド・ザ・サン」から3作連続でエリック・クラプトンのアルバムにフィル・コリンズが関わっており2)、二人の関係が非常に近かった時期でもある。

このビデオはちょっとした寸劇仕立てで背景を知って見ると面白い。(エリック・クラプトンはもちろん、他にもフィル・コリンズとGenesisゆかりのミュージシャンが揃って出演している。)

場末の劇場でボーカリストがいない状況になり、誰か歌える奴はいないのか、となったときに、バンドのギタリスト(エリック・クラプトン)が、フィルに歌わせたらどうだ、と提案する。その時のセリフが「ヤツはいい声だよ。以前有名なバンドでドラムを叩いていたんだけど、ボーカルがいなくなったときに、代わりにボーカルもやったんだ」と言う。もちろんこれはピーター・ガブリエルがGenesisから抜けた時の経緯そのままである。

じゃドラムはどうすんだ?と支配人が聞くと、クラプトンが「チェスターはどうだ?」と答える。チェスター・トンプソンは、Genesisとフィル・コリンズのソロの両方でサポートドラマーをつとめており、どちらのライブでもフィルとの圧巻のツインドラムをきかせてくれる。

最後のシーンもひとひねり入っている。曲が終わって、支配人がこんなバンドなら最初のダンスのほうがマシだ、とぼやいた後で、「あ、ギターだけ良かったな」と言う。すると助手が「あ、エリックはもう来週辞めることになってます」と答えるというオチがついている。

1 プログレ的な匂いを残すこのアルバムのタイトル曲は、その後ライブで長くプレイされた。
2 「ビハインド・ザ・サン」(85)と「オーガスト」(86)はプロデューサー兼ミュージシャンとして、「ジャーニーマン」(89)はミュージシャンとして参加。「

Every Breath You Take (The Police)

「Every Breath You Take」(邦題「見つめていたい」)は、1983年の世界的大ヒット曲。このヒットでザ・ポリス(The Police)という稀代のスリーピース・バンド1)は老若男女から広く認知を獲得したが、結果として、バンドの末期を飾る曲となった。

ザ・ポリスの結成は77年。79年に発表した2枚めのアルバム「白いレガッタ」(原題「Reggatta de Blanc」)がイギリスでヒット。このアルバムからのシングルカット「孤独のメッセージ」 (原題「Message in a bottle」)が初の世界的ヒットとなった。以来、ジャズ的なセンスを漂わせつつも、一方でストレートなビートとときにパンクにも近いロック・テイストを組み合わせ、アルバムごとにイギリスのバンドらしい実験的な試みを取り入れて「通好み」の人気バンドとなる。83年発表の「シンクロニシティ」はイギリスのみならず世界的な大ヒットアルバムとなったが、メンバー間の不仲により84年にバンドは活動を停止する。つまり、「Every Breath You Take」が収録されたのはバンドの最後のオリジナル・アルバムだったということになる。

メロディの美しさと歌詞から、ラブソングだと一般に思われているこの曲は、Stingによれば、「嫉妬と監視と所有欲についての不快な、あるいは邪悪とも言える」小曲なのだという2)。若い頃、僕はカラオケでこの曲をよく歌ったけれど、歌いながら「なんかストーカーの歌みたいだ」とぼんやり思っていたのは、あながち間違いではなかったわけである。なんせ「息をするごとに、身動きするごとに、約束を破るごとに、一歩踏み出すごとに、君を見つめているよ」だもの。普通に考えて、相当に気持ち悪い。まぁ、ラブソングの少なからずは一歩間違えれば同じようなストーカーソングになってしまう要素があるとはいえ、やや狂気すら感じる極端さである。スティングがこの曲をつくったのは、最初の結婚生活が破綻の縁にあって精神的に壊れそうだった時期だというのもむべなるかな、だ。

音数が少なめで、楽器同士の間を十分にとったスリーピースらしいアレンジの中で、アンディ・サマーズのアルペジオ的なバッキングが、実に美しい。これ、単純に聞こえるけれど、弾いてみると指が攣りそうになるほどストレッチして押弦せねばならず、さすがに一筋縄ではいかない。(ビデオで人差し指と小指の伸びをぜひ観察してください。)でも、あまりに完成度が高いので、少しでも変えるともう別の曲になってしまうので、バンドでやりたければ意地でも完コピする必要があってツライ。

バンドは2007年に再結成(というか活動再開)。2008年の東京ドームのコンサートに行ったけれど、サポートなしの完全スリーピースによる演奏は年季による円熟と往年のキレを兼ね備えた素晴らしいものだった。スティングのボーカルは年齢とともにパワーと艶を増していて、人間の声がもつメッセージの「伝達力」をまざまざと見せつけられた思いがしたものだ。

1 当初は4人編成だったようだが、78年末ごろから、ベース兼ボーカルのスティング、ドラムのスチュワート・コープランド、ギターのアンディ・サマーズの3人編成となり、今に至る。
2 Every Breath You Take — Sting’s ‘nasty little song’ was The Police’s biggest hit” (Financial Times)

銃爪(ツイスト)

世良公則&ツイスト(のちにツイストに改名)は、デビュー前に出場したヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)1)で「あんたのバラード」がグランプリを獲得し、1977年11月に同曲でプロデビュー。フォークやニューミュージックといった比較的「ソフト」な曲が主流だったヒットチャートに、世良公則のハスキーなシャウトとヘヴィなギターが突然殴り込みをかけたような、鮮烈なデビューだった。当時の歌番組でもツイストが出るときは突然雰囲気が変わり、異彩を放っていたのをよく覚えている。

デビュー曲を皮切りに「宿無し」「銃爪(ひきがね)」「性(さが)」「燃えろいい女」「SOPPO」など2年余に渡って出せば必ずヒットチャート上位に食い込む快進撃を続ける。これらのヒット曲はすべて世良公則が作詞作曲。「あんたのバラード」のときはまだ弱冠22歳だったはずで、その年齢でよくぞまぁあんな歌詞を泥臭くブルージーなロックバラードにのせて曲を作れたものだと感心する。といいつつも、河島英五が「酒と泪と男と女」(1976年)を作ったのは19歳のときらしいので、昭和50年前後というのは、時代的にそういった「空気」に満ちていたのだろうと思う。

81年末にツイストは解散するが、その後も世良公則は活発にソロ活動を続けており、今も全く衰えないヴォーカルを聴かせてくれる2)。ツイスト時代の曲も、評価の高いアコースティック版のほか、ダグ・アルドリッジやマーティ・フリードマンのヘヴィなギターをフィーチャーしたTWIST INTERNATIONAL版(ダグ・アルドリッジとマーティー・フリードマンのツインギターを聴けるのはこれだけではないだろうか)など、様々なパターンで再録・再演されている。

音楽だけでなくその佇まいも、男が惚れる男というか、泥臭くも爽やかな男臭さというか、年齢を重ねるにつれて渋さ・魅力が増しているように見える。若い頃にひとときロックやバンドにハマった僕らのようなおっさんにとっては、理想的な歳のとり方ではあるまいか。

1 70年代のポプコンは、フォーク、ニューミュージック、ロック、ポップス系のミュージシャンがデビューする一大登竜門だった。ツイストのほか、中島みゆき、八神純子、因幡晃、円広志、クリスタルキングなど錚々たる顔ぶれがここからデビューしている。
2 世良公則と桑田佳祐が、そのボーカルスタイルを全く変えないままに、今も昔以上にパワフルな声を保っているのは驚異的である。

夢伝説(スターダスト・レビュー)

「夢伝説」を聞くとカルピスが飲みたくなる中高年は少なくないのではないか。84年発売のこの曲はカルピスのコマーシャルに使われ、バンドとして全国的な人気を獲得する原動力となった。

スターダスト・レビューは81年デビュー。ボーカル&ギターの根本要を中心とした5人編成のバンドだが、全員がボーカルをとれるほどの高い歌唱力を活かした分厚いコーラスワークと洗練された曲調が魅力だ。根本の声がハスキーなので、ちょっと聴いただけだとわかりにくいが、男性ボーカルとしてはキーが非常に高く、一般人がカラオケで歌おうとすると愕然とする。全体的には、エレピ、シンセサウンドを中心としたキーボードが全面に出て曲の色を決めるタイプのバンドだが、カッティングと中間部のソロワークでは根本のギターがロック・ブルーズ色を加えて、単なるおしゃれポップとは一線を画する深みと複雑さを演出している1)。実際、根本はギターには並々ならぬ思い入れを持っているようで、以前読んだインタビューでは、「ボーカルは他人に譲ってもかまわないけれど、ギターだけは譲れない」という意味のことを話していた記憶がある。ブラウンサンバーストのストラトを愛用している。「夢伝説」もそうだが、イントロを省いてサビのメロディを冒頭に持ってくる曲が比較的多く2)、また、それがスタレビらしさをうまく演出している。

僕が熱心に聴いていた頃、キーボードは結成以来のメンバーである三谷泰弘が担当しており、アルバムでもライブでも彼がメインボーカルを担当する曲が取り上げられている。僕から見ると、根本と三谷はいい意味での「競合」関係があり3)、それがバンドの魅力のひとつを形作っていたと思う。94年にソロプロジェクトのために脱退してしまったのはとても残念だった。

ライブ版アルバムや映像を見るとわかるが、ライブでは、曲間のしゃべりも含め、笑いあり涙ありの、誰もが存分に楽しめるエンターテイメントに仕上げてられており、何度見ても楽しい。

1 「木蘭の涙」などが好例。
2 「木蘭の涙」「今夜だけきっと」「トワイライトアベニュー」など
3 オフコースにおける、小田和正と鈴木康博のような

個人授業(フィンガー5)

よく行くラーメン屋ではいつも70年代から80年代の「懐かしの歌謡曲」が有線から流れている。子供の頃に親しんだ音楽は、早い段階で神経細胞に深く刻み込まれるようで、何年いや何十年ぶりに聴いた曲でも、スラスラと歌詞が浮かび一緒に歌えたりする。先日も冷やし中華を待っていたところ、フィンガー5の「個人授業」のイントロが流れ、気がつけば指でリズムをとりつつノリノリで聴き入ってしまった。

おそらく若い世代の人たちはもはやフィンガー5など知らないだろう。曲を知っていたとしても後年カバーされたバージョンの方ではないだろうか1)。フィンガー5は沖縄出身の男性4人、女性1人の5人兄妹からなるグループ。73年に発売された「個人授業」は、みるみるうちにミリオンヒットになり、その後リリースされた「恋のダイヤル6700」「学園天国」も立て続けにミリオンセラー、一躍トップアイドルの仲間入りを果たした。

グループ名でわかる通り、「ジャクソン・ファイブ」を強く意識した売り方で、シングル曲だけでなくアルバム収録曲も、当時の歌謡曲の中では、飛び抜けて垢抜けた洋楽的な雰囲気を強く漂わせていた。ヒット曲の多くは、作詞が阿久悠、作曲が井上忠夫または都倉俊一といった当時の売れっ子コンビによる作だが、アルバム収録曲の中には玉元一夫(長男)ほかメンバーのクレジットも散見される。おそらく、日本に返還される前の沖縄でアメリカのヒットチャートを聴いて育ったことが、垢抜けた音楽センスを身に着ける要因になったのではないか。本家で声変わり前のマイケル・ジャクソンが担っていたハイトーンのメインボーカルは、同じく声変わり前の玉元晃(四男)が、本家に負けないほど伸びのあるハイトーンで歌っていた。実際にアルバムには日本語詞によるジャクソン・ファイブの曲が収録されており、『I want you back』(「帰ってほしいの」)『I’ll Be There』(「愛はどこへ」)『Goin’ Back To Indiana』(「オキナワへ帰ろう」)などが原曲の雰囲気をそれほどこわさずにカバーされているのが面白い。

この時代、「和製~」と形容されることは、どちらかといえばポジティブなトーンを帯びていたように思う2)。ポップスやロックの分野では、洋楽の方が「格好いい」というコンセンサスが強くあったため、今に比べてもっと純粋なあこがれがあり、ヘンに自分たち独自のカラーを加えたりせず、リスペクトを込めたコピーに近い形で3)そのあこがれに近づこうとしていた。そのせいか、フィンガー5を40数年の時を経て今改めて聴き直してみても古臭さはほとんど感じることがなく、むしろ素朴でピュアなアプローチだった分、新鮮にさえ感じるというおもしろいパラドックスが起きている。

1 たとえば、小泉今日子がカバーした「学園天国」。まぁこのカバーバージョンも十分古いのだが。
2 「劣化版コピー」といったニュアンスはなかった。
3 柳ジョージとエリック・クラプトンの関係もこのニュアンスを感じる。

Miami 2017 (Billy Joel)

ビリー・ジョエルが世界的に売れたのは1977年発表のアルバム「ストレンジャー」からだが、これは彼の5枚目のアルバム。デビューは1971年のアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」1)まで遡る。

アルバム「ストレンジャー」が出た頃、僕はちょうど小学校から中学校にあがる頃だった。タイトル曲の哀愁を帯びた出だしや、やや放り出すように歌いつつも、力強くかつ繊細なヴォーカル。それまで日本の「ニューミュージック」ばかり聴いていた耳には、この都会的で垢抜けた音楽は鮮烈で、続く78年の「ニューヨーク52番街」、80年の「グラスハウス」と合わせ、それこそレコードが擦り切れるほど2)聴き込んだものだ。小学校の低学年の頃からずっとヤマハの「エレクトーン」を習っていたのだが、ああこんなことならピアノを習っておくんだった、と何度思ったことか。後年、実際にニューヨークを訪れたとき、ビリーの曲が自動的にBGMとして脳裏に流れたものだが、僕ら世代のニューヨークという都市へのイメージは、ほとんどビリー・ジョエルによって作られたと言ってよい。

「ストレンジャー」より前の4枚のアルバムについては、「ピアノ・マン」などいくつかのヒットを除いてはあまり聴く機会がなかったのだが、81年に初のライブ盤「ソングス・イン・ジ・アティック」(原題:Songs In The Attic)がリリースされる。これは「屋根裏に放り込んだ曲」という意味のアルバム・タイトル通り、すべてブレイク前の初期のアルバムから選曲されており、まだ聴いたことのなかった曲がいくつも入っていた。中でもこの「マイアミ2017」と「さよならハリウッド」の二曲は強烈なインパクトだった。

「マイアミ2017」(原題:Miami 2017 (Seen the Lights Go Out on Broadway))は、廃墟となったニューヨークを逃げ出してマイアミに移住した人が2017年に当時を振り返ってニューヨークが破壊されていった様子を語る、という歌。76年にリリースされた歌なので、40年後の未来から過去を振り返っている近未来SF的な設定だ。75年頃にニューヨーク市は財政破綻に瀕しており、そこからインスピレーションを得て作った曲だというが、彼の多くの曲同様、ニューヨークへの愛情に溢れている。あの頃の未来だった2017年はすでに過去となり、ニューヨークは相変わらずネオンを煌々と輝かせてますます健在である。

1 この「Cold Spring Harbor」が町の名前だと知ったのはずいぶんと後のことだ。ロングアイランド島北岸にある町の名前で、ビリー・ジョエルの故郷の近くらしい。ロングアイランド鉄道のポートジェファーソン支線に「Cold Spring Harbor」という駅がある。
2 CDはまだなかった。

Don’t Tell Me You Love Me (Night Ranger)

ツインギターのハードロックバンドは数あれど、ナイト・レンジャーほどの「完成度」を誇るバンドはなかなかない。ここでいう「完成度」は、主にギタリストふたりのテクニックとオリジナリティ、役割分担、ギターソロの構成と難度を指していて、バンド全体の完成度とか曲のよさ、みたいなものはちょっと脇に置く。

82年発表のデビューアルバム「ドーン・パトロール」(原題 「Dawn Patrol」)のオープニング曲「ドント・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」(Don’t Tell Me You Love Me)からツインリードが炸裂する。ハードロックとしては何の変哲もない前半を過ぎ、ギターソロパートに入った途端、当時のギター少年はみな口をあんぐり開けて呆然としたものだった。

ギターソロ前半はブラッド・ギルスで、当時出たばかりのフロイドローズ1)を使わないと絶対にできないピッチ変化極大のアーミングをフルに使ったソロを披露する。弦のテンションがゼロ(弦がベロベロに緩んだ状態)近くまでアームダウンした状態からハーモニクスで倍音を出しつつ今度は2オクターブ以上上までアームアップしていき、シンセサイザーのピッチシフトをつかったような音程変化をギターで叩き出す。正確なピッキングで速弾きもこなすが、フロイドローズの申し子のような多彩なアーミングがトレードマークだ。

後半はジェフ・ワトソン。ブラッドとは「正反対」にレスポール使いでアームは使わない。その代わり、と言っては何だが、超高速・正確無比なピッキングで機械的な繰り返しフレーズを中心にソロを組み立てている。複数弦にまたがった弦飛びのピッキングが必要で、ギタリスト的には最高難度といっていいフレーズが次々飛び出す。さらにセカンド・アルバムからは、左右合計8本の指先をフルに使ったタッピング(ライトハンド)奏法も披露している。ギターソロ構成はブラッドの「柔」とジェフの「豪」それぞれのソロパートの後に、ふたりのハーモニープレイ(それもけっこうな速弾き)が続くというのが王道だ。

おもしろいことにボーカルもジャック・ブレイズ(B)とケリー・ケイギー(Dr)のツインリードで、曲調によってボーカルが変わり、ハモりも美しい。こうした「ツイン」をふた組フィーチャーしたオリジナリティあふれるバンドの「かたち」は、デビューアルバムにしてすでに100%完成されていたが、皮肉なことに、全米トップ10に入るヒットは、「シスター・クリスチャン」「センチメンタル・ストリート」などバンドの「本領」とても言えないような甘ったるいバラードが先行した。このため、レコード会社の売り方とバンド本来の「音楽性」が乖離してしまったのが、このバンドのある種の不幸だろう。

1 彼はいまだにチューニング調整機能のない「初代」のフロイドローズを愛用している。

ROSHANI

サーキュラー・キー(Circular Quay)をぶらぶらと散歩しながら写真を撮っていたら、ストリートミュージシャンの歌声が聞こえてきた。アコースティック・ギターにのせて、魂の震えがそのまま伝わってくるようなブルージーな歌声。思わず足を止めて聴き入ってしまった。声の主は小柄な女性で、アップにした髪に黒いサングラス、白地にプリント柄のふわりとしたワンピースが褐色の肌によく似合う。深く豊かな倍音を含んだ声は、落ち着いたトーンの中に哀切の情が溢れ、聴く者の心の奥までぐっと入り込んでくる。オーストラリアのミュージックシーンはよく知らないけれど、ブルーズ的な要素はほとんどないと勝手に思い込んでいたので、こんなにも「泥臭い」ブルーズを奏でるミュージシャンがストリートで歌っているのか、と驚いた。

何曲か聴いて、ブレイクタイムに本人からCDを二枚買った。名前はROSHANIというらしい。ホテルに戻って改めて聴いてみると、これがまぁ実に良い。どんなミュージシャンなんだろうと検索してみたところ、2015年のオーストラリア版 X-Factor(アマチュアのオーディション番組)に登場するや一夜にしてiTunesのブルーズチャートの一位を攫ったシンガーであった。生まれはスリランカ。生後6週間でオーストラリア人夫妻に養子に出され、以来オーストラリアで育った。X-Factorで注目された後、「60 Minutes」というドキュメンタリー番組の企画で、28歳にして初めて産みの母親をスリ・ランカに訪ねている。現在は、パートナーのミュージシャンとオーストラリアをクルマであちこち旅しながら歌っているようだ。こういう生き方もブルーズミュージシャンらしいし、こうして歌がますます魅力的になっていくのだろうな、と思う。ライブハウスのような小さな会場でじっくりと聴きたいミュージシャンだ。

2015年と16年に発売されたアルバム2枚がiTunes、Google Play Musicなどで見つかる。その後に発表した2枚については、本人のウェブサイトで購入できるようになっている。ロック・ブルーズ的なものが好きな人なら聴いて損はないと思います。

Knocking at Your Back Door (Deep Purple)

80年代にロックギターを練習していた世代にとって、「ハイウェイスター」と「スモーク・オン・ザ・ウォーター」はまず最初にコピーに励んだ曲だったはずだ。ロックギターにおける「バイエル」と言ってもよい。まぁバイエルといっても易しいというわけではなかったが、ハードロックの基本になるバッキング(リフ)やソロパートでの速弾きの基礎を練習・習得するにはよかったし、初心者バンドでもなんとなくカタチになる、それなりにサマになる曲であった。

この二曲は、ディープ・パープルの長い歴史の中では「第二期」、イアン・ギラン(Vo)、リッチー・プラックモア(G)、ジョン・ロード(Key)、ロジャー・グローバー(B)、イアン・ペイス(Dr)という布陣による演奏である。今、40代半ばより上の世代にとって、ディープ・パープルといえば、この第二期と、ボーカルがデイヴィッド・カヴァデール、ベースがグレン・ヒューズ1)に代わった第三期2)のことを指すと考えて良い。

問題は、この第二期、第三期は1970年から74年までで、80年代ギター少年にとってはリアルタイムではなかったことである。アルバム、とくに「ライブ・イン・ジャパン」のようなライブアルバムを聴いてくぅ~カッコいい~と思っても、バンドは迷走の末すでに76年に解散。レインボーやホワイトスネイクといった他のバンドでメンバーそれぞれは活躍していたけれど、本家ディープ・パープルは、伝説の巨星として雑誌記事とレコードだけを通じて見聞する、どこか靄のかかった幻のような存在だった。

そのディープパープルが84年に第二期のメンバーで再結成、「パーフェクト・ストレンジャーズ」というアルバムをリリースして復活を遂げる。僕は当時浪人中の予備校生だったのだが、バンド仲間だった友人が口角泡を飛ばしながらこの復活を熱く語っていたのをよく覚えている。このアルバムのオープニング「Knocking at Your Back Door」を聴いたとたん、凄い、本物はやっぱり違う、としみじみと感じ入ったものだ。霞の向こうから本物がくっきりと姿を現した瞬間だった。80年代半ばには、ヘヴィメタル・ハードロックがブームで、僕も、LAメタルと呼ばれたアメリカのバンドを中心に手広く聴いていたが、そのどれとも質も桁も違う、「貫禄」としか表現できないオーラが溢れていた。

ジョン・ロードの歪んだハモンドオルガンから始まり、ロジャー・グローバーのベースがリズムを刻み始め、意表を突くタイミングでイアン・ペイスのドラムがスタートする。リッチーのギターとハモンドオルガンのユニゾンのような分厚いメイン・リフにイアン・ギランの硬質でヤサグレた色のボーカルが重なってくる展開が、パープルの王道というか風格というか、とにかくカッコいいのだ。レインボーのエントリーで書いた通り、リッチーのギターソロは正直あまり好きではないけれど、楽曲の凄みの前にはそんなものは問題にならず、まさにハードロック史上に残る名作アルバムだと思う。

1 ベース&ボーカルと言ったほうが正確だが。
2 Burn(紫の炎)など

Some Like It Hot (The Power Station)

この前友人と美男ミュージシャンの思い出話をしていたのだが、アメリカではあまり思い当たらないけれど、イギリスにはけっこういる1)。「イイ男」系バンドといえば、真っ先に浮かぶのはデュラン・デュランだ。80年代のおしゃれロック路線の先頭集団を走っていた印象があるが、ハードロック・ヘビメタ原理主義者だった若き日の僕は、MTVやベストヒットUSAでデュラン・デュランが出てくるたびに「ちっ」と舌打ちをしていたくらいで、彼らの音楽について語るべきなにかを持っていない。ジョン・テイラー(Bass)がオトコの自分から見てもカッコええなーと思っていたくらいである。

デュラン・デュランからジョン・テイラーとアンディ・テイラー(G)、そこにロバート・パーマー(Vo)、トニー・トンプソン(Dr)を加えてできたのが The Power Stationだった。デュラン・デュランよりずっとロックまたはファンク寄りの縦ノリビートとハードなカッティングギターで、「Some Like It Hot」とT-Rexのカバー「Get it On」の2曲がUSチャートでTop 10入りする。ロバート・パーマーも、イギリスのミュージシャンらしいちょっと屈折した雰囲気と中年のセクシーさを併せ持った色男だっただけに、見栄えのするフロントマン3人を擁するミュージックビデオはけっこうインパクトがあり、格好良かった。

デュラン・デュランではアンディ・テイラーのギターが前面に出ることはほとんどなかったけれど、The Power Stationではしっかりとしたギターサウンドと幅のあるプレイを聴かせてくれる。「Some Like It Hot」ではコンプレッションの効いた跳ねるような細かいカッティングとけっこう弾きまくりのソロを、「Get It On」では音圧のあるディストーションでどっしりと重いカッティングを聴かせてくれる。最初に聞いたときには、あ、こんなに弾ける人だったのね~、とちょっと驚いたくらいだ2)。デュラン・デュランでの鬱憤を晴らすようでなかなか痛快である。久しぶりに聴いたけれど、今でもこれはじゅうぶんにカッコいいと思う。今度バンドで演ってみたい。

1 ブ男もけっこういる。
2 当時、「Thunder」というソロアルバムも聴いてみた。The Power Stationよりも、さらにロック寄りのプレイは聴かせてくれたけれど、残念ながらあくまで「デュラン・デュラン」に比べればいい、くらいのインパクトで、ハードロックの凄腕ギタリスト達に伍するまではいかず、2、3回聴いただけでであとお蔵入りさせてしまった。