マカロニほうれん荘原画展

先日、中野ブロードウェイの「Animanga Zingaro」で開催中の「マカロニほうれん荘原画展」へ行った。中野駅北口からサンモールという狭い屋根付きの商店街を通り抜けて、中野ブロードウェイへ。数十年ぶりに行ったけれど、相変わらずの魔窟っぷり。サブカルチャーのごった煮をさらに煮詰めたような場所だが、会場はこの2階にある。

以前のエントリーで「マカロニほうれん荘」について書いた。マンガのレビューを書くのも野暮だと思ったけれど、僕にとっては何せ大きなインパクトを残した作品なのだ。この原画展に行ってみて、このマンガがいかに「ロック」だったのか改めて思い知ることになった。

SGのダブルネックを持ったジミーペイジはよくモチーフとして使われた。
最後のふたコマにつながるリズム感がもう最高

会場には、BGMとして、著者の鴨川つばめが選んだロックの名曲が流れていて、そのプレイリストには、AC/DC、シン・リジィ、クイーン、UFO、スコーピオンズ、アイアン・メイデン、タイガース・オブ・パンタン、ヴァン・ヘイレン、ハート、エアロスミス、キッス、グランド・ファンク・レイルロード、サンタナ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、レインボー、ブラック・サバス、ジミ・ヘンドリックスなどなどなど…70年代のハードロックばかりがずらり。登場人物をつかったイラスト作品にも、そういったアーティストをモチーフとした作品がたくさん。

シン・リジィ「ライヴ・アンド・デンジャラス」ジャケットのパロディ

小学生でこのマンガを読んだときには、その5年か6年あとに、自分も、総司やトシちゃんみたいにエレキギター抱えてコピーバンドやるなんて思いもしなかった。このマンガと西城秀樹による早期教育が、のちに大学生になってハードロックに青春を捧げる下地となっていたわけだ。

アグルーカの行方 – 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極

「アグルーカの行方 – 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」角幡唯介 著 (集英社)

1845年から48年にかけて、英国のジョン・フランクリン率いる129人の探検隊が、英国からグリーンランドを抜け、カナダの北極圏を探査する旅に出た。そのミッションはヨーロッパから北回りにベーリング海峡を経て太平洋に抜ける航路(北西航路)を発見することであったが、航路の発見は果たせず、129人全員が死亡したとされる。

「アグルーカ」とはイヌイットの言葉で「大股で歩く男」の意味。フランクリン死亡後に隊を率いて北極圏からの脱出を図ったフランシス・クロージャーはイヌイットから「アグルーカ」と呼ばれていた。口承されてきた目撃談によれば、彼と二人の従者は最後まで生き残り、母国に帰るべくツンドラと湿地の不毛地帯を抜け、ハドソン湾交易所まで南下しようとしていたという。

本書は、著者の角幡唯介が荻田泰永1)とともに、カナダ北極圏のレゾリュート湾からツンドラ地帯にあるベイカー湖まで、フランクリン隊の足跡をたどるように3ヶ月以上にわたり1600キロもの徒歩行をした記録である。旅の前半は、フランクリン隊の船が氷に囲まれて動けなくなり、多くの隊員が死亡したキングウィリアム島まで、後半は、フランシス・クロージャーが辿った可能性の高いルートを探しながらツンドラ・湿地地帯をベイカー湖までという構成になっている。

フランクリン隊の遭難を扱った記録を古くから丹念に当たった上で旅のルート取りがされていて、零下30度から40度にも下がる酷寒の厳しい環境を旅する著者ら自身の体験から、160年前のフランクリン隊の苦難を見事に浮かび上がらせている。とはいえ、旅はフランクリン隊全滅の謎2)を解明しようとするものではなく、同じルートを旅することで、フランクリン隊と最後まで残されたフランシス・クロージャーが、現場で何を思い感じたのか、またなぜそこに挑もうとしたのかを追体験することに重きが置かれている。寒さや行く手を阻む氷との闘い、白熊や野生動物、疲労と飢餓感など現場に身を運んだ者だけが描きうるリアリティが読む者を強く惹きつける。

一方で、地図とGPSを使う旅が、地図もなく先が読めない状態で彷徨ったフランクリン隊に比べて、「冒険」を本質的に異なるものにしてしまうこと、また、他人の冒険行をトレースしようとする旅がどうしても予定調和的なトーンをはらんでしまうことに対し、著者は否定的な立場をとる。「前人未到」で先が読めないヒリヒリした感触こそが、人が「生きる」意味を実感するための冒険には欠かせないという認識が、著者の次の冒険となった「極夜行」に繋がることになる。

2013年第35回講談社ノンフィクション賞受賞作。

1 極地探検家。2018年1月6日(日本時間)には、日本人初となる南極点無補給単独徒歩到達に成功。
2 壊血病、不良品の缶詰による病気、缶詰のはんだによる鉛中毒などが示唆されている。

新宿アルタ裏

学生時代、学校に近かったせいもあって新宿にしばしば行った。紀伊國屋書店、カメラ量販店、楽器店、ライブハウス。別に金銭的にそれほど困窮しているわけでなくても、若者はたいていいつもお腹を空かせているので、安くて美味しい店に敏い。当時よく行ったのは、「アカシア」と「桂花」だ。

アカシアといえば、ロールキャベツ。1963年(昭和38年)に新宿で開業の老舗だ。新宿東口アルタの裏路地にあって、クリームシチューに浸かったロールキャベツが看板メニュー。カレーやコロッケなどもある。当時は食欲最優先でロールキャベツしか見ていなかったけれど、つい先日訪ねた時にあらためてよく見ると、ドイツビールが生で飲めるのだった。夕方早めの時間に、自家製のソーセージで一杯なんてのもよさそうだ。

「桂花」は1955年(昭和30年)に熊本で創業。とんこつ濃厚な熊本ラーメンの老舗。今でこそ一風堂や一蘭など、九州のとんこつラーメンは誰もが知る人気ジャンルになったけれど、僕が学生の頃はまだそれほどでもなかった。独特のクセのせいで「ラーメン通」向けのニッチだったように思う。太肉麺(たーろーめん)は豚の角煮のような肉塊がどかんと載ったボリュームたっぷりのラーメンで、ここ一番がっつり食べたい時にぴったりだった。こちらも東口の裏路地、アカシアから歩いて1、2分のところに今もある。

学生の頃から30年近く経つけれど、アルタ裏の路地は、当時とほとんど雰囲気が変わらない。小さなお店は入れ替わっているのだろうけれど、アカシアと桂花以外にも、三平ストア、オカダヤ、沖縄そばのやんばる、ダッキーダックなどあのエリアの雰囲気を形作っている象徴的なお店が今も生き残っている。

Forever Man (Eric Clapton)

エリック・クラプトンの、ヤードバーズ以来の長いキャリアの中で、僕は80年代から90年代にかけて1)のソロ作品が一番好みである。ギターについては何よりもその唯一無二の音色が魂を震わせる。まさに「エリック・クラプトン」という音色であって、ギターが、アンプが、テクニックがどうのといった技術論はどこか「机上の空論」の虚しささえ感じさせてしまう。その音は、余人の到達し得ない巨大な「素数」というか、因数分解を許さない次元の凄みがある。ギターと同じくらい魅力的なのが彼のボーカルだろう。ギタリストとしての評価が先行したが、キャリアの中盤以降、彼の声の魅力はギターと切り離すことはできない。歌とギターが継ぎ目なく一体となって音楽を編み上げてゆく魅力は、ブルーズギタリストの王道2)とも言える。とくに80年代後半からはアルバムごとにボーカリストとしての魅力が増しているように思う。

「フォーエヴァー・マン」は85年発売のアルバム「ビハインド・ザ・サン」に収録。このアルバムはフィル・コリンズがプロデューサー兼ドラムス・パーカッションとして参加3)しており、従来よりもポップな音、曲調にまとめられているので、ファンの中でも好き嫌いが分かれる。「フォーエヴァー・マン」はシングルカット用の曲を入れる必要から制作されたようで、作曲はクラプトンではなくJerry Lynn Williams、プロデューサーもフィル・コリンズではない4)けれど、クラプトンの魅力をよく引き出していると思う。ドロップDチューニング(ギターの6弦開放をE音ではなくD音に下げたチューニング)をうまくつかった印象的なイントロのリフ、そしてボーカルのAメロ(最初のフレーズ)が素晴らしい。のっけから高音部をちょっと気張ってシャウトっぽく発声するクラプトン節炸裂である。でも、何より心に突き刺さってくるのは、ギターソロの第一音のチョーキング。もうこの音、このチョーキングだけでご飯3杯食べられます、くらいの代物で、タイミング、音色、とてもマネできるものではない。技術的にはロックギターの基本中の基本ともいえるチョーキングだが、それ一発をここまで聴かせるギタリストっていない。生きるレジェンドたる所以である。

1 この年代は、MTVの隆盛とともに「ロック」というジャンルが最も元気だった時代だ。英国のミュージシャンは米国でのセールスを意識せざるを得ず、良くも悪くもアメリカ向けにややポップでわかりやすい曲作りを求められることが多かった。
2 ゲイリー・ムーアもまさにこのタイプだ。
3 次のアルバム「August」もフィル・コリンズのプロデュース。さらに次の「Journeyman」でもドラムス、コーラスとして参加している。
4 ちなみに、ドラムスはTOTOのジェフ・ポーカロ、バッキングのギターはスティーブ・ルカサーが弾いている。

有毒植物

花や草木を見ても、綺麗だなぁとか青々としているなぁ、といった漠然とした感想以上のものが出てこない。いい歳をしてそれでいいのか、と反省するが、どうにも興味を惹かれない。ところが、「毒のある植物」となると、がぜん前のめりになる。どういうわけか「毒」には禍々しい魅力がある。こわい、でも、見てみたい — まるで小学生のメンタリティだが仕方がない。

先日、小平市にある東京薬用植物園を訪ねる機会があった。観賞用というよりは、漢方薬の原料や民間療法で利用されてきたもの、染料などに利用されてきたものといった、実利用されてきた植物を主に栽培・研究している施設である。ここに「毒のある植物」ばかりを集めた区画があり、気がつくと一時間以上熱心に見入ってしまった。

意外なことに植物の毒は身の回りいたるところにある。植物園でもらったパンフレットによると、過去10年の食中毒例では、患者数の上位から、ジャガイモ、スイセン、クワズイモ、バイケイソウ、チョウセンアサガオ、と続く。このうち、スイセンはニラと、バイケイソウはオオバギボウシやギョウジャニンニクと、クワズイモはサトイモと、チョウセンアサガオはゴボウ、オクラ、ルッコラ、ゴマと間違えて食べてしまい、食中毒を起こしている。おもしろいのはジャガイモで、芽や緑色の皮にソラニンという有毒物質を多く含み、家庭菜園や学校菜園で未熟なジャガイモを収穫して料理したことから食中毒が起こる例が見られるそうだ。ありふれた園芸品種であっても油断してはいけない。キョウチクトウはびっくりするほどの毒を持っているし、ヤツデ、クリスマスローズ、スズラン、アジサイ、ヒガンバナなども有毒である。

我々が草木一般に対して勝手に抱いている「癒やし」とか「優しさ」みたいなポジティブなイメージをとは無関係に、実は禍々しいパワーを隠し持った連中があちこちに生えているのだ。こういうことを知ると、見慣れた公園の緑が、ちょっとワイルドなものに見える。

ブルースカイブルー(西城秀樹)

子供の頃、西城秀樹のいない歌番組などありえなかった。同時期に活躍した他のいわゆる「アイドル歌手」と比べて、その歌唱力は際立っていた1)。僕が高校以降、ハードロックに傾倒してゆく素地を作ったのは、多分に西城秀樹のハスキーボイスとシャウトの迫力だったと思う。少々マセて自意識過剰気味だった小学生は、アイドル歌手なんてどこがええねん2)、と興味のないフリをしていたが、僕もあんな風に歌えたらカッコええやろなぁ、と心中ひそかに思っていた。

西城秀樹本人もハードロック好きで、ライブでは「アイ・サレンダー」、「ロスト・イン・ハリウッド」などレインボーの曲をカバーしている。レインボーのジョー・リン・ターナーなんてアメリカ版・西城秀樹3)と言っても良いのではないか、ダメか? ハスキーボイスとシャウト、大きめのビブラートのかけ方がそっくりである。シングルとしてリリースされた「ナイト・ゲームス」は、レインボー時代ではないけれど、グラハム・ボネットの曲だ。ほかに、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」や「時への誓い」(Faithfully)も取り上げている。

「ブルースカイ・ブルー」は1978年8月リリースの26枚目シングル。これをはじめて聴いた時、なんちゅー格好いい曲や、とため息が出た。大きなゆったりとしたサビのメロディが美しい。でもこれで終わらないところがこの曲の最大の魅力で、2番のサビが終わった後、サビと同じコード進行で別のメロディの第二サビが加わっている。この部分のメロディがなんとも切なく、西城秀樹の声の魅力を最大限に引き出す高さになっている4)

63歳での若すぎる突然の訃報。ずいぶん長いこと彼の歌を聴くこともなくなっていたけれど、自分でも不思議なほどの喪失感がある。子供の頃の大切なアルバムが、突然ガラス戸の向こうにしまわれて、手が届かなくなってしまったような寂しさを感じる。つつしんでご冥福をお祈りします。

1 女性では岩崎宏美が圧倒的にうまかった。
2 当時は大阪に住んでいた。
3 西城秀樹のほうが4つ年下だが、デビューは4年早い。
4 作詞は阿久悠。ものがたりをありありと喚起させる歌詞世界がさすがである。

コガネムシ

もうずいぶん前のことになるけれど、出張で、大阪・梅田にあるウェスティンホテルに泊まった。ひとりで夜、ふらりとホテル内のバーに行く。出張先でホテルのバーに行くのは楽しい。カウンターにひとりなら気を使わなくていいし、バーマンが手際よくカクテルを作っているのを眺めながら、ひとときぼーっとする。普段とは違う土地にいるのだ、という感覚が体に馴染んでくるような気がする。

その夜、カウンターはすでに埋まっていて、テーブル席に案内された。隣のテーブルに、夜の店の女性と思しき色気のある女性が二人、その客らしい男性が一人。女性は30代後半か40代はじめくらい。北新地の高級クラブのホステスさんかもしれない。男性の方は、50代後半くらいで、くっきりしたストライプのスーツと、エナメルみたいに妙にピカピカの靴。勤め人というより自分で商売している「社長」という雰囲気で、なんとなく品のない、典型的な大阪のおっちゃんという雰囲気。

おっちゃんが、馴染みらしきバーテンダーに、「わしのボトル持ってきて~」と頼むと、テーブルの上には、おっちゃんがキープしているボトル(なぜか全く同じシーバスリーガル)が3本並んだ。さらに、ボトルの前に、自分が持っているゴールドのクレジットカードを4、5枚ほどこれみよがしに並べた。テーブルの上半分が金ピカに輝いてた。おまえはコガネムシか。

女性に対して、「ワシ金持ってまっせ~」というディスプレイが、ここまであからさまだとむしろ清々しいとすら思える。発情期の野生動物のオスを観察しているような気分とでも言えばよいのか。あ~、今大阪にいるんだなぁ、とシミジミとしたひとときであった1)

1 大阪以外ではなかなか見ない光景だと思うけれど、少年時代を大阪で過ごしたせいで、三つ子の魂というべきか、こういう人を見ると懐かしさを覚える。

鯉のあらい

中学校3年のときに、関西から茨城県の古河1)という町に引っ越した。県の西の端っこにぽつんと飛び出したように位置する。埼玉、栃木、群馬、茨城の4県が接するところで、自転車にまたがれば10分以内に4県をまたぐことができる。利根川と渡良瀬川が合流する「渡良瀬遊水地」に隣接している。江戸時代には有力譜代の古河藩が置かれた歴史ある町である。

この町には鰻屋が多かった。それまで住んでいた大阪郊外の新興住宅地にくらべれば「すごく」と言っていいほど多かった2)。引っ越した当初、関西と関東の食文化の違いに戸惑った少年は、「何でこんなに鰻ばっかり食うとんねん」と大阪弁でつぶやいたくらいだ。

この数多くの鰻屋がみな、ウナギだけでなく、コイやフナ、ドジョウやナマズといった川魚の料理も出すのだ。古くから、日光街道3)の宿場としても栄えたせいか、何代かに渡って営業している由緒ある割烹や料亭もあって、そういう店でも出す。それもそのはず、古河の名物は鮒の甘露煮で、贈答品としてよく使われている。利根川・渡良瀬川がそばにあるので、そこでとれた魚を古くから食べてきたのだろう。

川魚は、海の魚に比べて、どうしても泥臭さがあるので、臭み消しを兼ねて、味噌や醤油で甘辛く煮て食べることが多い。鯉こくや鮒の甘露煮が典型だ。鰻は別として、そういった川魚料理は、子供には決して美味しいものではなかった。食べ慣れていなかったせいもあるだろうが、茶色くて、しょっぱくて、ドロっぽかった4)

そんな中、鯉の洗いだけは別で、赤みがかったお造りのようなコイの身は美味しかった。最近までどうやって作るのか知らなかったのだが、刺し身のように薄くおろしたコイを、80度くらいの熱湯にくぐらせたあと、氷水でキュッと締めるらしい。それを酢味噌やからし味噌で食べる。コイは新鮮なものに限る。かと言って、そのへんで釣ってきたものでは、泥臭くて5)食べられたものではなく、店で出すのは養殖されたマゴイだそうだ。

最近、鮒の甘露煮をもらったので、久しぶりにちょこっと箸をつけてみたところ、あら、意外と美味しいではないか。たぶん歳をとって味覚が変わったからだろうけれど、日本酒のお供によい。別エントリーに書いたけれど、こうしておっさんは年とともに若い頃には食べなかったようなものが、どんどん美味しくなっていくのである。

1 「こが」と読む。「ふるかわ」ではない。
2 この図でもわかるが、鰻屋は福島以南の関東と九州に多い。
3 現在の国道4号線
4 同じ川魚の甘露煮でも、鮎の甘露煮となると実に上品で美味しい。鮎は清流で石についた苔を食べているせいだろうか。
5 コイヤフナは泥ごと吸い込んでエサをとるからだろう。

Lay It Down (RATT)

RATT(ラット)は、80年代にロックシーンを席巻したいわゆる「LAメタル」の代表的バンド。「LAメタル」というのは、日本のメディアが便宜的に使った名称で、はっきりした定義があるわけでもない。ふわっとした括りでは、80年代に活躍した西海岸出身のHR/HMバンドで、MTV的に見栄えのする外見1)、わかりやすいメロディとヘヴィでテクニカルなギターが共通項だろう。ほかには、モトリー・クルー、クワイエット・ライオット、ドッケンなどをイメージするとわかりやすい。

ギタリストの立場からは、深く歪んだディストーションサウンド、高域と低域を強調したいわゆる「ドンシャリ」な音、技術的に難度の高い速弾きとフロイドローズのトレモロを使った派手なアーミングが特徴。リードギタリストはボーカルと並ぶバンドの顔で2)、ギターソロのない曲は考えられない。

RATTはロビン・クロスビー3)とウォーレン・デ・マルティーニによるツインギター。巨漢で横幅もあるロビンと、ほっそりとした色男のウォーレンというビジュアル上の対比は、音楽的な役割分担にも通じていて、時期によって濃淡はある4)けれど、ロビンがリズム、ウォーレンがリードをとる。

「レイ・イット・ダウン」(Lay It Down)は、85年発売の2枚目のアルバム「インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー」(Invasion Of Your Privacy)の2曲めに収録されている。当時のバンド仲間、ギタリスト友達の中では、RATTで最も評価の高い、人気のある曲だったと思う。ウォーレンのギターが響いた瞬間に誰もがわかる特徴的なイントロ。ギターソロは、拍子のアタマでキッチリ入らずに、ちょっとズラして入るフレーズがちりばめられていて、スリリングで格好良い。バンドでプレイしたことはないけれど、当時よく家で練習してた。スティーブン・パーシーのボーカルは、まぁ、なんというか、もうちょっと何とかならんかと思うものの、これがRATTなのだと言われれば5)、仕方がない。それにしてもこのプロモビデオ、ひどすぎるな。

1 長髪・今で言うビジュアル系っぽい化粧・黒のスリムジーンズか革パンツ・バンダナなどなど
2 もちろんバンドにもよるけれど。モトリーはむしろベースとドラムの方が派手だし、クワイエット・ライオットはボーカルのエラの張った顔が強力すぎて、ギタリストが前に出てくる感じでもないし。
3 2002年にエイズ/薬物過剰摂取により他界。
4 ファースト、セカンド・アルバムくらいまではロビンがソロをとる曲もある。
5 歌の好き嫌いはともかく、曲作りでも貢献度が高い。

マシュマロを焼く

え?マシュマロって焼いて食べるんだ?と、ちょっと驚いたのは、小6とか中1くらいで「スヌーピー」のコミック1)を読んだ時だった。スヌーピーやウッドストック2)が、枝に刺したマシュマロを、仲良く焚き火であぶるほのぼのしたシーンがよく出てきたのを覚えている。でも、それから長い間、自分で焼くという機会は訪れなかった。

男子の場合とくに、マシュマロを食べる機会がない。たとえ稀にあったとしても、友達の家の菓子盆にちょこんと乗っかっていたり、旅行のバスの中で袋が回ってきたりくらいで、「焼く」ような状況ではない。もし家にマシュマロがあったとして、台所のコンロに焼き網をのせて焼くってのも何か違う。ぜんぜん美味しそうじゃない。焼き網で焼くべきはやはり干物か餅であって、甘いお菓子とは正反対のベクトルだ。それに、オトコが焼き網でマシュマロを焼いている姿は、どちらかといえば物哀しくて、ほのぼのからは程遠い。見るものの涙を誘ってマシュマロを焼いてどうしようというのか。つまり、マシュマロを焼くには、それにふさわしいシチュエーションというものが必要なわけだ。

で、ふさわしいシチュエーションとしては、バーベキューか焚き火に限るように思う。それも、女性が参加していなければならない。キャンプに行ったとしても、男子ばかりのキャンプで焼くのはひたすら肉!であって、悲しいかなマシュマロが入り込む余地はない。

というわけで、このゴールデンウィークは、バーベキューついでに、姪っ子二人が楽しそうにマシュマロを焼くのをほのぼのしながら見てました。

1 うん、本当は「ピーナッツ」がタイトルで、スヌーピーは登場キャラクターなんだけれども。
2 スヌーピーの友達の黄色くて小さなトリね。