食べなさい

毎年元日は私の実家へ、2日はカミさんの実家へ行く。この二日間、我々の胃腸はその能力以上に全力稼働することになる。両方の家で食べ物が次々と休みなく出続けるからだ。とにかくお腹いっぱい食べさせてやりたい、美味いものを食べさせてやりたい、という親の愛情や気遣いはいくつになってもありがたいものだ。が、もういいおっさんになってしまった胃袋は、もはや昔のように食べ物を受け入れてはくれない。おせち料理なら煮物ときんとん、黒豆と角煮あたりをつまむと、早くも満腹感を覚え始める。すき焼きならサシの入ったピンクの牛肉一枚とくたっと煮えた野菜と豆腐少々ですっかり満足する始末。若い頃の暴力的とも言える無尽蔵な食欲を遠く懐かしみながら、今年何歳になるのか現実を自覚する瞬間である。

しかし、親から見れば子供はいつまでも子供。高校生くらいの最大瞬間風速的食欲を基準に食べ物が用意されており、食べなさい食べなさいの波状攻撃が展開される。さらに土地柄もある。北関東で「もてなし」といえば食べきれないほどの食べ物、飲みきれないほどの酒をたっぷりと供することと同義であり1)、かなり余るくらいでちょうど。お皿が空くこと、ましてや足りない、などというのは決してあってはならぬ。その結果、例えば、私がお酒の席で近頃愛飲しているノンアルコールビール、まぁ、アルコールは入っていないのだから、飲めても350ミリ缶せいぜい3,4本というところ、28本入り一箱が用意されているといった具合である。

All Free
4本増量

1 おそらく北関東だけでなく、日本中にこういうもてなし文化はある。司馬遼太郎「竜馬がゆく」にも、来客をもてなすために酒の一斗樽をかついで山を越え、正体がなくなるまで相手を酔わせてやっと満足する場面があった。

火事始末記(1)

 実家が火災に遭ったのは2016年の11月29日。火曜日の夕方だ。いま家が燃えてると父から電話がかかってきたのがニューヨークと毎週火曜日の定例電話会議の直前だったからよく覚えている。慌ててクルマに飛び乗り実家に向かった。

 2時間ほどで実家についたときにはすっかり日も暮れて、現場は鎮火し消防も引き上げていた。燻されたような臭いが濃く立ち込めていたが、周囲の街灯がすべて消えており暗くてよく見えない。父たちは近くの旅館に避難していた。ショックと疲れで呆然としていたが、怪我一つないのが幸いだった。

 火元は隣家で、雨戸を閉めようとしたときにパチパチと爆ぜるような音がしたので不審に思って覗いてみると、隣家の窓からオレンジの焔が吹き出していたとのこと。晩秋の強い風に煽られて、焔はみるみるうちにこちらの家に燃え移ったようだ。二人は外出から戻ったばかりだったが、慌てて外に飛び出したという。

 翌朝現場に行ってみた。火元の隣家は外壁だけを残して屋根と内部は全て燃え尽き残骸となり果てている。我が家は外壁と屋根の一部は残っていて外から見ると一見なんとか無事に見えるが、中に入ってみると二階の2/3と一階の1/3が焼失しており、見上げれば、焼け落ちた屋根の向こうに冬の青空がくっきりと見えた。

二階北側の部屋
屋根の向こうに青い空が見える

 燃え残りの残骸や塵灰からはまだ時折白い煙が糸をひくように立ち上り、火災現場に特有の臭いが鼻を突く。消防の放水で中は何もかもずぶ濡れになっていて、あちこちで水が滴り落ちている。隣りにある小学校はいつも通り授業ををしているはずだが校庭に子供の姿はない。この一角だけ奇妙なくらいしんと静まり返って、時が止まったように見える。場が和むような冗談をひとつふたつ言いたかったが、何も浮かんでこなかった。

Hiroshima Mon Amour (Alcatrazz)

イングヴェイ・マルムスティーンが彗星のようにロック・シーン現れたのは僕が予備校生の時だ。グラハム・ボネット率いるアルカトラスの「ヒロシマ・モナムール」は衝撃的だった。ゆったり物哀しいフレーズから突然堰を切ったように炸裂するクラシカルな超高速ソロは多くのギターキッズを虜にした。

だがイングヴェイが与えた衝撃は、そのギタープレイに留まらなかったのである。ある日、予備校のラウンジで友人と喋っていたところ、入り口のガラス扉から、高校時代の知り合いが颯爽と現れた。黒いスリムジーンズに、白のブーツ、胸辺りに昔の貴族風のフリルがあしらわれたシルクっぽい黒のドレスシャツに、黒のライダースジャケットという出立ちで、なぜかギターケースまで肩に背負っている。その姿は、つまり、イングウェイ100%そのまんまであった。スタジオやらライブ会場であればともかく、予備校のラウンジでの違和感たるや、あたかも足ひれ・ボンベにウェットスーツのスキューバダイバーが沖縄の海から何かの拍子に時空転移してきたかのようだ。しばらくすると予備校の事務員が出てきて、彼は事務室の奥に連れて行かれた。後で聞いた話によると、予備校には勉強するのにふさわしい服装で、ときつく注意されたらしい。

ファッションセンスはともかく1)、クラッシック・スケールを超高速で弾くギタリストは、彼のデビュー以降、すべからく「イングヴェイのコピー」と形容されるくらい、今に至るまで強烈な存在感を見せつけている。ところで、一見すると、同じスキャロップド2)・ストラトキャスター+シングルコイルピックアップ+マーシャルアンプの組み合わせだけれど、リッチー・ブラックモアの音とイングヴェイの音って随分違う。リッチーがガラスを引っ掻くようなキーキーした若干耳障りな音で、ソロの音程も不安定に揺れる傾向があるのに比べて、イングヴェイはよりスムーズで艶のある美しいオーバードライブサウンドで、音程も寸分の狂いもなく安定している。

1 イングヴェイ好きな人は、ステージ衣装も彼と同じような、中世的黒っぽいコーディネートの人が多い気がする。アルカトラスで言えば、グラハム・ボネットも個性派だった。リーゼントでグラサンでスーツって。今でもHR/HM界の横山やすしとして記憶されている。
2 フレットとフレットの間が浅いU字型に抉られたネック。リッチー・ブラックモアとイングヴェイが愛用しているので、これを使うと早く弾けるような気がするが、彼ら二人以外で使っている人を見たことがない。

内向型人間のすごい力

スーザン・ケイン著 古草秀子訳 (講談社)

アメリカ系企業は、研修(トレーニング)それも「インタラクティブ」な研修が大好きである。外資系企業で働いたことのある人の多くが経験しているはずだ。研修のオープニングの挨拶で講師が必ずと言っていいほど「今日のトレーニングはできるだけインタラクティブにしたいと思ってます」などと言う。つまりは一方的にレクチャーするだけでなく、皆さんからも活発に意見、コメントを出してくださいね、ということだ。その結果、講師から基本的な説明・解説を聞く以上の時間を、同僚の愚にもつかない感想やら意見やらを聞くのに費やす羽目になる。

本書にもある通り、アメリカ社会では、「外向的」(Extrovert) であることが高く評価される。他人よりもよく喋り意見を述べ、多くの人と一緒に何かをしようとする人がリーダーシップがあると見なされる。喋る内容は問題でなく、喋ることそのものが重要である。一方、日本を含むアジアでは必ずしもそうではない。口数ばかり多いやつは馬鹿だと思われるし人望も得られない1)。賢い人ほど普段は物静かなものだ。弱い犬ほどよく吠える、言葉多きは品少なしと言うではないか。

本書によれば、実はアメリカ人にも「外向的」であるのが苦手な人も少なくない。みんなと一緒にではなく、一人でじっくり考えて物事をすすめたいタイプも多い。それなのに、世間の評価を得るために、みんな無理して「外向的」を装わざるをえないのだ。著者もそういう無理をしてきた自分を振り返って、「内向的」だっていいじゃないか、世の中を変えるような意義のあることを成し遂げた人々の多くも「内向的」だったじゃないか、と言うのである。

アメリカのIT企業では、ここのところDiversity & Inclusionの掛け声とともに、人種、性別、性的指向など様々なタイプがそれぞれに自分らしく活躍できる職場をつくろうという活動が活発になっている。だが、この外向的・内向的という個性については相変わらず単一の価値を押し付けていて残念なことだ。著者のTED Talkは本書の内容が簡潔にまとまっている。

1 こういう価値観が、シリコンバレーのアジア系移民・留学生が多い一部の高校にも最近では見られるという本書の指摘は面白い。

文豪の女遍歴

 小谷野敦 著(幻冬舎)

多くの人にとって、いわゆる文学作品との最初の出会いは、学校教科書であろう。ゆえに小学生、中学生の頭には「文豪」=「立派な人」といった刷り込みが起こる。立派であるからには、皆の手本となるような生涯だったのだろうと無邪気に思いこむ。結果、国語の教科書に出て来るような作品というのは、立派な人が書いた大して面白くもないお話、ということになるのである。

しかしながら、昔の作家、文士なんてものは、その実態といえば、どこかおかしい人であって、その多くは世間様に顔向けできないような退廃、懶惰、奔放、怠惰、狡猾、荒唐、不合理を宿命的にその身体に抱え込んでいる。異性関係(同性愛の場合ももちろんあるが)などその最たるものであって、本書に登場する有名作家は、爛れたダラシのないエピソードには事欠かない。昔は世間も、作家がそうあることを許容していたように思う。昭和の俳優や歌手、漫才師や噺家が、プライベートでは「おかしな人」あるいは「困った人」であることも含めて世間に受け入れられていた1)のと同じことが作家にもあてはまった時代があったのだ。

こういう背景を知ってみると、子供の頃あれほど退屈だった文学作品が急に生気を帯びてくる。自らの実体験を下敷きにしている、実在のモデルがいるとなると、生身の人間のニオイがしてくるようで、作品への興味と食いつきがまるで変わってくるのである。

1 今ではこの種の芸能人はほとんど絶滅危惧種である。というか世間的に許されなくなってしまった。

Still Got the Blues (Gary Moore)

ゲイリー・ムーアは、日本で「人間国宝」1)とまで賞賛され愛されたギタリストだ。弦を引きちぎらんばかりのハードピッキングから繰り出される速弾きと、ゆったりと悲しく響く「泣き」のフレーズの組み合わせは世界中のギター少年を夢中にさせた2)。初期のフュージョン寄りのテクニカルな音楽からThin Lizzyを経てハードロックの王道を歩んでいた彼が、自らのルーツと語るブルーズのアルバムを出したのが1990年。「Still Got the Blues」はアルバム・タイトルにもなっている代表曲である。

このアルバムが発売された頃、ニューヨークに駐在していた僕は Beacon Theatreでのライブを見に行った。二階のバルコニーの最前列。秋の落ち葉のようなレモン・イエローに退色したレスポールの音色は官能的なまでに美しかった。ハードロックよりも抑えられた音量3)とシンプルなバックのおかげで、彼のギターがより際立ち心を鷲掴みにされる。たしかアンコール前の最後の曲として「Still Got the Blues」がプレイされた時、気づいたら涙ぐんでた4)。コンサートで泣いたなんて後にも先にもこのときだけだ。

BBキングやエリック・クラプトンの例をひくまでもなく、ブルーズギタリストの多くは自ら歌う。声とギターが境目なく繋がって行ったり来たりする。よくメロディアスなギタリストを評して「ギターが歌う」などと表現するが、ブルーズの達人たちにとってギターは歌の一部であり、歌はギターの一部なのだ。ゲイリー・ムーアもまさにギターとボーカルが一体となって魂が響くような音楽を聞かせてくれる。

1 © 伊藤政則 実にしっくりくる形容だと思う。
2 彼のアイルランド・ルーツとアジアの演歌的な泣きの音階との相性がよいためか、アジアのギターキッズからの絶大な支持があったように思う。ソウル、バンコク、バリのライブハウスでゲイリー・ムーアのコピーバンドが演奏しているのを見たことがある。
3 それでもBBキングから「音がでかすぎる」とからかわれていた。
4 後半のソロ(アウトロ)の真ん中くらいでフロントピックアップからリアピックアップに切り替えるところがあって、そこで涙腺が決壊した。優しく歌うような前半から、叫ぶようなエッジの効いた音に切り替わるところ。

Georgy Porgy (TOTO)

TOTOを初めて聞いたのは多分高校2年か3年の頃だったと思う。エレキギター1)を買って友達とロックバンドを組んだ頃だ。最初は初期のハウンドドッグとか甲斐バンドあたりのコピーから入った。そのうちギタリスト中心に洋モノバンドを物色し始めた頃に聞いたのではなかったか。

「Georgy Porgy」は、1978年発売のファーストアルバム2)の3曲めに入っている。ギター少年としては急速にハードロックに傾倒しつつあった頃なので、妙にジャズっぽいというかR&Bっぽいというか、なよなよした感じが嫌いで、アルバムを聞くときはこの曲を必ず飛ばしていた3)。そうでなくとも、なんせこのファーストアルバムにはロックチューンの名曲がそろっている。1曲めのインスト「Child’s Anthem」から、今でもTOTOのライブで頻繁に演奏される「I’ll Supply the Love」「Girl Good-bye」「Hold the Line」とくれば、そっちを練習するのに精一杯。ギター少年にとって「Georgy Porgy」が退屈だったのも仕方がないと言えよう。

ところが、ずいぶん経って、92年に発売された「LIVE」というコンサートビデオ4)に収録されたバージョンを見て腰を抜かした。格好いいのだ、これが。リズム裏打ちで始まるオープニングからDavid Paichのソロっぽいイントロ、Steve Lukatherのヴォーカルも迫力がある。ギターソロもスライド・バーを使わずによりロックっぽいアプローチで弾いている。早速Valley Artsのストラト(もちろんルカサーモデル)で真似して弾き始めたりして、そこから急にお気に入りリストに不動の位置を占めるようになったのだった。速弾き原理主義にのめり込んでいたギターおたくが少しだけ大人になった瞬間である。今ではアルバムのオリジナルアレンジもいいなぁ、などと思っている。

 

1 トーカイの赤いストラトキャスターのコピーモデル、たしか4万5千円。
2 オリジナルのアルバム・タイトルは「TOTO」だが、邦題として「宇宙の騎士」というふざけた名前がついている。アルバムには「宇宙」も「騎士」も全く関係ない。多分、ジャケットの紋章からの連想なのだろう。この頃は洋楽に妙な日本語タイトルがついているのはごくあたりまえだった。
3 もちろんカセットテープを早送りする。
4 90年の PAST TO PRESENT ツアー、パリ公演の模様を収録したライヴ映像。このときのVoは第4代のジャン・ミッシェル・バイロンだが、全くバンドにフィットせずあっという間にいなくなった。「LIVE」の編集でも(その後のTOTOの歴史でも)、あたかも存在しなかった人のように扱われている。