小谷野敦 著(幻冬舎)
多くの人にとって、いわゆる文学作品との最初の出会いは、学校教科書であろう。ゆえに小学生、中学生の頭には「文豪」=「立派な人」といった刷り込みが起こる。立派であるからには、皆の手本となるような生涯だったのだろうと無邪気に思いこむ。結果、国語の教科書に出て来るような作品というのは、立派な人が書いた大して面白くもないお話、ということになるのである。
しかしながら、昔の作家、文士なんてものは、その実態といえば、どこかおかしい人であって、その多くは世間様に顔向けできないような退廃、懶惰、奔放、怠惰、狡猾、荒唐、不合理を宿命的にその身体に抱え込んでいる。異性関係(同性愛の場合ももちろんあるが)などその最たるものであって、本書に登場する有名作家は、爛れたダラシのないエピソードには事欠かない。昔は世間も、作家がそうあることを許容していたように思う。昭和の俳優や歌手、漫才師や噺家が、プライベートでは「おかしな人」あるいは「困った人」であることも含めて世間に受け入れられていた1)のと同じことが作家にもあてはまった時代があったのだ。
こういう背景を知ってみると、子供の頃あれほど退屈だった文学作品が急に生気を帯びてくる。自らの実体験を下敷きにしている、実在のモデルがいるとなると、生身の人間のニオイがしてくるようで、作品への興味と食いつきがまるで変わってくるのである。
↑1 | 今ではこの種の芸能人はほとんど絶滅危惧種である。というか世間的に許されなくなってしまった。 |