レ・ミゼラブル

子供の頃から長い間、ミュージカルに無関心というより積極的に敬遠してきた。大げさな衣装とメイク、大仰な振り付けとヘンに物語調の歌詞。あんな気恥ずかしいものを見るヤツの気がしれぬ、と思っていた。

ところが、20代の終わりにニューヨーク・ブロードウェイで「レ・ミゼラブル」を見て、うわ、何だこれ、すごい!と目からうろこが落ちた。ごっそりと落ちた。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」1)(Les Misérables)を原作に、キャメロン・マッキントッシュが制作、クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルのコンビが作曲・作詞を手がけた傑作ミュージカルだ2)。ちなみに、2012年にヒュー・ジャックマンが主演した映画「レ・ミゼラブル」は、オープニングの設定など細かいところに多少の違いはあるが、このミュージカルの映画版である。

物語の主人公は、ジャン・バルジャン。19年の服役から仮釈放されたものの、前科者として世間から受ける冷たい仕打ちに耐えかねて、彼は教会から銀の食器を盗んでしまう。再び憲兵に捕らえられるが、教会の司教は「食器は彼に与えたものだ」と嘘をついて庇い、さらに2本の銀の燭台も彼に与え「この銀の燭台であなたの魂を神のために買ったのです」と諭す。バルジャンは司祭の気持ちに打たれ、真人間として生きていくことを決意する。そのバルジャンを執拗に追うジャヴェール警部。そこに、フォンティーヌ、その娘コゼット、テナルディエ夫妻とその娘エポニーヌ、マリウスや社会正義に燃えて革命に立ち上がろうとする若い貴族達が交差し、人が生きる意味、愛、情熱、階級と社会、成功と没落、神との対話など深淵なテーマを扱う大河のごとき物語が展開する。ユゴーの原作は、あまりに長く、飽きずに読み通すのは至難の業だと思うけれど、ミュージカルはそのエッセンスをうまく抽出して全く飽きさせない。

舞台装置やその転換の妙、演出の巧みさなど語ればキリがないけれど、何よりも素晴らしいのはその楽曲だ。メロディのシンプルな美しさは見事で、いくつかの共通のモチーフが、まったく異なるシーンで、調やアレンジを変えて何度も現れ、全体の統一感と変化をうまくバランスさせ、場面の意味づけを際立たせる。

94年にブロードウェイで初めて見てから、ブロードウェイで15回以上、ロンドンで5、6回、日本で1回、合わせて20数回はこのミュージカルを見たことになる。これだけ繰り返し見ても、全く飽きることがない。ほぼ全編諳んじて歌えるくらい全ての場面を詳細に覚えているにもかかわらず、いまだに、見ていると何度かじわっと涙ぐむ。まさにパブロフの犬である。あるシーンになると決まって涙が溢れて舞台が霞んで見える。メロドラマを見て毎度毎度泣くおばさんをバカにしてきたが、人のことは笑えない。涙をながすこと、とりわけ自分のことでなく他人のことで涙を流すというのは、経験してみると、なかなかに気持ちのよいものだということがわかる。

好みで言えば、ロンドン公演のほうがブロードウェイ公演よりもよいと思う。ブロードウェイでは、細かな演出や出演者の演じ方・歌い方が、なんというかアメリカ的にストレートすぎて翳がない3)。やはり原作がフランスの物語だけあって、ヨーロッパがその歴史の中で宿命的に抱え込んだ屈折や暗さがこのミュージカルには欠かせない薬味になっていて、ロンドン公演の出演者や演出は、その効き具合が絶妙である4)

1 古くは黒岩涙香の「あゝ無情」の翻案で認知されていたように思うが、最近はすべてこのカタカナ書きになっている。
2 英語版の制作より前に1980年に原型となるミュージカルがパリで初演されているようだ。ロンドン・ウェストエンドでは85年に初演、ニューヨーク・ブロードウェイが87年。
3 同じ制作陣がつくった「ミス・サイゴン」はベトナム戦争をテーマにした物語のせいか、ブロードウェイのほうが良かった。こちらも楽曲が素晴らしい。
4 2012年の映画版はヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウというオーストラリアの二大スターをキャスティングしている。本格的に歌える俳優の選択肢が限られるということもあるだろうけれど、英連邦出身の役者を使ったところは興味深い。