されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間

されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間

鈴木大介著(講談社)

41歳で脳梗塞に倒れた著者は、後遺症として高次脳機能障害を負う。その経緯、症状、当事者の気持ちや気付きについては、「脳が壊れた」(新潮社)に詳しい。高次脳機能障害については、小室哲哉さんの奥さんKEIKOさんが患っていることから、彼の引退会見で急速に世間の認知が高まっているように見える。

本書では、高次脳機能障害と発達障害は非常に似ているのではないか、と気づいた著者が、発達障害の奥さん「お妻様」をより深く正確に理解してゆく過程、個性を愛し尊重し、家庭を立て直していく様子が描かれている。

嗚呼、身をもって理解した。単に不自然な感じとか不器用とか空気読めないとか黙り込むとか泣き出すとか、そんな当事者の背後には、こんな苦しさがあったんだ。不自由なことと苦しいことが同じだと、僕は知らなかった。

「ようやくあたしの気持ちがわかったか」

「わかったけど、これはちょっと苦しすぎます」

でも、なぜ苦しいのか、なぜやれないのかがわかれば、どうすれば楽になれるのか、どうすればやれるようになるのかもわかる。発達障害妻&高次脳夫。お互いの障害を見つめつつ、我が家の大改革が始まったのだった。(第三章 まずお妻様が倒れ、そして僕も倒れる)

脳梗塞に倒れる前から、発達障害に苦しむ人々を取材対象としてきた著者でさえ、相手の苦しさ、生きにくさを本当にはわかっていなかった、という告白は、それが後天的であれ先天的であれ、高次脳機能の障害を理解する難しさを物語る。誰しも、無意識に、自分にとっての「当たり前」を基準にして、考え、判断する。その「当たり前」が相手にとってはまったく「当たり前」ではないかもしれない、とまで思いをいたすのは相当に難しい。でも、いらいらしたり責めたりする前に、ちょっと立ち止まって、まてよ、と考える余裕を持つためには、本書はとてもよい入り口になるはずだ。

一度、死んでみましたが

book cover
神足裕司著(集英社)

高次脳機能障害。この言葉を知ったのはおよそ2年前。親しい人が事故で脳に損傷を受けて記憶などに障害が残った。脳梗塞の後で半身不随というのはよく見聞きするが、外からは見えにくい脳機能の障害にはなかなか思いがいたらない。

人気コラムニストの神足裕司は、2011年9月に広島から東京への機内で重いクモ膜下出血を起こす。生死の境を彷徨う重篤な状態だったが、何とか一命をとりとめた。要介護5の障害が残るも家族や友人に支えられつつリハビリ中とのこと。自分で体を動かすことができず、話すことができない。記憶が混濁したり、短期の記憶を保持できなかったりする。でも書くことはできるのだ。ここに高次脳機能障害の複雑な側面を見ることができる。話すことができなくても、書ける。カラオケで昔の歌も歌える。でも、書いたものを覚えていることは難しく、自分の書いたものを見て、その都度記憶を再構築せねばならない。健常者はまったく意識することなく行っている日々の当たり前のこと(会話する、食事する、買い物をする、電車に乗る等々)がいかに複雑な脳のマルチタスクを必要とするかに気付かされる。それらが一箇所でも不具合を起こすと、当たり前は当たり前でなくなるのだ。

前にも書いたかもしれないが、ボクは何もわからないのではない。みんなの言っていることは、理解しているつもりだ。健常者に比べれば、ヘンなところがあるかもしれない。だが、すぐに思っていることが話せないだけだ。話したくても、言葉が出ない。病気になった人間には一人ひとりに人格があって、当たり前のことだけど、生きている。言葉は出なくても、しゃべれなくても、待っていてほしい。待てない人は、早合点しないで、そのままにしておいてほしい。先回りして何かを、「こうですよね!」なんて、勝手に決めてほしくない。(p.107 第2章 リハビリの日常)

エッセイで書かれる著者の等身大の日常に、僕らが普段の生活では気づかない視点をもらい、垣間見える家族の絆に温かな気持ちになる。彼にとって書き続けることがすなわち生きること。その足跡は本書だけでなく、いくつかのWeb媒体でも追いかけることができる。

コータリさんからの手紙(みんなの介護)

コータリンは要介護5(朝日新聞)

神足裕司 車椅子からのVRコラム(PANORA)