そして彼は途方に暮れる(遠距離通勤2)

日本橋に勤めていた頃のこと。同じ部に新幹線通勤の先輩がいた。栃木県那須塩原のリゾート地から東北新幹線で東京駅までおよそ70分。新幹線ならすし詰め満員ということもなく、往復ともにゆったりと座れる。会社から東京駅までは歩いて5、6分とくればなかなか優雅なライフスタイルであった。考えられる弱点といえば、3ヶ月で35万円超の定期券を酔っ払って失くしたりしないか、くらいだったと思う1)

当時、僕は日本橋から銀座線で上野、上野から宇都宮線に乗り換えるルートで帰宅していた。銀座線上野駅からJR上野駅へはそれなりに歩く上、通路が狭い。普段はまぁ仕方がないとしても、飲み会の帰りなどはこの乗り換えがとても億劫になる。そういうときは、東京駅から大宮(埼玉県)まで一気に新幹線に乗ってしまう2)。電車賃はかかるけれど、二次会、三次会へ行ったと思えばお釣りが来るくらいだし、大宮から先の在来線は混雑も緩和されているので、一石二鳥なのである。

ある晩、飲み会からの帰りみち、ほろ酔い加減でひとり東京駅の新幹線ホームを歩いていると、後ろから件の先輩に声をかけられた。偶然帰りのタイミングが一緒になったようだ。そこで二人で缶ビールを買い、新幹線に乗り込む。発車間際だったが、運良く並びの席に座ることができ、ビールを飲みながら他愛もない話をしているうち、あっという間に大宮に到着。お疲れ様でした~なんて言いつつ、僕は新幹線を降りて、ホームから先輩を見送って、在来線に乗り換えた。

僕が降りた後、先輩はいつものように那須塩原まで一眠りしようと目を閉じたそうだ。習慣というのは大したもので、およそ40分後にちゃんと目が覚めたものの、なにか違和感がある。ふと窓の外を見ると、新幹線はちょうど軽井沢駅に滑り込んだところだった。我々は東北新幹線ではなく、上越新幹線に乗っていたため、彼は栃木県那須塩原ではなく、長野県軽井沢に運ばれてしまったのであった3)。新幹線通勤には、乗り間違えたり乗り越したりすると、数十キロから数百キロ単位で豪快にワープしてしまうという弱点があったのだ。

1 当時はまだSuica定期券はなくて、定期を失くした場合、再発行の手段はなく、買い直すしかなかった。
2 在来線は上野止まりだったが、東北・上越新幹線は東京まで乗り入れていた。
3 どちらも大宮まで来て、そこから北と西に分かれて進む。

遠距離通勤

遠距離・長時間通勤については、ちょっとしたエキスパートを名乗ってもよいのではないかと思う。高校、大学と7年間、就職してからも結婚するまで8年くらい、都合15年くらい遠距離を通学・通勤していた。ここでいう長距離というのは、往復3時間以上のことである。NHKの2015年の調査1)によると、東京圏の平均通勤時間は往復1時間45分なので、平均の倍近く、ということになる。

たとえば、片道1時間半、と聞くと、「うわ、遠っ!なんでそんなとこから通ってんの?」という反応をされることが多かったが、そのうちまとまった60分ちかくを座わっていられるのなら、実はそれほど大変でもないのだ。それどころか、この1時間の移動タイムが大切な読書時間になる。経済学者の野口悠紀雄先生もツイッターで「通勤電車は独学のための最高の環境。他にすることがないので、勉強に集中できる。(後略)」とつぶやいている。

実際、一日の中で都合2時間、集中して読書する時間を確保するのは意外と難しい。10数年前に、通勤時間が30分弱に短縮されたときは、体力的に確かにラクにはなったけれど、読書時間が急減して「知的インプット」みたいなものがガタ落ちし、精神的にはかえって落ち着かなくなった。高校、大学、社会人と充実した読書習慣を継続できたのは、遠距離通学・通勤のおかげだったとも言える。ただし、たとえ座れたとしても、実際に「集中できる」環境かどうかは注意が必要だ。あなたの集中を妨げる伏兵は、いろんなところに潜んでいる。

朝の車内は静かだ。みな無言で、働けど働けどわが暮らし楽にならず、とじっと手、でなくスマホを見つめている2)。問題は帰り、夕刻である。そう、必ず酔っ払いがいる。山手線や私鉄では、夜遅い時間にならない限りあまりみかけないけれど、中・遠距離の列車には、どういうわけか、夕方4時頃でもかならず酔っぱらいがいた。僕が高校、大学の頃は、上野発の宇都宮線・高崎線の電車3)はどこか牧歌的で、上野駅で出発を待っている時点から、車内はすでにカップ酒とスルメイカのニオイが満ちていた。電車が移動酒場になっていたのである。

静かなひとり酒なら良いのだが、ご機嫌で仲間と放談するサラリーマンの二人連れ、三人連れになると相当に鬱陶しい。酔っ払って寝ててくれればよいかというと、それもまたケースバイケースで、酒のニオイと加齢臭がムンムンにミックスされたおっさんが、だらしなく正体をなくしてもたれかかってきたりすると、神仏はなにゆえ私にこのような試練を与えるのだろうかと世をはかなみたくなる。

夜が深くなって終電が近づくと、ものすごく混む上に、飲みすぎて青い顔をした人がちらほら出てくる。時折ひくっとカラダを震わせていたり、生気なく中空の一点をぼーっと見つめていたりすると、相当にヤバい兆候で、速やかに半径3メートル圏外に脱出しないと、甚大な災害に巻き込まれる恐れがある。もちろん自分が泥酔してそういう時限装置付き危険人物になる場合もある。中長距離列車のよいところは、数両にひとつトイレ付きの車両があることで、トイレのそばに乗っていると多少安心できた。まぁ、もちろんそんなときは、集中して読書どころではなく、乗り越さずにちゃんと自分の駅で降りるのが最大のミッションなのだが。

1 「東京圏の生活時間・大阪圏の生活時間」
2 昔はスポーツ新聞や週刊誌のエロページを見つめているおっさんも沢山いた。今思うと、朝からパブリックな場で何をやっていたのかと思う。
3 その頃、まだ今のように東海道線とはつながっておらず、全て上野発着であった。