人間はどこまで耐えられるのか

Front coverフランセス・アッシュクロフト 著 矢羽野 薫 訳 河出文庫(河出書房)

ヒトは上下方向の移動に弱い。エベレストの更に上空を楽々と飛ぶ渡り鳥がいたり、数千メートルを簡単に潜るクジラがいたりするが、ヒトが(何の装備もなく)そんなことをすれば即死である。ヒトの体は、1気圧、21%の酸素の大気の中で生活するようにできており、圧力の変化に柔軟に対応できない。高地においては、圧力の変化は、酸素の取り込み効率に直結する。高度が上がるほど、気圧が下がり、それに伴って酸素分圧も下がり、肺に酸素を取り込みにくくなる。酸素が取り込めなければ運動能力は極端に落ちる。深く潜れば、血中の窒素ガスの状態に変化が生じ、急に浮上すると血液中で窒素が気泡となってからだは深刻なダメージを受ける。

標高7000メートルでは、 海抜ゼロメートルに比べて体の動きは4割以下に落ちる。(中略)1952年にレイモンド・ランバートとテンジン・ノルゲイがエベレストのサウスコルを登ったときは、わずか200メートルに5時間半かかった。ラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラーは山頂が近づくにつれて、疲労のあまり数歩ごとに雪の中に倒れ込み、最後の100メートルに1時間かかった。(第一章どのくらい高く登れるのか)

登山(とくに3000メートル以上の高高度)に、入念な準備と慎重な判断が必要とされるのも当然と言える。平地と同じ運動能力や判断力を期待できないところに、厳しい気象条件がのしかかってくるわけだから。調べてみると富士山でも少なからずの遭難事故が毎年起きている。手軽な登山と思ってしまうかもしれないけれど、3,700メートルまで行くならしっかりした準備と知識が必要ということだろう。

ドキュメント 気象遭難

羽根田治著(ヤマケイ文庫・山と渓谷社)

ここで言う気象遭難とは、山での気象現象が直接的・間接的な原因となっている遭難事故を指しており、新旧の遭難事故7件を検証している。遭難した状況は様々であっても、いずれも後から検証してみると「ここで判断を誤った」というポイントがあるものだ。登山をしない自分から見ても、そのポイントの多くは、「え~、何でそんなことしちゃうかなぁ?」などと、他人事のように思うものは皆無。自分がその場にいれば間違いなく同じ轍を踏んだであろうものばかりで、肝が冷える。日常の延長にあるハイキングのレベル1)であっても、遭難は起きうるのだ。

悪天候下の山には必ず越えてはならない一線があるということだ。天気が多少悪くても、「 これぐらいの天気なら」と判断して行動を続けていると、必ずどこかで一線を越えてしまう ことがある。

(中略)

たぶん、その判断を下そうとするときには少なからず躊躇するはずで ある。だが、躊躇するということは、もう一線を越えようとしているところにいると思ったほうがいい。(初版あとがき)

都市生活者が生存のためにシビアな状況判断を要求されることはまずない。(そういった判断をしなくてよいように出来上がってきたのが都市だとも言える。)雨の天気予報だったのに雨具を持っていかずに濡れたからといって、生命の危険に結びつくことなどない。でも、もし山で濡れて風に吹かれれば、容易に低体温症を起こし、生死に直結し得る。都市の安全・安心・利便は、何重かのバリアで自然環境から命を隔離し、守ることと同義だ2)。それだけに、山で要求されるシビアな判断力は、都市での日常をすごしていて身につくものではないだろう。

そういったシビアな判断力を持つべきだと考えるか、あるいは必要なライフスタイルかは個々の問題だとして、バリアの中にいながらにして、剥き出しの自然の厳しさを垣間見る思いがした。シリーズで「道迷い遭難」「滑落遭難」(いずれも本書と同じ著者)も出版されている。

1 例えば尾瀬や日光までクルマで行って、ついでに軽装でちょっとそのへんの山に登ってみるというような。
2 登山など厳しい自然に身を置くことは、このバリアをはずすスリルだ言える。