捨てたもの記録:Tシャツ

ジャケットとかジーンズとかならば、買い替え時、捨て時を認識することができる。破けたとか、時代遅れになったとか、まぁ納得のできる理由がある。でも、下着類、つまりTシャツとかパンツ1)、靴下の買い替え時となると見当もつかない。これは僕だけの問題ではなく、おそらく男性はみなわからないのではないか。

そもそも、そういった衣類について「買い替える」という発想がない。洗えば洗うほど肌に馴染み、着心地がよくなる。Tシャツであれば襟や裾がほつれてダルダルになったとしても、着心地の良さは変わらない。なんならさらに良くなっているくらいである。どうせ人から見えるものでもなし、せっかく馴染んだものを買い替える理由などない。靴下だって、さすがに親指あたりに大穴が開けば、人前で靴を脱ぐ時に恥ずかしいな、という気持ちになるが、かかとがすり減ってシースルーになっているくらいであれば、気にならないどころか、むしろ通気性が上がったくらいに思っている。パンツだって事情はまったく同じだ。

ところが女性の目は、この手の老朽化あるいは劣化を決して見逃さない。家人も、洗濯のたびに目ざとく発見しては捨てろ、買い換えろと迫る。自分に替え時を判断する目がない以上、ここは素直に従うほかはない。はーいと機嫌よく返事をして、小さなビニール袋に詰めて燃えるゴミの日に出す2)。言われなければ捨てないくせに、捨てたら捨てたで、おお、断捨離だ!などと言って喜んでいるので、今度は代替分をいつまでも購入しない。結果、洗濯と着用の自転車操業状態となり、出張にいくときなど、数が足りずに空港で買い足すというハメに陥る。

うろ覚えだが、ムツゴロウさんこと畑正憲が昔、着るものなんて、夏冬の切り替え時に、ヤドカリが住処の貝を取り替えるように、ぜんぶ捨てて総とっかえすれば面倒がなくてよい、と書いていたが、いいアイディアかもしれぬ。中崎タツヤも「もたない男」の中で、同じものを何枚か買って着回して、着なくなったら捨てる、書いている3)。こういう思い切りのよさに憧れつつも、まだその境地には至っていない。

ところで、衣類乾燥機のフィルターに、毎度毎度たっぷりと綿ボコリがつく。何度洗濯してもその量はまったく減る気配がなく、毎回同じくらいの量がとれる。同じシャツが何十回、場合によっては何百回洗濯されるのかわからないが、ひょっとするとTシャツ数枚、靴下数足が、知らない間に綿ボコリとなって忽然と消えていたとしても驚かない。そのくらいには十分な量である。

1 ここでの「パンツ」はトランクスあるいはブリーフといった下着のこと。ズボンのことではない。
2 見せるほどのものでもないので、写真は自粛。
3 「もたない男」(新潮文庫)「第三章 もたない生活」   マザー・テレサのようにできれば2枚だけでやっていきたいそうだ。

捨てたもの記録:ノートPC

これまで何台のPCを購入してきただろうか。仕事柄、世間一般の人より多いかもしれない。最初に購入したのは、東芝の初代 Dynabook(J-3100SS)だった。まだWindows 3.1が出る前、MS-DOSの時代で、A4サイズの大きさで価格は20万円をわずかに切るくらい。サイズも価格も当時としてはかなり意欲的だった。

会社では、ワープロ(専用機)は一人一台に近かったが、PCはまだ実験的に導入されるかどうか、といったタイミングで部署に一台1)くらいだったと思う。そんな状況だったので、私物ではあったけれど、会社に持っていって、ワープロ代わりに活用したりしていた。その後、Windows 95が出たくらいから、会社にあるPCが少しずつ増えていった。同時に、出版の世界では、DTP(デスクトップパブリッシング)という言葉が、あちこちで聞かれるようになり、それとともにマッキントッシュも社内でちらほらと見かけるようになった。とはいえ、社内のPCがネットワークで接続されて、電子メールが仕事の中心的なツールとなるのはもう少し先の話だ。

98年に大手IT企業に転職すると、一転して最新型のPCが社内・社外ともに高速なネットワークで接続された最先端の仕事環境になった。最新バージョンのWindowsやOfficeアプリケーションをフル活用すれば「生産性」がこんなに上がるのだ、と世間にアピールする必要もあって、常に最新のハイスペックなPCを会社で使っていたため、家で使う個人用のPCを買うときも、同じようにスペックの高いPCでないとどうにも気持ちが悪く、結果として割高な機種ばかりを購入していたように思う。

写真は、IBMのThinkPad TシリーズとSonyのVAIO Zタイプ。もうずいぶん前に引退させて倉庫の肥やしになっていたものを今回処分することにした。どちらも、比較的スリムで軽く、高性能だったが、30万円近くしたはずだ。それでも、だいたい3年から4年くらいで、処理速度が遅くなったり、故障2)したりして、買い換えることになる。今は、当時よりPCの値段はさらに下がったとは言え、ちょっとスペックの良いものを買おうとすると、それでも20万オーバーは覚悟する必要がある。いまどき、20万円もする家電、それも数年で買い換えねばならない家電なんてめったにない。55型の最新型4Kテレビだって15万くらいだ。パソコン黎明期の価格を知っているから、安くなったものだなどと呑気に思っているが、PCはまだ相当高価な道具である。

1 これじゃ「パーソナル・コンピュータ」じゃなくて「パブリック・コンピュータ」(略してパブコン)だねと笑っていた。
2 ThinkPadはどういうわけかディスプレイがよく故障した。

捨てたもの記録:老眼鏡

子供の頃から視力は抜群で、40になるくらいまでは健康診断でも2.0を維持していたような記憶がある。近くも遠くも、ものを見るのに苦労しないどころか、およそどんなものも常にくっきりはっきり見えていた。ところが、41、2になって、近くのものが見えにくくなり、ときおり目がかすむようになってきた。PCの使いすぎから来る眼精疲労による頭痛や肩こりもひどかったので、眼科に行ってみたところ「立派な老眼です」と、おごそかにご託宣を賜ったのであった。

この赤みがかったフレームの老眼鏡は2本めに購入したもの。1本目ははじめてのメガネ、ということでちょっと奮発して高価なものを買ったため、もう少し安価な、会社のデスクに置きっぱなしにしておけるものを、と量販店で購入した。ところがこれがぜんぜんダメで、くっきり見えるわけでもなく、文字は歪むし頭痛はするしでほとんど出番がない。最初に買った方ばかりを使い、こちらは長いことメガネ立ての中に放置されていたのだが、今回処分することにした。

子供の頃、祖母や親戚の家の小物置き場に、同じようなメガネがいくつも置いてあるのをみて、メガネなんて一本あれば十分やんと不思議に思っていた。あほちゃうか、とまで思っていた。今、気がつくと自分のデスクの小物入れに3本ほど老眼鏡が立っている。メガネというのは、けっこう微妙な調整が必要なシロモノで、ぴったり合うものを作るのが意外と難しいこと、さらに目の方の状態が年とともに変化して、ときどき作り直す必要が出てくることなど、子供の頃にはまったく想像すらできなかった。若さと健康は、しばしばとても傲慢なのだ。当時の自分に、おまえもそのうち何本もメガネ買うんやで、と教えてやりたい。