珈琲三昧

ここ数ヶ月、外から戻って家のドアを開けると、喫茶店のような匂いがするのに気づく。朝晩二回、週末は三回、珈琲豆を挽いて、ハンドドリップで淹れるようになったからだ。もともと珈琲好きではあるけれど、3月に「コーヒーの科学」という本を読んでから、単に「飲む」以上の興味を持つようになった。

最初はお店で豆を挽いてもらっていたけれど、どんな参考書にも「淹れる直前に挽くのが最も美味しい」と書いてある。そこで手回し式のミルでゴリゴリと挽きはじめたのだが、相当な手間と時間がかかり、気分をリラックスさせるはずのコーヒータイムが苦行になってしまいそうだったので、カリタの「ナイスカットミルG」という文明の利器を導入した。これが大正解で、電動であっという間に挽ける上、精度が高くて粒子が揃っており、手挽きに比べるといわゆる「雑味」が飛躍的に軽減された。挽く細かさもダイヤルをひねるだけで自在に変えられるので、豆のロースト具合に応じて、あるいは、ホットとアイスに応じて最適な状態を選べる。今では、台所でガスコンロと並んで「利用頻度の高い」機器第一位に君臨している。

最もお気に入りの豆は、今のところ、ホライズンラボ(Horizon Labo)のもの。岩野響さんという若き焙煎士が、毎月テーマを決めてローストする豆だ。深煎り好きの僕にはぴったりで、酸味の少ない深い味わいと苦味の中に、彼が毎月表現するテーマを感じとることができる。深さと苦さとまろやかさが同居するといえばいいのか、いわゆる「苦い」珈琲が苦手だという人にも楽しめる上質な美味しさだと思う。ほかに、渋谷・公園通り1)にあるマメヒコの「深煎り珈琲」(豆は札幌・「菊地珈琲」のものだそうです)や、猿田彦珈琲の「大吉ブレンド」もよい。

それにしても、これだけ毎日淹れていても、同じに淹れるということができない。毎回どこかが、少しずつ違う。豆の挽き方も、湯の温度も、落とすスピードも変えているつもりはないのだけれど、ある朝は、苦味が強めに出るし、ある晩には、全体にちょっとピンぼけみたいな雰囲気が漂う。絶妙なバランスで「完璧だ!」と自慢げにあごひげを撫でる日もあれば、気難しい料理人なら「こんなもの!」といって投げ捨ててしまうだろうな2)、と思う日もある。違ってしまう原因がわかればよいのだが、当人は何かを変えているつもりがないのだから困ってしまう。これが珈琲の面白さの一端でもあるのだろう。それでも、朝の珈琲が上手に入った日は、一日何事もうまくいくような気になるのだから、単純なものである。

自分で淹れるようになってから、外で飲むことが減った。お気に入りのカフェはともかくとして、レストランで食事の後に「ついで」に注文する珈琲より、家に帰って自分で淹れたほうがずっと美味しいのだから仕方がない。

1 本店は三軒茶屋にあるのだけど、僕は公園通りばかりに行く。渋谷・神山にもお店があったけれど残念ながら最近閉めてしまった。
2 別に気難しい料理人ではないので、そのまま飲む。それなりには美味い。

ホライズン・ラボ

ホライズン・ラボについて知ったのは、ジモコロというサイトのこの記事1)がきっかけだった。岩野響さんという15歳の焙煎士が立ち上げた珈琲ロースターで群馬県の桐生にある。北関東に行く機会があれば足を伸ばしてみようかな、なんて思っていたら、近頃のコーヒーブームも手伝ってかすごい人気だそうで、とても自分でコーヒーを淹れて提供する余裕がなく、喫茶店自体は閉め、ローストに専念しているそうな。そこで通信販売されている豆を購入してみた。

毎月、その月のイメージに合わせて豆を選びローストするのが彼のスタイル。4月のテーマは「新しい旅」2)

いつかの春の日に感じた香り、温度、味、情景などの記憶を連れて新しい旅に出る。そんなはじまりのそばに在るコーヒーをイメージし、焙煎しました。甘み、香り、酸味、苦みがバランスよく共存する味わいを作りました。

シティロースト(深煎り)のホンジュラス豆。淹れてみると、何よりまずコーヒー豆が新鮮。香りが良く何層かの味わいがバランス良く組み合わあされていて、深みと同時に抜けの良いコーヒーだった。このテーマを先に読んでから買っている(飲んでいる)ので、そういうものとしてこちらが理解しようとするのは避けられないけれど、それでも彼がテーマとして意図したことを、味わいから追体験できるのが面白い。

最近だと「メシ通」というサイトで、彼の焙煎の仕方を紹介している記事が掲載されている。

僕の場合、豆の状態や焙煎機の調子を見ながら調整を加えているので、時間や温度計というのはあまり当てにしていないんです。数値に頼るのでなく、香りや色や蒸気の出かたといった、その時々に豆から直接感じるものに重きを置いて焙煎をしている感じです。このことを他の焙煎士の方に言うと、「適当にやってるいるの?」と言われることもあるんですけれど、そういわけでもなくて。やり方が違うだけだと思います。

「やり方が違うだけだと思います」というのがとてもよい。5月のテーマは「痕跡」。豆が届くのが楽しみだ。

1 友光だんごさんというライター・編集者が書く記事は、大げさなところがなく誠実でよいものが多い。
2 このページの下の方に手書きの説明がある。