高度経済成長時代に建設された、いわゆる「ニュータウン」という大規模団地群で育ったせいか、みんな同じ、みんな平等、という感覚をごく自然に吸収しつつ大人になった。周囲はみな、ほぼ同じ間取りに住む、同じような家族構成の、同じような収入の家で、土地に根付いた古くからのシガラミもない。新しい街、近代的な明るい生活、といった空気が満ちた平和なコミュニティであった。経済的には、我が家はかなりつましい生活の家ではあったけれど、世の中の「一億総中流」の流れに乗って、カネのあるなしもそれほど意識させられることもなかった。
長じてからも、そうして刷り込まれた感覚はあまり変わらず、普段は概ね心安らかに暮らしているわけだが、年に数度、「階級」の壁に直面する。そう、国際線の飛行機である。ご存知の通り、飛行機にはあからさまに「階級」が設けられており、待遇が天と地ほどに違う。個人で遊びに行くならともかく、出張なんだからビジネスクラスに乗せてくれよと思うが、なんだかんだと様々な条件があって、10回に9回はエコノミークラスでチケットを手配することになる。青雲の志に燃えた若い頃は、エコノミー大いに結構、海外出張というだけで鼻息も荒く、勇んで出かけたものだが、慣れと老いとは恐ろしいもので、もはや飛行機の中で満足に眠ることもできなくなり、4時間以上のフライトはもう苦行であって、飛行機を降りた時点ですでに疲労困憊、もはや仕事をする体力も気力も残っていない。
ごくたまに、何度も利用するエアラインだったりすると、どういう加減か、チェックインカウンターあるいは搭乗ゲートで、ピンポーンという軽やかなチャイムとともにエアラインの制服を着たにこやかな女神が現れ、アップグレードチケットに交換してくれるという僥倖に恵まれる。でも、ほとんどの場合何も起きず、ないとわかっていながら毎度アップグレードを期待してしまう自分の浅ましさに自己嫌悪を抱きつつ、ドナドナと長い列の後ろに並んで、狭苦しくむさ苦しい最後部セクションに誘導されることになる。
ビジネスとエコノミーのあからさまな待遇差は、もちろん機内だけではない。預け入れ荷物の個数、チェックインの順番、ラウンジ利用の可不可。仕事の場合、ラウンジが使えないのはときに致命的で、一度、ロンドン・ヒースローで天候不順のために乗るはずだった飛行機がずるずると遅れ、結局7時間も空港内を電源とWifiを求めて彷徨うハメになったこともある。こういう目に遭うと、カネ払いの問題だとわかってはいても、おかしいやないか、不平等やないか、と階級闘争に目覚めそうになる。
最近では、やっとわずかに「諦め」という名の「悟り」をひらき、以前よりは心安らかに飛行機移動の時間を過ごせるようになった。コツは、機内食は原則食べない、無理に眠ろうとしない、ことだ。機内は、読書と映画と音楽と書き物の時間と決めて、ジタバタしない。なんだったら瞑想を加えてもいい。ジェイソン・ボーンのシリーズ4作1)を一気に見ようとして眼精疲労で寝込むといった失敗をしつつも、このコツを何度か繰り返すと、だんだんそれが身について馴染んでくる。面白いことに、機中をわざと空腹で過ごすと、到着後も体調が良く、時差ボケも軽く済むことが多い。
↑1 | スピンオフ的な位置づけの「ボーン・レガシー」(主演はマット・デイモンではなくジェレミー・レナー)を入れれば5作ある。 |