Miami 2017 (Billy Joel)

ビリー・ジョエルが世界的に売れたのは1977年発表のアルバム「ストレンジャー」からだが、これは彼の5枚目のアルバム。デビューは1971年のアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」1)まで遡る。

アルバム「ストレンジャー」が出た頃、僕はちょうど小学校から中学校にあがる頃だった。タイトル曲の哀愁を帯びた出だしや、やや放り出すように歌いつつも、力強くかつ繊細なヴォーカル。それまで日本の「ニューミュージック」ばかり聴いていた耳には、この都会的で垢抜けた音楽は鮮烈で、続く78年の「ニューヨーク52番街」、80年の「グラスハウス」と合わせ、それこそレコードが擦り切れるほど2)聴き込んだものだ。小学校の低学年の頃からずっとヤマハの「エレクトーン」を習っていたのだが、ああこんなことならピアノを習っておくんだった、と何度思ったことか。後年、実際にニューヨークを訪れたとき、ビリーの曲が自動的にBGMとして脳裏に流れたものだが、僕ら世代のニューヨークという都市へのイメージは、ほとんどビリー・ジョエルによって作られたと言ってよい。

「ストレンジャー」より前の4枚のアルバムについては、「ピアノ・マン」などいくつかのヒットを除いてはあまり聴く機会がなかったのだが、81年に初のライブ盤「ソングス・イン・ジ・アティック」(原題:Songs In The Attic)がリリースされる。これは「屋根裏に放り込んだ曲」という意味のアルバム・タイトル通り、すべてブレイク前の初期のアルバムから選曲されており、まだ聴いたことのなかった曲がいくつも入っていた。中でもこの「マイアミ2017」と「さよならハリウッド」の二曲は強烈なインパクトだった。

「マイアミ2017」(原題:Miami 2017 (Seen the Lights Go Out on Broadway))は、廃墟となったニューヨークを逃げ出してマイアミに移住した人が2017年に当時を振り返ってニューヨークが破壊されていった様子を語る、という歌。76年にリリースされた歌なので、40年後の未来から過去を振り返っている近未来SF的な設定だ。75年頃にニューヨーク市は財政破綻に瀕しており、そこからインスピレーションを得て作った曲だというが、彼の多くの曲同様、ニューヨークへの愛情に溢れている。あの頃の未来だった2017年はすでに過去となり、ニューヨークは相変わらずネオンを煌々と輝かせてますます健在である。

1 この「Cold Spring Harbor」が町の名前だと知ったのはずいぶんと後のことだ。ロングアイランド島北岸にある町の名前で、ビリー・ジョエルの故郷の近くらしい。ロングアイランド鉄道のポートジェファーソン支線に「Cold Spring Harbor」という駅がある。
2 CDはまだなかった。

アメリカの珈琲

僕がはじめてニューヨークに行った90年代初めに比べて、アメリカの珈琲はずいぶん美味しくなった。当時、オフィスやサンドイッチショップで出てくる珈琲は、薄くて香りはないも同然で、日本なら場末の定食屋で出てくる安っぽい出涸らしのお茶みたいな代物が多かった。今はスターバックスはそこら中にあり、独立系のカフェもあちらこちらで美味しい珈琲を出してくれる。

シリコンバレーではあちこちに「Peet’s Coffee」というカフェがあり、いい珈琲とちょっとした甘い物を楽しめる。新興のカフェチェーンなのかと思っていたがさにあらず。創業期のスターバックスがビジネスのモデルとしたお店で、創業者のアルフレッド・ピーツが最初のお店をだしたのが1966年、もう50年以上も前のことだ。オランダ生まれでコーヒー関係の仕事に馴染みのあったピーツさんは35歳のときにサンフランシスコにやってきて、アメリカのコーヒーのひどさにショックを受け、新鮮な深煎り豆をつかった濃くてリッチで美味い珈琲をアメリカに広めんとしてお店を開いた。全米で二百数十店舗あるようだが、二百近くをカリフォルニア州で展開しているので、カリフォルニアご当地コーヒーといってもよさそうである。スターバックスはエスプレッソをミルクで割るタイプのものはともかく、普通のブラック・コーヒーはあまり美味しいとは思えないのだが1)、ピーツは透明感を失わずに酸味の少ない深い味わいで僕の好みに合う。

ニューヨークのパークアベニューには、Felix Roasting Co.という美しいカフェがある2)。一歩中にはいると外の喧騒を完全に忘れるほど、落ち着いたヨーロッパ調のエレガントな空間が広がっている。これほど美しいカフェというのはなかなかお目にかかれないと思う。真ん中に円形にカウンターがしつらえてあり、その中でバリスタが一杯一杯珈琲を入れてくれる。こちらも深煎りでコクがあり日本の美味しいお店で飲む珈琲とまったく遜色はない。クロワッサンやペイストリーもガラスケースの中に凛として並んでいて実に美味しそうだ。

普段あまりに飲み慣れているものというのは、美味しいとか美味しくないとかを気にすることもなってしまうのはよくある話。日本でも、茶葉や湯に気を使って、美味しい日本茶を淹れて飲んでいる人はごくごく限られているだろう。アメリカの珈琲も同じだったのだ。今では当たり前になったペットボトルのお茶だって販売されるようになったのは1990年3)。それまではお茶を缶やペットボトルで飲みたい、という欲求すら意識することはなかったと思う。この例から類推するに、これからアメリカでも缶コーヒーが流行りだす日がくるのかもしれない。

1 スターバックスリザーブでは珈琲のロースティグと味わいに力を入れているようだが、どうなることか。
2 似たような名前のカフェやレストランがたくさんあるので検索するときは注意。
3 このサイトによると85年に伊藤園が缶入りの煎茶を出している。缶入り烏龍茶のほうがさらに早く81年。

困ったときのパンダ

出張の楽しみでもあり頭痛のタネでもあるのが食事だ。複数人いればいいけれど、一人で食事をしようと思うと、とくに欧米ではなかなかに苦労する。なぜ苦労するかといえば、おひとりさま向けにいいお店がないからである。

日本だと、たとえば寿司屋、天麩羅屋、蕎麦屋。おひとりさまでも堂々と入って、それなりの金額で、ある程度ゆっくりと食事を楽しむことができる選択肢がある。でも、たとえばアメリカにはそういう選択肢があまりない。ハンバーガーかピザのチェーン店1)でプラスチックのトレイを前にもぞもぞと食べる、あるいはテイクアウトしてホテルの部屋でもぞもぞするのがせいぜいであって、そうなると、我々の感覚では、食事というよりは単なるエネルギー補給といった趣になり、これが連続すると気持ちが荒み、世を儚んで仕事に行きたくなくなり、「咳をしても一人」などと尾崎放哉の句を諳んじ始めたりする。

ハンバーガーやピザがなぜ侘しいのかといえば、日本人にとってはあまり夕食の体をなしていないからだろう。夕食の期待値として、一汁三菜とまではいかなくてもせめて一汁二菜くらいはほしい。コメか麺は主食として確保したいし、そこに熱い汁物と湯気のたった(あるいはキュッと冷えた)おかずが一品か二品ほしい。この切なる欲求を、納得できる金額内で何とか叶えてくれるのは、アメリカではパンダなのであった。

パンダというのは、パンダの絵の入った丸いロゴでお馴染み「パンダ・エクスプレス」である。中堅以上の都市なら、デパートや商業施設のフードコートに必ずと言っていいほどある2)。仕組みは至ってシンプル。炒飯か焼そばを選んで、そこにおかずが2品または3品3)つく。おかずはカウンターで見て選べる。あとは、スチロール容器に盛り付けてもらうだけ。汁物が欲しい場合には、たいてい酸辣湯かコーンスープがある。まさに一汁二菜がここに確保されるわけだ。持ち帰ってもいいし、その場で食べてもよい。もちろんお手軽中華料理だから、味はそれなりだけれど、価格とのバランスを考えれば悪くない。

ニューヨークに限れば、最近では、大戸屋や一風堂、つるとんたんや牛角など、日本の人気店も進出していて人気だけれど、日本よりも高級路線をとるせいもあってドル建てのお値段は少々高めだ。さらにチップを払うので、トータルするとけっこうな金額になる。東京に戻れば、同じものが安く、いくらでも食べられるからなぁ、と思うと、さすがにちょっと躊躇する。

1 ニューヨークの場合には、徒歩で行ける小さなデリがほうぼうにあって、サラダやスープ、ご飯ものや麺なんかもテイクアウトできるのはありがたい。その他の都市ではなかなか難しい。
2 アメリカを中心に1,900店舗もあるらしい。日本にも2つあるようだ。
3 ひとつはパンダエクスプレス名物「オレンジチキン」を試してみることを勧める。けっこう美味しい。

ザ・キタノ

世界の北野武、のハナシではない。ニューヨークにあるホテルの名前である。

メットライフビルとグランドセントラル駅の入口

はじめてニューヨークに行ったのは1993年。当時勤めていた会社のニューヨーク支社に1年ほど赴任することになったときだ。JFK国際空港から、妙にサスペンションがゆさゆさと緩いイエローキャブに乗ってマンハッタンに向かった。クルマがクイーンズボロブリッジに差し掛かると、フロントガラス越しに、摩天楼そびえるマンハッタン島が見えてくる。あぁ、とうとうニューヨークに来たんだ、と怖いような楽しみなような複雑な気持ちで見つめたのを今でもはっきりと覚えている。

クルマが向かった先は、38丁目とパークアベニューの角にあるキタノホテルだった。オフィスに近いこのホテルを会社が予約しておいてくれたのだ。まだ20代の若造には少々もったいなかったかもしれない。玄関を出て左を見るとメットライフビル1)の威容が迫り、下に目を移すと42丁目に面してグランドセントラル駅への入口が見える。ここに2泊か3泊して前任者と引き継ぎをし、その後社宅として借り上げていた31丁目のアパートメントに移った。このときからずっと、ニューヨークに出張や旅行に行く機会には、なるべくここに泊まれるよう算段している。

ロビーで出迎えるフェルナンド・ボテロの彫刻

93年当時、このキタノと57丁目・セントラルパークのそばにあったホテル日航2)の二つが日系だったと思う。ホテル日航は、98年ごろ、日本航空の経営危機に伴って売却され、それ以来、キタノはニューヨーク唯一の日系ホテルとして、高品質な「日本的」サービスを提供し続けている。このホテルのよいところは、1. 落ち着いた静かなロビーと部屋 2. トイレがウォシュレット 3. シャワーの水圧がしっかりしていて、お湯もふんだんに出る 4. 部屋の清潔さ 5. レストラン・ルームサービスともに和食のレベルが高い、だろう。いずれも東京のシティホテルなら「当たり前」だけれど、アメリカ・ヨーロッパのホテルでは、5はともかくとして、たとえ高級ホテルでも意外と難しい。とくに2と3はほぼ期待できない3)

南西方向・窓からエンパイアステートビルが見える

キタノホテルは、42丁目を中心とした「ミッドタウン」と呼ばれるエリア4)のほぼ真ん中という便利な立地だ。僕にとっては若い頃に馴染んだ地域でもあり、ここにいると安心する。サラダ、スープ、ピザ、サンドイッチなどお好みのものを重さで必要な分だけ購入できる「デリ」が多く、ひとりで軽い食事をとるのに便利だし、アジア系レストランの多いエンパイアステートビル界隈にも近い。

1 当時はまだパンナムビル
2 The Essex Houseという超高級ホテルだった。
3 他方、ソウル、台北、シンガポールなどアジアの高級ホテルは概ね合格点。
4 42丁目を中心に、上はセントラルパークの南端(57丁目あたり)、下は30丁目付近(広く取る場合には14丁目付近)までが、「ミッドタウン」と呼ばれる。最新の「エッジの効いた」エリア(チェルシーやSOHOの縁端部、ワールド・トレード・センター跡地の再開発エリア、ハーレムやブロンクスの一部)はみなミッドタウンの外側にある。