ゲレンデを上る

先日、しばらくぶりに赤倉観光ホテルに行ってきた。気疲れすることが続いて、ちょっと風呂でも入ってのんびりしたいなぁと思いつつインターネットを眺めていたら、露天風呂つきの部屋にたまたま空きが出ていたので、すぐに予約したのであった。

いつもはチェックインすると、ほとんど部屋から外に出ることもなく、1. バルコニーの露天風呂 2. 読書 3. うたたね 4. ごはん、以下1から4を繰り返す、の永久ループでひたすら呆けて過ごすのだが、露天風呂に浸かりながら目の前に広がるひろびろとした山の斜面を眺めているうち、最近読んだスコット・ジュレクの「EAT & RUN」という本を思い出し、ふと「ちょっと走ってみようかな」と思い立った。トレイルランニングに興味があるのだけれど、山の未舗装の斜面を走ったことはまだないのだ1)

ホテルのすぐそばを「妙高高原スカイケーブル」というケーブルカーが麓から標高およそ1300メートルの山頂駅までを11分で結んでおり、山頂駅周辺にはトレッキングコースもあるらしい。でも、残念なことに今年の営業は11月初旬で終了してしまった。まぁちょっとトレイルランのマネごとをするだけなので、バルコニーから見えているスキーリフト(今は動いていない)にそって山麓からホテル、ホテルからさらにもう一つ上のリフトステーションくらいまで上り下りしてみることにした。

意気揚々とハイペースで歩きだしてみたところ、12月中旬からはスキーゲレンデになる斜面なだけに、斜度がけっこうあり、ものの5、6分で息が上がる。心拍計は持ってこなかったので正確なところはわからないけれど、どうも150オーバーのレッドゾーンに入っている感じだ。それでも空気は澄んでいるし、足元は落ち葉と冬枯れした芝でふかふかと気持ち良い。やはり舗装路に比べて、関節への負担は相当に軽い気がする。とはいえ、ふくらはぎや腿の筋肉への負荷が想像以上に高く、かなりキツい。「走る」なんてとてもムリで、一定のペースで「歩く」ので精一杯、そのうち「這う」に近い有様になる。こんなのでも、トレーニングすれば少しは「走れる」くらいになるのだろうか?スコットの最新刊「North 北へ」によると、彼はアパラチアン・トレイルを一日60キロから80キロのペースで進み、3,500キロをおよそ47日間で走破している。一日80キロを47日間なんて平地だって至難の業だと思うけれど、それをこんな傾斜の坂や岩登りが随所に現れるトレイルで達成したのだから恐れ入る。

結局、ハアハア言いながらも、およそ60分、なんとか休まずに斜面を上り下りし、スコットがいかにものすごい偉業を成し遂げたのか、ほんの少しだけ自らの身体で実感したのであった。iPhoneのヘルスケアアプリによると、昇った階数は113階分2)。このあとにまた部屋で浸かった温泉は、ひときわ身体に染み渡り極楽至極だった。

1 平地の舗装路なら家の近所を週に何度か走っている
2 どういう計算なのかはよくわからないけれど。

EAT & RUN

「EAT&RUN 100マイルを走る僕の旅」
スコット・ジュレク、スティーヴ・フリードマン 著、小原 久典 、北村 ポーリン 訳、NHK出版。

以前レビューを書いた「Born to Run」に出てくる主要登場人物のひとり、スコット・ジュレクが、なぜ走るのかを自らに問いかけつつ、その考え方、食生活、トレーニングなどを気取らない筆致で綴った本。スコット・ジュレクは、全米のみならず世界的にも「最強」のウルトラランナーのひとりであり、ウェスタンステーツ・エンデュランスラン(カリフォルニア州の山岳地帯を161キロ走るトレイルマラソン)7連覇をはじめ、世界的なウルトラマラソンで多くの優勝を果たした。大量のエネルギーを消費するウルトラマラソンにおいて、ヴィーガン(完全菜食主義者)であることが何らハンデにならないどころか、体調を整え、良質のタンパク質と必要なエネルギーをとるのにむしろ大切な要因になっているのも、彼のスタイルを際立たせる特徴になっている。

彼は、ミネソタの片田舎で、幼い頃から、ALSを患い日に日に身体の自由を失っていく母親と、厳しく強権的な父親の間で、経済的にも恵まれないなかでも、長男として家族のバランスを必死でとりながら生活をしてきた。彼が走りはじめた理由のひとつは、自分の心配事を忘れ、自分の中に入っていく一人きりの時間を過ごせるから、だったようだ。スポーツ界に限らず、アメリカで成功した人たちの少なからずは、「強くある自分」を意識的に外に打ち出し、弱さと受け取られる要因をなるべく見せたがらないタイプが多いように思うが、本書のスコットはむしろその逆で、不安や葛藤、弱さや泣き言、友人から受けた刺激や支えを素直に記している。

「Born to Run」を読んだときから、なんとなく感じてはいたが、長距離を走ることで到達する境地と仏教的な瞑想の境地とは、その本質において似通っている。どちらも、呼吸を見つめ「今」に集中することで、将来や過去といったしがらみを捨て去り、無我の境地を目指す。スコットの思索は、どちらかといえば東洋的で、我々には馴染み深い側面をもっている。第10章ではヘンリー・ソロー1)と武士道について、第12章では、比叡山の千日回峰行2)について触れている。

人生はレースじゃない。ウルトラマラソンだってレースじゃない。そう見えるかもしれないけれど、そうじゃない。ゴールラインはない。目標に向かって努力をして、それを達成するのは大切だけれど、一番大事なことではない。大事なのは、どうやってそのゴールに向かうかだ。決定的に重要なのは今の一歩、今あなたが踏み出した一歩だ。(「エピローグ」)

ビジネスであれ、スポーツであれ、結果が全て、勝者が全て。ゴールに最短距離で到達したものが勝者であり、全てを手にする、といった勝利至上主義の考え方はここにはない。ランニングを含め、あらゆることの「見返り」は、すべて自分の中に存在し、ゴールに向かった「プロセス」だけが自分に喜びや平穏を与えてくれるのだ、という彼の言葉は、説得力と温かさをもって胸に染みる。

本書に続く「NORTH 北へ アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道」(NHK出版)が9月に刊行された。ジョージア州からメイン州に至る3,500キロもの「アパラチアン・トレイル」を北上し、最速踏破記録を樹立しようとする日々の記録だ。とくに後半の壮絶さと、その中で思索が深まっていく様子は、この本のあとにぜひ読むと良よい。

1 「ウォールデン・森の生活」著者。長距離の散歩を日課としていた。
2 見方によってはまさに究極のウルトラマラソンでもある。