More (アースシェイカー)

ギターもそこそこ弾けるようになってきたところで、よし、バンド組もう。メンバーも皆、技術的には同じようなレベルだ。さて、何をやろうか。となったとき、80年代後半のバンドマン(HR/HMバンド)にはピアノでいう「バイエル」1)とも言える選択肢が用意されていた。洋モノならディープ・パープルのSmoke On the Water か Highway Star、和モノならアースシェイカーのMoreである。

80年代は多くの和製メタルバンドがデビューし、人気を博した。その中でも横綱級がラウドネス、Vow Wow、そしてアースシェイカーだったように思う。いずれのバンドも強力な看板ギタリストを擁していたが、その中でもアースシェイカーの石原慎一郎は、メロディアスな泣きのソロと堅実かつ印象的なリフで、ビギナーでも何とかついていけるんじゃないかと思わせるプレイスタイルだった。(ラウドネスの高崎晃は、速弾きとライトハンド奏法を駆使したトリッキーなソロで初心者には弾ける気がしなかったし、Vow Wowの山本恭司はフロイドローズならではの大胆なアーミングと速弾きでこれまたハードルが高かった。)

学園祭に行くと、どこかから必ずこの曲が聞こえてくるくらい、誰もが知っている曲だった。ギター単独で始まる、短調の半音階で下がっていく印象的なイントロはギタリストなら一度は演奏したいと思わせるカッコよさだし、「人を憎む弱さを見た」で始まる歌も、どこかモノクロームの映画の始まりのような雰囲気があった。アースシェイカーの曲は総じて、ゴリゴリのヘヴィメタルよりは、もっと耳馴染みの良いメロディに甘さ切なさをのせた感じで、メタル原理主義に走りがちな当時の若者の中には毛嫌いする奴もいたけれど、そういうケツノアナの小さいやつは放っておけばよろしい。99年に再結成後、オリジナルメンバーで活動している。今年は機会があればライブ行ってみたい。

1 易しい、というよりそれなりにサマになるレベルで演奏できそう、という意味で。

Jump (Van Halen)

エドワード・ヴァン・ヘイレンは、80年代はじめにはもうすでに、無条件にすごい!ということになっていて、そこに疑問を差し挟むことは不可能な存在だった。いわゆる「ライトハンド奏法」であったり、部品をあちこちから調達して自分で組み上げた「フランケンシュタイン」という名のギターであったり、盛大に歪んでいるようでいて粒立ちのはっきりした一聴してわかる音作りであったり、独特のタイム感であったりと、その高い評価はすっかり確立し、ギター雑誌で語られない号はなかった。

僕の周囲のヴァン・ヘイレン好きは総じてキーボードの入ったHR/HMバンドを「軟弱」呼ばわりし、エディのギターがあればキーボなんて邪魔、みたいなことを言っていた。そこにアルバム「1984」とシングルカット曲「Jump」が登場する。当の御大が、にこやかにシンセサイザーを弾き倒す1)ミュージックビデオが連日流れたのだから、あらビックリである。

僕はと言えば、この「1984」とそれに続くサミー・ヘイガー時代になって、はじめてヴァン・ヘイレンっていいなと思うようになった。それまでは正直あまりピンとこなかったけれど、世間の(というかサークルだとかバンド仲間の)高評価に阿るように一応聴いてます、みたいな立ち位置だったのだ。今思うと、単純にデヴィッド・リー・ロスのボーカルがあまり好きじゃなかっただけで、「1984」の前も後もエディのギターは変わらず格好いいのだが。

ところで、デヴィッド・リー・ロスが復帰した2013年の武道館公演に行って驚いた。まぁよく声が出てうまいのなんの。加えて、KONISHIKIをフィーチャーした10分近い時代劇風寸劇ビデオみたいなものまでつくって観客を楽しませていた2)。彼は初めから、ロックボーカリストというより、エンターテナーだったのだと思い知った一夜であった。

1 ビデオではギターソロの後に続くキーボードソロで楽しそうに弾いている。それにしても弾いてるシンセがホコリだらけで妙にきたないのが面白い。撮影時に誰か気づかなかったのか。
2 あと、妙に日本語が上手い。真偽は定かではないが、活発に活動していなかった時期には日本にしばらく滞在したりしてたらしい。

もたない男

もたない男書影
中崎タツヤ著 新潮文庫

いつの頃からか、身の回りのものを大幅に減らしてすっきりさせたいなぁ、と思い始めた。「立って半畳寝て一畳」的ミニマリズムへの憧れなのだろうか。そこでいわゆる「断捨離」、「ミニマリズム」みたいな本をいくつか手にとってみたのだが、なんだろう、どうにもダメだ。しゃらくさい美学とか生き方みたいなものが鼻について、素直に読めない。どこか違うんだよな~という感がつきまとう。

そこにやってきたのがこの本だった。で、わかった。しゃらくさいのは、己自身であった。もたない男、中崎タツヤは、その「どこか違うんだよな~」などと言う私の小理屈を粉砕して通り過ぎていってしまった。

ものを捨てることは、私にとって主義でも美学でもありません。捨てることが主義・美学だったら、自分の「したぞ」「やったよ」という達成感、カタルシスみたいなものがあるかもしれないけれども、私がものをすてることと、そういう感覚とは全然関係がありません。無駄が嫌いなんです。スッキリしたいだけだと思うんです。(P.69 第二章 なぜすてるのか)

歳をとってものを捨てたいといっている人たちの多くは、捨てたいのではなくて、整理したいんだと思うんです。(P.136 第三章 もたない生活)

いま、捨てたくても捨てられない人たちのための本が売れているようですが、私は、捨てずにはいられないんです。(P.168 第四章 もたない人生)

究極の、あるいは生まれながらの、もたない男の前では、私は頭を垂れて、理屈をこねまわしていた己を恥じる。ぐだぐだ言っている暇があったら、まずは机の上のしばらく触ってもいないもの1)から捨てねばならぬ。

1 ほとんど全て

火事始末記(4)

年末までおよそひと月をかけて、仮住まいのアパートで必要最低限の寝具家具を揃え、保険金の支払い・税金の減免手続きなど各種手続きをすませ、父はなんとか生活のリズムを取り戻した。しかし、まだ後処理の大物が残っている。燃えた家の解体である。よく人が住まなくなった空き家はあっという間に傷むというが、焼け跡はそれに輪をかけて、まるで時間を早回ししているかのように朽ちていく。残された窓枠は歪んで風に吹かれてギイギイと音を立て、燃え残ったカーテンがお化け屋敷のように垂れ下がり、一階に残った家電にはあっというまにサビが広がり、雨風とともに家中が灰と炭と砂に覆われてモノクロームの中に沈んでゆく。こんなものが近所にいつまでもあったのでは周囲の家はたまったものではない。なるべく早く解体撤去せねばならない。

いざやってみてわかったが、家の解体、撤去というのは、思いのほかお金がかかる。建坪に解体単価をかけて基本的な費用が算出されるが、そこに廃材や家の中に残されたもの撤去・処理、庭の植木の撤去・処理、盛り土やスロープの処理、場合によっては浄化槽や下水配管の処理などが加わる。重機の搬入の難易によっても費用が変わる。さらに複数の業者が競争するというより地域によって縄張りを分けているようで、相見積もりをとって安いところを、なんて、ヨドバシかビックかみたいなことも難しい。我が家の場合、建坪が比較的大きかったり、中途半端に燃え残ったものが多かったりしたせいで費用が膨らみ、ン百万の出費となった。

land pic
何もなくなると妙に広い

解体撤去は年が明けた1月半ばに始まり、およそ一週間で焼け跡は更地に戻った。更地に戻ってみると土地は思いのほか広く、キャッチボールでもして遊べそうな様子である。何もなくなった敷地を眺めながら、やれやれという安堵、すっきり片付いた喜び、そこに一抹の寂しさが入り混じった複雑な気持ちを味わった。

ホバート旅行記 5 蒸留所めぐり – Sullivans Cove

 Sullivans Coveはホバート空港からほど近いケンブリッジという街にある。ホバート市街からは、タスマンハイウェイ(A3)で空港方面に走って20分くらい。この蒸留所のフレンチオーク樽熟成のウィスキーが2014年AAWのモルトウィスキー最高賞を受賞した。ここでは朝10時から夕方4時までの間、蒸留所見学ができる。

Sullivan's Cove タスマンハイウェイをB31出口で出て、ケンブリッジロードをハイウェイ沿いに少し戻るように走ると左手に看板が見えてくる。ラークに比べれば大きいとはいえ、それでも小さな蒸留所だ。ビル・ラークが何かのインタビューで、蒸留所見学に来る人は、森と清流の中にあるロマンチックな蒸留所をイメージして来る人が多いけれど、タスマニアの蒸留所はどちらかというとみんなただの工場(こうば)みたいなとこだよ、と笑っていたが、まさにそのとおりの場所である。

  見学は樽の違いを体験する飲み比べも含めて1時間くらい。ビル・ラークによるタスマニアウィスキーの再興から、現在の状況、タスマニア産モルトからウォッシュ(Wash)1)を作り、それをこの蒸留所で二度蒸留後、樽詰めして寝かせ、ボトル詰めするまで、若くてハンサムな従業員が丁寧に説明してくれる。タスマニアウィスキーが世界から認められ、注目されることに対する誇りや仕事への熱意が端々に感じられる。一体に、酒造りの現場の人たちというのは、自分達の仕事に対する愛や熱量が大きな人が多いイメージがあるが、ここもまさにその例に漏れない。僕らに説明をしてくれた彼も、自分が高校のころに仕込まれたウィスキーをいま自分たちが世に送り出してることがすごく嬉しいんだ、と話していた。

 Sullivans Coveでは、当初、小さな樽を使って寝かせ(エイジングし)ていたそうだ。小さな樽のほうがウィスキーが樽に触れる面積の割合が高く熟成が早いことと、資金繰りのため樽単位で事前に販売していた2)のがその理由。今ではビジネスも安定し、大きな樽でのエイジングに切り替えたため、小さな樽では作っていない。出荷前の最後のプロセスである瓶詰めは今でも手作業。瓶詰めの担当者がひとつひとつ楽しそうにラベルを貼っていた姿が印象に残っている。

Sullivans Cove Potstill
ポットスチル(蒸留釜)と熟成樽
一番左はHobert No. 4というジン

 ダブルカスク、フレンチオーク、アメリカンオークの三種類を作っている3)。フレンチオークはポート樽、アメリカンオークはバーボン樽をつかってエイジング。ダブルカスクはその2つをブレンドしたもの。ラークでもそうだったように、どれもピートの煙っぽさはほとんど感じない。マイルドで優しく、同時に複雑さも深さも備えたウィスキーである。迷った末、フレンチオークを購入。結構お値段は張るものの、やはりいちばん美味しかったのだ。ついでにウィスキーロールという革製のボトルケースも購入。ボトルとウィスキーグラスが4つ入る。

 ロビーで面白い本を見つけた。「Kudelka and First Dog’s Spiritual Journey」。オーストラリアの風刺(政治)コミック作家のJon KudelkaとFirst Dog on the Moonの二人が、電動自転車でタスマニアのウィスキー蒸留所をめぐった道中記だ。コミックと文章が半々くらい。Kudelkaはタスマニア出身で、彼のほとばしる郷土愛4)に、First Dogが皮肉をいれる内容がなんとも面白い。クラウドファンディングで発行されたのも興味深い。Amazon等では取扱がないが、Kudelka本人のサイトから購入できる。

 

1 水と麦芽糖と酵素からできた甘い麦汁(ウォート)にイーストを加えて発酵させたもの。ビールの親戚のようなものとも言える。
2 出荷時に蒸留所で買い戻したりもしていた。
3 もうひとつSpecial Caskというのもあるが、一般には買えない。詳しくはウェブサイト参照。
4 ローカルすぎてよくわからないネタも多い。

ホバート旅行記 4 蒸留所めぐり – Lark Distillery

Lark Distillery Barrel

 タスマニアのウィスキーづくりはビル・ラーク(Bill Lark)から始まった。測量技師だった彼は、ある日マス釣りをしながらこう思う「タスマニアにはいい水があって、大麦があって、ピート(泥炭)があって、冷涼な気候がある。なんで誰もウィスキー作ってないんだろう?」そこで中古のポットスチル(蒸留釜)を買って、さてちょっくら作ってみるか、となったとき法律の壁にぶつかった。オーストラリアには1901年に採択された古い法律があり、そこで定められた蒸留量の下限が大きすぎて、事実上小規模生産が不可能だったのだ。彼は地元の議員にはたらきかけて、法律を改正することに成功し、92年に正式に蒸留所として認可される。ここにタスマニアのウィスキー作りの新たな歴史がスタートすることになる。

 彼の蒸留所Lark DistilleryのCellar & Barがホバート市内にある。(蒸留所もすぐ裏手にあるらしいが、現在は見学を中止しているようだ。)もしニッカの余市蒸留所や、サントリーの白州蒸留所などを見学したことがあるなら、そのイメージは一旦脇に置いておこう。ここは小さな蒸留所。大きさで言えば、余市で見学が始まる前に時間待ちする待合室くらいの大きさに全てが入ってしまいそうだ。それくらい本当にこじんまりした手作り感溢れる施設なのである。 

 

 ここ数年のウィスキーブームで小規模生産の蒸留所ばかりのタスマニア・ウィスキーは在庫がすっかり払底状態1)。このCellar & Barでもポケットサイズのボトルが1種類購入できるだけだったが、バーカウンターでは、年度違いやカスク違いをいくつか飲み比べることができる。英連邦としてのスコットランドとのつながりや、地元でピートがとれることから、ピートの効いた(煙っぽい)アイラっぽいテイスト2)かな、と思っていたら全く違った。ピートっぽさは全くない、クセの少ない優しい香りと味わいのウィスキーなのだった。

1 大規模生産者であるニッカでさえ、ウィスキーブームで需要があまりに高まり、余市、竹鶴などの原酒が払底するくらいなので、タスマニア・ウィスキーが手にはいらないのもむべなるかな、である。
2 大麦を乾燥させる過程で熱源に泥炭を使うと、その匂いがウィスキーに移る。煙い感じの独特なニオイで最初はぎょっとするが、慣れるとこれがないと物足りなくなる。スコットランドのアイラ島周辺で生産されるウィスキーはこのピート臭が強いものが多い。日本だとニッカの「余市」が比較的強い。

火事始末記(3)

現場今回の火事、火元は隣家であり、ウチは類焼で損害を被ったのだから、その損害は隣家が補償してくれるはず、と思いきや、実はそう簡単な話ではない。火事に関する法律(失火責任法)では、火元に重い過失がないかぎり、類焼によって生じた損害の賠償責任は負わないことになっている1)。この失火責任法は明治時代にできた法律で、当時は家といえばペラペラの木造、それがみっちりと密集して建っていたのだから、火事となれば一軒だけですむはずもなく、隣近所に類焼は避けられない。今のように保険が発達していたわけでもなく、火元だって財産みんな燃えちゃったとくれば、類焼の損害賠償は火元の家の能力をはるかに超えるのは必定。というわけで、よっぽど馬鹿なことをして火を出したのでない限り、補償の責任は負わなくて良い、ということになったらしい2)

火が出たとき隣にはお爺さんが一人。当人が亡くなってしまっているだけに原因がはっきりしない。寝タバコなのか、お湯を沸かしてるうちに眠ってしまったのか、ガス漏れか漏電か。消防署からもとくに「重過失」を疑わせる説明はない。重過失だ、として裁判に訴えるという手はあるけれど、裁判費用と実際にとれる(かもしれない)金額が見合うとも思えない。結局、隣家から受け取ったものは、お詫びに来たときに先方が持ってきた菓子折り一つだった。

 

1 「民法第709条 の規定は失火の場合にはこれを適用せず。但し失火者に重大なる過失ありたるときはこの限りにあらず」 (失火責任法)
2 今の時代にそれでいいのか、という議論はもちろんあっていいのだろうが、自分の家が燃えた政治家でなければ、この法律を改正しよう、という動機はなかろう。

ホバート旅行記 3 グランド・ビュー・ホテル

ホテル外観

 グランド・ビュー・ホテル(Grande Vue Private Hotel)は1906年に建てられたクィーン・アン様式の屋敷をリノベーションした小さなアパートメントホテルだ。クルマはホテルの前に路上駐車する。(駐車許可証をホテルが用意してくれる。)アンティークなドアをぎいと開けると廊下左手に暖炉を備えた居心地の良さそうなラウンジ。廊下右奥にあるフロント代わりの小さなカウンターでジョンさんが出迎えてくれる。ジョンさんは品の良いイギリス老紳士といった趣で、このホテルのオーナーだ。部屋は階段を昇った2階の奥の3号室。エレベータはないので、大きなスーツケースをよっこらしょと抱えて運び上げる

 ドアをあけた瞬間、部屋の窓いっぱいにホバートの港と大きく広がるサンディー湾が広がっている。湾にはヨットがあちこちに浮かんで、穏やかな波に揺れている。海のように見えるが、ここはまだ海ではなく、タスマニアの東側を南に向かってながれるダーウェント川 (River Derwent) の河口に近い場所で、ここからさらに数キロ流れてブルーニー島の北側で海に注ぐ。

グランドビューホテル
窓いっぱいにサンディー湾が広がる

 室内は青灰色の壁にアンティークのカーテン、クローゼット、ベッド。色ガラスの嵌った窓や建具もおそらく建設当時のものなのだろう。とても温かな雰囲気だ。シャワー、トイレ、ミニキッチンは新しいものが使われている。

マフィン
4時になるとできたてのマフィンが届く

毎夕4時になるとジョンさんの奥さん、アネットさんが手作りする、できたての香ばしいマフィンが部屋に届けられる。普段あまりマフィンって食べないのだが、夕方を心待ちにするくらい美味しかった。

一度、死んでみましたが

book cover
神足裕司著(集英社)

高次脳機能障害。この言葉を知ったのはおよそ2年前。親しい人が事故で脳に損傷を受けて記憶などに障害が残った。脳梗塞の後で半身不随というのはよく見聞きするが、外からは見えにくい脳機能の障害にはなかなか思いがいたらない。

人気コラムニストの神足裕司は、2011年9月に広島から東京への機内で重いクモ膜下出血を起こす。生死の境を彷徨う重篤な状態だったが、何とか一命をとりとめた。要介護5の障害が残るも家族や友人に支えられつつリハビリ中とのこと。自分で体を動かすことができず、話すことができない。記憶が混濁したり、短期の記憶を保持できなかったりする。でも書くことはできるのだ。ここに高次脳機能障害の複雑な側面を見ることができる。話すことができなくても、書ける。カラオケで昔の歌も歌える。でも、書いたものを覚えていることは難しく、自分の書いたものを見て、その都度記憶を再構築せねばならない。健常者はまったく意識することなく行っている日々の当たり前のこと(会話する、食事する、買い物をする、電車に乗る等々)がいかに複雑な脳のマルチタスクを必要とするかに気付かされる。それらが一箇所でも不具合を起こすと、当たり前は当たり前でなくなるのだ。

前にも書いたかもしれないが、ボクは何もわからないのではない。みんなの言っていることは、理解しているつもりだ。健常者に比べれば、ヘンなところがあるかもしれない。だが、すぐに思っていることが話せないだけだ。話したくても、言葉が出ない。病気になった人間には一人ひとりに人格があって、当たり前のことだけど、生きている。言葉は出なくても、しゃべれなくても、待っていてほしい。待てない人は、早合点しないで、そのままにしておいてほしい。先回りして何かを、「こうですよね!」なんて、勝手に決めてほしくない。(p.107 第2章 リハビリの日常)

エッセイで書かれる著者の等身大の日常に、僕らが普段の生活では気づかない視点をもらい、垣間見える家族の絆に温かな気持ちになる。彼にとって書き続けることがすなわち生きること。その足跡は本書だけでなく、いくつかのWeb媒体でも追いかけることができる。

コータリさんからの手紙(みんなの介護)

コータリンは要介護5(朝日新聞)

神足裕司 車椅子からのVRコラム(PANORA)

ホバート旅行記 2 空港からホテルへ

 タスマニア入りにはいくつかルートがあるが、今回はメルボルン経由でホバート (Hobart) に入る。ホバートはタスマニア州の州都であり最大の都市だ。最大といっても近郊も含めたエリアの人口は20万人ほど。タスマニア州は全体の人口でも50万人しかいないので、およそ半分がホバートに住んでいることになる。ちなみにメルボルンとシドニーがともに人口500万人くらいだから、タスマニアがいかにこじんまりした州なのかがわかる。日本で同じくらいの規模の市といえば島根県の松江市、東京でいえば台東区が該当する。

AIR 吉野家
空の上でもおなじみのオレンジ

 10月20日午前11時発の日本航空JL773便で成田を発ちメルボルンに向かう。飛行時間はおよそ10時間。日本発のJALは機内食に「吉野家」が出る。これが意外と美味しい。持ち込んだタブレットでジェイソン・ボーンのシリーズを立て続けに見て時間をやり過ごす。アルティメイタムが一番いいな。メルボルンと東京は時差が2時間1)あるので、メルボルン到着は夜11時。空港近くのホテルで一泊して、翌21日の12時40分発のカンタス航空QF1503便でホバートまで1時間15分。

 南半球のオーストラリアは初夏。ホバート空港は小さな空港だが木々や芝生の緑が鮮やかだ。飛行機を出るとタラップを降り滑走路脇を歩いてターミナルに向かい預け入れた荷物を受取る。空港で手配していたレンタカーに荷物を積み込み、いざ出発。オーストラリアは日本と同じく左側通行なので運転がラクだ。

Qantas Link
Qantas Linkというシャトル便。座席配置は3列-2列

 空港パーキングを出てA3号線・タスマンハイウェイに乗る。空港からホバート市内まではおよそ30分。タスマンブリッジ (Tasman Bridge) を渡ると長い坂道の先にホバートの港とダウンタウンの街並みが見えてくる。オフィスが集まる一角を抜け、波止場沿いの道を走ってバッテリーポイント (Battery Point) へ。バッテリーポイントは、19世紀にホバートが開かれた当初から入植者が住んだエリアで、今では港を望む高級住宅地だ。ところどころに古いビクトリア様式の邸宅が建っている。どの家もよく丹精された庭があり、春の花を咲かせた庭木が美しい。

1 オーストラリアが夏時間 (Daylight Saving Time) の場合。