ドキュメント 気象遭難

羽根田治著(ヤマケイ文庫・山と渓谷社)

ここで言う気象遭難とは、山での気象現象が直接的・間接的な原因となっている遭難事故を指しており、新旧の遭難事故7件を検証している。遭難した状況は様々であっても、いずれも後から検証してみると「ここで判断を誤った」というポイントがあるものだ。登山をしない自分から見ても、そのポイントの多くは、「え~、何でそんなことしちゃうかなぁ?」などと、他人事のように思うものは皆無。自分がその場にいれば間違いなく同じ轍を踏んだであろうものばかりで、肝が冷える。日常の延長にあるハイキングのレベル1)であっても、遭難は起きうるのだ。

悪天候下の山には必ず越えてはならない一線があるということだ。天気が多少悪くても、「 これぐらいの天気なら」と判断して行動を続けていると、必ずどこかで一線を越えてしまう ことがある。

(中略)

たぶん、その判断を下そうとするときには少なからず躊躇するはずで ある。だが、躊躇するということは、もう一線を越えようとしているところにいると思ったほうがいい。(初版あとがき)

都市生活者が生存のためにシビアな状況判断を要求されることはまずない。(そういった判断をしなくてよいように出来上がってきたのが都市だとも言える。)雨の天気予報だったのに雨具を持っていかずに濡れたからといって、生命の危険に結びつくことなどない。でも、もし山で濡れて風に吹かれれば、容易に低体温症を起こし、生死に直結し得る。都市の安全・安心・利便は、何重かのバリアで自然環境から命を隔離し、守ることと同義だ2)。それだけに、山で要求されるシビアな判断力は、都市での日常をすごしていて身につくものではないだろう。

そういったシビアな判断力を持つべきだと考えるか、あるいは必要なライフスタイルかは個々の問題だとして、バリアの中にいながらにして、剥き出しの自然の厳しさを垣間見る思いがした。シリーズで「道迷い遭難」「滑落遭難」(いずれも本書と同じ著者)も出版されている。

1 例えば尾瀬や日光までクルマで行って、ついでに軽装でちょっとそのへんの山に登ってみるというような。
2 登山など厳しい自然に身を置くことは、このバリアをはずすスリルだ言える。

摩天楼 (メイク・アップ)

Make-Upといえば、聖闘士星矢の主題歌「ペガサス幻想」と言ったほうが通りがいいのかもしれない。元々はジャパン・メタル全盛期の1984年にデビューしたバンドで、ラウドネスの弟分的扱いを受けていたように記憶している。ブレイクし切れなかった感はあるけれど、ヘヴィなギターのリフの上でキーボードが分数系のコードで複雑な響きを出す感じとか、曲作りは結構凝っていた。また、ボーカル・山田信夫の上手さは同時代のバンドの中でも際立っていたと思う。

「摩天楼」はメイク・アップの特長がよく出た曲だ。とくにBメロからサビにかけてがいい1)。このあたりは「ペガサス幻想」にも通じるものがあって、ギター・作曲の松澤浩明のセンスが光っている。松澤は「ペガサス幻想」以外にも数多くのアニソンを手がけている。

87年に解散したMake-Upは2009年に再結成したが、2010年11月に松澤が50歳の若さで亡くなってしまう。Make-Upではバンドサウンドの中で、ギターの役割を過不足なく注入する役割に徹していた感があるので、バンドの枠を取り去って好きなようにギターを弾きまくったらどうなるのか、ソロアルバムをぜひ聞いてみたかったなぁと思う2)

1 サビの歌詞が日本語なのにも好感。当時の日本語ロックは、サビにくると突然中学校の教科書みたいな英語になる曲が少なくなかった。
2 TUBEの春畑道哉のソロ・アルバムみたいな感じじゃないかと勝手に想像してる。

ホバート旅行記 8 ブルーニー島

ブルーニー島(Bruny Island)は、タスマニア島の南端近くにある小さな島。橋はかかっていないので、フェリーで渡る。ホバート市内からはA6、B68を辿って30分ほどのケタリング(Kettering)という小さな町まで行き、そこから島に渡るフェリーに乗る。おおよそ1時間に一本、所要時間は30分かからないくらい。フェリーに乗り込むクルマの列に並んでしばらく待っていると、積み込みがはじまり、スロープを上がって所定の位置に停め、そのままクルマの中で対岸に到着するのを待つ。クルマから降りてくつろぐスペースなどはない。実にシンプル。

対岸につくと、B66と名前の変わった州道をずんずん走っていく。タスマニア島自体、自然豊かなのんびりした島だが、ブルーニー島はそれに輪をかけて自然が豊富だ。道路沿いにも、人工物はほとんど現れず、手付かずの自然か牧場が延々と続く1)

フェリーを降りて10分か15分、グレート湾(Great Bay)に沿って走り始めたら、ブルーニーアイランド・チーズカンパニーの看板が出て来るはずだ。ここでは手作りのチーズとビールを楽しむことができる。ここはNick Haddowという人が2001年に始めたチーズ工房で、牛乳を原料にフレッシュ、ソフト、ハード、ウォッシュ2)等、さまざまな種類のチーズを古くからのやり方を厳格に守りつつ作っているらしい。「発酵」を共通のテーマに、ビール醸造とパンづくりにも熱心だ。チーズ、ビール、パンともに、イートインもやっていて、新鮮なチーズを薪窯で焼いた出来たてのパンに乗せてビールで食べる、なんて素敵なこともできる。

Bruny Island Cheese Eat-In
焼きたてのパンと新鮮チーズ

チーズとパンでちょっとした腹ごしらえをしたら、更に先に進む。ブルーニー島は北島と南島からなっていて、そのふたつがThe Neckと呼ばれる細い糸のような地峡でつながっている。そこに遊歩道やキャンプ場があり眺めが良いらしいのだが、残念ながら工事中で閉鎖されていたので、泣く泣く通過。南島に入ると、高い木々3)がうっそうと茂る森が増え、道も舗装されていない区間が現れる。30分ばかり走って、原野の中、先行きが若干不安になってきた頃に、C629にぶつかるT字路に差しかかる。左に行くと、サウスブルーニー国立公園(South Bruney National Park)やクラウディ・ベイ・ビーチ(Cloudy Bay Beach)、右に行けばブルーニー島灯台(Bruny Island Lighthouse)に続くライトハウス・ロード。どうせなら島の突端まで行きたいよね、ということでライトハウスロードで灯台を目指す。

Dirt road in Bruny Island
ここはまだ道幅がずいぶん広い方

道はますます細くなり、くねくねと蛇行し、ぬかるみ、あるときは人の家の裏庭に入り込んだかというような場所を通過する。その裏庭然としたところにワラビー(小型のカンガルー)が5、6匹固まって、こっちを訝しげに見てたりする。自然豊かな、と言えばその通りなのだが、森のなかで視界が効かないのと、野生動物が飛び出してきそうな雰囲気が濃厚で、運転に集中せざるを得ず、周りをゆっくり見る余裕がない。

T字路から30分ほどで急に視界が大きく開け、灯台が見えてくる。小さな駐車場から見上げると、一本道が続く先に、童話か古い物語に出てきそうな風情の、白い灯台が建っている。駐車場の側には、灯台守、というのか管理者というのか、その人達のための小さな家が2棟、灯台の歴史を展示する棟がひとつ。周囲には野生の小さなうさぎがあちらこちらで跳ねる。ここまで来る人はあまり多くないのか、実にのんびりした風景だった。

Bruny Island Lighthouse
岬に灯台が見える

1 ブルーニー島の人々はタスマニア島を「main land」と呼ぶが、タスマニア島の人が「main land」と言うときにはオーストラリア本土を指すらしい。
2 この旅行記5 (蒸留所めぐり – Sullivans Cove)で触れた本「Kudelka and First Dog’s Spiritual Journey」によると、タスマニアウィスキーの「父」Bill Larkをイメージしてウィスキーでウォッシュして作った「Jack’s Dad」というチーズもあるようだが、僕らが訪ねたときには置いていなかった。JackというのはBill Larkの息子の名前だそうだ。
3 ユーカリの木が多い。山火事の跡らしき燃え殻もあちらこちらにある。

ホバート旅行記 7 ワイングラスベイ

ワイングラスベイ(Wineglass Bay)は、ホバートから北におよそ200キロのフレシネ半島(Freycinet Peninsula)・フレシネ国立公園の大自然の中にある1)。緩やかに湾曲した美しい砂浜が、言われてみればワイングラスの曲線に似ている。ここに直接クルマで乗り入れることは出来ないため、山を越えた北側の駐車場にクルマを置き、ワイングラスベイ・トラックという遊歩道を歩いて湾に向かう。途中、ワイングラス・ルックアウトという見晴台までが3キロ、往復1時間から1時間半の道のり、その先を進んで湾にあるビーチまで行けば、トータル6キロ、2時間半から3時間といったところ。

wineglass bay trail
トレイル(遊歩道)の案内板。

日没までの時間と体力を鑑み2)、とりあえずワイングラス・ルックアウトまで行ってみることにする。ルックアウトは標高230メートル。230メートルと聞くと、たぶん少なからずの人は、はは、大したことねぇな、楽勝、と思うだろう。そう、僕も思った。230メートルと言うのは、高尾山の半分、東京のビルで言えば、六本木ヒルズの高さに相当する。で、水も持たずに気楽に歩き出したわけだ。でも、普段運動をしないおっさんにはそれほどイージーでもないし、水くらいは持ってくるべきだったと思い知らされることになる。さて、ここで問題。直角三角形の斜辺が1500メートル 高さが230メートル、角度θは何度でしょうか。

答えは8.8度3)。これを道路標識によくある「%表示」に直すとおよそ15%。斜度15%の坂道って、ロードバイクなら「激坂」って言う人もいるレベル。100メートル進むと15メートル上がる。これを1,500メートルずっと歩くわけですよ4)。何にせよ、問題は勾配であって、絶対的な高さではなかったのだね。これだから素人は困る、って言ってももう遅い。最初こそ余裕を見せていたものの、だんだん息が切れ、そのうち隙きあらば道端の巨岩やベンチにへたり込む始末。それでも何とか40分ほどかけて見晴台までたどり着いたところ、そこからの風景は、なるほど来た甲斐があったというものだ。オーストラリア政府観光局のウェブサイトによると、4日間のガイド付きウォークツアーや、クルーズ、フィッシングなどいろいろ楽しめるようだ。次回はぜひもっと時間をとって来ることにしよう。

wineglass bay lookout
ワイングラスベイの美しい湾曲がよく見える。

1 タスマン・ハイウェイ(A3)でおよそ2時間半のドライブ。
2 野生動物が活発になる日没後に国立公園内をヘッドライトの灯りだけで走るのはできれば避けたかった。
3 直角三角形なら底辺、高さ、斜辺、角度のうち2つがわかれば残りは算出できる。このサイトのおかげですぐに答えが出る。
4 まぁ、トレイルは蛇行していて、ずっと直線的に昇っていくわけではないけれども。

Wanted Dead or Alive (Bon Jovi)

1984年にSuper Rock in Japanで初来日したBon Joviの記事を音楽雑誌で読んだのを覚えている。MSG、スコーピオンズ、ホワイトスネイクといったヘッドライナー級バンドのサポートといった扱いだったが、「若獅子」といった表現でとても好意的に書かれていた。そこから86年リリースの「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」(原題: Slippery When Wet)と88年の「ニュージャージー」(原題:New Jersey)で幾多の大御所バンドを飛び越えて、世界的スターダムに上り詰めるまであっという間だった。

殆どの曲は、ボーカルのジョン・ボンジョヴィとギターのリッチー・サンボラの共作で、この二人の組み合わせがこのバンドの全てといっていい1)。とくにリッチーのコーラスは、ボーカリストが二人いるといっていいほど強力で、他のHR/HMバンドを圧倒する魅力を見せる。ギタリストとしても、アコースティックからエレクトリック、バッキングから印象的なソロまで、どこをとってもハイレベルだと思うが、どういうわけか、ギターヒーロー扱いされない。確かに、技術的難度の高いソロをこれでもか、と繰り出すタイプではないけれど、若干気の毒である2)。「Wanted Dead or Alive」はそのトータルな実力を存分に発揮した曲で、12弦ギターのイントロから、サビのコーラス、ドライブサウンドに変わったあとのギターソロからアウトロまで、リッチーなしでは成立しない曲だ3)

リッチーは2013年頃からバンドを離れてしまったようだ4)。それ以前から、離婚や女性問題、アルコール依存症とその治療だとか、いろいろと身辺が騒がしくなっていたようでもあり、心身ともに無理がたたったのか、なんとなく予兆めいたものを感じていたファンも多いのではないだろうか。オールドファンとしては、できればいつか、もう一度オリジナルメンバーでのライブが見たい。

1 テレビへのゲスト出演やインタビューもこの二人だけ、ということも多い。
2 本人がどう思っているかはさておき、YouTubeのコメント欄を見ても、one of most underrated…というコメントがたくさん並んでいる。ソロアルバムではBon Joviよりずっとブルーズ寄りのプレイを聴くことができる。
3 時期によってコーラスの入り方や二人のパートの歌い分け方が少しずつ違うので、YouTubeでチェックしてみると楽しい。
4 公式なアナウンスはない。

Key West 旅行記 2 – 海上ハイウェイとセブンマイルブリッジ

seven mile bridgeマナティ湾を過ぎると1号線はキー・ラーゴ(Key Largo)に接続する。ここからフロリダ・キーズの島々を結ぶおよそ180キロが海上ハイウェイ(Overseas Highway)だ。もともとは鉄道が走っていたが、1935年のハリケーンで破壊されて廃線となったあと、用地と残った橋がフロリダ州に売却された。1940年代から旧道路からの付け替え、拡幅、現代的な橋へ架け替える工事などを経て1980年代にほぼ現在の姿になった。

ところでフロリダ・キーズ(Florida Keys)の keysは「島」を意味しているが、もともとは「小さな島」を表すスペイン語 cayo から転じた1)。島が「鍵」みたいに見えた、みたいな言い伝えがあるわけではなさそうである。島と島の間では海の上にハイウェイが伸び視界がぱっと開ける。大きめの島に入ると海は見えなくなり、両側にはスーパーやガソリンスタンド、レストランやマリンスポーツの店が点々と並び、どちらかと言えば退屈な風景がしばらく続く。それを交互に繰り返しつつ、クルマは順調に進む。

seven mile bridge
青い海と空を分けるようにまっすぐに橋が伸びる

海上ハイウェイのハイライトとも言えるセブンマイルブリッジは、ナイツ・キー(Knight’s Key)とリトル・ダック・キー(Little Duck Key)を結ぶ6.79マイル(10.93キロ)の橋だ。キー・ラーゴで海上ハイウェイに入ってから約60マイル、マラソン市(Marathon)を抜けたところに現れる。ゆりやかな上りと下りが連続し、真っ直ぐに海の彼方に伸びてゆく橋、左右は見渡す限りの海。噂に違わぬ絶景だ。もし可能ならオープンカーで幌を全開にして走りたい2)。世代によっては、鈴木英人やわたせせいぞうのイラスト3)をイメージするかもしれない。橋の終わりに、駐車場と公園があって、今走ってきた橋をクルマを降りてゆっくりと眺めることができる。

 

1 アメリカ人にとってもKeyが島を表すのは、耳慣れない用法のようである。どこかの質問サイトに「なぜFlorida Isles と言わないのか」という質問があった。
2 残念ながら僕はルーフも開かないミニバンだった。
3 二人ともフロリダをテーマにしたイラストはあるようだが、セブンマイルブリッジそのものを描いたものがあるかどうかは知らない。

Key West 旅行記 1 – Key Westへ

Sunset beach

2017年5月。オハイオ州にいる弟ファミリーを訪ねる用事があり、ついでに、フロリダまで足を伸ばしてみようと思いたった。地図を眺めてみると、フロリダ州は、アメリカを長方形とすれば右下の隅に位置する大きな半島で先端はキューバに近い。その半島の先に、抜き忘れた毛のように西に向かって小さな島々がひょろりと連なっている、その先端がキーウエスト。アメリカ本土最南端だ。キーウエストといえば、海の上をまっすぐ伸びていくハイウェイ、アメリカ最南端、常夏のマリンリゾート、ヘミングウェイ、といったキーワードが浮かぶ。5月末という時期も本格的な夏を迎える前でちょうどよさそうだ。うん、行ってみよう。

オーランドで数日過ごした後、キーウエストに向けてクルマで出発。予定走行距離620キロ。東京から西に向かえば岡山の手前、北に向かえば八戸の手前くらい距離だ。むむむ、そう考えると遠いな。それに海の上のハイウェイを走るのだから、景色を楽しめる時間に通過せねばならぬ。暗くなってから、みてごらんいま海の上だよー、と言っても冷たい沈黙が車内を支配するであろう。急ごう、急ごう。というわけでオーランドを早朝に発って一路南へ、フロリダターンパイクをひたすら南下する。フロリダターンパイクはマイアミ近郊とフロリダ州中央部および南部をつなぐ大動脈。道幅も広く快適なドライブを楽しめる。

途中、PGA本部1)のあるパームビーチガーデンズ(Palm Beach Gardens)を右手に見ながら進み、デルレイビーチ(Delray Beach)方面の看板を通り過ぎる。2007年に、当時18歳、ランキング244位の錦織圭が、アメリカプロツアーにおける衝撃的な初優勝を飾った場所だ。高級避寒地フォートローダーデール近郊をすぎると、道はマイアミ市内を避けるようにゆるやかに西に進路をとり更に南下する。お昼を過ぎたので、一般道に降りてマイアミ国際大学そばの中華料理屋でランチ。この大学も、アメリカの大学がほとんどそうであるように、キャンパスが広大で気持ちが良い。調べてみたところ、俳優のアンディ・ガルシアが卒業生だそうだ。彼もこの中華料理屋で大盛り天津丼を食べただろうか2)

ホームステッド(Homestead)という町のはずれで道はインターステート1号線と合流。間もなくマイアミ半島を離れ、いよいよフロリダ・キーズ(Florida Keys)とよばれる小さな島々をつなぐ海上ハイウェイに入る。この1号線の最果てがキーウエストだ。

1 ゴルフをする人にはおなじみ。
2 たぶん食べてない。

Still of the Night (Whitesnake)

1987年の「白蛇の紋章〜サーペンス・アルバス」1)を聞いたときの衝撃は鮮明に覚えている。全編、息苦しさを覚えるほどの緊張感と疾走感が続き、ふと気が緩む「捨て曲」みたいなものがない。デイヴィッド・カヴァデールのボーカルは、ブルージーな哀愁を漂わせつつ、圧倒的パワーで魂を鷲掴みにする。ジョン・サイクスのギターは、凍てつく冬のような暗さを湛えて、どこまでもうねり疾走する。聞いた瞬間に、ああこれは歴史に残る名作になるんだろうな、と確信するアルバムだった。

ハードロックバンドには、ボーカルとギターの間にバチバチと火花が散るくらいの緊張感が欲しい。強力なボーカリストには、それに見合うだけのパワーを持ったギタリストが必要だ。その点、カヴァーデルとサイクスはいい組み合わせだった。もちろん両者の力が拮抗すればするほどバランスは微妙になり、結果として短命に終わることが多いけれど(そして事実この組み合わせもそうなったけれど)、それでもその緊張2)だけが生み出せる音楽があるのだと思う。

と、こぶしを握りしめて力説しているそばから、金髪グラマーなお姐さんが出てきて意味不明に踊ったりしているPVはどういうわけだろうか。ホワイトスネイクのビデオの大半はこんな感じで赤面ものなのだが、どうにかならんものか。演奏シーン3)だけで十分格好いいのに。

1 例によって意味不明な日本語タイトルがついている。アメリカ版が「Whitesnake」、ヨーロッパ版は「1987」。
2 2000年代以降(とくにダグ・アルドリッチが抜けてから)は、こういう緊張感はすっかりなくなってしまった。きっと若いギタリストにとってはカヴァーデルが大御所になりすぎ、彼自身も、自分を脅かすほどのギタリストを抱え込むパワーがなくなっているのだろう。
3 「Still of the Night」のPVに出ている面々は、カヴァーデル以外はこのアルバムのレコーディングには参加していない(ヴァンデンバーグは「Is This Love」のGソロで参加)。僕としてはこちらのビデオのメンバーが一番良かったように思う。

Don’t Look Back (Boston)

トム・ショルツには、マサチューセッツ工科大学(MIT)卒業、という肩書がつねについて回る。でもそれは、単に、ロックの世界では相当珍しいバックグラウンドである1)というだけでなく、彼の音楽を正しく形容しているとも言える。

1976年のデビュー・アルバム「幻想飛行」(原題 Boston)の元になったデモテープは、ほとんど彼一人で制作され、信じられないほどのクオリティだったのは有名な話だが、その後のアルバムもほぼ同様で、ボーカルパート以外は彼一人で作っている。完全アナログの時代にあって2)、何重にも音を重ねて重ねて、あの1ミリの隙もない壮大なボストン・サウンドを作り上げるところなど、まさにオタクの極みであって、「MIT」という肩書が実にしっくり来るのである3)

Don’t Look Backは2枚めのアルバムとして1978年リリース。製作期間が短かったせいか、一枚目ほどの緻密さは感じないけれど、アコースティックからハードなディストーションまで全編トム・ショルツサウンドは変わらない。曲の中盤から盛り上がりにかけてヘヴィなギター中心に壮大なオーケストレーションで迫ってくる。特筆すべきはメロディラインの美しさ。ブラッド・デルプ4)の透明で、同時に必要なところではしっかりパワーも出るボーカルとコーラスがそれを見事に活かしている。

日本でボストンのコピーバンドっていままで一度も見たことがない。まずトム・ショルツの音5)を再現するのが一苦労。加えて、Dr、B、G2台、Key(二人?)、ハイトーンボーカル、コーラスと編成が大きくなるから、メンバー揃えるのは至難の業だろう。

1 ブライアン・メイの天体物理学博士と並ぶ。この二人が共通して、緻密なオーケストレーション好きで、機材自作好きというのは偶然ではなかろう。
2 もちろんPro Toolsなんてまだない。
3 2014年10月の来日公演で、MITのロゴ入りTシャツ着てたし。
4 残念ながら2007年3月に自殺でこの世を去ってしまった。
5 エフェクター類もほとんど自作している。昔、Rockmanというブランドで彼の設計したエフェクターやプリアンプなどが販売されていた。使ってみたことがあるが、いきなりあの音が出て驚いた。

ホバート旅行記 6 ボノロング野生動物保護施設

Bonorong Wildlife Sanctuary

タスマニアと言えばもちろんタスマニアデビル。この恐ろしげな名前の動物を見ずにタスマニアに行ってきましたとは言えぬ。写真を見ると、小型犬くらいの、真っ黒い、クマのような風貌の、やや恐ろしげな雰囲気の動物である。タスマニアの固有種とはいえ、タスマニアに行けば、どこでも見られる、というわけではない。タスマニアデビルは絶滅危惧種に指定されており野生の個体数は急速に減少している。夜行性で、死んだ動物の肉を食べる習性があるため1)、クルマに轢かれて死んだワラビーなどの動物を食べようと道路に出てきて、自分も轢かれてしまうという事故が多いらしい。また、20年ほど前から、デビル顔面腫瘍性疾患(Devil Facial Tumour Disease, DFTD)という伝染性の癌が急速に広がっていて、個体数の減少に拍車をかけている2)

ボノロング野生動物保護施設は、動物園ではない。タスマニアデビルをはじめ、ウォンバット、ハリモグラなどタスマニア、オーストラリアの固有種(おおくは有袋類)を救助、保護、リハビリ、そして可能な限り野生に帰すプログラムを行う保護施設だ。自由に施設内を見学できるほか、職員による説明付きツアーなどもある。ここには十数匹のタスマニアデビルが保護されていて、タイミングによっては間近で見ることができる。

餌につられて出てきた

ちょうど餌やりのタイミングにぶつかったようで、職員の女性が餌を入れたバケツを持って区画に入ると、横穴からにゅっと黒い動物が現れた。餌につられて穴の外に出てくるけれど、肉片をくわえてすぐに穴の中に戻ろうとする。夜行性なので昼間はあまり外に出たくないのかもしれない。気まぐれにあちこち動き回ると、まもなく穴に戻っていった。デビルの年齢や、健康状態に応じて、いくつか区画わけがされていて、それぞれに何頭かのデビルがいるようだ。

ダンボールが大好き

デビル以上に見学者に人気だったのはウォンバット。コアラをずんぐりの樽型にしてふかふかの毛皮をかぶせて木の上から地上におろしたような、なんともかわいらしい姿3)。人間に撫でられたり抱っこされるのがどういうわけか大好きのようだ4)。フォレスターカンガルーは園内いたるところにいて、餌やりができる(というより餌をもっているとぬ~っと向こうから寄ってくる)。100歳を越えたオウムや、ヘビ、ハリモグラも見ることができるので、動物好きなら、半日くらいは時間をとってぜひ訪ねたい施設である。

1 この屍肉を食べる習性とその鳴き声からデビルの名がついたとも言われている
2 2016年8月31日付けAFP記事によると、タスマニアデビルは、非常に急速な遺伝子進化を通して絶滅の危機から立ち直りつつあるとみられるとの驚くべき研究結果が30日、発表された、とある
3 コアラに一番近い親戚らしい
4 この施設ではないが、撫でてもらえなくて鬱になったウォンバットが話題になったこともある