味覚の自由

年齢とともに衰えるものは数知れないが、味覚はその例外かもしれない。いわゆる世の珍味といわれるものの多くは、少年にはどこが美味いのかちっとも理解できないが、歳をとってみるとしみじみ味わい深い。子供の頃、親父が烏賊の塩辛をご飯の上にこんもりと盛って、わしわしと嬉しそうにかきこんでいる姿を何度も見た。それがあまりに美味しそうだったので、真似してみたのだが、なんでこんな生臭塩辛苦いものがよいのか全く理解できなかった1)。似たようなものはほかにいくつもあって、例えば、カラスミ、うに、かにみそ、いぶりがっこ、一部のチーズ、などなど。いずれも年齢を経てはじめてその味わいに気づいた。いわば、遅れてきた口福である。

甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛いの5つにうま味をくわえた6つが味の基本というが、この「遅れてきた口福」は、そのどこにも上手くはまらない。あえて言えば、うま味が最大公約数だろうけれど、その中に何種類もの微妙な味が絡み合っていて、「複雑!」とビックリマークをつけるようなアタマの悪い表現しか思いつかない。あ、違うな。ハンバーグだって、ラーメンだって、その美味しさは、単に六つの味で表現できるわけではないのだけれど、この「遅れてきた」連中の味わいは、子供の頃から美味しいと思ってきたものの延長線上ではなく、どこか別の相にある、ということだ。

小さい頃は糖分、青少年期はタンパク質、のように、ヒトはその成長段階に必要な栄養素を摂取したくなるように味覚を変化させるのだとすれば、そういった「必要性」のくびきから解放された味覚が、ついに自由を獲得したということなのかもしれない。ビバ、自由。こうして人は、だんだん得体の知れないツマミで酒を呑むようになるのだな。

 

1 時たま、そこに牛乳をかける、という所業に及んでいたが、そこは今に至るも理解不能である。

極太字の万年筆

万年筆が好きだ。万年筆を持つと、何かいい言葉、気の利いた表現、ステキな文章が書けそうな気がする。まぁ、現実には、気がするだけで、実際に書けるかといえば、それはまた別のハナシだ。でも、なんとなくいっぱしの表現者になったような気分になるだけでも楽しい。ただし、極太字の万年筆に限る。細字は、ちいさな手帳にちまちまとした細かいことを書くためのもの、という感じで、全くワクワクさせてくれない。あくまで極太字でなくてはならないのである。

極太字の原体験は、大学を出て最初に就職した会社の上司だった1)。まだ電子メールやイントラネットが普及する前の話だ。その人はいつも穏やかでダンディで、声を荒げたり、酒席で乱れたりした様子を見た覚えがない。部下に指示をしたり、伝言を残すときは、いつもウォーターマンの万年筆で薄黄色のメモパッドに2、3行、丸い丁寧な文字でメモを残した。メモの最後には必ずイニシャルを2文字。極太字の万年筆で書かれたその文字が、スマートでどこか温かみがあって、僕は好きだった。僕が一年くらいで転職したために、その上司とはそれきりお会いする機会もなく、もうずいぶんな年月が経つけれど、今でもたまにメモ書きの文字を思い出したりする。

トリムがシルバーなのがよい。

今、愛用しているのはペリカンのM405。大井町にあったフルハルターという小さな(でも万年筆愛好者の間ではとても有名な)お店で購入した2)。ここは店主の森山さんが、顧客ひとりひとりの手、ペンの持ち方や書き癖に合わせてペン先を研磨調整してくれるという稀有なお店。森山さんに調整してもらったペンは、受け取って紙の上にペン先を置いた瞬間から、何年もかけて馴らしたペンのように、何の引っ掛かりもなくインクが滑り出る。万年筆がひとりでに動き出すような感覚。書くことそのものが気持ちよくて、ずっと書いていたくなって、余計なことまで書いてしまうという「弊害」すらある。とはいえ、メールやチャットが仕事のみならず日常のコミュニケーションの大半を占める現代では、万年筆の出番はそれほど多くない。なんとか出場機会を増やすにはどうしたものかと頭を悩ませている。

1 万年筆そのものへの憧れは、小学生の頃、旺文社の学年雑誌についていた付録がきっかけだったと思う。
2 2018年2月末で大井町の店舗は閉鎖してしまったようだ。4月か5月に我孫子に移って再開とのこと。

サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 (上)(下)文明の構造と人類の幸福

ユヴァル・ノア・ハラリ (著) 柴田裕之 (翻訳)

河出書房新社

ホモ・サピエンスが、なぜどのように他の生物種を凌駕して地上の支配者となったのかを数千年のスパンで概観し、今、我々がどこにいるのかを明らかにした本書は、世界中に知的衝撃と興奮をもたらした。著名な学者、哲学者から先進グローバル企業の経営者まで、ネットにはこの本を高く評価するコメントが溢れている。日本語版上下巻で合計600ページ近い大著なので、簡単に読めるというわけではないけれど、これほどの知的興奮を味わった本も久しぶりだ。キーワードやポイントついては、著者本人のインタビュー記事やTEDトーク、数多くの書評などが公開されているので、そちらに譲るとして、やや脇道ながら個人的に興味深かった点をあげる。

資本主義は、経済がどう機能するのかについての理論として始まった。この理論は説明的な 面と規範的な面の両方を備えていた。つまりお金の働きを説明すると同時に、利益を生産に再投資することが経済の急速な成長につながるという考えを普及させたのだ。だが資本主義は、しだいにたんなる経済学説をはるかに超える存在になっていった。今や一つの倫理体系であり、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、果てはどう考えるべきかさえ示す一連の教えまでもが、資本主義に含まれる。資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。

(中略)

経済成長は永久に続くという資本主義の信念は、この宇宙に関して私たちが持つほぼすべての知識と矛盾する。獲物となるヒツジの供給が無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら、愚かとしか言いようがない。それにもかかわらず、人類の経済は近代を通じて飛躍的な成長を遂げてきた。それはひとえに、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を考案したりしてきたおかげだ。

(中略)

ここ数年、各国の政府と中央銀行は狂ったように紙幣を濫発してきた。現在の経済危機が経済成長を止めてしまうのではないかと、誰もが戦々恐々としている。だから政府と中央銀行は何兆ものドル、ユーロ、円を何もないところから生み出し、薄っぺらな信用を金融シスムに注ぎ込みながら、バブルが弾ける前に、科学者や技術者やエンジニアが何かとんでもなく大きな成果を生み出してのけることを願っている。(第16章 拡大するパイという資本主義のマジック)

資本主義や経済成長、また足元ではアベノミクスについて、いろんな書籍、記事、解説を読んでみたけれど、度のあわないメガネをかけて調べ物をしているようで、どれもピンとこない。でも、本書を読んで霧が晴れた。「資本主義」という「虚構」の倫理体系にあっては、「経済成長」という「信念」は、たとえヒトの直感(あるいは知識)に反していても、もはやそれは至高の「教義」と化していて、それを信じることで経済が回っている。その「教義」に基づいて日銀は何もないところから、とりあえず円を大量に印刷してばら撒き、成長のネタを待っている、と。うん、実にわかりやすい。

本筋から更に離れるけれど、もうひとつ。

このような考え方は、現代の自由主義の文化とはかけ離れているため、仏教の洞察に初めて接した西洋のニューエイジ運動は、それを自由主義の文脈に置き換え、その内容を一転させてしまった。

(中略)

幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。(第19章 文明は人間を幸福にしたのか)

著者は一日2時間の「瞑想」を日課としているという。この「瞑想」は、今はやりの「マインドフルネス」ではなく、もっと仏教の「禅」に近いものなのだろう。以前、会社で「マインドフルネス」のセミナーを受けた時に、座禅からヒントを得たというわりには、かなりお手軽な自己省察ツールと化していて、大きな違和感を感じたが、この記述を読んで納得がいった。英国のGuardian紙に2017年3月に掲載されたインタビュー記事によれば、著者の瞑想の目的は、現実をありのままに見るためとのことだ。人の心は絶えず物語や虚構や説明を作り出そうとするけれど、現実に起きていることを見て理解するにはそれらは邪魔になる。瞑想はそういったものに煩わされないで現実をありのままに見る助けになる、と述べている。

本書の続編「Homo Deus」は原語のヘブライ語版や英語版などはすでに発売されている。日本語版は2018年9月に河出書房新社から発行される予定

箱根高原ホテル

箱根高原ホテルは、秋のススキ原や美術館で知られる仙石原からもうすこし芦ノ湖寄りの「湖尻高原」にある。箱根の温泉といえば、高級旅館が多い強羅や、著名人が多く贔屓にした宮ノ下、塔ノ沢あたりの歴史的湯宿がまず浮かぶ。仙石原は観光スポットをあちこち歩くところで、「泊まる」というイメージはあまりなかったのだが、「温泉博士」松田忠徳さんの「温泉手帳」(東京書籍)に、箱根高原ホテルは首都圏では数少ない「源泉かけ流し」の穴場だと紹介されていたので、訪ねてみた。

都内からクルマで行くなら、御殿場インターまでは東名高速、そこから国道138号線。混まなければ、およそ1時間半で到着。3月はじめはまだオフシーズンなのか、比較的空いているようで、料金も、朝食のみなら一人1万円を切るくらいと手頃だ。僕は、都内でお気に入りのお弁当と夜のつまみやおやつを買い込んで持ち込むのが好きなので、素泊まりか朝食のみにすることが多い。

ホテルは1962年創業、56年の歴史がある。体育館や会議室を備えているので、学校や企業の利用も多いみたいだ。タイミングが良かったのか、うぇーいと盛り上がる団体さんをみかけることもなく、ホテルはとても静かだった。部屋は4階の角でテラス付き。昨年リニューアルをしたばかりとのことで、とてもきれいな和室である。余計な装飾がないのも好印象。晴れていれば、テラスから周囲の自然や星がよく見えたのだろうが、あいにく冷雨がずっと降っていて、何も見えなかったのは残念。

館内の大浴場は「乙女の湯」と「金時の湯」のふたつ。それぞれ露天風呂も備えている。語感とは逆に、「乙女の湯」が男性用、「金時の湯」1)が女性用になっていた。大浴場への入口付近に暗証番号式の貴重品ロッカーが備えられているので、サイフやスマホが心配なら利用すると良い。脱衣場も脱衣カゴ方式ではなく、スポーツクラブでよくある簡易な鍵付きのロッカーなので、「あぁ、オレのシャネルのパンツが盗まれないか心配だ2)」という人でも、まぁ、大丈夫であろう。

このホテルでは自家源泉を持っていて、大浴場の湯は、ナトリウム・カルシウム・マグネシウム-硫酸塩・炭酸水素塩泉、いわゆる旧分類名では、硫酸塩泉(芒硝泉)。化学の知識が中学・高校あたりの断片しかない文系バカの我々には、「硫酸」という文字だけで、湯の中でカラダがチリチリと溶けてしまう恐ろしげな絵が浮かぶが、もちろんそんなはずはない(たぶん)。ホテルのHPにある解説は、「カルシウム、ナトリウム、マグネシウムがバランスよく混ざっており、陽イオン、陰イオン各々の主要3成分が過不足なく 入った温泉は、温泉の女神の見事な調合と言われております。(陽イオンと陰イオンの主要メンバーが全て20%以上に 調合された温泉は余り見られません)」と熱く語っており、五十肩、関節痛、動脈硬化など、おっさんには嬉しい効能が並ぶ。イオンがどう作用するのかよくわからないなりに、まぁ、有り難い湯なのだな、と納得する。塩素による消毒はしているようだが、循環はさせていない「かけ流し」だ。乙女湯の浴場内には、大きな浴槽がふたつあり、ひとつは42度弱くらい、もうひとつは43度強くらいの異なる湯温に設定されていて、熱い湯が苦手な僕にはありがたい。お湯は気持ちとろりとして、わずかに黄味がかっているように見える。硫黄臭は一切ないけれど、かすかに「ミネラル臭」がするような気もする3)。露天のほうは、大浴場と異なる源泉の単純温泉だが、循環・消毒しているので、湯質として特筆すべきものはない。でも、広々として空がすっきりと見渡せる。洗い場も清潔感があり、シャワーもそこそこの水圧がある。

一泊する間に、3、4回風呂に入ってゆっくり体を温めると、肩こりや腰痛がやわらぎ、心地よい疲れ具合でよく眠れる4)。そのほかの効能については、一日滞在したくらいではさすがに実感はできないが、一週間くらい湯治すればもしかすると違うのかもしれない。ホテルとはまったく別件ではあるけれど、箱根は雨が降ると行くところがない。仙石原高原で雨の中でうろうろしても風流というより、遭難した人のようでミゼラブルの域に近づくし、湿生花園も芦ノ湖も雨ではいかんともしがたい。というわけで今回はここに載せる写真もないという有り様である。宿もお風呂も気持ちよかったので、近いうちに天気の良いタイミングを見計らって再訪したい。

1 金的の湯ではない。
2 シャネルで男性用下着を売っているのかどうかは知らない。
3 温泉分析書には「無色透明・無臭」とあるので気のせいかもしれない。
4 全館和室なので、ベッドではなくふとん。普段ベッドの人は寝具がしっくりこない可能性もあるので、枕くらい持っていく手もある。

Eyes Of A Stranger (Queensrÿche)

プログレ・ロックといえば、変拍子、転調の多用、長大な曲といった音楽的に「高度」なアプローチや、コンセプトアルバムに代表される物語性が頭に浮かぶ。ピンク・フロイド、キングクリムゾン、ジェネシスなどが代表例だと思うけれど、僕はそれぞれ一、二度聞き流した程度であまり好きではなかった。なんとなく大げさで、わけのわからない現代美術を見ているような気にさせられて、単純に楽しめなかったのだ。

クイーンズライク1)というバンドも、プログレ・メタルとして、名前くらいは知ってる、という程度だったが、ある時、ヘルプでギターを弾くことになった学園祭バンドで「Operation: Mindcrime」から4、5曲コピーすることになり2)、初めてアルバム一枚まるごと聴いてみてあらビックリ。なんせ、一曲目のインストから、拍子のアタマがわからない。食ってんの?食ってないの?3)変拍子?どこから?あれ、戻ってる?と、のっけから「?」だらけで途方に暮れる。これ無理!弾けない、というのも悔しくて、譜面とにらめっこしながら、何十回、何百回と聴いて練習した。これが面白いことに、なんとか弾けるようになる頃には、このアルバムの虜になっており、学園祭が終わった後も四六時中こればかり聴いていた。今でもたまにクルマの中で大音量で聴いている。かなり中毒性が高い。

「Operation: Mindcrime」は、クイーンズライク3枚目のアルバムで88年発売。壮大・緻密なコンセプト・アルバムとして、ヘヴィメタル史に残る名作。多くを作曲しているクリス・デガーモ(G)のセンスが素晴らしい。コード進行と、ジェフ・テイト(Vo)の常人離れした声域をフルに使ったメロディの美しさが際立っている。また、ロックらしいストレートなビートでありながら、変幻自在に変化するドラム+ベースのリズムの面白さは出色である。

「Eyes Of A Stranger」は、アルバムのラスト、つまり物語のラストを飾る、ミッドテンポの曲。トリッキーな変拍子はないけれど、緩・急、静・動が効いて実に格好良い。ライブだと、この曲がそのまま1曲目のインスト(Anarchy-X)4)に繋がって全体がループするように終わる構成になっていた。

1 僕が聴いていた頃の日本語表記は「クイーンズライチ」だった。
2 今考えると身の程知らずなかなり無謀な試みである。若気の至りと言えよう。
3 バンドで「アタマ食う」というのは、例えば四拍子の曲なら、小節の1拍目ではなく、前の小説の4拍目の裏からツッコミ気味に入ること。「いち、にい、さん、しい」の最後の「い」と次の小節のはじめの「い」がつながる感じ。
4 正確に言うと、アルバムクレジットでは2曲め。シンセの不気味なコード・効果音の上で主人公が独白する「I remember now」が1曲め。

温泉旅館格付ガイド

温泉旅館格付ガイド(25点満点評価つき)

松田忠徳 著 新潮社

著者は「温泉教授」として、温泉に関する本を多数執筆している。どの著書でも、なぜ温泉が健康に良いのか、良い温泉とはどういうものなのか、源泉掛け流しが価値を持つのは何故なのか、といったポイントについて熱く語っている。

この本の良いところは、温泉好きの個人が、利害関係等のしがらみを持たず、極力温泉側にアンケート等による情報開示を求めて、選んだ湯宿を紹介しているという点につきる。

つまり、ほとんどの雑誌が、時には単行本ですら取材に足を運ぶことは珍しいというのである。読者の皆さんが目を通す「温泉特集」のいくつが実際に足を運んでいるのだろうか。

カタログ化している雑誌の中には、宿側から掲載料を取っているところも多い。全ページが広告と化している場合さえあるのだ。今回も「掲載料は取られるのですか?」という質問を編集部は何度も受け続けた。その頻度は悲しくなるほどのものだったという。(はじめに「情報誌と宿は持ちつ持たれつ」)

たぶん多くの人は、従来の紙メディアの情報は、「プロが作った」「客観的」なものだと思っている。でも、そのコンテンツの作り方において、いい加減な、あるいは利害関係をベースにした、読者を欺くような誌面作りをしていたところも少なくなかったというわけだ。この本の発行は2006年。この頃はまだ、あちこちのブログやサイトから「コピペ」してきたようなコンテンツを垂れ流すバイラル・サイトあるいはキュレーションメディアの問題はまだ起こっていない。でも、その根っこ(というか芽というか)はネットメディアに限ったことではなく、すでに広くはびこっていたのだと思うと残念だ。

本書はすでに「絶版」1)で、たぶん古書店でしか入手できない。著者による温泉情報は、2017年9月発行の「温泉手帳(増補改訂版)」(東京書籍)が最新のようである。僕はこの2冊を相互に参照しつつ、次にどこに行こうかと日々楽しく悩んでいる。

1 著者に「もうあなたの本は絶版にします」とは言いたくないので、版元は大抵、もう刷る気が全くなくても、「重版未定」すなわち、重版するかどうかまだ決めてません、という立場をとる。

猫尻

日本には111の活火山があり1)、この数は世界のおよそ1割に当たるらしい2)。おかげで地震や噴火は日常茶飯事とも言える国土だけれど、その代わりに、世界に冠たる温泉大国でもある。秘境の野趣溢れるところから、公営の銭湯、あるいは超がつくほどの高級宿まで好みと予算に応じて選び放題。なかでも、源泉かけ流し、と言われる、お湯を施設内で循環させず、加水もせずに供給するところは、「上質」な泉質が期待できるとあって人気である。

ところで、温泉の湯温、熱すぎるところが多くないか?日本人には42度が適温、とされているらしいが、一体誰が決めたのか。源泉かけ流しを謳うところは、熱めの湯が多い気がする。僕には40度から40.5度が極楽、頑張って41度が限界なのである3)。熱めの湯でも、いつも頑張って入ろうと努力はしている。そろりそろりと膝から下までは何とかなるが、尻を浸ける段になると、どぅわ!と意味不明の叫び声をあげて、毎度毎度、浴槽を飛び出すことになる。尻のあたりがとくに敏感なのだ。猫舌ならぬ猫尻である。

繊細な尻をもつ私には信じられないことに、43度とかそれ以上を好むあつ湯好きという人種がいて、こちらが入れないほどの湯でもまだぬるい、と不満げである。こういう輩が気持ちよさそうに入っているときは、心のなかで「煮えてしまえ」と呪いをかけるが、まったく効果はない。タンパク質が変性してローストビーフとか温泉卵みたいにならないかと密かに期待するが、多少赤くなる程度で、やつらは鼻歌などうたいながらご機嫌である。

というわけで、この週末に行った温泉でも、名物らしき「星空の見える露天風呂」には熱すぎて入ることができず、悔しいので湯に入らずに星を眺めていたら、風邪をひきました。

でも伊豆はもうすっかり春。

1 気象庁による。
2 国土面積は世界の0.28%しかないからいかに火山が集中しているかわかる。
3 孫引きであるが、有馬温泉の「湯文」(温泉湯治養生記)には、ぬる湯がよいとある。『湯はぬるきを本とす、あつければ熱をこる也、身熱すれば風を引、却て寒のもとひなり、』

パンク道中

過日、用事があって御茶ノ水方面へクルマを走らせていると、ステアリングの感じがどうもにヘンである。妙に硬いというか、反発力が強いというか。はて、どうしたことかと訝りながらも目的地には無事に到着。

3時間ほどで用事が済んだ帰り道。駐車場から出したところで、朝よりも一層強い違和感が。ふむ、こりゃいかん、と道端でクルマを停めて、懇意にしている整備会社1)に連絡して電話でアドバイスを受ける。最近の電子部品満載のクルマと違って、我が89年製のご老体は、ボンネットを開けると、エンジン周りは素人でもなんとか内部がわかるくらいにシンプルなつくりである。パワステベルトとパワステオイルを調べてみるも特に怪しげな様子はなし。放っておくのもコワいので取り急ぎ診てもらおうと、その整備会社に向かう。高速を使えば3、40分の距離だ。

高速では80キロ遵守の安全運転。で、目的地に無事到着して、クルマの周囲をぐるりと見て回ったところ、何たることか、右のフロントタイヤが見事にペチャンコ。英語でパンクのことを「flat tire」と言うが、まさに文字通りそうなっており、これで高速走ってたかと思うと冷や汗。ご老体が踏ん張って支えてくれたのだね、ありがとう。クルマには申し訳ないことをしてしまったが、これで朝からの違和感の原因はタイヤにあったことが判明した。

工場ではすぐにタイヤ2)を取り寄せ、交換作業をしてくれた。調べたところでは、タイヤに釘などの異物はなし。刃物などでいたずらされた形跡もなし。なぜ空気が抜けたのかは不明とのこと。おそらく午前中の段階で空気が抜けかけていて、走っているうちにどんどん抜けてハンドルが重くなり、整備工場についたときにちょうどダメになった、ということか、と。

長いこと乗っているけれど、走行中に完全に空気が抜ける状態に至ったのは初めての経験3)。今回の教訓:ハンドルに違和感を感じたらまずパンクを疑うべし。

1 オールドカー専門店なので、経験豊富な頼れるお店なのだ。
2 タイヤくらいはいいものを、と思ってRegnoを履かせてたりする。ボディが大柄な割には、タイヤサイズはリッターカーくらいなので価格も手頃。音が静かでいいですよ。
3 乗ろうとしたらパンク状態だったことは一度ある。

生涯投資家

村上世彰 著 (文藝春秋)

著者は、言わずと知れた「村上ファンド」を率いた投資家で、2006年6月、ニッポン放送株をめぐるインサイダー取引を行った容疑で逮捕され、のちに執行猶予つき有罪判決を受けることになる。この事件は、フジテレビ対ライブドアという、マスコミ既得権者と新興IT企業の対立図式で、センセーショナルに報道された。

本書は、著者の投資哲学、日本企業とそのビジネスへの見方・考え方を、投資の実例を通して語っている。キーワードは「コーポレート・ガバナンス」だ。

コーポレート・ガバナンスとは、投資先の企業で健全な経営が行なわれているか、企業価値 を上げる=株主価値の最大化を目指す経営がなされているか、株主が企業を監視・監督する ための制度だ。(中略)経営者と株主の緊張関係があってこそ、健全な投資や企業の成長が担保できるし、株主がリターンを得て社会に再投資することで、経済が循環していくメリットがある。(第一章 何のための上場か 3. コーポレート・ガバナンスの研究)

著者の投資は、このコーポレート・ガバナンスを、投資家の立場から、愚直なまでに日本で実現しようとした軌跡と言える。日本企業は、上場していたとしても、その実態は、依然として従業員の共同利益のための組織(あるいは、ある種のムラ社会)であって、経済学の教科書にあるような株主の利潤追求のための組織ではない1)。そこに、正面から株式会社運営のルールを突きつけても、感情的な反発と強い軋轢が生まれるだけだ。ルール、理屈、理論から言えば、おそらく100%著者に理があるのだが、当事者はもちろん、マスコミが輪をかけて情緒的な拒否反応を示す。著者のファンドに対するネガティブ一色な報道はこの典型例だろう。この種の「日本的」情緒で、産業・ビジネスのダイナミズムが損なわれる例は、今も毎日にように起きている。経済が否応なくグローバル化し、ビジネスも投資も日本国内だけで考えることに意味のなくなった今、著者に改めて学ぶところも多い。

1 「1940年体制」(野口悠紀雄著 東洋経済新報社)ではグローバリゼーションとともに日本が成長できていない原因を1940年体制という日本独自のルールにあると分析している。

青春のササニシキ

ふるさと納税で宮城県大崎市からササニシキをもらった。いまササニシキはあまり流通しておらず、手に入りにくい。今、流通しているお米の大半は、コシヒカリかコシヒカリの子・孫ともいえる種類で、作付面積の割合で言うと、7割から8割がコシヒカリ系らしい1)。ササニシキは上位20位にも入らなくなってしまったので割合としては0.6%以下、ということになる。1970年代から80年代は、日本晴(にっぽんばれ)、ササニシキ、コシヒカリが3強だった。しかし、ササニシキは生産に手間がかかり、冷害や病気に弱いらしく2)、安定して高品質なコメがつくれるコシヒカリが急速にシェアを伸ばしていった。

炊いてみると、白く光る米粒がスラリと輝いて、食べてみると、これがとてもよい。さっぱり、さらりとして優しい味わいだ。同時に、とても懐かしい味がする。忘れていた何か大切なことをふと思い出したような感じ。男子食べ盛りに白米をどか食いしていたのがまさに70年代、80年代なので、ササニシキを大量に胃の腑に収めた記憶が脳の奥の方に刻み込まれているに違いない。

手巻き寿司とカレーを家で作って試してみたところ、これが絶妙に合う。コシヒカリで作るよりも美味い。刺し身やカレーの旨味が一歩前に出てくる。寿司屋がササニシキを指定することが多いというのもよくわかる。コメが魚の繊細な香りや味を邪魔しない。丼ものとかカレーとか、ライスの上に何か乗せるタイプの料理にはぴったりだ。あと、胃にもたれないのもよい。

1 上から、コシヒカリ36.2%、ひとめぼれ9.6%、ヒノヒカリ9.1%、あきたこまち7.0%だそうだ。「平成28年産 水稲の品種別作付動向について」公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構
2 93年の東北冷害で急速に作付が減少したようだ。