アンタッチャブルの街:シカゴ旅行記 1

アンタッチャブル

それほど映画を観る方ではないけれど、好きな映画をあげろとなれば、「ゴッドファーザー」(とくに第一作と第二作)、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」といった、「マフィア」を扱った映画がいくつか入ってくる。単にこの手の映画によく出てくる役者が好きなのか、あるいは時代の暗さとダンディズムの組み合わせに何か惹かれるものがあるのか。

中でも「アンタッチャブル」(The Untouchables)は良い。1987年公開だから、僕が大学生の頃だ。当時ビデオまで買って繰り返し見た。主人公エリオット・ネスにケビン・コスナー、アル・カポネ役にロバート・デ・ニーロ、ネスを助ける老警官マローンにショーン・コネリーという豪華な俳優陣。アンディ・ガルシアは、射撃に秀でた若き警官・ジョージ・ストーン役で、ハリウッド俳優としての成功の第一歩を踏み出した。監督はブライアン・デ・パルマ。女性の登場人物はネスの奥さんくらいで、全体にエラく男っぽい映画である。

主演はケビン・コスナーだとはいえ、これはショーン・コネリーの映画である。いや、正確にはショーン・コネリーとロバート・デ・ニーロの映画だ1)。キャラクターの存在感、深さ、狂気、滑稽さ、弱さ、強さといったものを、この二人がそれぞれに遺憾なく発揮していて見飽きることがない。アルマーニによる衣装がまた見事だ。みなダークスーツに中折れ帽。スーツ(あるいはジャケット)の着こなしの格好良さでは、ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドといい勝負だと思う。

「アンタッチャブル」の舞台は禁酒法時代のシカゴ。2年ほど前(2016年)に、シカゴに出張する機会があったので、撮影に使われた場所をいくつか訪ねてみた。(シカゴ旅行記 2 に続く)

1 もうひとり、フランク・ニッティという白いスーツの殺し屋がいて、ビリー・ドラゴが演じている。この人もコスナー以上の存在感を放っている。

MOVE(上原ひろみ・ザ・トリオ・プロジェクト)

ジャズ、それもギターの入っていないジャズにはほとんど興味を惹かれることはないのだが、このトリオだけは別。なんせドラムがサイモン・フィリップス御大なのだ。サイモン・フィリップスといえば、ロック、ハードロック分野のビッグネームとの共演で広く知られている。ジェフ・ベック、マイケル・シェンカー、ゲイリー・ムーア、ジューダス・プリースト、ホワイトスネイク、ミック・ジャガーなどなど挙げればキリがない。セッション以外では、急逝したジェフ・ポーカロの後任としてTOTOのドラムを2014年まで20年に渡って担当。ジェフ・ポーカロの、端正で繊細なドラムにとって代われるとしたら、サイモンしかいない、とファンの誰もが納得の人選だった。

この人が叩くと何かが違う。ドラミングの切れ、タイトさ、グルーブ。曲とバンドをもうひとつ上のレベルに押し上げる何かがある。常人離れした技術1)を持ちつつ、でも同時に、そのドラミングはどこまでもストレートで、出しゃばりすぎることなく、余韻と余裕を残している。

そのサイモン・フィリップスをドラムに、アンソニー・ジャクソンをベースに配した上原ひろみのプロジェクトがザ・トリオ・プロジェクト。このトリオのライブを国際フォーラムとブルーノート東京で観たことがあるけれど、もう圧巻の一言。上原ひろみのピアノは、若さのパワーが漲っていて、アタックの効いた強い音から、優しく繊細な音まで表現の幅が広い。それを円熟のおっさん二人が盛りたて、いなし、煽り、押さえながら、それぞれが超絶プレイで応える。ジャズらしい変拍子がくるくると入れ替わる曲2)も、一瞬たりともグルーヴが途切れることなく、大きなうねりが会場を包み込む。ジャズというより、ロック的なグルーヴに近いかもしれない3)

コンサートを観に行くと、自信過剰にも、僕も死ぬほど練習すればこのくらい演奏できるようになるかな、などとぼんやり考えたりすることがある。でも、この3人の場合、同じ「ヒト」の地平にいるとはとても思えず、どう逆立ちしてもこのレベルに到達することなど想像すらできない。

1 一応右利きのようだが、左でハイハットを操るオープンスタイル。ツーバスも左右両方で魔法のように複雑なビートを刻むので、プレイを見ていてもどこを叩いて音が出てきているのかわからず手品を見ている気分になる。
2 あれだけの変拍子の中で、ソロやアドリブパートの終わりに、とくに拍子を数えてる様子もなく、どんぴしゃで3人が合わせられるというのが神業で、もう何がどうなっているのやら。
3 かつてTOTOのギタリスト、スティーブ・ルカサーが「ジャズのセンスでロックする」と言ったが、このトリオでは「ロックのセンスでジャズをする」だと思う。

赤倉観光ホテル

由緒、歴史のあるホテルというのは魅力的なもので、開業当時の時代や世相を今に伝え、また、創業者の哲学や考え方といったものが色濃く残されていることが多い。軽井沢の万平ホテル、日光金屋ホテル、箱根の富士屋ホテルなどが典型だ。赤倉観光ホテルもそんなホテルのひとつで、創建したのは、帝国ホテル、ホテルオークラ、川奈ホテルなどを作った大倉喜七郎である1)

大倉喜七郎が建てたホテルは、そのほとんどに彼のダンディズムが色濃く受け継がれているように見える。大倉財閥二代目として、何一つ不自由なく育ち、英国で教育を受けた彼の、コンプレックスと無縁の品の良さ、美意識、スケール感が今も生きている。

赤倉観光ホテルは1937年創業。新潟県と長野県の境にある妙高山の中腹にあり、高原リゾートの草分け的存在とされている。本館のロビーやライブラリも歴史を感じる素晴らしいつくりなのだが、泊まるには2009年に建てられたSPA&SUITE棟がおすすめだ2)。部屋のテラスに源泉かけ流しの温泉が備え付けられていて、野尻湖を望む絶景を眺めながら24時間温泉に浸かることができる。夜は満天の星空。ここに行くと、バーにちょこっとウイスキーを飲みに行く以外にはほとんど部屋を出ることもなく、買ってきたつまみや弁当を食べ、風呂に浸かり、ベッドで大の字になって本を読み、うたた寝をし、また風呂に浸かり、と、以下好きなだけ繰り返しているうちあっという間に時間が過ぎてゆく。

この日はちょっと曇って雨まじり。

本館からSPA&SUITE棟に入ったところにある展望ロビーも、水盤の使い方が素晴らしく、時間帯ごとに違った表情を見せてくれるので、どれだけいても飽きることがない。この水盤モチーフはそのまま部屋の作りに生かされていて、テラスの浴槽の向こうにも水が満たされており、夏は涼し気な、春・秋は季節の移ろいを感じさせてくれる3)

1 赤倉、川奈ともに2004年に大倉系列から売却されている。赤倉の現オーナーは、米国で持ち帰りずしチェーンAFC Corpを興して成功した日本人経営者。
2 赤倉オリジナルの雰囲気を損なわず、全体としての格調を保っている。2016年にはプレミアム棟もオープン。こちらも良い。
3 冬はSPA&SUITE棟の眼の前の広大な斜面がスキーゲレンデになるようだが、冬は混んでいるので行ったことがない。

Tonight Tonight Tonight (Genesis)

ジェネシスは活動期間が非常に長く、デビューは1969年。乱暴に分けるなら、ピーター・ガブリエル在籍時のプログレ色の濃い時期と、その脱退後、フィル・コリンズがボーカルも兼任するようになってからのポップ路線に分けられるように思う。

86年発売の「インビジブル・タッチ」(Invisible Touch)は後者の代表的アルバム。バンド最大のヒットで、メンバーは、フィル・コリンズ(Vo&Dr)、トニー・バンクス(Key)、マイク・ラザフォード(G&B)の3人編成。プログレバンドの「ポップ化」では最大の成功例とも言えるかもしれない。このアルバムからは何曲もシングルヒットが出ているが、一番有名なのは、「混迷の地」(Land of Confusion)だろう。イギリスのTV番組で有名なパペット(人形)を使って、当時のレーガン大統領やナンシー夫人、カダフィ大佐やら東西の政治家が登場する、イギリスらしい悪意たっぷりのビデオを覚えている人も多いのではないか。

僕がジェネシスを熱心に聴いたのはまさにこの時期で、「インビジブル・タッチ」とその後に出た「ウィ・キャント・ダンス」はよく聴いた。当時ニューヨークにいたので、「ウィ・キャント・ダンス」ツアーは、ニュージャージーのフットボールスタジアムまで観に行ったりした。

「トゥナイト・トゥナイト・トゥナイト」(Tonight Tonight Tonight)はアルバムの2曲めに収録された、プログレっぽい匂いを残した曲で、9分ちかくある大作。中間部のインストパートが長めだがまるで飽きさせない。打楽器のフィルイン、キーボードのアルペジオから壮大なメロディ、そしてギターがオーバードライブでバッキングに入るブリッジ部に繋がるところが何とも格好いい。フィル・コリンズが「Get me out of here!」とシャウトするところもまさに魂の叫びで鳥肌モノである。ギター・ソロのパートはないが、アーミングを使った効果音的なコードの入れ方や、後半のドライブ感溢れるリフなど、ハードロック好きにも勉強になる。

マンダリン・オリエンタル・シンガポール

数年前のインド出張のとき、チームのインド人がビリヤニ(Biryani)の美味しいお店に連れて行ってくれた。ビリヤニというのは、インド(あるいはパキスタン)の炊き込みご飯のようなもので、本格的なものは調理に相当な手間がかかるらしい。一見すると長粒米のカレー風ヤキメシまたは炒飯のようにも見えるので、お手軽料理とつい侮りがちであるが、両者は似て非なる、というか全くの別物。一度本格的な美味しいビリヤニを食べてごらんなさい。コメの炊け具合、肉の火の通り、スパイスの深みと複雑さに陶然となる。

マンダリン・オリエンタルのハナシをしようというのに、いきなりビリヤニについて熱く語っているのにはわけがある。このホテルのMelt Cafeというカフェで食べられるビリヤニが美味いのだ。「Signature Chef Santosh Murgh Biryani」といってホテルのインド料理を統括しているマスターシェフ直々のビリヤニだそうだ。去年泊まったとき、二晩連続で食べに行ったら、そのマスターシェフ御本人がわざわざテーブルまで来て挨拶をしてくれた。給仕をしてくれた若いインド人のウェイターもとても喜んで、隣にあるブッフェコーナーからタンドリーチキンやらマトンカレーやらをサービスだと言って持ってきてくれたので、テーブルの上は、私ひとりだというのに、ビリヤニを真ん中にしてインド料理のフルコース状態1)になり、食べきるのに一苦労だった。

これは朝の風景

マンダリン・オリエンタルはラッフルズアベニューを挟んでマリーナ湾に面している2)ので、そちら側の部屋を指定するとよい。窓からマリーナ湾、観覧車、マリナーベイサンズの三連の建物が見える。特にネオンにライトアップされる夜景を部屋から眺められるのはとても良い。ホテルは中央が大きく吹き抜けになった三角形のつくりで、ロビーから見上げると、レストラン、バー、各客室へと上に向けて視界が広がる立体的な動線になっている。部屋は高級感のある落ち着いた色調で、ベッドの硬さもちょうどよく安眠できる。ホテルのスタッフは、皆フレンドリーでいながら礼儀正しい。何度も泊まっているが、滞在中にイヤな思いをしたことは一度もない。

1 シンガポールにはインド人も多く、大きなコミュニティもあるので、インド料理はハイレベルだ。
2 隣にマリーナ・マンダリン・シンガポールという別のホテルがあってややこしい。タクシーの運転手には「マンダリン・オリエンタルだぞ」と念押ししておいたほうがよい。

ザ・キタノ

世界の北野武、のハナシではない。ニューヨークにあるホテルの名前である。

メットライフビルとグランドセントラル駅の入口

はじめてニューヨークに行ったのは1993年。当時勤めていた会社のニューヨーク支社に1年ほど赴任することになったときだ。JFK国際空港から、妙にサスペンションがゆさゆさと緩いイエローキャブに乗ってマンハッタンに向かった。クルマがクイーンズボロブリッジに差し掛かると、フロントガラス越しに、摩天楼そびえるマンハッタン島が見えてくる。あぁ、とうとうニューヨークに来たんだ、と怖いような楽しみなような複雑な気持ちで見つめたのを今でもはっきりと覚えている。

クルマが向かった先は、38丁目とパークアベニューの角にあるキタノホテルだった。オフィスに近いこのホテルを会社が予約しておいてくれたのだ。まだ20代の若造には少々もったいなかったかもしれない。玄関を出て左を見るとメットライフビル1)の威容が迫り、下に目を移すと42丁目に面してグランドセントラル駅への入口が見える。ここに2泊か3泊して前任者と引き継ぎをし、その後社宅として借り上げていた31丁目のアパートメントに移った。このときからずっと、ニューヨークに出張や旅行に行く機会には、なるべくここに泊まれるよう算段している。

ロビーで出迎えるフェルナンド・ボテロの彫刻

93年当時、このキタノと57丁目・セントラルパークのそばにあったホテル日航2)の二つが日系だったと思う。ホテル日航は、98年ごろ、日本航空の経営危機に伴って売却され、それ以来、キタノはニューヨーク唯一の日系ホテルとして、高品質な「日本的」サービスを提供し続けている。このホテルのよいところは、1. 落ち着いた静かなロビーと部屋 2. トイレがウォシュレット 3. シャワーの水圧がしっかりしていて、お湯もふんだんに出る 4. 部屋の清潔さ 5. レストラン・ルームサービスともに和食のレベルが高い、だろう。いずれも東京のシティホテルなら「当たり前」だけれど、アメリカ・ヨーロッパのホテルでは、5はともかくとして、たとえ高級ホテルでも意外と難しい。とくに2と3はほぼ期待できない3)

南西方向・窓からエンパイアステートビルが見える

キタノホテルは、42丁目を中心とした「ミッドタウン」と呼ばれるエリア4)のほぼ真ん中という便利な立地だ。僕にとっては若い頃に馴染んだ地域でもあり、ここにいると安心する。サラダ、スープ、ピザ、サンドイッチなどお好みのものを重さで必要な分だけ購入できる「デリ」が多く、ひとりで軽い食事をとるのに便利だし、アジア系レストランの多いエンパイアステートビル界隈にも近い。

1 当時はまだパンナムビル
2 The Essex Houseという超高級ホテルだった。
3 他方、ソウル、台北、シンガポールなどアジアの高級ホテルは概ね合格点。
4 42丁目を中心に、上はセントラルパークの南端(57丁目あたり)、下は30丁目付近(広く取る場合には14丁目付近)までが、「ミッドタウン」と呼ばれる。最新の「エッジの効いた」エリア(チェルシーやSOHOの縁端部、ワールド・トレード・センター跡地の再開発エリア、ハーレムやブロンクスの一部)はみなミッドタウンの外側にある。

ホテル・チェルシー

ホテル・チェルシー(Hotel Chelsea)は、1884年の開業以来1)、有名作家、アーティスト、ミュージシャン、俳優、コメディアンが長期短期を問わず多く滞在するいわゆる「尖った」ホテルだった。とくにアメリカ文学のビート・ジェネレーションの作家(ウィリアム・バロウズ、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ等)がここを住処としたことで、世を外れたアウトロー的創作者たちが集まる場としての引力を獲得し、時代の象徴として明暗様々な話題を提供してきた。「暗」で最も有名なのは、セックス・ピストルズのベーシストだったシド・ビシャスが恋人のナンシー・スパンゲンを殺したとされる事件だろう。二人はこのホテルでドラッグ三昧の日々を過ごしていたが、1978年10月13日、ナンシーが部屋のバスタブで刺殺体で見つかる。凶器のナイフがシド・ビシャスの持ち物だったため彼は殺人の疑いで逮捕される2)が、保釈中にヘロインの過剰摂取で後を追うように死亡。この事件は「シドアンドナンシー」として映画化されている。

この有名なホテルに、僕は2000年ごろに泊まったことがある。当時ニューヨークはホテル料金が高騰していて、ちょっとまともなホテルに泊まろうと思うと一泊4万円くらいは覚悟せねばならなかった。なんとか2万円台で収まるところはないかと探したところ、ここに行き着いたのだ。場所は、ニューヨーク・マンハッタンの23rd Streetの南側、7thアベニューと8thアベニューの間にある3)

ホテルの前でタクシーを降り、正面のガラス戸を押して中に入る。途端にえもいわれぬ違和感に襲われる。エントランスホールはそこそこの広さがあり、格式ある古い建物の残り香のようなものは感じられる。でも、思いつくままに追加されたようなユニークな絵や彫刻、その他デコレーションのせいで、よく言えば個性的、普通に表現すれば、アブナイ雰囲気を醸し出していた。チェックインカウンターの向こうはあちこちに古い紙束が積まれて雑然としており、安宿の帳場といった方がふさわしい。背面の壁には部屋ごとに小さく区切られた棚。カウンターにいる崩れた感じの中年男は、くたびれたスーツにだらしなくネクタイを締め、愛想のかけらもない。チェックイン用紙に名前を書いていると、どこからか、体に食い込む網目シャツに革パンツというボンデージ・ファッションのような格好をした男が、子牛くらいありそうな真っ黒なドーベルマンを連れて歩いてきたので、目が点になった。

泊まった部屋の番号はもう忘れてしまった。吹き抜けのエレベータホールから格子扉の古いエレベータに乗った記憶があるので、たぶん3階か4階だったように思う。ドアを開けた途端、なんとも落ち着かない色の壁、殺風景でいてどこか雑然とした調度品、どんよりと淀んでねばつくような空気。リラックスして長旅の疲れを癒やすどころではなく、部屋にいると気が滅入る。何か雰囲気を変えるものでも買おうと外に出ると、街はちょうどハロウィンのお祭り。そこでプラスチックでできた陽気そうなハロウィンかぼちゃの入れ物と、なるべく明るい色の花束を買って部屋に帰り、テーブルの上に飾ってみたところ、部屋が余計に毒々しくなるという悲しい悪循環。

夜ベッドに入っても、ホテルのどこかで変な音はするわ、悪夢を見るわで、全く安眠なんてできなかった。僕に霊感なんてないけれど、あのホテルには、なにか禍々しいものが、長い年月をかけて建物の隅々まで染み付き実体化していたんだと思う。結局、二晩で音を上げ、大枚はたいてミッドタウンの「普通の」チェーン系ホテルに逃げ出した。

2011年からリノベーションのためにホテルは休業状態に入ったが、その間、長期入居者やテナントとの調整がうまくいかないなどのため、所有者が何度か変わったようだ。いくつかの記事によると、どうやら今年(2018年)にブティックホテルとして再オープンを予定しているらしい。かつてこのホテルに住み、今はホームレスの男性が、リノベーションのために外され廃棄された部屋のドアを集め、誰が泊まった部屋なのかを調べ上げたそうだ。ドアはオークションにかけられるという4)

 

1 当初はホテルというよりコーポラティブ(co-operatives)として運営されたようだ。ホテルとしての開業は1905年。
2 ナンシーが殺された時間、シドはドラッグで昏倒しており、犯人は別にいるという説が根強い。
3 マンハッタンを、42丁目と5thアベニューを上下左右の真ん中とする長方形のストライクゾーンに例えるなら、右打者に対して真ん中より若干外角低めあたりの位置。余計わかりにくいか。
4 参考:AFPの記事、ニューヨーク・タイムズの記事

男らしいリスクのとり方

ふた月ほど前からジョギングを始めた。近所の公園を45分から1時間ほど、1キロ7分前後のスローペースで走る。有酸素運動は脳の毛細血管を再生し、メンタルの安定をもたらす。なんて言うと意識の高い人の御高説に聞こえるが、一番の目的は出っ張ったお腹を引っ込めようということであり、毛細血管云々なんてのはこの前たまたま読んだ本1)で知ったオマケみたいなものである。

今日も夕方に公園の周回路を走っていたのだが、途中で急にお腹の具合がおかしくなった。急な下痢の前兆のように差し込みがくる。あ、ヤバイ!と思ったが、まだ30分も走っていない。せめてあと15分くらいは走っておきたい。でも公園にあるトイレは少なく、イザという緊急時に駆け込める位置にあるとは限らない。さらに、駆け込めたとしてそこに紙がちゃんと備え付けられているかどうかもわからない。さぁ、どうする。走るのを中断して帰るか?それとも様子を見ながらもう少し走ってみるか?

痛みはやってきては遠ざかるのを繰り返している。判断を誤ればいい歳のおっさんが取り返しのつかない悲劇的な状況を招くぞ、確実に。でも現時点のぐあいから判断するに、その事態に陥る可能性はそこまで大きくないとも思う。走りながら3分ほど熟考した末、よし、ここは男らしくリスクをとろう、もう少し走ろう、と悲壮な決意を固め、ジョギングを継続した。結果として、大事に至ることなく20分以上走り続け、予定の時間をしっかりと消化して帰宅した。素晴らしい。勇気をもってリスクをとった自分を褒めてやりたい。

と、昨晩ここまで書いて今日続きを書こうとして愕然とした。なぜこのオトコはここでオレはリスクをとった、エラい!などと喜んでおるのか。駅伝の代表選手か何かならともかく、たんなるジョギングだろ?それともオマエはセリヌンティウスのもとに急ぐメロスかなんかか?リスクをとるべき場面の判断がまるでなってない。さっさと中断して家に帰れって。

1 「脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」(NHK出版)

下位打線

もうすぐ50と数回目の誕生日。まさに光陰矢の如しではあるが、40代後半から年齢を意識することはほとんどなくなったので、実は誕生日にそれほどの感慨もない。ただ、この一年、自分も家族も、大きな病気もなく皆元気で健康で暮らせたなぁ、よかったなぁと思う。

一方で面白く感じているのは、世間における50代の扱われ方だ。40代は、どちらかと言えば30代とひとくくりで、「働き盛り」あるいは「現役世代」の中心のような位置づけだったと思うが、50代になると、60代とひとくくりにされ「壮年」あるいは「初老」の箱に入れられるようになる。野球で言えば、ついこの間まで、4番あるいは5番、クリーンナップの中核を担う選手だったはずが、気がつくと6番を飛び越えて急に7番、8番あたりに下った感じ1)。それでいて、ちゃんと成績を残さないと「老害」と言われ、すぐに代打を送られそうな哀愁漂うポジションである。まぁ自分たちだって、ついこの間まで年長者を「使えない」だの「遺物」だのと言いたい放題だったわけで、因果はこうして巡るのだなと思う。

とはいうものの、街を歩いて目にするのは、年下よりも年上と思しき方々がずっと多い。たまに病院など行こうものなら、待合室には僕なんぞまだまだ若手だと勘違いしそうな光景が広がっている2)。都心ですらそうなのだから、ちょっと地方に行けば、ニッポンの高齢化を身に沁みて感じることになる。父が入院したときに、実家のそばのわりあい大きな病院に行ったところ、待合ロビーの風景がピンクがかったうすぼんやりした灰色だった。待合ロビーに座っている人のほとんどが、白髪か禿頭かその両方だったのである。

1 イチローが、その年齢ゆえにマリナーズで8番を打つことが多いのに重なる。そういえば背番号も51だ。いや、自分がイチロー並みの選手だと言ってるわけではないんだけども。
2 高齢者の多さという点では、特に眼科が顕著だ

玉ねぎ修行

玉ねぎを炒める。レシピには、飴色になるまで、などと簡単に書いてあるが、なかなか大変だ。玉ねぎ先生の様子をみつつ、ヘラで絶え間なく返し、かき混ぜねばならない。火加減は、中火かちょっとそれより弱いくらい。この間、他のことをしてはならないし、できない。玉ねぎ先生はあなたの注目がすべて欲しいタイプなのだ。放っておくとすぐにヘソを曲げ、焦げ付き始める。半時間から場合によってはもっと長く、あなたは100%玉ねぎと向き合う必要がある。スマホとSNSによって、細切れの時間をマルチタスクに使うことに慣れた現代の我々には、これが大変難しい。数分おきに他のことがいろいろと気になるが、そこをぐっと堪えて玉ねぎと心を通わせねばならない。まさに修行である。

最初は白い玉ねぎのみじん切りが、透明になり、また不透明に戻る。

ここまで20分から30分。さらに炒め続ける。あるポイントを過ぎると、ブラウンがかった象牙色に変わり始める。

さらに10分ほど炒めると、ブラウンが濃くなり、いわゆる飴色に近づいてゆく。最初、フライパンに溢れるくらいあった玉ねぎは、ここまでの間にずいぶん減って3分の2くらいになった感じだ。

ここから時間をかけるともっと飴色が濃くなるのだろうけれど、今日はそろそろいいのではなかろうか。玉ねぎ先生は、これから挽肉と合わさって美味しいミートソースになる予定。