ブルースカイブルー(西城秀樹)

子供の頃、西城秀樹のいない歌番組などありえなかった。同時期に活躍した他のいわゆる「アイドル歌手」と比べて、その歌唱力は際立っていた1)。僕が高校以降、ハードロックに傾倒してゆく素地を作ったのは、多分に西城秀樹のハスキーボイスとシャウトの迫力だったと思う。少々マセて自意識過剰気味だった小学生は、アイドル歌手なんてどこがええねん2)、と興味のないフリをしていたが、僕もあんな風に歌えたらカッコええやろなぁ、と心中ひそかに思っていた。

西城秀樹本人もハードロック好きで、ライブでは「アイ・サレンダー」、「ロスト・イン・ハリウッド」などレインボーの曲をカバーしている。レインボーのジョー・リン・ターナーなんてアメリカ版・西城秀樹3)と言っても良いのではないか、ダメか? ハスキーボイスとシャウト、大きめのビブラートのかけ方がそっくりである。シングルとしてリリースされた「ナイト・ゲームス」は、レインボー時代ではないけれど、グラハム・ボネットの曲だ。ほかに、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」や「時への誓い」(Faithfully)も取り上げている。

「ブルースカイ・ブルー」は1978年8月リリースの26枚目シングル。これをはじめて聴いた時、なんちゅー格好いい曲や、とため息が出た。大きなゆったりとしたサビのメロディが美しい。でもこれで終わらないところがこの曲の最大の魅力で、2番のサビが終わった後、サビと同じコード進行で別のメロディの第二サビが加わっている。この部分のメロディがなんとも切なく、西城秀樹の声の魅力を最大限に引き出す高さになっている4)

63歳での若すぎる突然の訃報。ずいぶん長いこと彼の歌を聴くこともなくなっていたけれど、自分でも不思議なほどの喪失感がある。子供の頃の大切なアルバムが、突然ガラス戸の向こうにしまわれて、手が届かなくなってしまったような寂しさを感じる。つつしんでご冥福をお祈りします。

1 女性では岩崎宏美が圧倒的にうまかった。
2 当時は大阪に住んでいた。
3 西城秀樹のほうが4つ年下だが、デビューは4年早い。
4 作詞は阿久悠。ものがたりをありありと喚起させる歌詞世界がさすがである。

コガネムシ

もうずいぶん前のことになるけれど、出張で、大阪・梅田にあるウェスティンホテルに泊まった。ひとりで夜、ふらりとホテル内のバーに行く。出張先でホテルのバーに行くのは楽しい。カウンターにひとりなら気を使わなくていいし、バーマンが手際よくカクテルを作っているのを眺めながら、ひとときぼーっとする。普段とは違う土地にいるのだ、という感覚が体に馴染んでくるような気がする。

その夜、カウンターはすでに埋まっていて、テーブル席に案内された。隣のテーブルに、夜の店の女性と思しき色気のある女性が二人、その客らしい男性が一人。女性は30代後半か40代はじめくらい。北新地の高級クラブのホステスさんかもしれない。男性の方は、50代後半くらいで、くっきりしたストライプのスーツと、エナメルみたいに妙にピカピカの靴。勤め人というより自分で商売している「社長」という雰囲気で、なんとなく品のない、典型的な大阪のおっちゃんという雰囲気。

おっちゃんが、馴染みらしきバーテンダーに、「わしのボトル持ってきて~」と頼むと、テーブルの上には、おっちゃんがキープしているボトル(なぜか全く同じシーバスリーガル)が3本並んだ。さらに、ボトルの前に、自分が持っているゴールドのクレジットカードを4、5枚ほどこれみよがしに並べた。テーブルの上半分が金ピカに輝いてた。おまえはコガネムシか。

女性に対して、「ワシ金持ってまっせ~」というディスプレイが、ここまであからさまだとむしろ清々しいとすら思える。発情期の野生動物のオスを観察しているような気分とでも言えばよいのか。あ~、今大阪にいるんだなぁ、とシミジミとしたひとときであった1)

1 大阪以外ではなかなか見ない光景だと思うけれど、少年時代を大阪で過ごしたせいで、三つ子の魂というべきか、こういう人を見ると懐かしさを覚える。

鯉のあらい

中学校3年のときに、関西から茨城県の古河1)という町に引っ越した。県の西の端っこにぽつんと飛び出したように位置する。埼玉、栃木、群馬、茨城の4県が接するところで、自転車にまたがれば10分以内に4県をまたぐことができる。利根川と渡良瀬川が合流する「渡良瀬遊水地」に隣接している。江戸時代には有力譜代の古河藩が置かれた歴史ある町である。

この町には鰻屋が多かった。それまで住んでいた大阪郊外の新興住宅地にくらべれば「すごく」と言っていいほど多かった2)。引っ越した当初、関西と関東の食文化の違いに戸惑った少年は、「何でこんなに鰻ばっかり食うとんねん」と大阪弁でつぶやいたくらいだ。

この数多くの鰻屋がみな、ウナギだけでなく、コイやフナ、ドジョウやナマズといった川魚の料理も出すのだ。古くから、日光街道3)の宿場としても栄えたせいか、何代かに渡って営業している由緒ある割烹や料亭もあって、そういう店でも出す。それもそのはず、古河の名物は鮒の甘露煮で、贈答品としてよく使われている。利根川・渡良瀬川がそばにあるので、そこでとれた魚を古くから食べてきたのだろう。

川魚は、海の魚に比べて、どうしても泥臭さがあるので、臭み消しを兼ねて、味噌や醤油で甘辛く煮て食べることが多い。鯉こくや鮒の甘露煮が典型だ。鰻は別として、そういった川魚料理は、子供には決して美味しいものではなかった。食べ慣れていなかったせいもあるだろうが、茶色くて、しょっぱくて、ドロっぽかった4)

そんな中、鯉の洗いだけは別で、赤みがかったお造りのようなコイの身は美味しかった。最近までどうやって作るのか知らなかったのだが、刺し身のように薄くおろしたコイを、80度くらいの熱湯にくぐらせたあと、氷水でキュッと締めるらしい。それを酢味噌やからし味噌で食べる。コイは新鮮なものに限る。かと言って、そのへんで釣ってきたものでは、泥臭くて5)食べられたものではなく、店で出すのは養殖されたマゴイだそうだ。

最近、鮒の甘露煮をもらったので、久しぶりにちょこっと箸をつけてみたところ、あら、意外と美味しいではないか。たぶん歳をとって味覚が変わったからだろうけれど、日本酒のお供によい。別エントリーに書いたけれど、こうしておっさんは年とともに若い頃には食べなかったようなものが、どんどん美味しくなっていくのである。

1 「こが」と読む。「ふるかわ」ではない。
2 この図でもわかるが、鰻屋は福島以南の関東と九州に多い。
3 現在の国道4号線
4 同じ川魚の甘露煮でも、鮎の甘露煮となると実に上品で美味しい。鮎は清流で石についた苔を食べているせいだろうか。
5 コイヤフナは泥ごと吸い込んでエサをとるからだろう。

Lay It Down (RATT)

RATT(ラット)は、80年代にロックシーンを席巻したいわゆる「LAメタル」の代表的バンド。「LAメタル」というのは、日本のメディアが便宜的に使った名称で、はっきりした定義があるわけでもない。ふわっとした括りでは、80年代に活躍した西海岸出身のHR/HMバンドで、MTV的に見栄えのする外見1)、わかりやすいメロディとヘヴィでテクニカルなギターが共通項だろう。ほかには、モトリー・クルー、クワイエット・ライオット、ドッケンなどをイメージするとわかりやすい。

ギタリストの立場からは、深く歪んだディストーションサウンド、高域と低域を強調したいわゆる「ドンシャリ」な音、技術的に難度の高い速弾きとフロイドローズのトレモロを使った派手なアーミングが特徴。リードギタリストはボーカルと並ぶバンドの顔で2)、ギターソロのない曲は考えられない。

RATTはロビン・クロスビー3)とウォーレン・デ・マルティーニによるツインギター。巨漢で横幅もあるロビンと、ほっそりとした色男のウォーレンというビジュアル上の対比は、音楽的な役割分担にも通じていて、時期によって濃淡はある4)けれど、ロビンがリズム、ウォーレンがリードをとる。

「レイ・イット・ダウン」(Lay It Down)は、85年発売の2枚目のアルバム「インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー」(Invasion Of Your Privacy)の2曲めに収録されている。当時のバンド仲間、ギタリスト友達の中では、RATTで最も評価の高い、人気のある曲だったと思う。ウォーレンのギターが響いた瞬間に誰もがわかる特徴的なイントロ。ギターソロは、拍子のアタマでキッチリ入らずに、ちょっとズラして入るフレーズがちりばめられていて、スリリングで格好良い。バンドでプレイしたことはないけれど、当時よく家で練習してた。スティーブン・パーシーのボーカルは、まぁ、なんというか、もうちょっと何とかならんかと思うものの、これがRATTなのだと言われれば5)、仕方がない。それにしてもこのプロモビデオ、ひどすぎるな。

1 長髪・今で言うビジュアル系っぽい化粧・黒のスリムジーンズか革パンツ・バンダナなどなど
2 もちろんバンドにもよるけれど。モトリーはむしろベースとドラムの方が派手だし、クワイエット・ライオットはボーカルのエラの張った顔が強力すぎて、ギタリストが前に出てくる感じでもないし。
3 2002年にエイズ/薬物過剰摂取により他界。
4 ファースト、セカンド・アルバムくらいまではロビンがソロをとる曲もある。
5 歌の好き嫌いはともかく、曲作りでも貢献度が高い。

マシュマロを焼く

え?マシュマロって焼いて食べるんだ?と、ちょっと驚いたのは、小6とか中1くらいで「スヌーピー」のコミック1)を読んだ時だった。スヌーピーやウッドストック2)が、枝に刺したマシュマロを、仲良く焚き火であぶるほのぼのしたシーンがよく出てきたのを覚えている。でも、それから長い間、自分で焼くという機会は訪れなかった。

男子の場合とくに、マシュマロを食べる機会がない。たとえ稀にあったとしても、友達の家の菓子盆にちょこんと乗っかっていたり、旅行のバスの中で袋が回ってきたりくらいで、「焼く」ような状況ではない。もし家にマシュマロがあったとして、台所のコンロに焼き網をのせて焼くってのも何か違う。ぜんぜん美味しそうじゃない。焼き網で焼くべきはやはり干物か餅であって、甘いお菓子とは正反対のベクトルだ。それに、オトコが焼き網でマシュマロを焼いている姿は、どちらかといえば物哀しくて、ほのぼのからは程遠い。見るものの涙を誘ってマシュマロを焼いてどうしようというのか。つまり、マシュマロを焼くには、それにふさわしいシチュエーションというものが必要なわけだ。

で、ふさわしいシチュエーションとしては、バーベキューか焚き火に限るように思う。それも、女性が参加していなければならない。キャンプに行ったとしても、男子ばかりのキャンプで焼くのはひたすら肉!であって、悲しいかなマシュマロが入り込む余地はない。

というわけで、このゴールデンウィークは、バーベキューついでに、姪っ子二人が楽しそうにマシュマロを焼くのをほのぼのしながら見てました。

1 うん、本当は「ピーナッツ」がタイトルで、スヌーピーは登場キャラクターなんだけれども。
2 スヌーピーの友達の黄色くて小さなトリね。

人間臨終図鑑

人間臨終図鑑(1巻~4巻)山田風太郎 著(徳間文庫)

「魔界転生」や「忍法帖」シリーズで人気の山田風太郎が、歴史に名を残す古今東西の著名人(英雄、武将、政治家、軍人、作家、芸術家、芸能人、犯罪者など)がどのように世を去ったか、その死に際の様子を全923名に渡って切り取った本。本書に限らず、著者のエッセイはちょっととぼけた味わいで楽しめるものが多い。

最初に読んだのは、母親ががんで亡くなった時だ。去年17回忌だったからもうずいぶん前のことになる。61歳という、女性の平均寿命からすれば早すぎる死だった。病気がわかってから亡くなるまでわずか半年だったこともあり、自分の中でどうにも気持ちの整理ができずにいたときに、本屋で偶然発見して読み始めたのだと思う。これを読んだからといって、その当時、何か慰めや納得が得られたかと言えば、そうでもなかった気がするけれどもう忘れてしまった。ひと月ほど前に、Kindleストアを眺めているときに、たまたま見つけたので久しぶりに再読してみた。

死に際の様は人それぞれとはいえ、900人ものケースを横断してみると、時代の影響ももちろん垣間見える。外的な要因としては、1600年代のペストや、1800年代のコレラ、二度の世界大戦は、少なからずの人に、直接あるいは間接に死をもたらすことになった。内的な要因では、今と変わらず、脳卒中とがんが引き金となる例が目立つ。

当人が、自らの死について伝え残すことはできない以上、僕らに残されているのは、他人の目にどう映ったかの記録であり、どうしても客席から眺めている感じは拭えない。死は一大事であるけれど、それが起きた瞬間に本人にとっての意味は消失し、残されたものにとっての物語に生まれ変わる。だからこそ本書のように「エンターテイメント」にもなりうるわけだ。

自分の死に際がどういうものになるのか想像もつかないけれど、もしこのような本に書かれるとすればどんな風に書かれたいかな、などと考えるのはちょっと楽しい。

ホライズン・ラボ

ホライズン・ラボについて知ったのは、ジモコロというサイトのこの記事1)がきっかけだった。岩野響さんという15歳の焙煎士が立ち上げた珈琲ロースターで群馬県の桐生にある。北関東に行く機会があれば足を伸ばしてみようかな、なんて思っていたら、近頃のコーヒーブームも手伝ってかすごい人気だそうで、とても自分でコーヒーを淹れて提供する余裕がなく、喫茶店自体は閉め、ローストに専念しているそうな。そこで通信販売されている豆を購入してみた。

毎月、その月のイメージに合わせて豆を選びローストするのが彼のスタイル。4月のテーマは「新しい旅」2)

いつかの春の日に感じた香り、温度、味、情景などの記憶を連れて新しい旅に出る。そんなはじまりのそばに在るコーヒーをイメージし、焙煎しました。甘み、香り、酸味、苦みがバランスよく共存する味わいを作りました。

シティロースト(深煎り)のホンジュラス豆。淹れてみると、何よりまずコーヒー豆が新鮮。香りが良く何層かの味わいがバランス良く組み合わあされていて、深みと同時に抜けの良いコーヒーだった。このテーマを先に読んでから買っている(飲んでいる)ので、そういうものとしてこちらが理解しようとするのは避けられないけれど、それでも彼がテーマとして意図したことを、味わいから追体験できるのが面白い。

最近だと「メシ通」というサイトで、彼の焙煎の仕方を紹介している記事が掲載されている。

僕の場合、豆の状態や焙煎機の調子を見ながら調整を加えているので、時間や温度計というのはあまり当てにしていないんです。数値に頼るのでなく、香りや色や蒸気の出かたといった、その時々に豆から直接感じるものに重きを置いて焙煎をしている感じです。このことを他の焙煎士の方に言うと、「適当にやってるいるの?」と言われることもあるんですけれど、そういわけでもなくて。やり方が違うだけだと思います。

「やり方が違うだけだと思います」というのがとてもよい。5月のテーマは「痕跡」。豆が届くのが楽しみだ。

1 友光だんごさんというライター・編集者が書く記事は、大げさなところがなく誠実でよいものが多い。
2 このページの下の方に手書きの説明がある。

ドレイクホテル:シカゴ旅行記 4

アル・カポネが実際にスイートを所有して住んでいたレキシントン・ホテルはすでに取り壊されて残っていない。映画の中でデ・ニーロ演じるカポネが、豪奢なホテルで贅沢三昧に暮らす様子は、シカゴシアター(Chicago Theatre)やルーズベルト大学(Roosevelt University)などで撮影されたらしい。

当時の雰囲気を色濃く残しつつ今も残っているホテルに、コングレスプラザホテル(Congress Plaza Hotel)とザ・ドレイク(The Drake)がある。コングレスホテルは、往時には、大統領や有力政治家がよく宿泊する高級ホテルだった。カポネに繋がりのある裏社会の大物も多く住んでいたらしく、カポネもよく訪れ、頻繁に打ち合わせや晩餐会などを開いたらしい。そのために、犯罪や惨劇と結び付けられることになり、幽霊・亡霊の目撃譚も数多く、今では「シカゴ一呪われたホテル」の異名をもつ1)。ニューヨークのチェルシーホテル以来、この手のホテルに泊まるのは懲りたので、ドレイクの方に2泊ほど泊まってみた。

背景に見える黒いビルがジョン・ハンコック・センター

ドレイクも当時の超高級ホテルで、いまもイタリアルネッサンス様式の荘厳な作りは健在だ。1920年に開業、現在はヒルトン傘下となっている。フーバー、アイゼンハワー、フォード、レーガンといった大統領や、チャーチル、チャールズ皇太子、ダイアナ元妃といったヨーロッパの賓客、そのほか多くの芸能人が宿泊した。マフィア絡みだと、アル・カポネを継いでイタリア系犯罪組織を牛耳ったフランク・ニッティ2)が1930年代から40年代にかけてスイートルームをオフィスに使っていた。シカゴ随一のショッピング街「マグニフィセントマイル」の北端に位置し、シカゴの高層ビルの中でも有名なジョン・ハンコック・センターからわずか2ブロックのところだ。ホテル北側に41号線(ノースレイクショアドライブ)を挟んで、ミシガン湖のオークストリートビーチに面していて、部屋の向きによっては眺めがとても良い。

泊まってみると、全盛期の華やかさを残してはいるものの、衰えは隠しようがない。でもそれは悪いという意味ではなく、歴史の証人として避けがたい運命のようなもので、だからこそ魅力があり、泊まってみたいと思ったわけだ。ロビーや調度品などは丁寧に保守されていて荘厳な建物に見合った威厳のようなものをしっかり守っている。

ところで、泊まっているときには全く知らなかったのだが、このドレイクも、実はコングレスプラザに劣らぬ「心霊ホテル」だったようで、赤いドレスや黒いドレスの幽霊やら何やらが現れるそうだ3)。これを知ってしまった今では、次にシカゴに行く機会があったとして、あえてドレイクにもう一度泊まるかと言われると、うーむと考えざるを得ない。

1 441号室はとくによく「出る」部屋と言われている。このサイトに詳しい。
2 映画では白いスーツの殺し屋役でビルから転落して死ぬが、実際のニッティはカポネの右腕として後を継ぎ、シカゴ・アウトフィットと呼ばれる犯罪シンジケートを組織して暗躍。55歳で自殺した。
3 まぁ、古いホテルには何かしらそういうハナシはあるけれど。このサイトに詳しい。

ミシガンアベニューブリッジ:シカゴ旅行記 3

ネスがマローンに初めて出会うのは、ミシガン通りがシカゴ川を越える橋の上。ネスが就任早々に意気込んでガサ入れした密造酒工場は、事前に情報が漏れてもぬけの殻。新聞に「哀れな蝶々夫人」と揶揄されて意気消沈するネスと、汚職がはびこるシカゴ警察にいながら法を守り執行することを信条にする硬骨の警官マローンが、人通りもない夜のミシガンアベニューブリッジ1)で出会う。

Wikipedia(英語版)によると、橋の建設が開始されたのは1918年。1920年に利用が開始されたが、装飾などが完了したのは1928年とある。映画「アンタッチャブル」は禁酒法時代の終わり、1930年から33年頃ごろの設定と思われるので、装飾工事が完了して間もない頃ということになる。映画では注意して見ないとわからないが、この橋は上下2層構造になっており、二人が出会っているのは下の層だ。

ネスがシカゴ川に紙屑(奥さんがランチを包んだ紙。夫への励ましのひとことが書いてある)を投げ捨てたところを、マローンが見咎めて注意する。自分の失敗に苛立って刺々しく絡むネスに、「一日の勤務を終えたら、無事に生きて家に帰ること。これがシカゴの警官の教訓その一だ。」とマローンが語るところで出会いのシーンは終わる。

シカゴ川を「ト」の字に例えるなら、ここは横棒の真ん中。観光客に人気のショッピング街「マグニフィセント・マイル」の南端にあたり、交通量がとても多い。すぐそばには、2009年に竣工した92階建てのトランプ・インターナショナル・ホテルや、1925年竣工のトリビューンタワー2)、1924年竣工のリグレービル3)などシカゴ高層建築の歴史的、代表的なビル群がそびえている。(シカゴ旅行記 4 に続く)

1 正式にはDuSable Bridgeという名前がついている。
2 元々はシカゴ・トリビューンという新聞などを発行するトリビューンメディアの本社だった。2020年までにオフィスからコンドミニアムに改装されるらしい。
3 ガム会社のリグレー本社。

ユニオン・ステーション:シカゴ旅行記 2

ユニオン・ステーション

映画「アンタッチャブル」のハイライトのひとつが、ユニオン・ステーションでの銃撃戦のシーン。駅の入口からホールに繋がる広い階段で、脱税の証拠を握る帳簿係を隠そう(列車で逃がそう)とするマフィアと、それを阻止しようとするネス(ケビン・コスナー)とストーン(アンディ・ガルシア)の間で銃撃戦となる。そこに赤ん坊を乗せた乳母車が階段から落ちてゆく動きが絡んで、スリリングな名場面となった。アンディ・ガルシアの最高の見せ場である。

シカゴは街中をシカゴ川がちょうどカタカナの「ト」の字を描いて流れている。「ト」の横棒の右端はミシガン湖に接続している。川はミシガン湖から流れ出て西に(つまり横棒を右から左へ)2キロほど進み、そこで南北に分かれる。分岐点から川の西側を800メートルくらい南にすすんだ地点にユニオン・ステーションがある。

 

1913年着工、1925年竣工。現在ではシカゴを発着するアムトラック(長距離列車)は全てこの駅を使い、中西部への一大ハブ拠点となっている。ヘッドハウス(The headhouse)と呼ばれる重厚な駅建物の中に、グレートホール(Great Hall)と名づけられた大理石造りの大きな待合ホールがある。「グレート」に恥じない美しい大きなホールで、駅の待合室と呼ぶにはいささか不釣り合いな荘厳さがある。このグレートホール東側、カナル・ストリート(Canal Street)入り口からの大きな階段が、銃撃戦の撮影現場だ。

映像から想像していたより実物のほうがすこし小さいかな、という印象。でも紛うことなきあの階段である。映画では入り口ドアの上に大きな時計がかかっていたが、それは見当たらない。でも、ネスが立っていた階段脇の一段高くなったスペースに同じように立って、入り口ドアから出入りする人を眺めていると、今にも人相の悪い、ロングコートのマフィア一味が入ってきそうな気がする。現場のちからというのはすごいもので、この階段を乳母車が落ちてゆき、階段の踊り場で、帳簿係を人質にとって逃げようとしたマフィアを、ストーンが見事な射撃で仕留めたシーンが、まるで本当に起きたことのようにリアリティをもってよみがえる。(シカゴ旅行記 3 に続く)