四万六千日分の功徳

7月9日、10日は浅草寺の「四万六千日」という縁日だ。本尊である観世音菩薩の縁日には「功徳日」といわれる特別な日があり、その日に参拝すると、100日分、1,000日分などの功徳が得られるとされている。7月の功徳日はそのうちでも群を抜いて「特別」で、この日にお参りをすると、4万6000日分の功徳があるらしい。126年分である。根拠は知らぬが1)盛り過ぎだろう。ここまでくると、あまりのいい加減さおおらかさに、マナジリを釣り上げて「どういうこと?」と問い詰める気も起きない。室町時代に始まったというから、かれこれ600年ほど前のマーケティングにいまだにうかうかと乗せられ、あーあと気の抜けた半笑いを浮かべつつ、つい行ってしまう。もう何度か行っているから、多分、400年分近い功徳を積んだはずなのだが、まだその威力を実感するには至っていない。

本堂で30分おきくらいに行われる、15分ほどの読経に行くと、お堂のそこここに、真剣な表情で一心に祈る人、頭を下げ目を閉じてお経に聞き入る人がいる。高齢の人も、中高年も、若い人もいる。きっとみな、僕らと同じく、日々働き慎ましく暮らす人々で、暮らしの中の小さな悩みや願い、あるいは感謝を心に浮かべているのだろう。功徳4万6000日分の大盤振る舞いという滑稽さの一方には、庶民のささやかでまじめな祈りが込められていて、なんというか、人の温もりや地に足の着いた生活感のようなものも、そこには同時に漂っているのだった。

この両日、境内では、ほおずき市がたつ。ほおずきの鉢植えが所狭しとならべられ、鮮やかなオレンジと緑が参道を彩って夏らしい風情になる。

1 米一升が46,000粒だとか諸説あるようだが、そもそもなぜ米一升分なのかなど謎が増える。

にしんそば

関西育ちのせいか、「にしんそば」には馴染みがあり、日本中どこでも食べているものだと思っていた。それがどうやらそうではない、と気づいたのは15歳で茨城県に引っ越してからである。駅の立ち食いそばでも、町中の普通の蕎麦屋でも、品書きに「にしんそば」が見当たらないのだ。少なからずの人から「にしんそばを知らない、食べたことがない」と言われてビックリした。「にしんそば」は、主に北海道と京都(および関西)で食べられているもので、決して全国区ではない1)のだと思い知らされた出来事だった。

埼玉や茨城出身者に聞いてみると、関東にもニシンがないわけではないけれどが、正月の昆布巻の中にちんまりと入っているくらいで、食べる機会はほとんどないという。とはいえ、関西ではニシンを日常的に食べているか、といえば、それもちょっと疑問で、僕の両親は関西の出身ではなかったので関西の食習慣を代表することはできないまでも、ごはんのおかずに時々ニシンを食べている、という友人はいなかったように思う。いずれにせよ、僕にとってニシンは、ほぼ100%「にしんそば」2)として食べるものであった。

数年前、小樽に旅行したときに、保存されている「鰊御殿」を見に行った。「鰊御殿」というのは、明治末期から大正にかけて、ニシン漁で財を成した網元3)が建てた豪勢な家屋である。この鰊御殿のある祝津漁港には、干したものではなく生のニシンの塩焼きを食べられる海鮮飯屋がいくつかある。おお、これは珍しい、と喜んで食べてみたところ、あら、びっくり。焼き魚で食べるニシンはそれほど美味しいものではなかった。身は水っぽくて妙にやわらかく、旨みもそれほど強くない。江戸・明治期には、大半を鰊粕という肥料にして利用したのも頷ける。「にしんそば」に乗っているニシンの独特な旨みは、干したものを戻して甘露煮にするからこそ生まれるものだったのだ。

1 最近では東京でもずいぶんと見かけるようになった。
2 うどん文化圏の関西でも、なぜか「にしんそば」は必ず蕎麦であり、「にしんうどん」というものを見た記憶がない。
3 主に北海道の日本海沿岸

わたしの土地から大地へ

「わたしの土地から大地へ」 セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク著 中野勉訳 (河出書房新社)

サルガドの写真展「Workers1)を見たときに受けたショックはいまだに忘れられない。露天掘りの金鉱で全身泥にまみれアリのように土塊を担いで斜面を運び上げる無数の労働者、湾岸戦争で破壊されコントロールを失って燃え盛る油田のバルブを閉じようとする特殊作業員、鉄工所の溶鉱炉のすぐそばで作業する人々、炎天下サトウキビを手作業で刈り入れる農場労働者。想像を絶する厳しい環境で肉体労働に従事する人々を切り取った写真でありながら、画面の隅々まで美しく、気高く、荘厳で、人間という存在そのものの有り様がそこに映し出されている。モノクローム(白黒写真)による写真表現のひとつの完成形と言えるのかもしれない。

中南米、アフリカを主なフィールドとし、5年からときには10年以上に渡る「プロジェクト」としてテーマを追いかけるスタイルで撮影を行う。これまでに、「Workers」のほかに、難民・移民をテーマにした「Exodus」、サハラ砂漠以南の旱魃を扱った「Sahel」、原始の自然の美しさを捉えようとする「Genesis」などのプロジェクトがある。

経済学の博士号を持ち、国際コーヒー機構でエコノミストとして働いた経験があり、フォトジャーナリズムをその基礎としているだけに、撮影対象には温かくも冷徹な眼差しが注がれており、感情や情緒に過度に流されることがない。いわゆる先進国で暮らす我々が通常目にすることのない極限といっていい風景・光景を切り取りつつ、その絵の特異さ・強烈さに頼ることなく一幅の絵として芸術表現の高みに昇華されている。

本書はサルガドの自伝であり、子供の頃の思い出、写真家への転身、どのようにテーマを選び、どう撮影するかといった過程、そして故郷の農園とその周辺の自然を再生するプロジェクトなどが、率直なトーンで語られている。常に母国ブラジルの多様性と子供の頃身の回りにふんだんにあった自然の美しさを基準点としながら、撮影対象に敬意を払い、真摯に向き合う姿勢に感銘を受けるだろう。

ヴィム・ヴェンダースとサルガドの長男、ジュリアーノ・リベイロ・サルガドが監督したドキュメンタリー「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」2)は、サルガドのこれまでの半生を縦糸に、「Genesis」プロジェクト3)と故郷の農場再生を横糸にまとめたもので、サルガドが実際にどのように撮影しているのかが垣間見えてとても興味深い。

1 写真集の日本語タイトルは『人間の大地 労働』
2 近年稀に見るヒドい邦題がついているが、原題は「The Salt of the Earth」(地の塩)という聖書の一節がつけられている。
3 ルワンダ内戦とその後の難民の苦難を撮影し続けて心身ともに疲れ切り、病んでしまったサルガドが、自らの回復のためにもはじめて人間のいない「自然」をテーマに選んだのが「Genesis」であるようだ。

If Not For You (Bob Dylan)

ボブ・ディランといえば「風に吹かれて」(Blowin’ in the Wind)、「天国への扉」(Knockin’ on Heaven’s Door)、「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stone)といった名曲とともに、まだ存命中でありながらすでに半ば「伝説」となったミュージシャンだ。2016年にミュージシャンとして初めてノーベル文学賞に選ばれ、受けるのか受けないのか世間をヤキモキさせたが、無事(?)受けとったのも記憶に新しい。
とはいえ、僕は彼のアルバムを通して聴いたことはなく、上記の有名な曲も、ディランのオリジナルというよりは、他のミュージシャンがカバーしたものを聴いたのが最初だったりする。彼の生の姿をとっくりと見たのは、85年のUSAフォー・アフリカのチャリティプロジェクトでリリースされた「ウィ・アー・ザ・ワールド」のサビ部分を歌う姿だった。

「イフ・ノット・フォー・ユー」(If Not for You)という曲は、個人的にとても思い出深い曲だ。ニューヨーク駐在時代にお世話になったアメリカ人の先輩記者が、僕の結婚式のパーティで歌ってくれた歌だから。もう25年も前のことになる。彼はビートルズ、とりわけジョージ・ハリスンの大ファンで、それほどビートルズに熱心でなかった僕を、彼いわく、「音楽的に正しく」導かんとして、ハリスンのギターがいかに素晴らしいか、彼とクラプトンやボブ・ディランなどとの音楽的交流がいかに豊かなものだったか、といったことを事あるごとに語った。残念なことに、彼の「導き」は成功したとは言い難いのだが、それでも、ハリスンのギターに親近感を抱くようになったのは間違いなく彼のおかげである。

結婚式のパーティでは、僕と二人の弟が入ったバンドをバックに、彼がこの曲を歌った。ぶっつけ本番でいざ演奏を始めてみると、彼がすごく当惑して歌いにくそうだ。それを見た僕らも当惑して顔を見合わせつつ、ぐだぐだのままなんとか演奏を終えたのであった。実は、この曲にはいくつかバージョンがあり、彼がもともと意図したのは、ジョージ・ハリスンのバージョンだったが、僕らバックバンドはボブ・ディランのオリジナル・バージョンを練習して準備していたのだ。あとで聴き比べてみると、ハリスン版の方はテンポがかなりゆっくりで、より甘くメロディアスな仕上がりになっており、ディラン版のちょっと放り投げるような演奏とはずいぶん違うのであった。

この一件は、長いこと笑い話として、会えば必ず話のネタになった。去年の秋にも「もう一回どこかで演奏しよう。今度こそ、ハリスンバージョンだぞ」と言って笑った。でも、彼はその冬に突然この世を去ってしまった。まだ60になったばかりだった。

御馳走帖

「御馳走帖」
内田百閒著 中公文庫・中央公論新社

数ある内田百閒の随筆本の中で、「御馳走帖」は最も好きなものの一つだ。彼のちょっとズレてトボけた感覚が遺憾なく発揮されていて、収録されているどの小品を読んでもどこか可笑しい。大笑いというのではなく、読みながらふっと可笑しみが腹の中に動く感じ。百閒は、今風にいえばやや「天然ボケ」の人で、本人は大真面目に書いているように見える。ウケを狙いにいっている訳ではないと思うのだが、そのあたりも飄々としていてよくわからない。

「御馳走」といいながら、食事というよりは、おおむね酒肴もしくは酒の話である。戦前、戦中、戦後に渡って、思い出話あり、近時の話あり。いろいろと深くこだわっているようでいて、実はそれほどでもない。かと思うと、突然、いけしゃあしゃあと次のように述べたりする。

さて、この拙稿を読んで下さつた読者に一言釈明しなければならぬと思ふのは、酒歴を述べるのだからお酒の話ばかりで、読んだ目が酒臭くなるかも知れないがそれは看板に掲げた事だから仕方がないとして、ただ四十年五十年にわたるお酒を談じながら、何の椿事も葛藤も起こらず、人の出入りも女出入りもない。なんにもなくて、つまらないと思はれたなら、それは即ち私のお酒のお行儀がいい事を示すものだと云ふ点をお汲み取り願ひたい。(「我が酒歴」)

文章表現がなんとも魅力的で、つい真似したくなる言い回しが随所に出てくる。「三鞭酒」、「誂える」、「ソップ」などの言い回しに、町田康ファンなら、彼が内田百閒から深く影響を受けているのが即座にわかるはずだ。

百閒に興味を抱いたら、「イヤダカラ、イヤダの流儀 内田百閒」(別冊太陽・平凡社)も良い。豊富な写真で著者の人となりと作品世界のイメージが具体的につかめると思う。

ところで、本書で、シャンパンとおからが合うと言っている(「おからでシャムパン」)。試してみようと思うけれど、単に百閒がおから好きなだけのような気もしている。

レス・ポール

レス・ポールがレス・ポールを弾くのをニューヨークのジャズクラブで観たことがある1)。たぶん1993年か94年だと思う。ニューヨークのミッドタウンにあったFat Tuesday’sというジャズクラブで毎週月曜日の夜、レス・ポール・トリオが演奏していたのだ。ジャズクラブのニューヨークらしい雰囲気や、ギターの優しい音色についてはおぼろげに記憶があるのだが、当時の僕はハードロックばかり聴いていたせいもあって、そのライブにはすぐに退屈してしまい、残念ながら曲についてはなにも覚えていない。

ギブソン2)といえば、レス・ポール・モデル。レス・ポールは戦前から1950年代にかけてのギタリストだが、ギターのモデル名としての知名度が圧倒的で、曲やプレイを聴いたことのある人はほとんどいないのではなかろうか。でも彼の名を冠したギターは、プロ、アマチュアを問わず、ロックギターを弾く人ならば、絶対に弾いたことがあるはずの定番中の定番となった。ギブソン派かフェンダー派かの差はあれど、レス・ポールとストラトキャスターはギターの世界における、はじまりにして究極。誰もが憧れて最初に手にし、最後にまた戻っていく到達点だと思う。

88年ごろ撮った写真。まだ新しい。

大学の頃にずっと愛用していたギターは、フェルナンデスが「Burny」というブランド名で出していたレス・ポールのコピーモデルだった。ギブソン本家のレス・ポールは、たしか安くても30万とか40万円の値札がついていて、学生の身ではとても手が出るものではなかった。「はじまりにして究極」と書いたが、少なくとも80年代において、アマチュアが最初に手にするのは、ほとんどがコピーモデルだったと思う。僕の愛器も、コピーモデルではあったけれど、チェリーサンバーストの塗装の奥にうっすらと「虎目」が出て美しいギターだった。音は清明で太くてくっきりと芯があり、歪ませてもクリーンでもとても良い音がした。調べてみると、この頃の国産コピーモデルは、製造年や価格帯によってばらつきが大きいものの、当たり個体はクオリティが高く、今でも好事家は中古を探したりしているらしい。その意味では、身びいきも含めて言えば、僕の買った一本は大当たりだった3)と言える。

レス・ポールをよく使うギタリストでは、ジミー・ペイジ、ゲイリー・ムーア、トム・ショルツ、スラッシュ、ヴィヴィアン・キャンベル、松本孝弘、ダグ・アルドリッチ、ジョエル・ホークストラ、ジョン・サイクス4)がまず頭に浮かぶ。

1 ギターを弾かない人には「意味がわからん」という出だしで申し訳ない。
2 ギブソン社が経営破綻したという5月のニュースには驚いたけれど、原因は、音響メーカーなどを買収して拡大路線をとったことによる失敗のようで、本業たるギター製造・販売は堅調に成長していたようだ。
3 7、8年前にフレットを打ち替え、ピックアップはEMGに交換した。長年の酷使のせいで、ナットの裏側にヒビが入っていることが判明し、いまではギターラックで「安静」にしている。
4 最後の3人はみなホワイトスネイクのギタリスト。もしかして、契約にあたって「レス・ポールを使うこと」という約束事でもあるのだろうか。

そして彼は途方に暮れる(遠距離通勤2)

日本橋に勤めていた頃のこと。同じ部に新幹線通勤の先輩がいた。栃木県那須塩原のリゾート地から東北新幹線で東京駅までおよそ70分。新幹線ならすし詰め満員ということもなく、往復ともにゆったりと座れる。会社から東京駅までは歩いて5、6分とくればなかなか優雅なライフスタイルであった。考えられる弱点といえば、3ヶ月で35万円超の定期券を酔っ払って失くしたりしないか、くらいだったと思う1)

当時、僕は日本橋から銀座線で上野、上野から宇都宮線に乗り換えるルートで帰宅していた。銀座線上野駅からJR上野駅へはそれなりに歩く上、通路が狭い。普段はまぁ仕方がないとしても、飲み会の帰りなどはこの乗り換えがとても億劫になる。そういうときは、東京駅から大宮(埼玉県)まで一気に新幹線に乗ってしまう2)。電車賃はかかるけれど、二次会、三次会へ行ったと思えばお釣りが来るくらいだし、大宮から先の在来線は混雑も緩和されているので、一石二鳥なのである。

ある晩、飲み会からの帰りみち、ほろ酔い加減でひとり東京駅の新幹線ホームを歩いていると、後ろから件の先輩に声をかけられた。偶然帰りのタイミングが一緒になったようだ。そこで二人で缶ビールを買い、新幹線に乗り込む。発車間際だったが、運良く並びの席に座ることができ、ビールを飲みながら他愛もない話をしているうち、あっという間に大宮に到着。お疲れ様でした~なんて言いつつ、僕は新幹線を降りて、ホームから先輩を見送って、在来線に乗り換えた。

僕が降りた後、先輩はいつものように那須塩原まで一眠りしようと目を閉じたそうだ。習慣というのは大したもので、およそ40分後にちゃんと目が覚めたものの、なにか違和感がある。ふと窓の外を見ると、新幹線はちょうど軽井沢駅に滑り込んだところだった。我々は東北新幹線ではなく、上越新幹線に乗っていたため、彼は栃木県那須塩原ではなく、長野県軽井沢に運ばれてしまったのであった3)。新幹線通勤には、乗り間違えたり乗り越したりすると、数十キロから数百キロ単位で豪快にワープしてしまうという弱点があったのだ。

1 当時はまだSuica定期券はなくて、定期を失くした場合、再発行の手段はなく、買い直すしかなかった。
2 在来線は上野止まりだったが、東北・上越新幹線は東京まで乗り入れていた。
3 どちらも大宮まで来て、そこから北と西に分かれて進む。

遠距離通勤

遠距離・長時間通勤については、ちょっとしたエキスパートを名乗ってもよいのではないかと思う。高校、大学と7年間、就職してからも結婚するまで8年くらい、都合15年くらい遠距離を通学・通勤していた。ここでいう長距離というのは、往復3時間以上のことである。NHKの2015年の調査1)によると、東京圏の平均通勤時間は往復1時間45分なので、平均の倍近く、ということになる。

たとえば、片道1時間半、と聞くと、「うわ、遠っ!なんでそんなとこから通ってんの?」という反応をされることが多かったが、そのうちまとまった60分ちかくを座わっていられるのなら、実はそれほど大変でもないのだ。それどころか、この1時間の移動タイムが大切な読書時間になる。経済学者の野口悠紀雄先生もツイッターで「通勤電車は独学のための最高の環境。他にすることがないので、勉強に集中できる。(後略)」とつぶやいている。

実際、一日の中で都合2時間、集中して読書する時間を確保するのは意外と難しい。10数年前に、通勤時間が30分弱に短縮されたときは、体力的に確かにラクにはなったけれど、読書時間が急減して「知的インプット」みたいなものがガタ落ちし、精神的にはかえって落ち着かなくなった。高校、大学、社会人と充実した読書習慣を継続できたのは、遠距離通学・通勤のおかげだったとも言える。ただし、たとえ座れたとしても、実際に「集中できる」環境かどうかは注意が必要だ。あなたの集中を妨げる伏兵は、いろんなところに潜んでいる。

朝の車内は静かだ。みな無言で、働けど働けどわが暮らし楽にならず、とじっと手、でなくスマホを見つめている2)。問題は帰り、夕刻である。そう、必ず酔っ払いがいる。山手線や私鉄では、夜遅い時間にならない限りあまりみかけないけれど、中・遠距離の列車には、どういうわけか、夕方4時頃でもかならず酔っぱらいがいた。僕が高校、大学の頃は、上野発の宇都宮線・高崎線の電車3)はどこか牧歌的で、上野駅で出発を待っている時点から、車内はすでにカップ酒とスルメイカのニオイが満ちていた。電車が移動酒場になっていたのである。

静かなひとり酒なら良いのだが、ご機嫌で仲間と放談するサラリーマンの二人連れ、三人連れになると相当に鬱陶しい。酔っ払って寝ててくれればよいかというと、それもまたケースバイケースで、酒のニオイと加齢臭がムンムンにミックスされたおっさんが、だらしなく正体をなくしてもたれかかってきたりすると、神仏はなにゆえ私にこのような試練を与えるのだろうかと世をはかなみたくなる。

夜が深くなって終電が近づくと、ものすごく混む上に、飲みすぎて青い顔をした人がちらほら出てくる。時折ひくっとカラダを震わせていたり、生気なく中空の一点をぼーっと見つめていたりすると、相当にヤバい兆候で、速やかに半径3メートル圏外に脱出しないと、甚大な災害に巻き込まれる恐れがある。もちろん自分が泥酔してそういう時限装置付き危険人物になる場合もある。中長距離列車のよいところは、数両にひとつトイレ付きの車両があることで、トイレのそばに乗っていると多少安心できた。まぁ、もちろんそんなときは、集中して読書どころではなく、乗り越さずにちゃんと自分の駅で降りるのが最大のミッションなのだが。

1 「東京圏の生活時間・大阪圏の生活時間」
2 昔はスポーツ新聞や週刊誌のエロページを見つめているおっさんも沢山いた。今思うと、朝からパブリックな場で何をやっていたのかと思う。
3 その頃、まだ今のように東海道線とはつながっておらず、全て上野発着であった。

欧風カレー

カレー。インド発祥のアイデンティティを失うことなく、日本の食文化に完全に根をおろし、もう国民食のひとつと言ってよい地位を確立している。辛さの程度はさておき、男子でカレーが嫌いだという人物には、いままで出会ったことがない。子供の頃、給食がカレーだとお昼が待ちきれず、いざお昼となれば、熾烈なおかわり争奪戦が繰り広げられた。西城秀樹の「ハウスバーモントカレー」CMのメロディは脳の奥深くに刻み込まれていて、もはや消去不可能である1)。レトルトのお手軽バージョン、家庭用カレールー、ファーストフードから高級レストランまでありとあらゆるレベルに浸透している。

これほどに愛される食べ物であるから、当然いろいろなバラエティがある。家庭料理としてのカレーはもちろん、本場インドの製法は北から南まで、パキスタンやネパールなどインド周辺国のもの、タイ・カレーといった東南アジアテイスト、ダシの効いた蕎麦屋のカレー、カレー南蛮にカレーうどん、種々のご当地カレーなどなど。

その中でも、就職してから初めて食べたものに「欧風カレー」がある。スパイスの辛さというよりは、豊かなコクと玉ねぎの甘み、どろりと濃いソース。最初はそのネーミングから、インドからイギリスやフランスに伝わってヨーロッパ風に変化したカレーなのかと思っていたが、実際にはイギリスにもフランスにもこういうカレーはない2)。フランス料理で使われる「ブラウンソース」をベースにしたカレーで、神保町の「ボンディ」初代店主・村田紘一氏が創始・名付け親だそうだ。

僕がよく行くお店をあげるなら、

ボンディ神保町本店。欧風カレー本家、神田古書センタービルの2階。靖国通り側から入る場合は、こんなところ通っていいのかと思うような、古書センターの中の書棚の隙間をうねうねと通りぬける。神保町は有名カレー店が多く、出版社勤めの人はたいてい、自分のレパートリーを持っているけれど、ボンディは誰にとっても「必須科目」ナンバーワンだと思われる。

ガヴィアル。ボンディからは歩いて5分の神保町交差点そば「ははなまるうどん」の上。ボンディより席の配置が広めなので、ゆったり食べたいときにはこちらがよい。同じ辛さを指定しても、ボンディよりわずかに辛さが控えめのような気がする。

プティフ・ア・ラ・カンパーニュ。地下鉄半蔵門駅そばの一番町交差点から麹町方向に1、2分。僕が「欧風カレー」に出会ったのがここ。この店からすぐのところに、新卒で入社した会社があった。入社間もない頃に、先輩に連れてきてもらったのだが、こんな美味しいカレーがあるのだなぁと感激したものだ。場所柄のせいか、上記2店よりもう一段、洗練された感じがする。

ボンディ以外の二店もボンディの流れを汲むお店なので、味わいの方向性、小さなジャガイモとバターが別についてくるところ、メニューの構成、お店の作りなどは、だいたい同じ。慣れてくると、その日の気分でそれぞれの個性を選んで食べに行きたくなると思う。

1 ボケて親戚兄弟の顔が見分けられなくなったとしても、このCMソングは歌えるのではないか。
2 ロンドンで何度もカレーを食べたけれど、どれも正統インドカレーばかりで、ロンドン風あるいはヨーロッパ風といったものは見たことがない。

マッティは今日も憂鬱

「マッティは今日も憂鬱 フィンランド人の不思議」

カロリーナ・コルホネン著 柳澤はるか訳 (方丈社)

日本人が一般にぼんやりと抱く「欧米の人」のステレオタイプは、英語を話し、周りに同調することなくYesだろうがNoだろうがはっきり自分の意見を言い、外向的で快活な人々、あたりではなかろうか。20年以上アメリカ企業で働いてきた経験からすると、相当にステレオタイプ化された見方ではあるけれど、まぁ確かにアメリカ人にそういう人いるね、という感じである。一方、「欧米」の「欧」の部分は、友人、同僚、知り合いから判断するに、実は「米」とはかなり趣を異にしていて、たとえば同じ英語圏の英国であってもだいぶ違う。ましてやフランスやドイツとなると、それぞれにもっと違いは大きくなる。ただ、グローバル化のご時世で、「欧」出身であっても出世するやつほど「米」的なキャラを前面に出していたりするのでややこしい。

フィンランドについては、北欧にあって寒くてサウナが名物ということ以外には、ほとんど何も知らないに等しい。フジヤマゲイシャ並の貧弱な知識である1)。だから、何も知らないままに、フィンランド人もステレオタイプ的「欧米」のくくりだろうと思いこんでいたが、本書を眺めているとそれが全くのお門違いだとわかる。「こういうのって欧米だと理解されないんだよ」なんて日本人特有のように思ってた心の機微は、実はその多くを、フィンランドの人々も同じように感じてたのだ。マッティの「憂鬱」は、どこかで祖先が-それもひい爺さんとかその一つ上あたりの近いところで-つながっているんじゃないかっていうくらいに、うーん、わかるわかるの連続なのである。

本書はもともと「Finnish Nightmares」としてネットで公開されていたものが人気になって書籍化されたものだ。コミックというより、「こんなのって憂鬱だよね」という日常の些細な一コマをマッティというキャラクターに仮託して描く形式になっている。日本語訳もこなれていて、たとえば「Nightmares」を「悪夢」なんて訳すと強すぎるけれど、うまく「憂鬱」という言葉をあてはめて、ニュアンスを上手にひきだしている。

以前感想を書いた「内向型」の人についての本にもあったけれど、アメリカ人ですら外向的で賑やか好きという人ばかりではない。物静かに、他人とは距離をとって、心穏やかに暮らしたいと思う人は、洋の東西を問わず、目立たないだけできっとたくさんいるのだ。僕もその陣営に与するものだけれど、こういう本を見るとちょっと勇気づけられて、毅然として穏やかに、堂々と控えめに生きていこうと思う。あと、フィランドにもぜひ行ってみたい。

1 ITに詳しい人ならノキアとLinuxを思い浮かべるかもしれない。まぁそれを入れてもフジヤマゲイシャソニートヨタくらいのもんではあるが。