あなたの体は9割が細菌

私たちは微生物に宣戦布告した日に、そうとは知らず、微生物と数千世代にわたって結んできた共進化と共同生活の約束を一方的に破棄してしまった – あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた アランナ・コリン著 矢野真千子 訳 (河出書房新社)

書籍カバー

ヒトの遺伝子の数は21,000個。イネの半分、ミジンコより少ない。ではなぜこれだけ複雑で高度なからだを維持し動かせるのか。それは、数多くの重要な機能を、体内に共生する100兆個もの細菌に「アウトソース」しているからだ。アウトソースすることにより、自身が突然変異によってその機能を獲得するのを待つよりも遥かに早く「実装」できる。

体内に共生する微生物共同体(マイクロバイオーム)の重要性が注目されるようになったのはごく最近のことらしい。例えば、虫垂(盲腸)は、長いこと、ヒトの進化の過程で不要になったでっぱりだと思われていたが、微生物の隠れ家であり、免疫系の育成を担っているらしい。(え?11歳のときに取っちゃったんだけど…1)。)

アトピー性皮膚炎、喘息、食物アレルギーから鬱、自閉症に至るまで、現代病と言われるものの多くがマイクロバイオームのダメージと密接に関わっていることがわかってきた。1940年代を境に、抗生物質によって、天然痘、ポリオ、結核といった致命的な病気が治療できるようになり、平均寿命が急速に伸びた一方で、抗生物質の濫用2)によって体内の微生物共同体もまた大きく傷つき新たな病気を生み出していたのは皮肉なことだ。

本書は、現代の先進国で「健康」でいるために、マイクロバイオームも含めたトータルな「からだ」のバランスを維持することの重要性について認識を新たにさせてくれる。

1 虫垂炎自体も現代病らしい。
2 耐性菌の出現によって、抗生物質の濫用については問題意識が高まりつつあるが、人間だけでなく家畜にも大量に投与されており、人間の医療現場の問題に限定されるわけではない。

内向型人間のすごい力

スーザン・ケイン著 古草秀子訳 (講談社)

アメリカ系企業は、研修(トレーニング)それも「インタラクティブ」な研修が大好きである。外資系企業で働いたことのある人の多くが経験しているはずだ。研修のオープニングの挨拶で講師が必ずと言っていいほど「今日のトレーニングはできるだけインタラクティブにしたいと思ってます」などと言う。つまりは一方的にレクチャーするだけでなく、皆さんからも活発に意見、コメントを出してくださいね、ということだ。その結果、講師から基本的な説明・解説を聞く以上の時間を、同僚の愚にもつかない感想やら意見やらを聞くのに費やす羽目になる。

本書にもある通り、アメリカ社会では、「外向的」(Extrovert) であることが高く評価される。他人よりもよく喋り意見を述べ、多くの人と一緒に何かをしようとする人がリーダーシップがあると見なされる。喋る内容は問題でなく、喋ることそのものが重要である。一方、日本を含むアジアでは必ずしもそうではない。口数ばかり多いやつは馬鹿だと思われるし人望も得られない1)。賢い人ほど普段は物静かなものだ。弱い犬ほどよく吠える、言葉多きは品少なしと言うではないか。

本書によれば、実はアメリカ人にも「外向的」であるのが苦手な人も少なくない。みんなと一緒にではなく、一人でじっくり考えて物事をすすめたいタイプも多い。それなのに、世間の評価を得るために、みんな無理して「外向的」を装わざるをえないのだ。著者もそういう無理をしてきた自分を振り返って、「内向的」だっていいじゃないか、世の中を変えるような意義のあることを成し遂げた人々の多くも「内向的」だったじゃないか、と言うのである。

アメリカのIT企業では、ここのところDiversity & Inclusionの掛け声とともに、人種、性別、性的指向など様々なタイプがそれぞれに自分らしく活躍できる職場をつくろうという活動が活発になっている。だが、この外向的・内向的という個性については相変わらず単一の価値を押し付けていて残念なことだ。著者のTED Talkは本書の内容が簡潔にまとまっている。

1 こういう価値観が、シリコンバレーのアジア系移民・留学生が多い一部の高校にも最近では見られるという本書の指摘は面白い。

文豪の女遍歴

 小谷野敦 著(幻冬舎)

多くの人にとって、いわゆる文学作品との最初の出会いは、学校教科書であろう。ゆえに小学生、中学生の頭には「文豪」=「立派な人」といった刷り込みが起こる。立派であるからには、皆の手本となるような生涯だったのだろうと無邪気に思いこむ。結果、国語の教科書に出て来るような作品というのは、立派な人が書いた大して面白くもないお話、ということになるのである。

しかしながら、昔の作家、文士なんてものは、その実態といえば、どこかおかしい人であって、その多くは世間様に顔向けできないような退廃、懶惰、奔放、怠惰、狡猾、荒唐、不合理を宿命的にその身体に抱え込んでいる。異性関係(同性愛の場合ももちろんあるが)などその最たるものであって、本書に登場する有名作家は、爛れたダラシのないエピソードには事欠かない。昔は世間も、作家がそうあることを許容していたように思う。昭和の俳優や歌手、漫才師や噺家が、プライベートでは「おかしな人」あるいは「困った人」であることも含めて世間に受け入れられていた1)のと同じことが作家にもあてはまった時代があったのだ。

こういう背景を知ってみると、子供の頃あれほど退屈だった文学作品が急に生気を帯びてくる。自らの実体験を下敷きにしている、実在のモデルがいるとなると、生身の人間のニオイがしてくるようで、作品への興味と食いつきがまるで変わってくるのである。

1 今ではこの種の芸能人はほとんど絶滅危惧種である。というか世間的に許されなくなってしまった。