サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 (上)(下)文明の構造と人類の幸福

ユヴァル・ノア・ハラリ (著) 柴田裕之 (翻訳)

河出書房新社

ホモ・サピエンスが、なぜどのように他の生物種を凌駕して地上の支配者となったのかを数千年のスパンで概観し、今、我々がどこにいるのかを明らかにした本書は、世界中に知的衝撃と興奮をもたらした。著名な学者、哲学者から先進グローバル企業の経営者まで、ネットにはこの本を高く評価するコメントが溢れている。日本語版上下巻で合計600ページ近い大著なので、簡単に読めるというわけではないけれど、これほどの知的興奮を味わった本も久しぶりだ。キーワードやポイントついては、著者本人のインタビュー記事やTEDトーク、数多くの書評などが公開されているので、そちらに譲るとして、やや脇道ながら個人的に興味深かった点をあげる。

資本主義は、経済がどう機能するのかについての理論として始まった。この理論は説明的な 面と規範的な面の両方を備えていた。つまりお金の働きを説明すると同時に、利益を生産に再投資することが経済の急速な成長につながるという考えを普及させたのだ。だが資本主義は、しだいにたんなる経済学説をはるかに超える存在になっていった。今や一つの倫理体系であり、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、果てはどう考えるべきかさえ示す一連の教えまでもが、資本主義に含まれる。資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。

(中略)

経済成長は永久に続くという資本主義の信念は、この宇宙に関して私たちが持つほぼすべての知識と矛盾する。獲物となるヒツジの供給が無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら、愚かとしか言いようがない。それにもかかわらず、人類の経済は近代を通じて飛躍的な成長を遂げてきた。それはひとえに、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を考案したりしてきたおかげだ。

(中略)

ここ数年、各国の政府と中央銀行は狂ったように紙幣を濫発してきた。現在の経済危機が経済成長を止めてしまうのではないかと、誰もが戦々恐々としている。だから政府と中央銀行は何兆ものドル、ユーロ、円を何もないところから生み出し、薄っぺらな信用を金融シスムに注ぎ込みながら、バブルが弾ける前に、科学者や技術者やエンジニアが何かとんでもなく大きな成果を生み出してのけることを願っている。(第16章 拡大するパイという資本主義のマジック)

資本主義や経済成長、また足元ではアベノミクスについて、いろんな書籍、記事、解説を読んでみたけれど、度のあわないメガネをかけて調べ物をしているようで、どれもピンとこない。でも、本書を読んで霧が晴れた。「資本主義」という「虚構」の倫理体系にあっては、「経済成長」という「信念」は、たとえヒトの直感(あるいは知識)に反していても、もはやそれは至高の「教義」と化していて、それを信じることで経済が回っている。その「教義」に基づいて日銀は何もないところから、とりあえず円を大量に印刷してばら撒き、成長のネタを待っている、と。うん、実にわかりやすい。

本筋から更に離れるけれど、もうひとつ。

このような考え方は、現代の自由主義の文化とはかけ離れているため、仏教の洞察に初めて接した西洋のニューエイジ運動は、それを自由主義の文脈に置き換え、その内容を一転させてしまった。

(中略)

幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。(第19章 文明は人間を幸福にしたのか)

著者は一日2時間の「瞑想」を日課としているという。この「瞑想」は、今はやりの「マインドフルネス」ではなく、もっと仏教の「禅」に近いものなのだろう。以前、会社で「マインドフルネス」のセミナーを受けた時に、座禅からヒントを得たというわりには、かなりお手軽な自己省察ツールと化していて、大きな違和感を感じたが、この記述を読んで納得がいった。英国のGuardian紙に2017年3月に掲載されたインタビュー記事によれば、著者の瞑想の目的は、現実をありのままに見るためとのことだ。人の心は絶えず物語や虚構や説明を作り出そうとするけれど、現実に起きていることを見て理解するにはそれらは邪魔になる。瞑想はそういったものに煩わされないで現実をありのままに見る助けになる、と述べている。

本書の続編「Homo Deus」は原語のヘブライ語版や英語版などはすでに発売されている。日本語版は2018年9月に河出書房新社から発行される予定

温泉旅館格付ガイド

温泉旅館格付ガイド(25点満点評価つき)

松田忠徳 著 新潮社

著者は「温泉教授」として、温泉に関する本を多数執筆している。どの著書でも、なぜ温泉が健康に良いのか、良い温泉とはどういうものなのか、源泉掛け流しが価値を持つのは何故なのか、といったポイントについて熱く語っている。

この本の良いところは、温泉好きの個人が、利害関係等のしがらみを持たず、極力温泉側にアンケート等による情報開示を求めて、選んだ湯宿を紹介しているという点につきる。

つまり、ほとんどの雑誌が、時には単行本ですら取材に足を運ぶことは珍しいというのである。読者の皆さんが目を通す「温泉特集」のいくつが実際に足を運んでいるのだろうか。

カタログ化している雑誌の中には、宿側から掲載料を取っているところも多い。全ページが広告と化している場合さえあるのだ。今回も「掲載料は取られるのですか?」という質問を編集部は何度も受け続けた。その頻度は悲しくなるほどのものだったという。(はじめに「情報誌と宿は持ちつ持たれつ」)

たぶん多くの人は、従来の紙メディアの情報は、「プロが作った」「客観的」なものだと思っている。でも、そのコンテンツの作り方において、いい加減な、あるいは利害関係をベースにした、読者を欺くような誌面作りをしていたところも少なくなかったというわけだ。この本の発行は2006年。この頃はまだ、あちこちのブログやサイトから「コピペ」してきたようなコンテンツを垂れ流すバイラル・サイトあるいはキュレーションメディアの問題はまだ起こっていない。でも、その根っこ(というか芽というか)はネットメディアに限ったことではなく、すでに広くはびこっていたのだと思うと残念だ。

本書はすでに「絶版」1)で、たぶん古書店でしか入手できない。著者による温泉情報は、2017年9月発行の「温泉手帳(増補改訂版)」(東京書籍)が最新のようである。僕はこの2冊を相互に参照しつつ、次にどこに行こうかと日々楽しく悩んでいる。

1 著者に「もうあなたの本は絶版にします」とは言いたくないので、版元は大抵、もう刷る気が全くなくても、「重版未定」すなわち、重版するかどうかまだ決めてません、という立場をとる。

生涯投資家

村上世彰 著 (文藝春秋)

著者は、言わずと知れた「村上ファンド」を率いた投資家で、2006年6月、ニッポン放送株をめぐるインサイダー取引を行った容疑で逮捕され、のちに執行猶予つき有罪判決を受けることになる。この事件は、フジテレビ対ライブドアという、マスコミ既得権者と新興IT企業の対立図式で、センセーショナルに報道された。

本書は、著者の投資哲学、日本企業とそのビジネスへの見方・考え方を、投資の実例を通して語っている。キーワードは「コーポレート・ガバナンス」だ。

コーポレート・ガバナンスとは、投資先の企業で健全な経営が行なわれているか、企業価値 を上げる=株主価値の最大化を目指す経営がなされているか、株主が企業を監視・監督する ための制度だ。(中略)経営者と株主の緊張関係があってこそ、健全な投資や企業の成長が担保できるし、株主がリターンを得て社会に再投資することで、経済が循環していくメリットがある。(第一章 何のための上場か 3. コーポレート・ガバナンスの研究)

著者の投資は、このコーポレート・ガバナンスを、投資家の立場から、愚直なまでに日本で実現しようとした軌跡と言える。日本企業は、上場していたとしても、その実態は、依然として従業員の共同利益のための組織(あるいは、ある種のムラ社会)であって、経済学の教科書にあるような株主の利潤追求のための組織ではない1)。そこに、正面から株式会社運営のルールを突きつけても、感情的な反発と強い軋轢が生まれるだけだ。ルール、理屈、理論から言えば、おそらく100%著者に理があるのだが、当事者はもちろん、マスコミが輪をかけて情緒的な拒否反応を示す。著者のファンドに対するネガティブ一色な報道はこの典型例だろう。この種の「日本的」情緒で、産業・ビジネスのダイナミズムが損なわれる例は、今も毎日にように起きている。経済が否応なくグローバル化し、ビジネスも投資も日本国内だけで考えることに意味のなくなった今、著者に改めて学ぶところも多い。

1 「1940年体制」(野口悠紀雄著 東洋経済新報社)ではグローバリゼーションとともに日本が成長できていない原因を1940年体制という日本独自のルールにあると分析している。

マカロニほうれん荘

マカロニほうれん荘(全9巻)

鴨川つばめ著(少年チャンピオン・コミックス 秋田書店)

鴨川つばめは天才である。

ふきだしからセリフがリズムに乗って流れ出してくる。70年代のサブカル、ロックやパンクの躍動をページからこんなにほとばしらせたマンガは、多分、この作品だけだろう。当時小学生だった自分は、クイーンもレッド・ツェッペリンもまだ知らなかったけれど、そのビートをマンガの中から感じ取っていたのだと思う。中学に入ってクイーンをはじめて聞いたとき、あ、これ知ってる!聞いたことある!と思ったくらいだ。実際には聞いたことなどなかったのに。それほどこのマンガが音楽的であり、ギャグとビートが渾然一体となって、子供の頭のなかで鳴り響いていたのだと思う。

スラップスティックの何たるかを、スラップスティックなんていう用語を知る前にこのマンガに教えてもらった。縦横無尽、自由気儘にあちこち飛び廻るストーリーのくせに、けっこう丁寧に辻褄が合わせてあったりする。ミリタリーなフレイバーが隠し味的に効いている。ナンセンスなんだけど、優しい、柔らかな世界。

単行本の第一巻が発売される日、友達が学校帰りに本屋に駆け込んで「マカロニほうれん荘入った?」とレジのおばちゃんに聞いたところ、「ここは八百屋とちゃうで~」と言われたらしい。まぁ、大阪ならありそうなハナシではあるが、真偽の程は当時から不明1)

完結させたかった作者に秋田書店が無理やり描かせていた終盤(7、8、9巻あたり)はさておき、マンガ史に残る大傑作だ。

1 この話をしていた当人は、口をとんがらかして本当だと言い張っていた(笑)。

されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間

されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間

鈴木大介著(講談社)

41歳で脳梗塞に倒れた著者は、後遺症として高次脳機能障害を負う。その経緯、症状、当事者の気持ちや気付きについては、「脳が壊れた」(新潮社)に詳しい。高次脳機能障害については、小室哲哉さんの奥さんKEIKOさんが患っていることから、彼の引退会見で急速に世間の認知が高まっているように見える。

本書では、高次脳機能障害と発達障害は非常に似ているのではないか、と気づいた著者が、発達障害の奥さん「お妻様」をより深く正確に理解してゆく過程、個性を愛し尊重し、家庭を立て直していく様子が描かれている。

嗚呼、身をもって理解した。単に不自然な感じとか不器用とか空気読めないとか黙り込むとか泣き出すとか、そんな当事者の背後には、こんな苦しさがあったんだ。不自由なことと苦しいことが同じだと、僕は知らなかった。

「ようやくあたしの気持ちがわかったか」

「わかったけど、これはちょっと苦しすぎます」

でも、なぜ苦しいのか、なぜやれないのかがわかれば、どうすれば楽になれるのか、どうすればやれるようになるのかもわかる。発達障害妻&高次脳夫。お互いの障害を見つめつつ、我が家の大改革が始まったのだった。(第三章 まずお妻様が倒れ、そして僕も倒れる)

脳梗塞に倒れる前から、発達障害に苦しむ人々を取材対象としてきた著者でさえ、相手の苦しさ、生きにくさを本当にはわかっていなかった、という告白は、それが後天的であれ先天的であれ、高次脳機能の障害を理解する難しさを物語る。誰しも、無意識に、自分にとっての「当たり前」を基準にして、考え、判断する。その「当たり前」が相手にとってはまったく「当たり前」ではないかもしれない、とまで思いをいたすのは相当に難しい。でも、いらいらしたり責めたりする前に、ちょっと立ち止まって、まてよ、と考える余裕を持つためには、本書はとてもよい入り口になるはずだ。

死都日本

bookcover「死都日本」
石黒 耀 著(講談社文庫)

鬼界カルデラに直径10キロの巨大な溶岩ドームが形成されていることが確認されたというニュース。鬼界カルデラは7300年前に巨大カルデラ噴火を起こし、九州一帯の縄文文化や生物相を根こそぎ破壊したことで知られるが、それが依然活発に活動していることが明らかになったわけだ。

「死都日本」は、今の霧島火山があるあたりにあった加久藤カルデラ(鬼界カルデラと阿蘇カルデラを結ぶ線上のほぼ中央1))で、30万年の時間を経て、現代に再び破局的噴火が起こったらどうなるのか、というシミュレーションを中心に据えた小説である。

破局的噴火(カルデラ噴火)の規模がどれほど甚大でありうるのか、噴火の前兆から噴火、さらにその先に時系列でどういった災害が引き起こされるのか、など、綿密で科学的見地を踏まえた構成は、息を呑む迫力。久しぶりに寝る間もなく読み通してしまった。

二千年に満たない人類の火山学で、齢百万年を越す火山の生死を正確に判断できるのであろ うか?三十万年くらい活動が無くても、火山にとってみれば「ちょっと昼寝をしていた」という程度の感覚でしかない場合は無いだろうか?(第3章 水蒸気爆発)

著者は、戦後日本が推し進めてきた国土開発(と繁栄)は、日本の国土の地学的条件を無視したもので、いつか自然から手痛いしっぺ返しを食らうのではないか、という問題意識2)を強く持っていて、作中でも登場人物に何度か語らせている。本作は2011年の東日本大震災よりも前に書かれたものだが、3.11の経験がまだ生々しい今、(著者の考えに賛成するかどうかは別としても)いろいろ考えさせられる。

1 阿蘇山から薩摩硫黄島・竹島にいたる直線上に阿蘇、加久藤、小林、姶良、阿多、鬼界と多くのカルデラが形成されている。つまりここでは、過去何度もこれらのカルデラを形成した大噴火が起きている。
2 「死都日本」シンポジウム―破局噴火のリスクと日本社会―2003年5月25日に寄せたコメントでも述べている。(講演要旨集 – 静岡大学教育学部総合科学教室小山真人研究室サイト内より)

人間はどこまで耐えられるのか

Front coverフランセス・アッシュクロフト 著 矢羽野 薫 訳 河出文庫(河出書房)

ヒトは上下方向の移動に弱い。エベレストの更に上空を楽々と飛ぶ渡り鳥がいたり、数千メートルを簡単に潜るクジラがいたりするが、ヒトが(何の装備もなく)そんなことをすれば即死である。ヒトの体は、1気圧、21%の酸素の大気の中で生活するようにできており、圧力の変化に柔軟に対応できない。高地においては、圧力の変化は、酸素の取り込み効率に直結する。高度が上がるほど、気圧が下がり、それに伴って酸素分圧も下がり、肺に酸素を取り込みにくくなる。酸素が取り込めなければ運動能力は極端に落ちる。深く潜れば、血中の窒素ガスの状態に変化が生じ、急に浮上すると血液中で窒素が気泡となってからだは深刻なダメージを受ける。

標高7000メートルでは、 海抜ゼロメートルに比べて体の動きは4割以下に落ちる。(中略)1952年にレイモンド・ランバートとテンジン・ノルゲイがエベレストのサウスコルを登ったときは、わずか200メートルに5時間半かかった。ラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラーは山頂が近づくにつれて、疲労のあまり数歩ごとに雪の中に倒れ込み、最後の100メートルに1時間かかった。(第一章どのくらい高く登れるのか)

登山(とくに3000メートル以上の高高度)に、入念な準備と慎重な判断が必要とされるのも当然と言える。平地と同じ運動能力や判断力を期待できないところに、厳しい気象条件がのしかかってくるわけだから。調べてみると富士山でも少なからずの遭難事故が毎年起きている。手軽な登山と思ってしまうかもしれないけれど、3,700メートルまで行くならしっかりした準備と知識が必要ということだろう。

ドキュメント 気象遭難

羽根田治著(ヤマケイ文庫・山と渓谷社)

ここで言う気象遭難とは、山での気象現象が直接的・間接的な原因となっている遭難事故を指しており、新旧の遭難事故7件を検証している。遭難した状況は様々であっても、いずれも後から検証してみると「ここで判断を誤った」というポイントがあるものだ。登山をしない自分から見ても、そのポイントの多くは、「え~、何でそんなことしちゃうかなぁ?」などと、他人事のように思うものは皆無。自分がその場にいれば間違いなく同じ轍を踏んだであろうものばかりで、肝が冷える。日常の延長にあるハイキングのレベル1)であっても、遭難は起きうるのだ。

悪天候下の山には必ず越えてはならない一線があるということだ。天気が多少悪くても、「 これぐらいの天気なら」と判断して行動を続けていると、必ずどこかで一線を越えてしまう ことがある。

(中略)

たぶん、その判断を下そうとするときには少なからず躊躇するはずで ある。だが、躊躇するということは、もう一線を越えようとしているところにいると思ったほうがいい。(初版あとがき)

都市生活者が生存のためにシビアな状況判断を要求されることはまずない。(そういった判断をしなくてよいように出来上がってきたのが都市だとも言える。)雨の天気予報だったのに雨具を持っていかずに濡れたからといって、生命の危険に結びつくことなどない。でも、もし山で濡れて風に吹かれれば、容易に低体温症を起こし、生死に直結し得る。都市の安全・安心・利便は、何重かのバリアで自然環境から命を隔離し、守ることと同義だ2)。それだけに、山で要求されるシビアな判断力は、都市での日常をすごしていて身につくものではないだろう。

そういったシビアな判断力を持つべきだと考えるか、あるいは必要なライフスタイルかは個々の問題だとして、バリアの中にいながらにして、剥き出しの自然の厳しさを垣間見る思いがした。シリーズで「道迷い遭難」「滑落遭難」(いずれも本書と同じ著者)も出版されている。

1 例えば尾瀬や日光までクルマで行って、ついでに軽装でちょっとそのへんの山に登ってみるというような。
2 登山など厳しい自然に身を置くことは、このバリアをはずすスリルだ言える。

もたない男

もたない男書影
中崎タツヤ著 新潮文庫

いつの頃からか、身の回りのものを大幅に減らしてすっきりさせたいなぁ、と思い始めた。「立って半畳寝て一畳」的ミニマリズムへの憧れなのだろうか。そこでいわゆる「断捨離」、「ミニマリズム」みたいな本をいくつか手にとってみたのだが、なんだろう、どうにもダメだ。しゃらくさい美学とか生き方みたいなものが鼻について、素直に読めない。どこか違うんだよな~という感がつきまとう。

そこにやってきたのがこの本だった。で、わかった。しゃらくさいのは、己自身であった。もたない男、中崎タツヤは、その「どこか違うんだよな~」などと言う私の小理屈を粉砕して通り過ぎていってしまった。

ものを捨てることは、私にとって主義でも美学でもありません。捨てることが主義・美学だったら、自分の「したぞ」「やったよ」という達成感、カタルシスみたいなものがあるかもしれないけれども、私がものをすてることと、そういう感覚とは全然関係がありません。無駄が嫌いなんです。スッキリしたいだけだと思うんです。(P.69 第二章 なぜすてるのか)

歳をとってものを捨てたいといっている人たちの多くは、捨てたいのではなくて、整理したいんだと思うんです。(P.136 第三章 もたない生活)

いま、捨てたくても捨てられない人たちのための本が売れているようですが、私は、捨てずにはいられないんです。(P.168 第四章 もたない人生)

究極の、あるいは生まれながらの、もたない男の前では、私は頭を垂れて、理屈をこねまわしていた己を恥じる。ぐだぐだ言っている暇があったら、まずは机の上のしばらく触ってもいないもの1)から捨てねばならぬ。

1 ほとんど全て

一度、死んでみましたが

book cover
神足裕司著(集英社)

高次脳機能障害。この言葉を知ったのはおよそ2年前。親しい人が事故で脳に損傷を受けて記憶などに障害が残った。脳梗塞の後で半身不随というのはよく見聞きするが、外からは見えにくい脳機能の障害にはなかなか思いがいたらない。

人気コラムニストの神足裕司は、2011年9月に広島から東京への機内で重いクモ膜下出血を起こす。生死の境を彷徨う重篤な状態だったが、何とか一命をとりとめた。要介護5の障害が残るも家族や友人に支えられつつリハビリ中とのこと。自分で体を動かすことができず、話すことができない。記憶が混濁したり、短期の記憶を保持できなかったりする。でも書くことはできるのだ。ここに高次脳機能障害の複雑な側面を見ることができる。話すことができなくても、書ける。カラオケで昔の歌も歌える。でも、書いたものを覚えていることは難しく、自分の書いたものを見て、その都度記憶を再構築せねばならない。健常者はまったく意識することなく行っている日々の当たり前のこと(会話する、食事する、買い物をする、電車に乗る等々)がいかに複雑な脳のマルチタスクを必要とするかに気付かされる。それらが一箇所でも不具合を起こすと、当たり前は当たり前でなくなるのだ。

前にも書いたかもしれないが、ボクは何もわからないのではない。みんなの言っていることは、理解しているつもりだ。健常者に比べれば、ヘンなところがあるかもしれない。だが、すぐに思っていることが話せないだけだ。話したくても、言葉が出ない。病気になった人間には一人ひとりに人格があって、当たり前のことだけど、生きている。言葉は出なくても、しゃべれなくても、待っていてほしい。待てない人は、早合点しないで、そのままにしておいてほしい。先回りして何かを、「こうですよね!」なんて、勝手に決めてほしくない。(p.107 第2章 リハビリの日常)

エッセイで書かれる著者の等身大の日常に、僕らが普段の生活では気づかない視点をもらい、垣間見える家族の絆に温かな気持ちになる。彼にとって書き続けることがすなわち生きること。その足跡は本書だけでなく、いくつかのWeb媒体でも追いかけることができる。

コータリさんからの手紙(みんなの介護)

コータリンは要介護5(朝日新聞)

神足裕司 車椅子からのVRコラム(PANORA)