サピエンス異変

「サピエンス異変――新たな時代「人新世」の衝撃」
ヴァイバー・クリガン=リード著 鍜原多惠子・水谷 淳訳 飛鳥新社刊

「サピエンス異変」という日本語版タイトルは、おそらく「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)のヒットに乗っかろうとした姑息なもので、原書のタイトルは「Primate Change: How the world we made is remaking us」という。Primateは「霊長目」という意味で、いわゆる猿人・原人から現代のヒト(ホモ・サピエンス)に連なるヒト族が、800万年以上に渡り、環境に応じてどのように進化してきたのか、また農耕の開始以来の1万数千年で、農業革命、都市化、産業革命、デジタル革命を経て大きく様変わりしてきた環境下で、われわれヒトのからだがに何が(主にどのような不具合が)起きているのかを概観する。

現代人を苦しめるいわゆる「現代病」ーアレルギー、腰痛、心疾患、骨粗鬆症、肥満、糖尿病、自己免疫疾患などーの多くは、ヒトの数百万年の進化と現代生活のミスマッチから来ると結論づけている。ヒトは、数百万年の間、移動と狩猟採集というライフスタイルに合わせて進化してきた。農耕の発達による定住化はたかだかここ1万年のものであり、一日8時間以上もじっと座って「労働」するスタイルは、産業革命以降のわずか200年程度でしかない。今「当たり前」だと思っているライフスタイルは、長い人類史の中ではまばたき程度の長さもなく、進化によって形づくられたヒトの身体に適したものではないのである。「椅子」ですら、一般化したのは、産業革命以降の数百年のことでしかない1)、という指摘に驚く読者も多いだろう。「椅子」は現代生活とヒトの身体のミスマッチの象徴とも言える。一日8時間以上も座っての生活など、ヒトの進化ではまったく想定外だった。近代の学校教育は、産業革命で必要とされるようになった、長時間文句も言わずじっと持ち場で働き続ける人間をつくるために設計された、という記述にははっとさせられる。

本書によれば、身体的ミスマッチをなるべく減らし、不具合を回避・低減する最大の鍵は、「座るな」&「歩け」である。ヒトが進化の中で獲得した運動能力上の特長は足にある。足の親指が他の指と同じ向きに並び、足裏のアーチが発達した。これらを使うことで、体重移動を前方への推進力に変えて長時間歩き(あるいは走り)続けることができるようになった。攻撃力や敏捷性で他の動物に劣るヒトが厳しい環境を生き延びてきたのは、この能力による。このポイントは、「BORN TO RUN」「EAT & RUN」でも指摘されている通りだ。

植物についても面白いポイントに触れている。地球の二酸化炭素濃度は近年上昇を続けているが、二酸化炭素濃度が高くなると、植物は光合成を活発化させる。ところが、二酸化炭素濃度が高くなっても、植物が取り込むミネラルや希少元素の量は変わらないので、植物性の食料2)は、単位重量あたりのカロリーは上がるが、ミネラルなどの栄養価は下がるという。

年齢を重ねても健康で過ごすためには、易きに流れやすいライフスタイルを見直し、あえて身体に負荷をかける時間を意識的に作る必要がある。まずは歩くこと。とりあえず、徒歩30分で行けるところへは、交通機関を使わずに歩く、といったあたりから始めてみたい。

1 椅子そのものは権力の象徴として数千年前から存在はしていた。
2 人類が消費している全カロリーの40%がコメとコムギである。

ムー

月刊「ムー」。UFO1)やUMA2)、謎の秘密結社やらあの世やら、陰謀論もトンデモ論も、なんでもありのオカルト雑誌である。学研という教育畑の出版社から出ている、というと意外だと思う人もいるかもしれない3)。この雑誌はけっこう歴史があって、創刊は1979年。創刊されてすぐの頃、本屋でよく立ち読みした記憶がある。

73年3月に「日本沈没」(小松左京著 光文社)、11月に「ノストラダムスの大予言」(五島勉著 祥伝社刊)が空前のベストセラーになってからというもの、70年代はオカルトが堂々と世間を賑わした時代だった。僕ら小学生は、ユリ・ゲラーと一緒にスプーンを曲げる練習をし、川口浩の怪しげな探検をテレビで見てドキドキし、公園の植え込みでツチノコを探し、コックリさんに好きな人に告白すべきかどうかを相談し、口裂け女に会わないように用心しながら学校から帰った。「ムー」はこの時代の空気感をそのまま極彩色で保存したような雑誌で、今も続いているのはちょっとした奇跡だと思う。

ずっと通っている近所のヘアサロンが、どういうわけだか、4、5年前から「ムー」を毎月買っておいている。懐かしいねー、なんて言いながら最初は冗談半分で読んでいたのだが、子供の頃の刷り込みは強力で、気がつくとグーグルアースに写ったUFOの基地やら、フリーメーソンと古代神道の関係やらといった記事を熟読している。そのうち、お店の人からも「ムーですよね。最新号買っておきました!」と選択の余地なくピンポイントで手渡されるようになり、すっかりムーおじさんとして認知されている様子である。ムーおじさんって相当ヤバイ人じゃないか、と我に返り、最近ではもっぱら「Pen」とか「dancyu」を読んでイメージ回復に努めている。

1 unidentified flying object = 未確認飛行物体。れっきとした英語。
2 unidentified mysterious animal = 謎の未確認動物。こちらはちょっとヘンな和製英語。
3 学研という出版社はときどきこういうあさっての方向からの出版物を出す。BOMB(ボム)もそうだ。

EAT & RUN

「EAT&RUN 100マイルを走る僕の旅」
スコット・ジュレク、スティーヴ・フリードマン 著、小原 久典 、北村 ポーリン 訳、NHK出版。

以前レビューを書いた「Born to Run」に出てくる主要登場人物のひとり、スコット・ジュレクが、なぜ走るのかを自らに問いかけつつ、その考え方、食生活、トレーニングなどを気取らない筆致で綴った本。スコット・ジュレクは、全米のみならず世界的にも「最強」のウルトラランナーのひとりであり、ウェスタンステーツ・エンデュランスラン(カリフォルニア州の山岳地帯を161キロ走るトレイルマラソン)7連覇をはじめ、世界的なウルトラマラソンで多くの優勝を果たした。大量のエネルギーを消費するウルトラマラソンにおいて、ヴィーガン(完全菜食主義者)であることが何らハンデにならないどころか、体調を整え、良質のタンパク質と必要なエネルギーをとるのにむしろ大切な要因になっているのも、彼のスタイルを際立たせる特徴になっている。

彼は、ミネソタの片田舎で、幼い頃から、ALSを患い日に日に身体の自由を失っていく母親と、厳しく強権的な父親の間で、経済的にも恵まれないなかでも、長男として家族のバランスを必死でとりながら生活をしてきた。彼が走りはじめた理由のひとつは、自分の心配事を忘れ、自分の中に入っていく一人きりの時間を過ごせるから、だったようだ。スポーツ界に限らず、アメリカで成功した人たちの少なからずは、「強くある自分」を意識的に外に打ち出し、弱さと受け取られる要因をなるべく見せたがらないタイプが多いように思うが、本書のスコットはむしろその逆で、不安や葛藤、弱さや泣き言、友人から受けた刺激や支えを素直に記している。

「Born to Run」を読んだときから、なんとなく感じてはいたが、長距離を走ることで到達する境地と仏教的な瞑想の境地とは、その本質において似通っている。どちらも、呼吸を見つめ「今」に集中することで、将来や過去といったしがらみを捨て去り、無我の境地を目指す。スコットの思索は、どちらかといえば東洋的で、我々には馴染み深い側面をもっている。第10章ではヘンリー・ソロー1)と武士道について、第12章では、比叡山の千日回峰行2)について触れている。

人生はレースじゃない。ウルトラマラソンだってレースじゃない。そう見えるかもしれないけれど、そうじゃない。ゴールラインはない。目標に向かって努力をして、それを達成するのは大切だけれど、一番大事なことではない。大事なのは、どうやってそのゴールに向かうかだ。決定的に重要なのは今の一歩、今あなたが踏み出した一歩だ。(「エピローグ」)

ビジネスであれ、スポーツであれ、結果が全て、勝者が全て。ゴールに最短距離で到達したものが勝者であり、全てを手にする、といった勝利至上主義の考え方はここにはない。ランニングを含め、あらゆることの「見返り」は、すべて自分の中に存在し、ゴールに向かった「プロセス」だけが自分に喜びや平穏を与えてくれるのだ、という彼の言葉は、説得力と温かさをもって胸に染みる。

本書に続く「NORTH 北へ アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道」(NHK出版)が9月に刊行された。ジョージア州からメイン州に至る3,500キロもの「アパラチアン・トレイル」を北上し、最速踏破記録を樹立しようとする日々の記録だ。とくに後半の壮絶さと、その中で思索が深まっていく様子は、この本のあとにぜひ読むと良よい。

1 「ウォールデン・森の生活」著者。長距離の散歩を日課としていた。
2 見方によってはまさに究極のウルトラマラソンでもある。

本を売る

長年、多くの本を買ってきた。これまで何にお金を使ったかで言えば、今もせっせとローンを払い続けているマンションを除けば多分、本と楽器ではないかと思う。家中に本が溢れ、収拾がつかなくなったので、貸し倉庫に収めていたけれど、今度倉庫を借り換えることになって、とうとう、本の整理を始めた。長年の懸案だったけれど、こういう機会でもないとなかなか始められない。

大量にある、とはいえ、乱読の結果であって、コレクションではないので、稀覯書として価値のあるものは残念ながら一冊もない。ハードカバーも文庫もごちゃまぜ、古典からサブカル、文学からノンフィクション、ビジネス書までジャンルは広大だ。とりあえず、作業しやすい、という意味で、文庫から整理をはじめる。絶版+電子書籍で買えない+古本価格が高い1)+また読みたくなりそう、という4つの条件が「かつ」で揃っている場合を除いて、すべてブックオフに持っていくことにした。

とりあえず第一弾として160冊を持っていってみたところ、5冊がコンディション不良で買取不可。のこりの155冊は買い取ってくれた。ほとんどが5円とか10円の買取だが、意外なものが比較的高値だった。以下が買取価格ベスト5である。

「環境の哲学」「ウォールデン」「ペスト」「戦う石橋湛山」「人間臨終図鑑(1)」

本を読むときに傍線を引いたり書き込みをしたり、という人も少なくないと思うが、僕は本をまったく汚さない派なので、コンディションは概して悪くない。買い取りしてもらえなかった5冊は、相当古い上におそらく直射日光にあたっていたか何かで、紙が「わら半紙」のごとく黄ばんでおり、自分でもこれは仕方がないな、と思う。でも、一定の買取基準(破けていないとかカバーがついているとか)を満たしていれば、少なくともブックオフの場合、ぴかぴかの美品でもそうでなくてもあまり買取価格に影響はなさそうである。それにしても、何が高値でなにがそうでないのか、まったくわからない。なんとか傾向みたいなものを読み解こうとするに、いわゆる「古典」作品は、少し高いのかもしれない(上記5冊の中の「ウォールデン」と「ペスト」。ほかに「武士道」なんかもこれらに次ぐ価格だった)。

実は、今まで本を売るのにちょっと抵抗があった。読書の履歴という、かなり「個人的な領域」を他人に晒すようでイヤだったのだ2)。それでも倉庫に保管されたまま数年から10年程度が経つと、自分の記憶の中で生々しさが消え、ちょっと突き放して客観視できるようになるらしく、今のところ整理作業は比較的すんなりと進んでいる。数日内に、文庫本第二弾300冊程度を持ち込んでみる予定だ。

1 いざ買い直そうと思った時に躊躇しそうなくらい高いものもあるので。
2 とはいえ、紙、電子に関わらずオンラインで本を買えば、その履歴はアマゾンを始めとする「他人」に握られることに変りはないのだが。

数学への憧れ

中学の途中までは得意だったはずの数学が、いつのまにか苦手科目に変わってから、ついに挽回することなくここまで来てしまった。高校時代のクラス分けでは、早々に「私立文系」組に入って数学から遠ざかり、当然の帰結として私立大学の文学部に進学した。いや、「当然の帰結」というのはちょっと言い過ぎで、文学部というのは、やや極端な選択ではある。ちょっと目端の効く同級生たちは、就職に有利だとされる法学部や経済学部に進学していたが、当時から世の中を斜に見る傾向のあった僕は、「就職目当て」の進路選択をケッと軽蔑し、理由なき反抗によって文学部を選んだのだった1)。今考えると、若気の至りともいえるが、今さら取り返しはつかない。結果として、日本経済がバブルで浮かれていた大学4年の頃、法学部や経済学部の連中は、大手企業から早々と内定をいくつももらって得意げにほくほくしていたが、文学部はまるで蚊帳の外で、安っぽいリクルートスーツを着て、暑い中を汗だくで就職説明会をはしごし、落とされまくり、世のリアルに涙し、自分の浅はかさに何度も深い溜息をついたのだった。

話のマクラが長くなった。こうして数学から遠ざかって長い年月が経つけれど、実は数学が嫌いな訳ではない。むしろすごく興味があるし、わかるようになりたいと思っている。まぁ、今さら微積分の問題を解きたいということはないけれど、もっと大きな絵の中で、最先端の数学が取り組んでいる問いがどういう意味があるのか、それに関わる人物模様についてもっと知りたい。この興味のど真ん中を射抜き、刺激してさらに大きくしたのは、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」(青木薫訳、新潮文庫)2)という本だった。たまたま空港で手にとったこの本があまりに面白くて、夏休みで行った沖縄で、ずーっと一日中読みふけった。これをきっかけに、ポアンカレ予想を証明したペレルマンについての本や、アラン・チューリングの本にも手を出した。

数学者を扱った映画も沢山ある。統合失調症に苦しんだ天才数学者ジョン・ナッシュの半生を描いた「ビューティフル・マインド」、第二次大戦中ドイツ軍のエニグマ暗号を解いたアラン・チューリングを描いた「イミテーション・ゲーム」、夭折したインドの天才数学者ラマヌジャンを主人公にした「奇蹟がくれた数式」。スティーブン・ホーキングの伝記的な「博士と彼女のセオリー」3)などがある。最近みた映画では、「ギフテッド」が良かった。ナビエ–ストークス方程式の解決を期待されるほどの数学者だったが、自ら命を絶ってしまった姉。弟のフランクは、数学的な天賦の才を母から受け継いだ娘メアリーを引き取り、普通の子供として育てようとする。実話ではなくフィクションだけれど、作中「ミレニアム問題」が重要な鍵のひとつとなっている。メアリーを演じた子役のマッケンナ・グレイスが素晴らしい。

1 経済学や法学には興味がもてず、文化人類学に興味があったということもあるけれど。
2 ビッグバン理論を扱った「宇宙創成」、暗号の世界を扱った「暗号解読」も実に面白い。青木薫の訳も見事。
3 「奇蹟がくれた数式」の原題は「The Man Who Knew Infinity」、「博士と彼女のセオリー」の原題は「The Theory of Everything」。いずれも、原題はストーリーの鍵を含意しているのに、おかしな日本語題のせいで、それが台無しになっている。

Born to Run

「BORN TO RUN 走るために生まれた – ウルトラランナー VS 人類最強の“走る民族”」
クリストファー・ マクドゥーガル 著、近藤 隆文 訳 (NHK出版)

マラソンの世界記録の推移を見てみると、いわゆる先進国のランナーが活躍したのは80年代までで、その後は、アフリカ勢が圧倒的に強い。実は日本記録でも同じ傾向が見られる。80年代以降の記録の伸びは僅かなものだ。

だが、一方で、80年代以降、先進国のランニング人口は増えており、新しいサポート機能を盛り込んだランニングシューズが絶え間なく開発、発売されている。著者は、そんな最新シューズを履いている自分が、ランニングでこれほどしょっちゅう故障するのはなぜなのか突き止めようとする中で、メキシコの人跡稀な峡谷に住むタラウマラ族のことを知る。なぜ彼らは粗末なサンダルで100キロ以上もの距離をラクラクと走り抜けることができるのか。

著者の謎解きの旅は、タラウマラ族、彼らとともに生活する流れ者の白人・カバーヨ・ブランコ1)を訪ね、ウルトラマラソン、ウルトラトレイルランニングのトップランナーたちとの交流の中を進む。彼らと共にウルトラマラソンを走った著者の達した結論は、1. 人間は走るために進化し、哺乳類最高レベルの持久力をもつ。人はだれにでもその遺伝子に、走るための才能が備わっている 2. 靴を履いて走ることは人間が本来持っている足の機能を邪魔し、怪我をしやすくなる 3. 走らないから年をとるのであって、年をとるから走れなくなるのではない。

タラウマラ族の本当の秘密はそこにあった。走ることを愛するというのがどんな気持ちなのか、彼らは忘れていない。走ることは人類最初の芸術、われわれ固有の素晴らしい創造の行為であることをおぼえている。洞窟の壁に絵を描いたり、がらんどうの木でリズムを奏でるはるかまえから、われわれは呼吸と心と筋肉を連動させ、原野で身体を流れるように推進させる技術を完成させていた。それに、われわれの祖先が最古の洞窟壁画を描いたとき、最初の図案はどんなものだったか?稲妻が走り、光が交錯する – そう、走る人類だ(15章)

この本は、全世界で300万部を突破して、ベアフットランニング(裸足で走ること)ブームの火付け役になった。僕自身、1年くらい前からジョギングを習慣にしているが、数ヶ月に一度、シンスプリントを発症して3、4週間は走れなくなっていた。その度に、よりサポートの手厚いシューズに履き替えてみるものの、ずっと同じことの繰り返しでいつまでも良くならない。こうした自分の経験に照らしても、著者の主張には首肯できる点が多い。

この本を読んで、買ったばかりのアシックスをお払い箱にし、シンプルなつくりのシューズに履き替えてみた。ただ、カカトでなくミッドフットで着地するのは、小さい頃から自然に走ってきた感覚を意識的に変える必要があり、意外と難しい。そのうえ、ふくらはぎなど、いままで使わなかった筋肉を鍛えねばならず、切り替えには時間がかかる上、万人向きとも言えない側面もある。事実、すでに一時期のブームは去り、ベアフット系のシューズはカタログの片隅に残っている程度だ2)。まぁ、ベアフット用のシューズが必要かどうかはさておき、ヒトが本来持っている秘めた能力を引き出して活用するのはロマンがある。肉体的であると同時に高度に頭脳的・精神的な営みだ。これをきっかけのひとつとして、しばらく自分のからだでいろいろ試してみたい。

追記:英語版と日本語版で表紙の写真が微妙に違う。英語版では右側の人物(カバーヨ・ブランコ)がデザイン上の判断からか消されている。また、彼のドキュメンタリー映画が2014年に「Run Free – The True Story of Caballo Blanco」として公開された。

1 本名はマイカ・トゥルース。本書の「主人公」のひとりで、彼の波乱に満ちた生涯が縦糸の一本となる。2012年にいつものように朝、山中を走っている途中、不整脈による心停止で58歳で急逝。NYT記事。ウェブサイトはこちら
2 ベアフットどころか、最近はまた厚底で高反発なソールのシューズが多くなっているように見える。

インフルエンザ パンデミック

「インフルエンザ パンデミック 新型インフルエンザの謎に迫る」
河岡義裕・堀本研子 著 (講談社ブルーバックス)

一昨年の暮れに、A型インフルエンザに罹った。症状は激烈で、体の節々が抜けるように痛く、体中の筋肉が軋んで猛烈にだるく、40度近い高熱と寒気で起き上がることもできない。水分補給とタミフルに縋りつつ、半死半生の体でうんうんと唸りながらひたすら横になっているしかない1)。朦朧とする意識の奥で、自らの免疫細胞に、しっかり頑張れと念を送りつつ、5日ほどを寝て過ごしたのであった。

ちょうど100年前、1918年から19年にかけて流行し、全世界で5000万人、一説には一億人近いともいわれる死者を出した「スペイン風邪」は、インフルエンザのパンデミック(爆発的大流行)だった。そもそも「風邪」などというのんびりした名前がついているから誤解されるけれど、スペイン風邪は、毎年流行する季節性インフルエンザよりも、はるかに伝播力と病原性が高く、当時まだ誰も免疫を持っていない「新型」だったため、瞬く間に世界中に伝播し、未曾有の死者数を出すに至った。

本書を読むまで知らなかったのだが、インフルエンザウィルスそのものが「毒性」を持っているわけではないという。病原性の違いは、ウィルスが増殖できる臓器の種類と増殖速度の違いからくる。季節性インフルエンザでは通常上気道などの一部でしか増殖できないが、スペイン風邪ウィルスは、上・下気道を含む全身の臓器で爆発的に増殖し、感染した人に異常な免疫反応を引き起こし、多くを死に至らしめたのだ。

21世紀に入って最初のパンデミックは2009年の「新型インフルエンザ」だった。これは豚由来のウィルスがヒトにも感染し、突如パンデミックが起きたものだ2)。インフルエンザウィルスは動物種の壁を超えて感染する力を持ち、感染力や病原性は変異によって容易に変化するため、いつ次のパンデミックが起きてもおかしくはない。1997年以降、東南アジア、中国、中東、アフリカで、ヒトの致死率が60%にも達する「超高病原性」ともいえるH5N1型鳥インフルエンザのトリからヒトへの感染が相次いだ。こういったウィルスがもしヒトからヒトへ容易に伝播する能力を獲得したりすれば、スペイン風邪を超える被害をもたらす可能性すらある3)

本書は、インフルエンザウィルスの特徴や、感染や変異のメカニズム、2009年時点の最新知見などが、簡潔でわかりやすい説明と研究者らしいバランスのとれた記述でまとめられている。毎年流行する身近な病気でありながら、潜在的には甚大な危険性をはらんだインフルエンザという病気を、正確に理解し適切な距離感をつかむのにとても役立つ。

1 発熱・悪寒・関節痛・筋肉痛は、我々の体がサイトカインによりウィルスの増殖を抑えようとする生体反応の副作用であるらしい。
2 ヒトに感染する直前がブタだったとはいえ、大元をたどればトリ、ヒト、ブタそれぞれに由来をもつウィルスのパーツが集合してできている
3 2016年以降、H5N1のヒトへの感染はほとんどおさまったかのように見える。ただし、H7N9という新しい鳥インフルの感染例が中国で増加中。資料はこちら

こつこつ、ゆっくり

津端修一(つばた・しゅういち)さん・英子(ひでこ)さんというご夫妻がいる。高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市)の一角にある宅地で営む、自家菜園を中心に据えた半自給生活が注目され、テレビのドキュメンタリーで紹介されたり、何冊かの本が出版されたりしている。昨年には「人生フルーツ」というタイトルで映画にもなった。

修一さんは、1925年1月の生まれ。東京大学を卒業し、建築事務所勤務を経て日本住宅公団でニュータウンの設計を手がける。高蔵寺ニュータウンは設計に大きく関わったもののひとつ1)。津端さんご家族は、後にその一角に300坪の土地を購入し、建築家アントニン・レーモンドの麻布笄町にあった自宅兼アトリエをモデルにした平屋を建て、キッチンガーデンと呼ぶ自家菜園と雑木林を配し、なるべく何でも自分の手で行う半自給生活を、妻の英子さんとともに確立する。

修一さんの学歴・経歴や生き方から、少々気難しい、厳しい人を想像するが、本に残された言葉や、ハガキや手紙類、映像の端々から見えるその人となりは、驚くほど穏やかで上品で、やわらかなユーモアにあふれている。けれど、その内側には、しなやかで強靭な芯がある。人が暮らし生きていくうえで何が大切なのか、自分はどんなふうに生きていきたいのか、についてしっかりとした哲学をもち、その根っこには、つねに、どんなことも、ゆっくり、こつこつと、時間をかけて、自分で楽しんでする、という考えがある。

こつこつやると時間はかかるけど、目に見えてくるものがあるから人に頼まないで何でも自分で

これは修一さんが英子さんに常々言っていたことだそうだ。僕は、IT業界の片隅でこの20数年仕事をしてきたが、そこでは、効率とスピードが至上命題であり、アウトソースできるものは自分でやるな、という考え方が支配する世界だ。そして、情報技術が世界の経済全体をひっぱる力が増すにつれ、このマントラが世の中のいろんなところに顔をだすようになった。どちらが正しい、という話ではないが、ずいぶんと違う。

いくつになっても、自分のことは自分で、『依りかからずに』生きていきたいね、と、英子さんと話をしているんです。

本当の豊かさというのは、自分の手足を動かす暮らしにあると思いますよ。

僕自身は、人生の折り返し点をとうに過ぎ、残された時間をどう使うかを考えることが多くなった。自分で手を動かすこと、実際に触って感じ取れる何かを欲する気持ちが強くなり、同時に、浮かんではすぐに消えていくカタカナ語の氾濫する世界への倦怠感とそこから距離をおきたいという気持ちが年々大きくなっている。仕事も含めたものごとの優先順位を組みなおすとき、修一さんの言葉は改めて示唆に富む。

修一さんは、2015年6月に午睡中に逝去された。享年90歳。英子さんはまだお元気でいらっしゃるようだ。

津端さんご夫妻の生活に興味のあるかたには、以下のような本がある:
「あしたも、こはるびより。」(2011年)「ひでこさんのたからもの。」(2015年)「きのう、きょう、あした。」(2018年)いずれも主婦と生活社刊。写真が豊富で肩肘張らずに読める。英子さんのレシピが多く紹介されている。
「ききがたり ときをためる暮らし」(2012年)「ふたりからひとり ときをためる暮らしそれから」(2016年)いずれも自然食通信社刊。「ききがたり」の方は文庫版が2018年に文藝春秋より出ている。

また、映画「人生フルーツ」は押しつけがましさが一切なく、抑制が効き、二人の生活を淡々と映し出しているよい作品だと思う2)。樹木希林のナレーションが沁みる。

1 1968年入居開始。僕が住んでいた大阪・千里ニュータウンとともに、黎明期の代表的なニュータウンである。彼の原計画では、地形を生かし、随所に雑木林を残し、風の通り道を確保する、余裕のある全体設計を提案したようだが、経済効果や効率性から、最終的に彼が当初思い描いたかたちとは相当に異なるものになってしまったという。
2 DVDやオンライン配信などはまだされていないようだ。小さな劇場を中心にロングランが続いている。

発酵の科学

日本の伝統 発酵の科学 微生物が生み出す「旨さ」の秘密
中島春紫 著 (講談社・ブルーバックス)

和食の基本調味料「さしすせそ」5つのうち、過半数の3つ、すなわち、す(酢)、せ(醤油)、そ(味噌)が発酵を利用して作られる。さらに漬物、納豆、鰹節、酒、みりんなど、和食を特徴づける素材・食べ物の多くが発酵食品である。本書は「発酵」とは何か、そしてこれらの発酵食品がどのような過程で作られているのかを科学的に、かつ簡潔に解説している。

本書が挙げる発酵食品の意義は、1. 食品のpHを低下させて、雑菌の繁殖を抑え食品の保存性をよくすること、2. 微生物がタンパク質を分解して生成するアミノ酸の混合物によって、食品の旨味を引き出すこと、3. 微生物の作用により、難分解性のタンパク質を分解して消化吸収をよくし、栄養価を向上させること、である。この過程には、乳酸菌を始めとする多くの菌が関わるが、最近読んでいる「腸内細菌」の書籍1)と合わせると、より大きな絵の中で理解することができる。たとえば、「腸内細菌」が、ヒトが直接には分解できない食物繊維や難分解性のタンパク質を腸内で分解しているとすれば、この細菌の機能を、食べる前に食品加工のプロセスに組み込んだのが、発酵食品と言うこともできそうだ。

発酵食品の製造にコウジカビの一種である黄麴菌(アスペルギルス・オリゼーAspergillusoryzae)を用いるのは日本だけである。東アジアや東南アジアではコウジカビではなく、クモノスカビが発酵食品の製造に使われている 。(第三章 発酵をになう微生物たち)

細菌や発酵をテーマにした人気マンガ「もやしもん」の主人公・直保(なおやす)にいつもくっついているのがこの「A.オリゼー」という菌である。この菌は麹屋を営む直保の実家から彼にくっついてきて、しじゅうやいのやいのと話しかける。本書はこの麹菌の性質についても詳しく解説されているので、「もやしもん」のファンはぜひ読んでみるといいと思う。

腸科学

「腸科学 健康な人生を支える細菌の育て方」
ジャスティン ソネンバーグ、エリカ ソネンバーグ (著) 鍛原 多惠子(訳)
早川書房刊(ハヤカワ文庫)

以前読んだ「あなたの体は9割が細菌」に続く、腸内細菌に関する本。

「人間は細菌の詰まった一本の管」であり、その腸内には1,200種、100兆を超える細菌が住んでいる。その微生物相を「マイクロバイオータ」、そこに含まれる200万個を超える遺伝子を「マイクロバイオーム」と呼ぶ。ヒトDNAはマイクロバイオームの100分の1程度であり、ヒトは、自前のDNAにコードされていないタスクの多くを、細菌と「共生」することによってアウトソースしている。これによって、環境や必要性の変化により早く対応できるようになる。たとえば、食物繊維を消化するためのコードはほぼマイクロバイオームにアウトソースされている。長い進化の歴史を経て、この細菌との「共生」の仕組みは、ヒトの成長・生存のプログラムに深く組み込まれている。母乳に含まれるヒトミルクオリゴ糖は、赤ん坊本人のゲノムには消化する能力がコードされていないが、腸内の細菌を育てるための栄養になるというのは、興味深い一例だ。

マイクロバイオータは、ヒトの免疫系の一部として重要な役割を果たしており、脳神経系とも活発な連絡がある。現代の食生活の急激な変化、とりわけ食物繊維を摂取する量が減少していることによって、マイクロバイオータの「食べもの」が不足し、健康上の様々な不具合を引き起こしている。過敏性大腸炎といった消化器系の疾患のみならず、多くの自己免疫疾患、肥満、自閉症スペクトラム障害、うつといった「現代病」の多くが、マイクロバイオータを構成する細菌の多様性が失われたり、偏ったりすることによって引き起こされている可能性があるのだ。

食生活の変化だけでなく、抗生物質の使用もマイクロバイオータにダメージをもたらす。抗生物質によって致死的な細菌感染から多くの人が救われたが、同時に、マイクロバイオータにとっては、時には回復不能なまでの「無差別殺戮」といってよいダメージをもたらす可能性がある。耐性菌の問題だけでなく、腸内細菌の保全のためにもその使用は慎重にすべきなのだ。

ヒトが発酵食品と食物繊維を十分に摂ることは、腸内細菌の多様性を確保し、健康を維持するために重要だ。発酵食品によって有用菌1)(プロバイオティクス)が絶えず腸内環境に供給され、食物繊維は常在菌の食べ物になる。伝統的な日本食(納豆、味噌、醤油、かつお節、ひじき、昆布、切り干し大根、ごぼう、その他)がいかに、腸内環境およびマイクロバイオータにとって良いかがわかる。日本が世界一の長寿国であるのもこの食習慣に依るところが大きいのだろう。

1 腸内に留まらず一定時間後には排出されるが、常在菌や免疫系に対して有用な刺激となる細菌のこと。