火事始末記(3)

現場今回の火事、火元は隣家であり、ウチは類焼で損害を被ったのだから、その損害は隣家が補償してくれるはず、と思いきや、実はそう簡単な話ではない。火事に関する法律(失火責任法)では、火元に重い過失がないかぎり、類焼によって生じた損害の賠償責任は負わないことになっている1)。この失火責任法は明治時代にできた法律で、当時は家といえばペラペラの木造、それがみっちりと密集して建っていたのだから、火事となれば一軒だけですむはずもなく、隣近所に類焼は避けられない。今のように保険が発達していたわけでもなく、火元だって財産みんな燃えちゃったとくれば、類焼の損害賠償は火元の家の能力をはるかに超えるのは必定。というわけで、よっぽど馬鹿なことをして火を出したのでない限り、補償の責任は負わなくて良い、ということになったらしい2)

火が出たとき隣にはお爺さんが一人。当人が亡くなってしまっているだけに原因がはっきりしない。寝タバコなのか、お湯を沸かしてるうちに眠ってしまったのか、ガス漏れか漏電か。消防署からもとくに「重過失」を疑わせる説明はない。重過失だ、として裁判に訴えるという手はあるけれど、裁判費用と実際にとれる(かもしれない)金額が見合うとも思えない。結局、隣家から受け取ったものは、お詫びに来たときに先方が持ってきた菓子折り一つだった。

 

1 「民法第709条 の規定は失火の場合にはこれを適用せず。但し失火者に重大なる過失ありたるときはこの限りにあらず」 (失火責任法)
2 今の時代にそれでいいのか、という議論はもちろんあっていいのだろうが、自分の家が燃えた政治家でなければ、この法律を改正しよう、という動機はなかろう。

火事始末記(2)

二階はおおかた燃えてしまっているのに対し、一階は比較的いろんなものが残っていた。不思議なのは火元に最も近い一階の仏間がほとんど無傷だったことだ。雨戸が閉まっていたのが幸いしたのだろう。仏壇にある母の位牌もいつもと変わらぬ様子でそこに鎮座していた。母は生前から物事に動じない人であったが、位牌でもそれは変わらないようだ。

消防署の人がやってきて実況見分が始まった。父から出火時の様子を聞き取り記録書類を作っている。ろうきんの火災保険担当者がやってきて、御見舞を述べた後、同じように実況見分をする。全てが焼け落ちた「全焼」ではないが、今後の使用には耐えない「全損」という見立てで、保険金は満額支払われる1)はずだ、と言う。

火元の隣家に一人暮らしをしていたお爺さんがうず高く積もった残灰の中から遺体で発見された。昨晩から連絡がとれず「行方不明」になっていたが、逃げ遅れて家の中で亡くなったのだ。よく火事のニュースで「火元の家に住む誰々さんと連絡がとれなくなっています」と報道されるが、きっと大半はこういったケースなのだろう。半年ほど前に奥さんを亡くし、一人で暮らしていたらしい。どうにも気の毒でいたたまれない気持ちになる。

ずっと旅館にいるわけにもいかないので、まずは仮住まいを手配せねばならない。こういう時にインターネットの不動産情報は役に立つ。駅のそばにすぐに入居できる手頃な賃料のアパートが見つかった。ちょっと狭いが当座の寝起きには十分だろう。

並行して消防署に対して「り災申告書」の作成をする。被害額を確定し、その後の罹災証明の元になる書類だそうだ。動産、不動産に分けて詳細に情報を記入する。火事に気付いてすぐに屋外に逃げた父は、何を思ったか、周囲が止めるのも聞かずに家の中に取って返し、不動産や保険書類、預金通帳や印鑑といった貴重品が入ったバックを持ち出していた。怪我一つしなかったので今では笑い話で済むが、一歩間違えれば「行方不明」がもう一人増えていた可能性もあったわけで、決して褒められた話ではない。しかし、結果として、この書類のお陰でり災申告書の不動産部分の作成は比較的スムーズに進んだ。動産は記憶を頼りに金額が高そうなものからリストを作る。現金、冷蔵庫、テレビ、カメラ、貴金属、着物などなど。

父は退職後に鉄道模型趣味にどっぷりとはまり、二階の一部屋は複雑に分岐したNゲージ線路で埋め尽くされ、数え切れないほどの電車・機関車が走り回っていた。これら模型類はほぼ全てが灰と化しているので、被害額を記入する必要があるのだが、父はごにょごにょと言を左右にしてはっきり数字を言わない。よくよく問い詰めてみたところ、年金暮らしの身分でありながら、なんとン百万も使っていたらしい。まったく困った老人である。

火災現場
かつて鉄道模型が走り回っていた部屋

1 よく柱一本でも残っていれば「全焼」扱いにならず、保険金が大幅に減額されると言われるが、それは昔の話で、今ではより現実に沿った査定がなされるらしい。

食べなさい

毎年元日は私の実家へ、2日はカミさんの実家へ行く。この二日間、我々の胃腸はその能力以上に全力稼働することになる。両方の家で食べ物が次々と休みなく出続けるからだ。とにかくお腹いっぱい食べさせてやりたい、美味いものを食べさせてやりたい、という親の愛情や気遣いはいくつになってもありがたいものだ。が、もういいおっさんになってしまった胃袋は、もはや昔のように食べ物を受け入れてはくれない。おせち料理なら煮物ときんとん、黒豆と角煮あたりをつまむと、早くも満腹感を覚え始める。すき焼きならサシの入ったピンクの牛肉一枚とくたっと煮えた野菜と豆腐少々ですっかり満足する始末。若い頃の暴力的とも言える無尽蔵な食欲を遠く懐かしみながら、今年何歳になるのか現実を自覚する瞬間である。

しかし、親から見れば子供はいつまでも子供。高校生くらいの最大瞬間風速的食欲を基準に食べ物が用意されており、食べなさい食べなさいの波状攻撃が展開される。さらに土地柄もある。北関東で「もてなし」といえば食べきれないほどの食べ物、飲みきれないほどの酒をたっぷりと供することと同義であり1)、かなり余るくらいでちょうど。お皿が空くこと、ましてや足りない、などというのは決してあってはならぬ。その結果、例えば、私がお酒の席で近頃愛飲しているノンアルコールビール、まぁ、アルコールは入っていないのだから、飲めても350ミリ缶せいぜい3,4本というところ、28本入り一箱が用意されているといった具合である。

All Free
4本増量

1 おそらく北関東だけでなく、日本中にこういうもてなし文化はある。司馬遼太郎「竜馬がゆく」にも、来客をもてなすために酒の一斗樽をかついで山を越え、正体がなくなるまで相手を酔わせてやっと満足する場面があった。

火事始末記(1)

 実家が火災に遭ったのは2016年の11月29日。火曜日の夕方だ。いま家が燃えてると父から電話がかかってきたのがニューヨークと毎週火曜日の定例電話会議の直前だったからよく覚えている。慌ててクルマに飛び乗り実家に向かった。

 2時間ほどで実家についたときにはすっかり日も暮れて、現場は鎮火し消防も引き上げていた。燻されたような臭いが濃く立ち込めていたが、周囲の街灯がすべて消えており暗くてよく見えない。父たちは近くの旅館に避難していた。ショックと疲れで呆然としていたが、怪我一つないのが幸いだった。

 火元は隣家で、雨戸を閉めようとしたときにパチパチと爆ぜるような音がしたので不審に思って覗いてみると、隣家の窓からオレンジの焔が吹き出していたとのこと。晩秋の強い風に煽られて、焔はみるみるうちにこちらの家に燃え移ったようだ。二人は外出から戻ったばかりだったが、慌てて外に飛び出したという。

 翌朝現場に行ってみた。火元の隣家は外壁だけを残して屋根と内部は全て燃え尽き残骸となり果てている。我が家は外壁と屋根の一部は残っていて外から見ると一見なんとか無事に見えるが、中に入ってみると二階の2/3と一階の1/3が焼失しており、見上げれば、焼け落ちた屋根の向こうに冬の青空がくっきりと見えた。

二階北側の部屋
屋根の向こうに青い空が見える

 燃え残りの残骸や塵灰からはまだ時折白い煙が糸をひくように立ち上り、火災現場に特有の臭いが鼻を突く。消防の放水で中は何もかもずぶ濡れになっていて、あちこちで水が滴り落ちている。隣りにある小学校はいつも通り授業ををしているはずだが校庭に子供の姿はない。この一角だけ奇妙なくらいしんと静まり返って、時が止まったように見える。場が和むような冗談をひとつふたつ言いたかったが、何も浮かんでこなかった。