新宿アルタ裏

学生時代、学校に近かったせいもあって新宿にしばしば行った。紀伊國屋書店、カメラ量販店、楽器店、ライブハウス。別に金銭的にそれほど困窮しているわけでなくても、若者はたいていいつもお腹を空かせているので、安くて美味しい店に敏い。当時よく行ったのは、「アカシア」と「桂花」だ。

アカシアといえば、ロールキャベツ。1963年(昭和38年)に新宿で開業の老舗だ。新宿東口アルタの裏路地にあって、クリームシチューに浸かったロールキャベツが看板メニュー。カレーやコロッケなどもある。当時は食欲最優先でロールキャベツしか見ていなかったけれど、つい先日訪ねた時にあらためてよく見ると、ドイツビールが生で飲めるのだった。夕方早めの時間に、自家製のソーセージで一杯なんてのもよさそうだ。

「桂花」は1955年(昭和30年)に熊本で創業。とんこつ濃厚な熊本ラーメンの老舗。今でこそ一風堂や一蘭など、九州のとんこつラーメンは誰もが知る人気ジャンルになったけれど、僕が学生の頃はまだそれほどでもなかった。独特のクセのせいで「ラーメン通」向けのニッチだったように思う。太肉麺(たーろーめん)は豚の角煮のような肉塊がどかんと載ったボリュームたっぷりのラーメンで、ここ一番がっつり食べたい時にぴったりだった。こちらも東口の裏路地、アカシアから歩いて1、2分のところに今もある。

学生の頃から30年近く経つけれど、アルタ裏の路地は、当時とほとんど雰囲気が変わらない。小さなお店は入れ替わっているのだろうけれど、アカシアと桂花以外にも、三平ストア、オカダヤ、沖縄そばのやんばる、ダッキーダックなどあのエリアの雰囲気を形作っている象徴的なお店が今も生き残っている。

有毒植物

花や草木を見ても、綺麗だなぁとか青々としているなぁ、といった漠然とした感想以上のものが出てこない。いい歳をしてそれでいいのか、と反省するが、どうにも興味を惹かれない。ところが、「毒のある植物」となると、がぜん前のめりになる。どういうわけか「毒」には禍々しい魅力がある。こわい、でも、見てみたい — まるで小学生のメンタリティだが仕方がない。

先日、小平市にある東京薬用植物園を訪ねる機会があった。観賞用というよりは、漢方薬の原料や民間療法で利用されてきたもの、染料などに利用されてきたものといった、実利用されてきた植物を主に栽培・研究している施設である。ここに「毒のある植物」ばかりを集めた区画があり、気がつくと一時間以上熱心に見入ってしまった。

意外なことに植物の毒は身の回りいたるところにある。植物園でもらったパンフレットによると、過去10年の食中毒例では、患者数の上位から、ジャガイモ、スイセン、クワズイモ、バイケイソウ、チョウセンアサガオ、と続く。このうち、スイセンはニラと、バイケイソウはオオバギボウシやギョウジャニンニクと、クワズイモはサトイモと、チョウセンアサガオはゴボウ、オクラ、ルッコラ、ゴマと間違えて食べてしまい、食中毒を起こしている。おもしろいのはジャガイモで、芽や緑色の皮にソラニンという有毒物質を多く含み、家庭菜園や学校菜園で未熟なジャガイモを収穫して料理したことから食中毒が起こる例が見られるそうだ。ありふれた園芸品種であっても油断してはいけない。キョウチクトウはびっくりするほどの毒を持っているし、ヤツデ、クリスマスローズ、スズラン、アジサイ、ヒガンバナなども有毒である。

我々が草木一般に対して勝手に抱いている「癒やし」とか「優しさ」みたいなポジティブなイメージをとは無関係に、実は禍々しいパワーを隠し持った連中があちこちに生えているのだ。こういうことを知ると、見慣れた公園の緑が、ちょっとワイルドなものに見える。

コガネムシ

もうずいぶん前のことになるけれど、出張で、大阪・梅田にあるウェスティンホテルに泊まった。ひとりで夜、ふらりとホテル内のバーに行く。出張先でホテルのバーに行くのは楽しい。カウンターにひとりなら気を使わなくていいし、バーマンが手際よくカクテルを作っているのを眺めながら、ひとときぼーっとする。普段とは違う土地にいるのだ、という感覚が体に馴染んでくるような気がする。

その夜、カウンターはすでに埋まっていて、テーブル席に案内された。隣のテーブルに、夜の店の女性と思しき色気のある女性が二人、その客らしい男性が一人。女性は30代後半か40代はじめくらい。北新地の高級クラブのホステスさんかもしれない。男性の方は、50代後半くらいで、くっきりしたストライプのスーツと、エナメルみたいに妙にピカピカの靴。勤め人というより自分で商売している「社長」という雰囲気で、なんとなく品のない、典型的な大阪のおっちゃんという雰囲気。

おっちゃんが、馴染みらしきバーテンダーに、「わしのボトル持ってきて~」と頼むと、テーブルの上には、おっちゃんがキープしているボトル(なぜか全く同じシーバスリーガル)が3本並んだ。さらに、ボトルの前に、自分が持っているゴールドのクレジットカードを4、5枚ほどこれみよがしに並べた。テーブルの上半分が金ピカに輝いてた。おまえはコガネムシか。

女性に対して、「ワシ金持ってまっせ~」というディスプレイが、ここまであからさまだとむしろ清々しいとすら思える。発情期の野生動物のオスを観察しているような気分とでも言えばよいのか。あ~、今大阪にいるんだなぁ、とシミジミとしたひとときであった1)

1 大阪以外ではなかなか見ない光景だと思うけれど、少年時代を大阪で過ごしたせいで、三つ子の魂というべきか、こういう人を見ると懐かしさを覚える。

鯉のあらい

中学校3年のときに、関西から茨城県の古河1)という町に引っ越した。県の西の端っこにぽつんと飛び出したように位置する。埼玉、栃木、群馬、茨城の4県が接するところで、自転車にまたがれば10分以内に4県をまたぐことができる。利根川と渡良瀬川が合流する「渡良瀬遊水地」に隣接している。江戸時代には有力譜代の古河藩が置かれた歴史ある町である。

この町には鰻屋が多かった。それまで住んでいた大阪郊外の新興住宅地にくらべれば「すごく」と言っていいほど多かった2)。引っ越した当初、関西と関東の食文化の違いに戸惑った少年は、「何でこんなに鰻ばっかり食うとんねん」と大阪弁でつぶやいたくらいだ。

この数多くの鰻屋がみな、ウナギだけでなく、コイやフナ、ドジョウやナマズといった川魚の料理も出すのだ。古くから、日光街道3)の宿場としても栄えたせいか、何代かに渡って営業している由緒ある割烹や料亭もあって、そういう店でも出す。それもそのはず、古河の名物は鮒の甘露煮で、贈答品としてよく使われている。利根川・渡良瀬川がそばにあるので、そこでとれた魚を古くから食べてきたのだろう。

川魚は、海の魚に比べて、どうしても泥臭さがあるので、臭み消しを兼ねて、味噌や醤油で甘辛く煮て食べることが多い。鯉こくや鮒の甘露煮が典型だ。鰻は別として、そういった川魚料理は、子供には決して美味しいものではなかった。食べ慣れていなかったせいもあるだろうが、茶色くて、しょっぱくて、ドロっぽかった4)

そんな中、鯉の洗いだけは別で、赤みがかったお造りのようなコイの身は美味しかった。最近までどうやって作るのか知らなかったのだが、刺し身のように薄くおろしたコイを、80度くらいの熱湯にくぐらせたあと、氷水でキュッと締めるらしい。それを酢味噌やからし味噌で食べる。コイは新鮮なものに限る。かと言って、そのへんで釣ってきたものでは、泥臭くて5)食べられたものではなく、店で出すのは養殖されたマゴイだそうだ。

最近、鮒の甘露煮をもらったので、久しぶりにちょこっと箸をつけてみたところ、あら、意外と美味しいではないか。たぶん歳をとって味覚が変わったからだろうけれど、日本酒のお供によい。別エントリーに書いたけれど、こうしておっさんは年とともに若い頃には食べなかったようなものが、どんどん美味しくなっていくのである。

1 「こが」と読む。「ふるかわ」ではない。
2 この図でもわかるが、鰻屋は福島以南の関東と九州に多い。
3 現在の国道4号線
4 同じ川魚の甘露煮でも、鮎の甘露煮となると実に上品で美味しい。鮎は清流で石についた苔を食べているせいだろうか。
5 コイヤフナは泥ごと吸い込んでエサをとるからだろう。

マシュマロを焼く

え?マシュマロって焼いて食べるんだ?と、ちょっと驚いたのは、小6とか中1くらいで「スヌーピー」のコミック1)を読んだ時だった。スヌーピーやウッドストック2)が、枝に刺したマシュマロを、仲良く焚き火であぶるほのぼのしたシーンがよく出てきたのを覚えている。でも、それから長い間、自分で焼くという機会は訪れなかった。

男子の場合とくに、マシュマロを食べる機会がない。たとえ稀にあったとしても、友達の家の菓子盆にちょこんと乗っかっていたり、旅行のバスの中で袋が回ってきたりくらいで、「焼く」ような状況ではない。もし家にマシュマロがあったとして、台所のコンロに焼き網をのせて焼くってのも何か違う。ぜんぜん美味しそうじゃない。焼き網で焼くべきはやはり干物か餅であって、甘いお菓子とは正反対のベクトルだ。それに、オトコが焼き網でマシュマロを焼いている姿は、どちらかといえば物哀しくて、ほのぼのからは程遠い。見るものの涙を誘ってマシュマロを焼いてどうしようというのか。つまり、マシュマロを焼くには、それにふさわしいシチュエーションというものが必要なわけだ。

で、ふさわしいシチュエーションとしては、バーベキューか焚き火に限るように思う。それも、女性が参加していなければならない。キャンプに行ったとしても、男子ばかりのキャンプで焼くのはひたすら肉!であって、悲しいかなマシュマロが入り込む余地はない。

というわけで、このゴールデンウィークは、バーベキューついでに、姪っ子二人が楽しそうにマシュマロを焼くのをほのぼのしながら見てました。

1 うん、本当は「ピーナッツ」がタイトルで、スヌーピーは登場キャラクターなんだけれども。
2 スヌーピーの友達の黄色くて小さなトリね。

ホライズン・ラボ

ホライズン・ラボについて知ったのは、ジモコロというサイトのこの記事1)がきっかけだった。岩野響さんという15歳の焙煎士が立ち上げた珈琲ロースターで群馬県の桐生にある。北関東に行く機会があれば足を伸ばしてみようかな、なんて思っていたら、近頃のコーヒーブームも手伝ってかすごい人気だそうで、とても自分でコーヒーを淹れて提供する余裕がなく、喫茶店自体は閉め、ローストに専念しているそうな。そこで通信販売されている豆を購入してみた。

毎月、その月のイメージに合わせて豆を選びローストするのが彼のスタイル。4月のテーマは「新しい旅」2)

いつかの春の日に感じた香り、温度、味、情景などの記憶を連れて新しい旅に出る。そんなはじまりのそばに在るコーヒーをイメージし、焙煎しました。甘み、香り、酸味、苦みがバランスよく共存する味わいを作りました。

シティロースト(深煎り)のホンジュラス豆。淹れてみると、何よりまずコーヒー豆が新鮮。香りが良く何層かの味わいがバランス良く組み合わあされていて、深みと同時に抜けの良いコーヒーだった。このテーマを先に読んでから買っている(飲んでいる)ので、そういうものとしてこちらが理解しようとするのは避けられないけれど、それでも彼がテーマとして意図したことを、味わいから追体験できるのが面白い。

最近だと「メシ通」というサイトで、彼の焙煎の仕方を紹介している記事が掲載されている。

僕の場合、豆の状態や焙煎機の調子を見ながら調整を加えているので、時間や温度計というのはあまり当てにしていないんです。数値に頼るのでなく、香りや色や蒸気の出かたといった、その時々に豆から直接感じるものに重きを置いて焙煎をしている感じです。このことを他の焙煎士の方に言うと、「適当にやってるいるの?」と言われることもあるんですけれど、そういわけでもなくて。やり方が違うだけだと思います。

「やり方が違うだけだと思います」というのがとてもよい。5月のテーマは「痕跡」。豆が届くのが楽しみだ。

1 友光だんごさんというライター・編集者が書く記事は、大げさなところがなく誠実でよいものが多い。
2 このページの下の方に手書きの説明がある。

男らしいリスクのとり方

ふた月ほど前からジョギングを始めた。近所の公園を45分から1時間ほど、1キロ7分前後のスローペースで走る。有酸素運動は脳の毛細血管を再生し、メンタルの安定をもたらす。なんて言うと意識の高い人の御高説に聞こえるが、一番の目的は出っ張ったお腹を引っ込めようということであり、毛細血管云々なんてのはこの前たまたま読んだ本1)で知ったオマケみたいなものである。

今日も夕方に公園の周回路を走っていたのだが、途中で急にお腹の具合がおかしくなった。急な下痢の前兆のように差し込みがくる。あ、ヤバイ!と思ったが、まだ30分も走っていない。せめてあと15分くらいは走っておきたい。でも公園にあるトイレは少なく、イザという緊急時に駆け込める位置にあるとは限らない。さらに、駆け込めたとしてそこに紙がちゃんと備え付けられているかどうかもわからない。さぁ、どうする。走るのを中断して帰るか?それとも様子を見ながらもう少し走ってみるか?

痛みはやってきては遠ざかるのを繰り返している。判断を誤ればいい歳のおっさんが取り返しのつかない悲劇的な状況を招くぞ、確実に。でも現時点のぐあいから判断するに、その事態に陥る可能性はそこまで大きくないとも思う。走りながら3分ほど熟考した末、よし、ここは男らしくリスクをとろう、もう少し走ろう、と悲壮な決意を固め、ジョギングを継続した。結果として、大事に至ることなく20分以上走り続け、予定の時間をしっかりと消化して帰宅した。素晴らしい。勇気をもってリスクをとった自分を褒めてやりたい。

と、昨晩ここまで書いて今日続きを書こうとして愕然とした。なぜこのオトコはここでオレはリスクをとった、エラい!などと喜んでおるのか。駅伝の代表選手か何かならともかく、たんなるジョギングだろ?それともオマエはセリヌンティウスのもとに急ぐメロスかなんかか?リスクをとるべき場面の判断がまるでなってない。さっさと中断して家に帰れって。

1 「脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」(NHK出版)

下位打線

もうすぐ50と数回目の誕生日。まさに光陰矢の如しではあるが、40代後半から年齢を意識することはほとんどなくなったので、実は誕生日にそれほどの感慨もない。ただ、この一年、自分も家族も、大きな病気もなく皆元気で健康で暮らせたなぁ、よかったなぁと思う。

一方で面白く感じているのは、世間における50代の扱われ方だ。40代は、どちらかと言えば30代とひとくくりで、「働き盛り」あるいは「現役世代」の中心のような位置づけだったと思うが、50代になると、60代とひとくくりにされ「壮年」あるいは「初老」の箱に入れられるようになる。野球で言えば、ついこの間まで、4番あるいは5番、クリーンナップの中核を担う選手だったはずが、気がつくと6番を飛び越えて急に7番、8番あたりに下った感じ1)。それでいて、ちゃんと成績を残さないと「老害」と言われ、すぐに代打を送られそうな哀愁漂うポジションである。まぁ自分たちだって、ついこの間まで年長者を「使えない」だの「遺物」だのと言いたい放題だったわけで、因果はこうして巡るのだなと思う。

とはいうものの、街を歩いて目にするのは、年下よりも年上と思しき方々がずっと多い。たまに病院など行こうものなら、待合室には僕なんぞまだまだ若手だと勘違いしそうな光景が広がっている2)。都心ですらそうなのだから、ちょっと地方に行けば、ニッポンの高齢化を身に沁みて感じることになる。父が入院したときに、実家のそばのわりあい大きな病院に行ったところ、待合ロビーの風景がピンクがかったうすぼんやりした灰色だった。待合ロビーに座っている人のほとんどが、白髪か禿頭かその両方だったのである。

1 イチローが、その年齢ゆえにマリナーズで8番を打つことが多いのに重なる。そういえば背番号も51だ。いや、自分がイチロー並みの選手だと言ってるわけではないんだけども。
2 高齢者の多さという点では、特に眼科が顕著だ

玉ねぎ修行

玉ねぎを炒める。レシピには、飴色になるまで、などと簡単に書いてあるが、なかなか大変だ。玉ねぎ先生の様子をみつつ、ヘラで絶え間なく返し、かき混ぜねばならない。火加減は、中火かちょっとそれより弱いくらい。この間、他のことをしてはならないし、できない。玉ねぎ先生はあなたの注目がすべて欲しいタイプなのだ。放っておくとすぐにヘソを曲げ、焦げ付き始める。半時間から場合によってはもっと長く、あなたは100%玉ねぎと向き合う必要がある。スマホとSNSによって、細切れの時間をマルチタスクに使うことに慣れた現代の我々には、これが大変難しい。数分おきに他のことがいろいろと気になるが、そこをぐっと堪えて玉ねぎと心を通わせねばならない。まさに修行である。

最初は白い玉ねぎのみじん切りが、透明になり、また不透明に戻る。

ここまで20分から30分。さらに炒め続ける。あるポイントを過ぎると、ブラウンがかった象牙色に変わり始める。

さらに10分ほど炒めると、ブラウンが濃くなり、いわゆる飴色に近づいてゆく。最初、フライパンに溢れるくらいあった玉ねぎは、ここまでの間にずいぶん減って3分の2くらいになった感じだ。

ここから時間をかけるともっと飴色が濃くなるのだろうけれど、今日はそろそろいいのではなかろうか。玉ねぎ先生は、これから挽肉と合わさって美味しいミートソースになる予定。

しょうがシロップ

生姜シロップを作ってみた。きかっけは、シャンディガフである。ビールとジンジャエールを1:1で割ったもので、夏の夕方、まだ日の残っている時間に飲むのがちょうどよい。でも、家で作ろうとすると、どうしてもジンジャエールが余る。そうだ、生姜シロップがあれば、いつでも量を気にせず、かつ、お好みの甘さで作れるではないか。さらに、最近は、もっぱらノンアルコールビール(ただし、オールフリーに限る)を愛飲しているのだが、普通のビールよりも早く飽きが来る。ジンジャーシロップを入れたら、目先も変わるしさぞ美味しかろう、とヒラメいたのだ。

一晩おいて煮詰めているところ

レシピは「ほぼ日」で公開されているものを参考に、というか量だけ半分にして、あとはそのまま。最新レシピはVersion 3 のようだが、Version 2 で作ってみた。出来上がってみると、これが素晴らしい出来である。きび砂糖のコクのある甘みが生姜の辛味と刺激をやわらかく包み込み、そこにシナモンやカルダモンなど一緒に入れたスパイス類がほのかに効いて複雑な味わいを演出している。お湯で薄めただけでも相当に美味しい。さすがに糸井さんがこだわって改良を続けたレシピだけのことはある。オールフリーにティースプーン2杯くらいを入れると、予想通り、ジンジャエールで割ったのとは別次元のシャンディガフが出来上がった。もちろんソーダで割れば、誰もがおいしいと喜ぶ手作りジンジャエールになる。

と、いうわけで出来にはたいへん満足なのだが、課題は量とコストである。生姜って意外と高いのね。普段、薬味としてひとかけくらいの用途だから値段を気にすることってないと思うけど、500グラムくらいスーパーで買うと、レジで「お?」となるくらいのお値段。あと、ごつごつした形のせいで、皮むきがなかなかの手間。さらに濃さにもよるけれど、500グラムの生姜からせいぜい小さな瓶ふたつ程度の量しかできない。なるほど、市販されているシロップがそれなりのお値段1)なわけだ。作ってみる前は、ちょっと高いな、と思っていたけれど、作ってみると、うむ、これくらいはするよね、と納得できる。事業化する場合は良い生姜を安く仕入れることと、皮むきとスライスの自動化がカギであろう。AIで生姜の皮むきはできないのか2)

1 「ほぼ日」版で450グラム、2,160円。ほかにもいくつか見てみたけれど、概ね200ミリリットルで1,000円から1,500円くらい。
2 何でもAIといえばいいってもんではない。