焼きたて

フランスの冷凍食品ブランド「ピカール」(綴りはPicard)が近くにあるので、ちょくちょく利用する。買うのはもっぱらパン生地である。パン生地は、クロワッサン、パン・オ・ショコラ、パン・オ・レザンの小ぶりなもので、一袋に10個入っていて700円くらい。焼き方は至って簡単で、オーブンを180度に予熱し、食べる分だけオーブン皿に並べて入れ、18分から20分待つだけ。ミニカーくらいの大きさの生地が、だんだんふくらんで、ブラウンの焼き色がついて、香ばしく焼き上がる様子を眺めて喜んでいる。待っている時間は湯を沸かしてコーヒーを淹れるのにちょうどよい。

小さなクロワッサンひとつあたり70円だから安くはないかもしれないけれど、ちょっとしたこだわりパン屋で買えばひとつ150円とか200円くらいするから、まぁ許容範囲だろう。何より焼きたてのパンは美味いのだ。外は香ばしくパリッと、内はふわりとしている。考えてみれば、焼きたては何でもウマい。縁日で食べる焼きそばやお好み焼き、ベビーカステラなんて、安価な材料で作っていて、冷めたら食べられたもんではないけれど、屋台で焼きたて熱々を買って食べるからよい。焼きたては七難隠すのである。

たとえ冷凍食品でも、朝にクロワッサンなんか焼いてインスタに上げてみたりすると、急に「余裕」や「充実」といった雰囲気が醸し出される。「ていねいな生活」みたいなフレーズも脳裏に浮かんだりする。同じ手作りでも、朝から蕎麦をこねて伸ばしたりしていると、「偏屈」とか「隠遁」みたいな雰囲気になるのとはいい対照である。今度は蕎麦に挑戦してみよう。

頭髪以外

運動不足の解消に、週3、4回ジムに行く。ジムのパウダールーム1)というのか洗面スペースというのか、洗面台と鏡、ヘアドライヤーを備えた台が並んでいるスペースというのは、他の男性がどんなふうに身繕いをするのかが垣間見えて面白い。男子はトイレで化粧を直したりといった経験がないので、他人のそういった「プライベートな」姿を見る機会というのはほとんどないのだ。

そのパウダールームに「ドライヤーは髪の毛以外には使わないでください」という貼り紙がしてある。はて、どういう意味だろう、とそれとなく周囲を観察してみたところ、たちまち疑問は解けた。髪を乾かしたあと、陰毛にぶおーと温風を当てる人がけっこういるのである2)。甚だしきに至っては、スキンヘッドのムキムキとした男がドライヤーをむんずと掴むと、温風を頭にそよがせることもなく、一直線にぶおーと陰毛を乾かしたりしている。せめて数秒でも頭を乾かしたあと、ついでに、という程度なら、まあ仕方がない、とも思うが、主目的が「髪の毛以外」というのがあからさまだと、若干もやもやした気分が残る。

面白いので、その後、施設を利用するたびに観察していたのだが、ある仮説にたどりついた。髪の毛以外への利用頻度は、髪の毛の残存量に反比例するのではないか。つまり、頭髪がふさふさと豊かな人は頭髪以外を乾かすことはほとんどなく、毛量が減少傾向にある人、またはスキンヘッドを含む坊主刈りに近い人は陰毛方向への利用がちょくちょく見られるのだ。これは、ドライヤーを使う標準的な時間はどんな人でも概ね一定で、上の方の時間がかからない人は、その余り時間を下の方に使う、ということで説明できる。「ドライヤー利用時間一定の法則」とでも呼びたい。

似た法則はもう一つあって、これを「毛量一定の法則」と呼んでいる。もうおわかりの通り、頭髪が減少した人は、それを補うかのようにヒゲを伸ばしがち、という法則だ。これは過去20年に渡る観察から発見された。概ね観察対象が出版業界なので、他業界ではもしかすると違うかもしれない。

1 パウダールームという言葉を男性用に使うと少々気持ちがわるい。Websterの辞書にも「a restroom for women」とあるし。
2 もしかすると貼り紙に関するジム側の意図とは違うかもしれないが、ここでは陰毛が問題なのだということにしておく。

味覚の自由

年齢とともに衰えるものは数知れないが、味覚はその例外かもしれない。いわゆる世の珍味といわれるものの多くは、少年にはどこが美味いのかちっとも理解できないが、歳をとってみるとしみじみ味わい深い。子供の頃、親父が烏賊の塩辛をご飯の上にこんもりと盛って、わしわしと嬉しそうにかきこんでいる姿を何度も見た。それがあまりに美味しそうだったので、真似してみたのだが、なんでこんな生臭塩辛苦いものがよいのか全く理解できなかった1)。似たようなものはほかにいくつもあって、例えば、カラスミ、うに、かにみそ、いぶりがっこ、一部のチーズ、などなど。いずれも年齢を経てはじめてその味わいに気づいた。いわば、遅れてきた口福である。

甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛いの5つにうま味をくわえた6つが味の基本というが、この「遅れてきた口福」は、そのどこにも上手くはまらない。あえて言えば、うま味が最大公約数だろうけれど、その中に何種類もの微妙な味が絡み合っていて、「複雑!」とビックリマークをつけるようなアタマの悪い表現しか思いつかない。あ、違うな。ハンバーグだって、ラーメンだって、その美味しさは、単に六つの味で表現できるわけではないのだけれど、この「遅れてきた」連中の味わいは、子供の頃から美味しいと思ってきたものの延長線上ではなく、どこか別の相にある、ということだ。

小さい頃は糖分、青少年期はタンパク質、のように、ヒトはその成長段階に必要な栄養素を摂取したくなるように味覚を変化させるのだとすれば、そういった「必要性」のくびきから解放された味覚が、ついに自由を獲得したということなのかもしれない。ビバ、自由。こうして人は、だんだん得体の知れないツマミで酒を呑むようになるのだな。

 

1 時たま、そこに牛乳をかける、という所業に及んでいたが、そこは今に至るも理解不能である。

極太字の万年筆

万年筆が好きだ。万年筆を持つと、何かいい言葉、気の利いた表現、ステキな文章が書けそうな気がする。まぁ、現実には、気がするだけで、実際に書けるかといえば、それはまた別のハナシだ。でも、なんとなくいっぱしの表現者になったような気分になるだけでも楽しい。ただし、極太字の万年筆に限る。細字は、ちいさな手帳にちまちまとした細かいことを書くためのもの、という感じで、全くワクワクさせてくれない。あくまで極太字でなくてはならないのである。

極太字の原体験は、大学を出て最初に就職した会社の上司だった1)。まだ電子メールやイントラネットが普及する前の話だ。その人はいつも穏やかでダンディで、声を荒げたり、酒席で乱れたりした様子を見た覚えがない。部下に指示をしたり、伝言を残すときは、いつもウォーターマンの万年筆で薄黄色のメモパッドに2、3行、丸い丁寧な文字でメモを残した。メモの最後には必ずイニシャルを2文字。極太字の万年筆で書かれたその文字が、スマートでどこか温かみがあって、僕は好きだった。僕が一年くらいで転職したために、その上司とはそれきりお会いする機会もなく、もうずいぶんな年月が経つけれど、今でもたまにメモ書きの文字を思い出したりする。

トリムがシルバーなのがよい。

今、愛用しているのはペリカンのM405。大井町にあったフルハルターという小さな(でも万年筆愛好者の間ではとても有名な)お店で購入した2)。ここは店主の森山さんが、顧客ひとりひとりの手、ペンの持ち方や書き癖に合わせてペン先を研磨調整してくれるという稀有なお店。森山さんに調整してもらったペンは、受け取って紙の上にペン先を置いた瞬間から、何年もかけて馴らしたペンのように、何の引っ掛かりもなくインクが滑り出る。万年筆がひとりでに動き出すような感覚。書くことそのものが気持ちよくて、ずっと書いていたくなって、余計なことまで書いてしまうという「弊害」すらある。とはいえ、メールやチャットが仕事のみならず日常のコミュニケーションの大半を占める現代では、万年筆の出番はそれほど多くない。なんとか出場機会を増やすにはどうしたものかと頭を悩ませている。

1 万年筆そのものへの憧れは、小学生の頃、旺文社の学年雑誌についていた付録がきっかけだったと思う。
2 2018年2月末で大井町の店舗は閉鎖してしまったようだ。4月か5月に我孫子に移って再開とのこと。

青春のササニシキ

ふるさと納税で宮城県大崎市からササニシキをもらった。いまササニシキはあまり流通しておらず、手に入りにくい。今、流通しているお米の大半は、コシヒカリかコシヒカリの子・孫ともいえる種類で、作付面積の割合で言うと、7割から8割がコシヒカリ系らしい1)。ササニシキは上位20位にも入らなくなってしまったので割合としては0.6%以下、ということになる。1970年代から80年代は、日本晴(にっぽんばれ)、ササニシキ、コシヒカリが3強だった。しかし、ササニシキは生産に手間がかかり、冷害や病気に弱いらしく2)、安定して高品質なコメがつくれるコシヒカリが急速にシェアを伸ばしていった。

炊いてみると、白く光る米粒がスラリと輝いて、食べてみると、これがとてもよい。さっぱり、さらりとして優しい味わいだ。同時に、とても懐かしい味がする。忘れていた何か大切なことをふと思い出したような感じ。男子食べ盛りに白米をどか食いしていたのがまさに70年代、80年代なので、ササニシキを大量に胃の腑に収めた記憶が脳の奥の方に刻み込まれているに違いない。

手巻き寿司とカレーを家で作って試してみたところ、これが絶妙に合う。コシヒカリで作るよりも美味い。刺し身やカレーの旨味が一歩前に出てくる。寿司屋がササニシキを指定することが多いというのもよくわかる。コメが魚の繊細な香りや味を邪魔しない。丼ものとかカレーとか、ライスの上に何か乗せるタイプの料理にはぴったりだ。あと、胃にもたれないのもよい。

1 上から、コシヒカリ36.2%、ひとめぼれ9.6%、ヒノヒカリ9.1%、あきたこまち7.0%だそうだ。「平成28年産 水稲の品種別作付動向について」公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構
2 93年の東北冷害で急速に作付が減少したようだ。

失くしモノはなんですか

失くしモノはなんですか、と問われれば、Suicaとカギであった。Suicaは先日書いたとおり、iPhone 8にすることで解決した。もう失くさない。なぜならSuicaカードは物理的な実体を失い、iPhoneの中に入ったからだ。さて、残るはカギである。カギは今のところiPhoneに入れるわけにはいかない。最新のスマートホームなら可能なのかもしれないが、拙宅は築30年のアパートである。クルマのカギもだめだ。最新のプリウスやらテスラなら可能なのかもしれないが1)、我が愛車はもう20年も乗り続けているご老体2)で、エアコンすらあまり効かない。

家のカギとクルマのカギ。このふたつがまぁ頻繁に消える。どういうわけかふたついっぺんに消えることはなくて、交互に消える。相談して順番を決めてるんじゃないかと思うくらいだ。そんなある日、ネットをぶらぶらと散策していると、「忘れ物防止タグ」というのが目に止まった。要はスマホと接続する電子タグだ。忘れやすいものに電子的なヒモをつけておいて、見つからないときに、それを引っ張って鳴らせばいいという仕組み。おお、これはよさそうだ。しかもそんなに高くない。というわけで早速「Tile」というのを買ってみた。

Tileは、その名のごとく、3センチ四方厚さ5ミリのプラスチック・タイルのようなもので、それをキーホルダーにつけるだけ。スマホに専用アプリをダウンロードして、アプリから購入したTileを接続する。複数接続できるので、それぞれのTileに「カギ」などと名前をつける。アプリを起動して「探す」ボタンを押すと、当該のTileがぴーひゃららーと陽気に鳴ると同時に、どこにあるのかがMap上に表示される3)。逆に、Tileの真ん中にある銀色のボタンを二度押しすると、スマホを鳴らすこともできる。よくできている。これなら家の中をあちこち探し回らずにすむ。

と、Tileを導入して大変満足していたわけだが、ここにきて問題が持ち上がった。カギを失くさないのだ。スマホからTileを鳴らす機会がやってこない。これまであんなに行方不明になっていたカギ共が、どういう了見なのか、品行方正になり、常に目につくところに鎮座している。失くさない、という目的は果たしているものの、こういうことではなかったはずなのだが。

1 ほんとうに可能かどうかは知らない。
2 89年生まれの御年28歳である。
3 地図ではもちろんおおよその場所がわかるだけだ。地図データに部屋の見取り図まではないので、家の中のどこにあるかまではわからない。わかったら逆にコワい。

モバイルSuicaに逆ギレする

家を出ようとするたびに、SuicaあるいはPASMOカードを探し回る。決まったところに置かない自分が悪いのであるが、それにしても神隠しのように消える。家の中に次元断層か何かがあって、そこからスルリと滑り落ちているのではないか。

この次元断層問題を解決するためにiPhoneを6Sから8に変えた。8ならばモバイルSuicaが使えて、駅の入場もスマホをかざせばよい。iPhoneがなくなることはめったにないので1)、これでSuicaを探し回らずにすむわけだ。使ってみるとこれが実に快適。JRもバスも地下鉄もスマホをかざして乗れる。コンビニで支払いにも使える。つい一ヶ月前まで小銭をじゃらじゃらとやりとりしていたのが、遠い昔のようだ。もうあの頃には戻れない、戻りたくない、などと青春ドラマのような感想を抱いたのであった。

そんなある日、実家に用事があって湘南新宿ラインに乗ることになった。もちろん改札では、鼻息荒くiPhoneをかざして新宿駅に入り、3・4番線ホームへ向かう。1時間ほどの道中だし、たまにしか乗らないので、グリーン車に乗ってもええやろ。モバイルSuicaで贅沢したろ、と大阪弁で思いつつ、ホームにあるグリーン券の券売機でスマホをかざして購入しようとすると、「このカードは使えないから駅員に言ってちょうだいね」的なメッセージが出て買えない。結局、車内で現金で支払うハメになったわけだが、どうにも納得がいかない。今まですっかり満足していただけに、裏切られたという気持ちが強く、文句のひとつも言わないと気がすまぬ。どこかにカスタマーサービス窓口みたいなもんがあるやろ、と眉間にシワを寄せながらウェブサイトを眺めていたところ、「Suicaグリーン券の購入方法」という案内があるではないか。よく読んでみると、モバイルSuicaでのグリーン券購入は、ホームの券売機を使うのではなく、モバイルSuicaアプリ内で完結するのであった。危うく説明書も読まずに文句の電話をかけてくる痛いおっさんの仲間入りをするところであった。反省。

 

 

1 iPhoneは次元断層よりも大きいのであろう。

火事始末記(4)

年末までおよそひと月をかけて、仮住まいのアパートで必要最低限の寝具家具を揃え、保険金の支払い・税金の減免手続きなど各種手続きをすませ、父はなんとか生活のリズムを取り戻した。しかし、まだ後処理の大物が残っている。燃えた家の解体である。よく人が住まなくなった空き家はあっという間に傷むというが、焼け跡はそれに輪をかけて、まるで時間を早回ししているかのように朽ちていく。残された窓枠は歪んで風に吹かれてギイギイと音を立て、燃え残ったカーテンがお化け屋敷のように垂れ下がり、一階に残った家電にはあっというまにサビが広がり、雨風とともに家中が灰と炭と砂に覆われてモノクロームの中に沈んでゆく。こんなものが近所にいつまでもあったのでは周囲の家はたまったものではない。なるべく早く解体撤去せねばならない。

いざやってみてわかったが、家の解体、撤去というのは、思いのほかお金がかかる。建坪に解体単価をかけて基本的な費用が算出されるが、そこに廃材や家の中に残されたもの撤去・処理、庭の植木の撤去・処理、盛り土やスロープの処理、場合によっては浄化槽や下水配管の処理などが加わる。重機の搬入の難易によっても費用が変わる。さらに複数の業者が競争するというより地域によって縄張りを分けているようで、相見積もりをとって安いところを、なんて、ヨドバシかビックかみたいなことも難しい。我が家の場合、建坪が比較的大きかったり、中途半端に燃え残ったものが多かったりしたせいで費用が膨らみ、ン百万の出費となった。

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何もなくなると妙に広い

解体撤去は年が明けた1月半ばに始まり、およそ一週間で焼け跡は更地に戻った。更地に戻ってみると土地は思いのほか広く、キャッチボールでもして遊べそうな様子である。何もなくなった敷地を眺めながら、やれやれという安堵、すっきり片付いた喜び、そこに一抹の寂しさが入り混じった複雑な気持ちを味わった。

火事始末記(3)

現場今回の火事、火元は隣家であり、ウチは類焼で損害を被ったのだから、その損害は隣家が補償してくれるはず、と思いきや、実はそう簡単な話ではない。火事に関する法律(失火責任法)では、火元に重い過失がないかぎり、類焼によって生じた損害の賠償責任は負わないことになっている1)。この失火責任法は明治時代にできた法律で、当時は家といえばペラペラの木造、それがみっちりと密集して建っていたのだから、火事となれば一軒だけですむはずもなく、隣近所に類焼は避けられない。今のように保険が発達していたわけでもなく、火元だって財産みんな燃えちゃったとくれば、類焼の損害賠償は火元の家の能力をはるかに超えるのは必定。というわけで、よっぽど馬鹿なことをして火を出したのでない限り、補償の責任は負わなくて良い、ということになったらしい2)

火が出たとき隣にはお爺さんが一人。当人が亡くなってしまっているだけに原因がはっきりしない。寝タバコなのか、お湯を沸かしてるうちに眠ってしまったのか、ガス漏れか漏電か。消防署からもとくに「重過失」を疑わせる説明はない。重過失だ、として裁判に訴えるという手はあるけれど、裁判費用と実際にとれる(かもしれない)金額が見合うとも思えない。結局、隣家から受け取ったものは、お詫びに来たときに先方が持ってきた菓子折り一つだった。

 

1 「民法第709条 の規定は失火の場合にはこれを適用せず。但し失火者に重大なる過失ありたるときはこの限りにあらず」 (失火責任法)
2 今の時代にそれでいいのか、という議論はもちろんあっていいのだろうが、自分の家が燃えた政治家でなければ、この法律を改正しよう、という動機はなかろう。

火事始末記(2)

二階はおおかた燃えてしまっているのに対し、一階は比較的いろんなものが残っていた。不思議なのは火元に最も近い一階の仏間がほとんど無傷だったことだ。雨戸が閉まっていたのが幸いしたのだろう。仏壇にある母の位牌もいつもと変わらぬ様子でそこに鎮座していた。母は生前から物事に動じない人であったが、位牌でもそれは変わらないようだ。

消防署の人がやってきて実況見分が始まった。父から出火時の様子を聞き取り記録書類を作っている。ろうきんの火災保険担当者がやってきて、御見舞を述べた後、同じように実況見分をする。全てが焼け落ちた「全焼」ではないが、今後の使用には耐えない「全損」という見立てで、保険金は満額支払われる1)はずだ、と言う。

火元の隣家に一人暮らしをしていたお爺さんがうず高く積もった残灰の中から遺体で発見された。昨晩から連絡がとれず「行方不明」になっていたが、逃げ遅れて家の中で亡くなったのだ。よく火事のニュースで「火元の家に住む誰々さんと連絡がとれなくなっています」と報道されるが、きっと大半はこういったケースなのだろう。半年ほど前に奥さんを亡くし、一人で暮らしていたらしい。どうにも気の毒でいたたまれない気持ちになる。

ずっと旅館にいるわけにもいかないので、まずは仮住まいを手配せねばならない。こういう時にインターネットの不動産情報は役に立つ。駅のそばにすぐに入居できる手頃な賃料のアパートが見つかった。ちょっと狭いが当座の寝起きには十分だろう。

並行して消防署に対して「り災申告書」の作成をする。被害額を確定し、その後の罹災証明の元になる書類だそうだ。動産、不動産に分けて詳細に情報を記入する。火事に気付いてすぐに屋外に逃げた父は、何を思ったか、周囲が止めるのも聞かずに家の中に取って返し、不動産や保険書類、預金通帳や印鑑といった貴重品が入ったバックを持ち出していた。怪我一つしなかったので今では笑い話で済むが、一歩間違えれば「行方不明」がもう一人増えていた可能性もあったわけで、決して褒められた話ではない。しかし、結果として、この書類のお陰でり災申告書の不動産部分の作成は比較的スムーズに進んだ。動産は記憶を頼りに金額が高そうなものからリストを作る。現金、冷蔵庫、テレビ、カメラ、貴金属、着物などなど。

父は退職後に鉄道模型趣味にどっぷりとはまり、二階の一部屋は複雑に分岐したNゲージ線路で埋め尽くされ、数え切れないほどの電車・機関車が走り回っていた。これら模型類はほぼ全てが灰と化しているので、被害額を記入する必要があるのだが、父はごにょごにょと言を左右にしてはっきり数字を言わない。よくよく問い詰めてみたところ、年金暮らしの身分でありながら、なんとン百万も使っていたらしい。まったく困った老人である。

火災現場
かつて鉄道模型が走り回っていた部屋

1 よく柱一本でも残っていれば「全焼」扱いにならず、保険金が大幅に減額されると言われるが、それは昔の話で、今ではより現実に沿った査定がなされるらしい。