捨てたもの記録:ノートPC

これまで何台のPCを購入してきただろうか。仕事柄、世間一般の人より多いかもしれない。最初に購入したのは、東芝の初代 Dynabook(J-3100SS)だった。まだWindows 3.1が出る前、MS-DOSの時代で、A4サイズの大きさで価格は20万円をわずかに切るくらい。サイズも価格も当時としてはかなり意欲的だった。

会社では、ワープロ(専用機)は一人一台に近かったが、PCはまだ実験的に導入されるかどうか、といったタイミングで部署に一台1)くらいだったと思う。そんな状況だったので、私物ではあったけれど、会社に持っていって、ワープロ代わりに活用したりしていた。その後、Windows 95が出たくらいから、会社にあるPCが少しずつ増えていった。同時に、出版の世界では、DTP(デスクトップパブリッシング)という言葉が、あちこちで聞かれるようになり、それとともにマッキントッシュも社内でちらほらと見かけるようになった。とはいえ、社内のPCがネットワークで接続されて、電子メールが仕事の中心的なツールとなるのはもう少し先の話だ。

98年に大手IT企業に転職すると、一転して最新型のPCが社内・社外ともに高速なネットワークで接続された最先端の仕事環境になった。最新バージョンのWindowsやOfficeアプリケーションをフル活用すれば「生産性」がこんなに上がるのだ、と世間にアピールする必要もあって、常に最新のハイスペックなPCを会社で使っていたため、家で使う個人用のPCを買うときも、同じようにスペックの高いPCでないとどうにも気持ちが悪く、結果として割高な機種ばかりを購入していたように思う。

写真は、IBMのThinkPad TシリーズとSonyのVAIO Zタイプ。もうずいぶん前に引退させて倉庫の肥やしになっていたものを今回処分することにした。どちらも、比較的スリムで軽く、高性能だったが、30万円近くしたはずだ。それでも、だいたい3年から4年くらいで、処理速度が遅くなったり、故障2)したりして、買い換えることになる。今は、当時よりPCの値段はさらに下がったとは言え、ちょっとスペックの良いものを買おうとすると、それでも20万オーバーは覚悟する必要がある。いまどき、20万円もする家電、それも数年で買い換えねばならない家電なんてめったにない。55型の最新型4Kテレビだって15万くらいだ。パソコン黎明期の価格を知っているから、安くなったものだなどと呑気に思っているが、PCはまだ相当高価な道具である。

1 これじゃ「パーソナル・コンピュータ」じゃなくて「パブリック・コンピュータ」(略してパブコン)だねと笑っていた。
2 ThinkPadはどういうわけかディスプレイがよく故障した。

船酔い

クルマや飛行機ではあまり乗り物酔いしないのだが、船だけは全く駄目だ。乗って数分ですでに酔いの予感があり、その後、強弱はあれどまず間違いなく吐き気に襲われる。船が大きくても小さくてもあまり違いはない。小型の渡し船のようなもの、中型のフェリー、双胴の観光船、大型客船、みな同じだ。

引き金になったのは、18歳か19歳のころに船で行った大島だった。大島行きの船は、夜に竹芝桟橋を出港して、翌朝大島に到着する。波・うねりの高い日だった。乗船してしばらくは、はじめての船旅で興奮し、酔うなんて思いもしなかったが、船が東京湾を出たとたん、うねりに大きく揺さぶられ、みるみるうちにやられてしまった。一緒に行った仲間のほとんども、さらには乗客の多くも手ひどくやられ、消灯して薄暗い船内では、酷い船酔いで動けなくなった人たちが、エチケット袋片手に累々と倒れているという地獄絵図を見ることになった。それでも、目的地に向かって進んでいるならなんとか気持ちの持ちようもあるけれど、船は沖合で数時間止まって時間調整をしてから大島に向かうというスケジュールで、進んでいる実感もエンジン音もなく、ひたすら数時間うねりに耐えるという理不尽さが、船酔いをさらに悪化させたように思う。

これがトラウマになって、船が決定的に苦手になった。元海上自衛隊の知人に聞いた話だと、自衛隊の新兵でも、船酔いに弱いタイプがいて、数週間から数ヶ月の訓練航海に出ても、その間のほとんどを、自分のバンクベッドで半死人のように横たわっているだけということもあるらしい。想像するだに地獄だが、悲しいかな僕はその半死人グループに100%入る自信がある。揺れに慣れる場合もあるが、内耳の問題で全く対応できない人もいるそうだ。

ハワイでサンセットディナークルーズに乗ったときもヒドい目にあった。その時は一緒に行った友人がどうしても、というので、仕方なくつきあったのだった。酔うのがわかっていたので、酔い止めのクスリを規定の倍量飲んで乗船した。クスリのおかげか、「お、これは意外と大丈夫じゃないか」と上機嫌だったのは最初の30分ほどで、その後は飲みすぎた酔い止め薬のせいで、アタマが朦朧とし、凶悪な眠気に襲われ、ディナーの前にすでにベンチで熟睡する始末。結局3時間のクルーズのほとんどを泥酔した人のように前後不覚で過ごし、船酔いこそ回避したものの、人間としての尊厳を喪失し、ほとんど荷物と化して船中を過ごしたという点では、何ら改善を見なかったのであった。

乗り物酔いは、内耳が感じる平衡情報と視覚からの情報がずれてしまい、自律神経が参ってしまうのが原因のひとつだというが、考えてみると、VRも全く駄目だ。ディズニーリゾートの「スター・ツアーズ」でも気分が悪くなって途中離脱を余儀なくされるくらいだから、こういうズレにけっこう弱い方なのだと思う。自律神経の問題と船酔いのトラウマが合わさっているとすれば、克服への道のりは遠い。

捨てたもの記録:老眼鏡

子供の頃から視力は抜群で、40になるくらいまでは健康診断でも2.0を維持していたような記憶がある。近くも遠くも、ものを見るのに苦労しないどころか、およそどんなものも常にくっきりはっきり見えていた。ところが、41、2になって、近くのものが見えにくくなり、ときおり目がかすむようになってきた。PCの使いすぎから来る眼精疲労による頭痛や肩こりもひどかったので、眼科に行ってみたところ「立派な老眼です」と、おごそかにご託宣を賜ったのであった。

この赤みがかったフレームの老眼鏡は2本めに購入したもの。1本目ははじめてのメガネ、ということでちょっと奮発して高価なものを買ったため、もう少し安価な、会社のデスクに置きっぱなしにしておけるものを、と量販店で購入した。ところがこれがぜんぜんダメで、くっきり見えるわけでもなく、文字は歪むし頭痛はするしでほとんど出番がない。最初に買った方ばかりを使い、こちらは長いことメガネ立ての中に放置されていたのだが、今回処分することにした。

子供の頃、祖母や親戚の家の小物置き場に、同じようなメガネがいくつも置いてあるのをみて、メガネなんて一本あれば十分やんと不思議に思っていた。あほちゃうか、とまで思っていた。今、気がつくと自分のデスクの小物入れに3本ほど老眼鏡が立っている。メガネというのは、けっこう微妙な調整が必要なシロモノで、ぴったり合うものを作るのが意外と難しいこと、さらに目の方の状態が年とともに変化して、ときどき作り直す必要が出てくることなど、子供の頃にはまったく想像すらできなかった。若さと健康は、しばしばとても傲慢なのだ。当時の自分に、おまえもそのうち何本もメガネ買うんやで、と教えてやりたい。

古河花火大会

夏になると、日本全国で300以上の花火大会が開かれるが、3尺玉の花火を打ち上げるのは、実は数えるほどしかない。3尺玉というのは、重さ300キロ・直径90センチの玉で、600メートル上空まで打ち上げられ、直径650メートルの巨大な花を開かせる。打ち上げるために、広大なスペースが必要なため、都内では場所がないそうだ。

古河の花火大会は毎年8月の最初の土曜日に開かれる。広大な渡良瀬遊水地に面しているので、打ち上げ会場には困らない。今年は8月4日の土曜日に開催され、3尺玉2発を含む2万発が打ち上げられた。全国でも最大規模の花火大会のひとつだ。河川敷に座って夜空を見上げるのもよいが、去年と今年は父が住む駅前のマンションのベランダから見物した。最上階の7階で遊水地側に眺望が開けて見晴らしが良い。少し距離はあるけれど特等席なのだ。

3尺玉はクライマックスで打ち上げられる。玉は黄色い光の尾を曳きながらどこまでも上がっていき、他の花火よりひときわ高い位置から、無数の黄金色の糸が傘のように広がって、光の航跡を天空いっぱいに広げ、ゆっくりと落ちてくる。光から少し遅れて、ズンという地響きのような、他の花火とは異質な野太い音が腹に響く。

3尺玉以外の花火も素晴らしい。およそ1時間に渡って様々な花火が次々と打ち上げられる。花火の世界も技術革新が進んでいるようで、大きさだけでなく、以前はあまり見ることのなかった透明感のある青い光のもの、開いた球の円周上を衛生のように色とりどりの光が走るもの、天空に小さな花びらが一面に散るように開くものなど、毎年新しい趣向が凝らされている。まさに天空のスペクタクルで、時間があっという間に過ぎてゆく。

花火大会の費用がどれくらいなのかわからないが、きっと数万人(あるいはもっと多く)の人が夜空を見上げ、歓声を上げ、夏の風情を感じ、綺麗だね楽しいねと家族や友達と頷きあい、素敵な夏の思い出をつくったことだろう。そう考えれば、数億円かかったとしても、最高のカネの使い方だと思う。

知らんがな

普段はあまり劇場で映画を観ない。その代り、と言っては何だが、飛行機の中ではよく映画を観る。出張で6時間以上のフライトが多く、機内で眠れないので時間はたっぷりある。最近は、飛行機のエンターテイメントシステムに入っている映画の数も以前よりはずっと多くなったけれど、なかなかこれ、といった映画がない場合もある。とくに日系以外の航空会社では、字幕版がなかったりすることも多いので1)、最近ではタブレットにまとめて何本かダウンロードしておく。

新しいものも観るけれど、何度も繰り返してみているものも多い。ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドや、ジェイソン・ボーンのシリーズは何度見たことか。ゴッド・ファーザー(パート1と2)とアンタッチャブルもよく観た。昔はバック・トゥ・ザ・フューチャーとかビバリーリルズコップみたいなコメディのシリーズもよく見たけれど、最近はあまり食指が動かない。

そう言えば、もう随分前の話になるけれど、シアトルから東京に戻る便で、米国海兵隊らしき一団と乗り合わせたことがある2)。前後左右見渡す限り、みっちりと、マリーンカット3)のいかつい若者が大挙してエコノミークラスに乗っていた。その真っ只中に、何かの手違いのように僕の席がぽつんと指定されている。さらに間の悪いことに、真ん中列の真ん中という最悪の座席で、丸太のような二の腕のいかつい兄ちゃんが両側にどかんと座っている。彼らの名誉のために言い添えれば、別に騒いだりしているわけではなく、みなとても礼儀正しく、普通に座っているだけなのだが、屈強な若者が集団でいると、その肉体が発する「圧」はけっこうなもので、我々のエリアだけ周囲より気温・気圧ともに少し高いのではないかと思うほどであった。

最初の食事が終わり、食器が片付けられると、みなそれぞれにリラックスする時間だ。眠る者、ゲームするもの、読書する者、音楽を聴く者とみなそれぞれ好きなことを始める。僕は本を読みはじめ、右隣の兄ちゃんは目の前のモニターで何か機内映画を見始めた。しばらくして突然、兄ちゃんが肘でぼくをつつき、目の前のスクリーンを指さして、愉快そうに笑いながら、「Funny, Huh?」と言った。

彼の見ていた映画が、面白い場面に来たのだろう。唐突に「オモロイな」って同意を求められても、こっちは観てないんだが。でも彼はいかにもオモロイといった様子でケラケラ笑ってるし、なんとなく釣られて「そうだね~」なんて言いながら笑ってたら、どうもそれがいけなかったのか、そのあと映画が終わるまでの2時間、こっちが読書してようが何してようが、「Oh My God」だの「Come’on~」だのと彼が映画にリアクションするたびに肘でつつかれて同意を求められるという、なかなかにツライ道中を過ごしたのであった。

「知らんがな」って英語でなんていうんだろうね。

1 というか日系であっても吹替版しかないものも多くてがっかりする。字幕版にしてもらえないだろうか。
2 買収される前のノースウエスト航空で、一団はどうやらフィリピンの米軍基地に向かっているようだった。
3 がっつり刈り上げの超短髪

階級闘争

高度経済成長時代に建設された、いわゆる「ニュータウン」という大規模団地群で育ったせいか、みんな同じ、みんな平等、という感覚をごく自然に吸収しつつ大人になった。周囲はみな、ほぼ同じ間取りに住む、同じような家族構成の、同じような収入の家で、土地に根付いた古くからのシガラミもない。新しい街、近代的な明るい生活、といった空気が満ちた平和なコミュニティであった。経済的には、我が家はかなりつましい生活の家ではあったけれど、世の中の「一億総中流」の流れに乗って、カネのあるなしもそれほど意識させられることもなかった。

長じてからも、そうして刷り込まれた感覚はあまり変わらず、普段は概ね心安らかに暮らしているわけだが、年に数度、「階級」の壁に直面する。そう、国際線の飛行機である。ご存知の通り、飛行機にはあからさまに「階級」が設けられており、待遇が天と地ほどに違う。個人で遊びに行くならともかく、出張なんだからビジネスクラスに乗せてくれよと思うが、なんだかんだと様々な条件があって、10回に9回はエコノミークラスでチケットを手配することになる。青雲の志に燃えた若い頃は、エコノミー大いに結構、海外出張というだけで鼻息も荒く、勇んで出かけたものだが、慣れと老いとは恐ろしいもので、もはや飛行機の中で満足に眠ることもできなくなり、4時間以上のフライトはもう苦行であって、飛行機を降りた時点ですでに疲労困憊、もはや仕事をする体力も気力も残っていない。

ごくたまに、何度も利用するエアラインだったりすると、どういう加減か、チェックインカウンターあるいは搭乗ゲートで、ピンポーンという軽やかなチャイムとともにエアラインの制服を着たにこやかな女神が現れ、アップグレードチケットに交換してくれるという僥倖に恵まれる。でも、ほとんどの場合何も起きず、ないとわかっていながら毎度アップグレードを期待してしまう自分の浅ましさに自己嫌悪を抱きつつ、ドナドナと長い列の後ろに並んで、狭苦しくむさ苦しい最後部セクションに誘導されることになる。

ビジネスとエコノミーのあからさまな待遇差は、もちろん機内だけではない。預け入れ荷物の個数、チェックインの順番、ラウンジ利用の可不可。仕事の場合、ラウンジが使えないのはときに致命的で、一度、ロンドン・ヒースローで天候不順のために乗るはずだった飛行機がずるずると遅れ、結局7時間も空港内を電源とWifiを求めて彷徨うハメになったこともある。こういう目に遭うと、カネ払いの問題だとわかってはいても、おかしいやないか、不平等やないか、と階級闘争に目覚めそうになる。

最近では、やっとわずかに「諦め」という名の「悟り」をひらき、以前よりは心安らかに飛行機移動の時間を過ごせるようになった。コツは、機内食は原則食べない、無理に眠ろうとしない、ことだ。機内は、読書と映画と音楽と書き物の時間と決めて、ジタバタしない。なんだったら瞑想を加えてもいい。ジェイソン・ボーンのシリーズ4作1)を一気に見ようとして眼精疲労で寝込むといった失敗をしつつも、このコツを何度か繰り返すと、だんだんそれが身について馴染んでくる。面白いことに、機中をわざと空腹で過ごすと、到着後も体調が良く、時差ボケも軽く済むことが多い。

1 スピンオフ的な位置づけの「ボーン・レガシー」(主演はマット・デイモンではなくジェレミー・レナー)を入れれば5作ある。

スイカ

子供の頃、スイカのタネを食べると盲腸になる、と言われた。消化されずに腸まで流れていったタネが盲腸にたまってお腹が痛くなるのだ、というもっともらしい理屈がついていたせいもあって、しばらくのあいだ何となく信じていた。

11歳のときのこと。週末に友達と遊んでいたところ、突然お腹が痛くなった。いつもの腹痛とはちょっと違う。慌てて家に帰ったが、次第に吐き気までしはじめた。しばらくうんうんとうなっていたけれど、状態はどんどん悪くなってゆく。普段はあまり病院に行けと言わない母親が、何かを察したのか、すぐに僕を病院に連れて行った。幸運なことに、家の近所に大きな総合病院があり、そこが休日診療をしていたのだ。

当直の医者は「これはまず間違いなく盲腸ですね」と言った。熱も高かったので、そのまま入院。手術をするには週末で準備が整わないので、週明けの月曜日に散らす1)か手術をするか最終的に決めましょう、ということになった。

月曜日に改めて診察をした別の医師は、実に軽い調子で「うん、切ろか」と大阪弁で言った。僕としては手術はコワいし避けたかったけれど、なにせ調子が悪すぎて抵抗する元気もなく、小学生では言われた通りに従うしか選択肢はない。

手術室はドラマで見たまんまのあのランプが沢山ついた照明が天井から下がっていた。全身麻酔で眠っているうちに終わるものだと思っていたら、「まぁ、5年生やったら我慢できるやろ」と腰椎麻酔2)をされた。これは今でも人生の中で最大の激痛として君臨している。下半身だけの麻酔なので、幸か不幸か意識ははっきりしている。「では始めます。」のあとに医者が「手術も久しぶりやな」とぼそりと言った。

手術中は腸がひっぱられるせいか、胃がひきつれる感じで苦しく、30分くらいで終わると言っていたものが、どういうわけか1時間以上かかって終了した。麻酔が切れたあとが最悪で、ベッドの上で七転八倒。最大量まで鎮痛薬を飲んだり打ったりしても、痛みは収まらず、とにかく苦しんだ。

それでも少しうとうとと眠ったのだろうか。ふと目を覚ますと、パジャマが湿っぽい。汗でもかいたのかと思ったが、それにしてはぐっしょりしている。毛布をめくってみると、お腹の右側から背中にかけて、真っ赤というよりどす黒く血が染みて滴らんばかり。うわ!とパニックしながら、ナースコールのボタンを押すと、看護婦さんが駆けつけ、すぐに例の医者が呼ばれた。医者は「あ~、やっぱりひと針足りんかったかな」とぶつぶつ言いながら、その場で手術針と糸を持ってこさせ、麻酔もなしに縫って去っていった。

翌日だったか2日後だったか、回診に来た医者が、「盲腸、見る?」と出し抜けに言った。ポケットから両側を糸で縛られたソーセージのようなものを取り出してブラブラさせながら、「盲腸って小指の先くらいの大きさやけど、それがこんなに腫れてた。あと半日遅かったら、破けて腹膜炎を起こしてたかもしれんな。ギリギリ助かってよかったなぁ。」とにこやかに言った。

切り取られた自分の盲腸がぶらぶら揺れるのをみながら、あの中にスイカのタネが詰まってたらオモロイな、と思ったけれど、口にする元気もなく、はぁと気の抜けた返事をした。

1 手術せずにクスリ(たぶん抗生物質)で治療することを「散らす」と言った。
2 今、腰椎麻酔をするときには予め腰椎付近に麻酔をかけてから、さらに腰椎に半身麻酔用の注射をするらしい。記憶違いかもしれないけれど、その予備の麻酔を打たれた覚えがない。背を丸めてひたすら我慢したが、本当に死ぬかと思うほど痛かった。

熱いうちに食べよ

有名な話だが、池波正太郎は、天ぷらについてこう言った。

てんぷらは、親の敵にでも会ったように、揚げるそばからかぶりつく。鮨の場合はそれほどでもないけど、てんぷらの場合はそれこそ、「揚げるそばから食べる……」のでなかったら、てんぷら屋なんかに行かないほうがいい。そうでないと職人が困っちゃうんだよ。(男の作法(新潮文庫))

実はピッツァも同じで、出てきたら熱いうちに脇目も振らずに食べるのが正しいのだ、とランチに行ったナポリピッツァのお店で教わった。ゆっくり会話でも愉しみながら、なんてチンタラされたんじゃ、せっかくの熱々ピッツァが駄目になっちまうぜ、とナポリっ子が江戸弁でまくしたてるくらいのものなのだそうだ。知らなかったが、そのお店の熱々のピザにかぶりつきながら聞くと、たしかにその通りだと思う。いつだったか「冷めたピザ」と揶揄された首相1)がいたけれど、冷たくなってチーズも生地も固くなりかかったピザなんて美味しくない。とろりとチーズが溶けている熱々のところを、薪のスモークが香る熱々の生地と食べたい。

今でこそ高級料理になっている天ぷらは、江戸前鮨と同様、もともと庶民の手軽な屋台メシで、できたてをさっさと食べるものだった。ナポリのピッツァも、薪窯で焼いた出来たてほやほやが真骨頂であって、でも薪窯なんて家にはないから、贔屓のお店に食べに行くものだそうだ。イタリアと日本では食材やその使い方、料理の考え方に似通ったところがあるなぁと常々思っていたけれど、こんなところでも立ち位置が似通っていて面白い。

いつも食べるスピードが速すぎると言われてばかりいるので、こういう食べ物はありがたい。速すぎると言われたら、いやいや、ピザってものはさぁ、とか、池波正太郎がね、などとエラそうに言えるではないか。いやもちろん、熱いうちに食べることと、早食いとは、似て非なるものだというのはわかっているけれど。

1 98年に、ニューヨーク・タイムズが橋本龍太郎の次の首相候補を報じる際、政治アナリストのJohn F. Neuffer 曰く、小渕恵三は “Obuchi has all the pizzazz of a cold pizza”(冷めたピザほどにも魅力がない)と評した、と記事にした。

凛とした人

今日は母の命日だ。61歳で亡くなったのは2001年だから今年でもう17年になる。仕事を引退し、新居に引っ越して、これから楽しい老後の時間をというタイミングで、あまりにも早かったと思う。先日のニュースによると、2017年は女性の平均寿命が87.26歳だったそうだ。平均と比べることに意味があるかどうかは別として、25年以上も短かい生涯だったことになる。早すぎたからなのかどうなのか、その存在感は、今もってなおまるで減ずることがない。墓参に行っても、あの母がこんな田舎の墓の中におとなしくしているわけもなく、忙しそうにあちらこちら出かけているに違いなく、いつも留守宅を訪問している気分になる。日々の暮らしの中でも、ふとしたときに、今日はふらりと我々の様子を見にきているのではないかという気配を感じたりもする。

病気がわかってから、入院するまでひと月あまり。今でも病名を告げられたときのことは昨日のことにようによく覚えている。カンファレンス室で医者が見せたレントゲン写真は、医学部の教科書にサンプルとして出てくるような、見事な末期がんの様相で、あってはならない白く輝く星が、肺一面に星座のように広がっていた。それでも、本人は、その深刻さを知ってか知らずか、少なくとも僕ら息子たちの前では、つねに前向きな姿勢を崩さず、泣き言めいたことも一切口にせず、どんなときも凛とした母親でいた。

亡くなる前々日、病院の向かいにあるホームセンターで、ちょっとした買い物をしているときに、酸素マスクをつけているはずの母から携帯電話がかかってきた。あわてて出ると、お世話になった看護婦さんたちにお礼がしたいので、プレゼント用のハンカチを買ってきてくれ、という。さっきまで痛み止めのモルヒネで眠っていたはずの人から、予想外のタイミングでの電話と頼みごとに、その時はつい笑ってしまった。今思えば、彼女は自分の死が近いことを悟っていたのだろう。たしか、買って帰ったハンカチをちゃんと自分で渡してお礼を言ったのではないかと思う。いつも自分のことより人のこと、何事もきちんとしたい人だったが、最後の最後までそれを貫き通した。

二日後の早朝に、母は静かにその生涯を閉じた。その年は、今年と同じ猛暑で、とにかく毎日暑かった。灼けつくような日差しの眩しさに、あの夏を思いだす。

困ったときのパンダ

出張の楽しみでもあり頭痛のタネでもあるのが食事だ。複数人いればいいけれど、一人で食事をしようと思うと、とくに欧米ではなかなかに苦労する。なぜ苦労するかといえば、おひとりさま向けにいいお店がないからである。

日本だと、たとえば寿司屋、天麩羅屋、蕎麦屋。おひとりさまでも堂々と入って、それなりの金額で、ある程度ゆっくりと食事を楽しむことができる選択肢がある。でも、たとえばアメリカにはそういう選択肢があまりない。ハンバーガーかピザのチェーン店1)でプラスチックのトレイを前にもぞもぞと食べる、あるいはテイクアウトしてホテルの部屋でもぞもぞするのがせいぜいであって、そうなると、我々の感覚では、食事というよりは単なるエネルギー補給といった趣になり、これが連続すると気持ちが荒み、世を儚んで仕事に行きたくなくなり、「咳をしても一人」などと尾崎放哉の句を諳んじ始めたりする。

ハンバーガーやピザがなぜ侘しいのかといえば、日本人にとってはあまり夕食の体をなしていないからだろう。夕食の期待値として、一汁三菜とまではいかなくてもせめて一汁二菜くらいはほしい。コメか麺は主食として確保したいし、そこに熱い汁物と湯気のたった(あるいはキュッと冷えた)おかずが一品か二品ほしい。この切なる欲求を、納得できる金額内で何とか叶えてくれるのは、アメリカではパンダなのであった。

パンダというのは、パンダの絵の入った丸いロゴでお馴染み「パンダ・エクスプレス」である。中堅以上の都市なら、デパートや商業施設のフードコートに必ずと言っていいほどある2)。仕組みは至ってシンプル。炒飯か焼そばを選んで、そこにおかずが2品または3品3)つく。おかずはカウンターで見て選べる。あとは、スチロール容器に盛り付けてもらうだけ。汁物が欲しい場合には、たいてい酸辣湯かコーンスープがある。まさに一汁二菜がここに確保されるわけだ。持ち帰ってもいいし、その場で食べてもよい。もちろんお手軽中華料理だから、味はそれなりだけれど、価格とのバランスを考えれば悪くない。

ニューヨークに限れば、最近では、大戸屋や一風堂、つるとんたんや牛角など、日本の人気店も進出していて人気だけれど、日本よりも高級路線をとるせいもあってドル建てのお値段は少々高めだ。さらにチップを払うので、トータルするとけっこうな金額になる。東京に戻れば、同じものが安く、いくらでも食べられるからなぁ、と思うと、さすがにちょっと躊躇する。

1 ニューヨークの場合には、徒歩で行ける小さなデリがほうぼうにあって、サラダやスープ、ご飯ものや麺なんかもテイクアウトできるのはありがたい。その他の都市ではなかなか難しい。
2 アメリカを中心に1,900店舗もあるらしい。日本にも2つあるようだ。
3 ひとつはパンダエクスプレス名物「オレンジチキン」を試してみることを勧める。けっこう美味しい。