破天荒

若い頃は、「破天荒」とか「無頼」みたいな形容詞で語られる人生に憧れを抱いていた。平凡なレールに乗った人生じゃなくて、人と違った格好いい生き方がしたい、と鼻息も荒く思っていた。若者らしい青い憧れだけれど、平成も終わろうというこの時期に振り返ってみると、甚だ昭和っぽい憧れでもあったのだなぁと思う。

こんなことを考えたのは、「ボヘミアン・ラプソディ」と「エリック・クラプトン~12小節の人生~」を立て続けに見たからだ。フレディとエリックが「破天荒」だったかどうかはさておき、ふたりともセックス・ドラッグ・アルコールといった退廃をたっぷり経験している。70年代から80年代にかけて、世の中への「異議申し立て」にあたっては、このセックス、ドラッグ、アルコールというのは必須科目のようなもので、一般常識や良識を踏み外すためのお決まりの方法論だった。ロックミュージシャンや無頼派の作家などは、みな揃ってこの泥沼にはまり込み、若者は憧れの眼差しでその姿を見ていた。

憧れてはみたものの、この泥沼にハマるのはけっこうハードルが高かった。男子校育ちのやや自意識過剰な男子としては、女子に並々ならぬ興味はあったものの、手当たり次第というほど器用な真似はできなかった。ドラッグは、戦後のヒロポンのようにそこらに転がっていれば試すことも出来たのかもしれないが、マリファナのようなソフトなものであっても入手手段などなかった。代わりに、タバコを吸って、クラプトンのように、ギターヘッドの弦の間に火のついたタバコを挟んで演奏してみたりもしたが、ニオイが生理的に駄目だった。酒は一時期頑張って飲んでみたものの、酔っ払う前に、気持ち悪くなって動けなくなるか、眠り込んでしまうかで、記憶をなくして「破天荒」なことをしでかすはるか手前の段階でダウンしていた。

その後、身の回りで、ドラッグはともかく女や酒に耽溺する人を見てきたが、みな生理的に、というか、ナチュラルボーン・酒好き女好きであって、ムリして溺れている人というのはあまりいない1)。なぜそんなに飲みたいのか、なぜそんなにヤりたいのか、という問いにはあまり意味がない。「破天荒」に生きたくて、なんて人はおらず、ただ、そこに酒があるから、とかそこに女がいるから、みたいな人ばかりである。聞きようによっては孤高の登山家の深淵な哲学と勘違いしそうになるが、何のことはない、好きだから、という生理的な反射に近いのだった。

話がすっかり逸れた。この「破天荒」への憧れが昭和っぽいというのは、つまり、「普通の」人生が、レールに乗ったらそのまま年をとっていくだけの退屈なもの、という前提があるからだ。いい学校に行き、いい会社に就職し、定年までつつがなく勤めて、退職後は年金暮らし、というレール。高度経済成長と終身雇用があたかもずっと続く「真理」のように思い込んでいた昭和が背景にどどんと鎮座していたのである。言うまでもなくこの昭和の思い込みは雲散霧消し、レールなんて探しても見当たらない時代になった。これから、ますます先が読み通せない時代になり、みなそれぞれに変化に機敏に対応しながら生きていくのだとすれば、「破天荒」になるのはますます難しい。だってもはや踏み外すべき「普通」がないのだから。

1 もちろんアルコール依存の問題は深刻で、いつしかアルコールがその人をコントロールするようになってしまう。クラプトンが映画の中で「当時、自殺しなかった理由は、死んだら酒が飲めなくなると思っていたからだ」と語っていたが、まさに酒が人格を乗っ取ってしまうこともあるのだ。