南三陸・女川旅行記(3)

5. シーパルピア女川とハマテラス

女川観光の中心は、シーパルピア女川とハマテラスだ。この二つは、名称が別れてはいるけれど、一体のものだと考えて差し支えないだろう。港から女川駅までの間を「レンガみち」という歩行者専用道でまっすぐつなぎ、その両側に飲食店、日用品、食品、お土産などを売る商店、クラフト、カルチャースクール、スポーツ関連などのアクティビティを体験できるお店がエリアを区切って並んでいる1)

レンガみちは広々としていて、周囲のお店を覗きながらぶらぶらと散歩するのは楽しい。お店は比較的早く閉まるので、午後早めの時間から散策するとゆっくり楽しめるはずだ。我々は到着が遅かったせいで、限られた範囲しか見ていないけれど、ハマテラス内にある「おかせい」という鮮魚店が楽しかった。60センチくらいありそうなシイラが500円で売っていたり、旬の獲れたてのサンマがトロ箱の中でギラギラと新鮮な光を放っていたりと、さすが港町の魚屋さん、どの海産物も見るからに新鮮で安い。食堂も隣接しているので、そこで夕食にする。海鮮丼、ほたて丼といった海鮮のどんぶりが何種類かある。たっぷりとしたアラ汁もついてくる。質・量ともに満足。

女川駅舎は女川温泉ゆぽっぽという温泉施設と一体化している。ゆぽっぽの背後には、トレーラーハウスを30棟以上配したホテル・エル・ファロがある。姪っ子ほか、インターンをしている大学生たちは、ここでルームシェアしながら、何週間かのプログラムをこなしているそうだ。エル・ファロはバーベキューや焚き火のできるスペースが設けてあったり、マリンスポーツやトレッキングといったアウトドアのプログラムが充実していたりして、人気の宿となっている。居心地が良さそうなので、泊まる予定のなかった我々も当日飛び込みで泊まろうとしたが、すでに満室であった。残念。

6. 震災遺構

東日本大震災から7年が経った。今回の旅行では、震災や復興というキーワードでものを見ないようにしよう、と思っていた。2011年とそのあと数年は、自分なりにできることをしたつもりではあるけれど、同時に、自ら現場に足を運んで手を動かしたわけではないという後ろめたさもどこかにある。南三陸町も女川町も、地震・津波で最も壊滅的な被害を受けた地域のひとつであり、7年もの時間が経ってから、のこのこと出かけて、こんなに復興が進んだんだなぁ、とひとごとのように眺めるべきではないと思っていた。だから、震災とは切り離して、姪の様子を見に来たついでに町を見て回るんだ、と彼女たちをだしに使って、言ってみれば自分の気持ちの逃げ場を作ったわけだ。

でも、南三陸町に着いてみてすぐに、震災と復興は、今も否応なく町の生活・経済の中心であって、そこには目を閉じて「観光だけ」するなど土台ムリな話なのだとわかった。ひとごとのように眺めてはいけない、などという僕の考えは、それこそ部外者の浅はかなセンチメンタリズムに過ぎなかった。地元で奮闘する人々にしてみれば、とにかく来て、知って、食べて、楽しんで、そして経済に貢献してくれ。それが復興につながるんだ、ということなのだと思う。女川町も全く同じだ。

南三陸町のさんさん商店街から八幡川を隔てた対岸に、鉄骨だけになった旧防災対策庁舎が見える。12メートルの屋上まで津波が達し、最後まで防災無線で避難を呼びかけた遠藤未希さんら多くの職員の方々が命を落とした場所だ。周囲の土地の嵩上げ工事が進み、防災庁舎はその谷間に埋もれるようにぽつんと立っている。さんさん商店街にある全てのお店も、今回泊まった下道荘も、みな元の建物は津波で破壊されたが、それでも地元で再起することを選び、努力している真っ只中だ。

南三陸町から398号線で女川町へ向かうちょうど中間地点には、旧大川小学校が残されている。ここで児童74人、先生10人が亡くなった。北上川河口から5キロの場所。こんなところにまで大津波は押し寄せた。裂くような痛ましさと行き場のない深い悲しみが沈殿した空間は重苦しく、言葉は飲み込まれて何も出てこない。ただただ手を合わせて祈った。

女川町のハマテラスから国道を隔てた海側には、横倒しになった交番がそのまま残されている。鉄筋コンクリート造りの建物が津波で倒壊した世界でも稀な例で、それほどまでに破壊的な津波が押し寄せ、町を壊滅させた。

姪たちがそれぞれ、「何か力になりたい」という若者らしい思いを抱いて、インターンに参加し町と繋がりを作ったことで、僕も少しそのおこぼれにあずかり、長年の勝手なセンチメンタリズムを脱することができたように思う。またぜひ近いうちに再訪したい。

1 デイリーポータルに女川でのホヤ体験ツアーの記事が出ている。