相棒

相棒、といっても水谷豊のドラマではない。僕の愛車のことだ。

89年製のボルボ240GL。ボルボって販売数の大半がステーションワゴンらしいのだが、これはセダン。購入したのは叔父だが、97年にタダ同然で譲り受けて以来、21年間ずっと乗っている。全く飽きない。本当にいいクルマだと思う。幼稚園児の描く自動車の絵みたいに、カクカクした姿。さすが「タンク」と呼ばれただけのことはある1)。図体は大きく見えるが、実はそれほどでもない。タイヤの位置がボディの四隅ではなく、少し内側にあるので、小回りが効き、狭い場所やUターンなんかもラクちんだ2)

現在の走行距離は23万キロ弱。年平均ではそれほどでもないけれど、絶対値としてはなかなか貫禄が出てきた。エンジンはまったくヘタる気配もなく、むしろ以前より静かでスムーズに回っていて絶好調である。排気量は2300ccあるが、馬力は100馬力ちょっとしかない。でも、低速域のトルクが太く、停止から発進はアクセルを踏んだ分だけグッと加速するので、街乗りではまったくストレスを感じない。そのかわり、と言っては何だが、高速側では時速110キロを超えるとエンジン音がうるさくなるばかりで、それ以上はあまり速度が伸びないうえに、燃費が急に悪化する。

乗り始めたばかりの頃、真夏の首都高速で、渋滞の中水温計がレッドゾーンに達し、オーバーヒート寸前になって肝を冷やしたことがある。それに懲りて、ラジエータ(冷却装置)を2層式の強力なものに交換した。それ以来、大きなトラブルはほとんどない。個体差もあるのだろうが、そもそも基本設計が古く、製造期間がかなり長いクルマの最終期に近いモデルだけに、バグはもうすっかり出尽くし、ややこしい電子制御も最低限しかないので、こわれにくいのだと思う。

ノスタルジーを刺激するフォルムなのか、駐車場の年かさのオジサンに「いいの乗ってるねぇ」とよく声をかけられる。懐かしい旧友とか古い親戚に会ったような笑顔で、「オレも昔乗ってたんだよ」なんて、ひとことふたこと思い出話をしてくれる人も少なくない。こちらもなんだかほっこりした気分になり、仲間とか同志みたいな気持ちを抱いたりする。

唯一といっていい「欠点」は、エアコン。まぁ、もう御老体だから仕方がないけれど、あまり効かない3)。ここ数年の東京の酷暑には、さすがに太刀打ちできず、風量を上げてブーブー回したところで、外気よりちょっとだけ冷えた空気が出てくるだけで、車内が冷える前に目的地に着いてしまうこともままある。何度か熱中症の危険を感じたので、あまりに暑い日は、携帯用アイスノンを持って乗る。太陽がギラギラと照りつける真夏日に、アイスノンを手ぬぐいで首に巻きつけたオトコが、汗をかきかき古いボルボを運転しているのを見かけたら、それはきっと僕である。

1 たしかに丈夫にできていて、一度後ろから追突されたことがあるが、こちらは無傷だったのに、相手のノーズが気の毒なくらい凹んでいた。とはいえ、潰れて衝撃を吸収するというつくりにはなっていないので、ショックは乗員にモロに伝わる。
2 タイヤサイズも小さい。最近のリッターカーくらいのサイズなので、タイヤ交換も安く済んで良い。
3 それでもワゴンよりはまだマシらしい。

こつこつ、ゆっくり

津端修一(つばた・しゅういち)さん・英子(ひでこ)さんというご夫妻がいる。高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市)の一角にある宅地で営む、自家菜園を中心に据えた半自給生活が注目され、テレビのドキュメンタリーで紹介されたり、何冊かの本が出版されたりしている。昨年には「人生フルーツ」というタイトルで映画にもなった。

修一さんは、1925年1月の生まれ。東京大学を卒業し、建築事務所勤務を経て日本住宅公団でニュータウンの設計を手がける。高蔵寺ニュータウンは設計に大きく関わったもののひとつ1)。津端さんご家族は、後にその一角に300坪の土地を購入し、建築家アントニン・レーモンドの麻布笄町にあった自宅兼アトリエをモデルにした平屋を建て、キッチンガーデンと呼ぶ自家菜園と雑木林を配し、なるべく何でも自分の手で行う半自給生活を、妻の英子さんとともに確立する。

修一さんの学歴・経歴や生き方から、少々気難しい、厳しい人を想像するが、本に残された言葉や、ハガキや手紙類、映像の端々から見えるその人となりは、驚くほど穏やかで上品で、やわらかなユーモアにあふれている。けれど、その内側には、しなやかで強靭な芯がある。人が暮らし生きていくうえで何が大切なのか、自分はどんなふうに生きていきたいのか、についてしっかりとした哲学をもち、その根っこには、つねに、どんなことも、ゆっくり、こつこつと、時間をかけて、自分で楽しんでする、という考えがある。

こつこつやると時間はかかるけど、目に見えてくるものがあるから人に頼まないで何でも自分で

これは修一さんが英子さんに常々言っていたことだそうだ。僕は、IT業界の片隅でこの20数年仕事をしてきたが、そこでは、効率とスピードが至上命題であり、アウトソースできるものは自分でやるな、という考え方が支配する世界だ。そして、情報技術が世界の経済全体をひっぱる力が増すにつれ、このマントラが世の中のいろんなところに顔をだすようになった。どちらが正しい、という話ではないが、ずいぶんと違う。

いくつになっても、自分のことは自分で、『依りかからずに』生きていきたいね、と、英子さんと話をしているんです。

本当の豊かさというのは、自分の手足を動かす暮らしにあると思いますよ。

僕自身は、人生の折り返し点をとうに過ぎ、残された時間をどう使うかを考えることが多くなった。自分で手を動かすこと、実際に触って感じ取れる何かを欲する気持ちが強くなり、同時に、浮かんではすぐに消えていくカタカナ語の氾濫する世界への倦怠感とそこから距離をおきたいという気持ちが年々大きくなっている。仕事も含めたものごとの優先順位を組みなおすとき、修一さんの言葉は改めて示唆に富む。

修一さんは、2015年6月に午睡中に逝去された。享年90歳。英子さんはまだお元気でいらっしゃるようだ。

津端さんご夫妻の生活に興味のあるかたには、以下のような本がある:
「あしたも、こはるびより。」(2011年)「ひでこさんのたからもの。」(2015年)「きのう、きょう、あした。」(2018年)いずれも主婦と生活社刊。写真が豊富で肩肘張らずに読める。英子さんのレシピが多く紹介されている。
「ききがたり ときをためる暮らし」(2012年)「ふたりからひとり ときをためる暮らしそれから」(2016年)いずれも自然食通信社刊。「ききがたり」の方は文庫版が2018年に文藝春秋より出ている。

また、映画「人生フルーツ」は押しつけがましさが一切なく、抑制が効き、二人の生活を淡々と映し出しているよい作品だと思う2)。樹木希林のナレーションが沁みる。

1 1968年入居開始。僕が住んでいた大阪・千里ニュータウンとともに、黎明期の代表的なニュータウンである。彼の原計画では、地形を生かし、随所に雑木林を残し、風の通り道を確保する、余裕のある全体設計を提案したようだが、経済効果や効率性から、最終的に彼が当初思い描いたかたちとは相当に異なるものになってしまったという。
2 DVDやオンライン配信などはまだされていないようだ。小さな劇場を中心にロングランが続いている。

栗のおかし

子供の頃、マロングラッセとか、栗蒸し羊羹、栗鹿の子といった栗の入ったおかしは我が家では無条件に「高級品」ということになっていて、何か特別な時にだけ出てくるものだった。この「栗」信仰のおおもとは母で、こういったおかしを出してくるときは、鼻をヒクヒクさせながらさも得意げに「ほら、栗入りよ~」と言うのが常であった。経済的には決して裕福でない家に育った彼女が、少女時代に、何か強烈に栗に憧れるような出来事があったのかもしれないが、今となっては確かめようもない。

ともかく、この母の刷り込みは、息子たちにしっかりと定着し、今でも栗入りというだけで、条件反射のように、お、高級品と思い、あ、特別だと思う。おかげで、それがたとえ近所の小さな和菓子屋さんで買った安価な栗まんじゅうだろうが、栗羊羹だろうが、栗というだけでずっと美味しく感じるのだから、舌と言うよりは脳で食べているようなものだ。安上がりで幸せなもんである。

ところで、先日、とらやで栗蒸し羊羹を買った。9月、10月の二ヶ月だけ販売される、誰もが納得の「高級品」であって、母ならばきっとよっぽど特別な時に、向こうが透けて見えるほど薄く切って、もったいぶって出してきたに違いない。どこかアタマの後ろの方で「栗入りよ~」の声を聞きつつ、わざと厚めに切る。食べてみると、まぁ、これが。たっぷりと入った新栗はほくほくと甘く、蒸された餡は、煉羊羹よりもやわらかく甘さも少し控えてあって1)、その分栗が引き立つ絶妙なバランス。これこそ掛け値なし、栗の入ったほんものの「高級品」だった。

1 賞味期限も煉羊羹よりも短い。

フレンズ(レベッカ)

レベッカは、1984年デビュー。85年にリリースした4枚目のシングル「フレンズ」と同曲を収録した4枚目のアルバム「Rebecca IV – May be Tomorrow – 」で大ブレイクする。デビュー曲「ウェラム・ボートクラブ」では、木暮武彦1)のギターがドライブするロック色の強い曲調だったが、2曲めの「ヴァージニティ」以降は、キーボードの土橋安騎夫中心のサウンド作りにシフトしていく。

女性ボーカルのロックバンドは、ともすると、そのボーカルにだけスポットライトが当たり、他のメンバーは単なるバックバンドとして「その他大勢」的な受け止められ方をすることが多いため、バンドとして一体感を保って活動していくのは難しい側面がある。レベッカでは、キーボーディストがメインのコンポーザー兼バンドリーダーとして全体をまとめることで、バンドとしてのアイデンディディを失わずに活動できたのだと思う。

NOKKOのボーカルは、小柄な身体から危うささえ感じさせるパワーとパッションが溢れ出すようなスタイル。歌詞の世界も、可愛らしさ、はかなさ、ずるさ、切なさ、脆さ、悲しさ、不器用さといった女性の感情2)を生き生きと表現している。

キーボードは、80年代ポップスの王道とも言えるシンセサイザー中心のサウンド。そこに歪み系のギターが、メロディの隙間を埋めるようなカッティングやリフでロック色を加える構成になっている。「フレンズ」は中間部のギターソロが絶妙なフレージングで曲全体を引き締めていて、サビのボーカルへの橋渡しも見事だ3)

レベッカというバンドは、僕にとっては同時代ど真ん中のバンドだった。86年に早稲田大学の学園祭、文学部キャンパスで行われたシークレットライブのときにも、偶然すぐそばにいて、間近で見ることができた4)。2015年8月19日に横浜アリーナで行われた再結成ライブにも行った。実を言えば、NOKKOの歌い方がソロ・アルバムでは80年代レベッカのときとはかなり変わっていたのでどうかな、と思っていたのだが、それは杞憂に終わった。かつてのストレートなパワーは、円熟味とブレンドされて、今のNOKKOが存分に表現されていたし5)、全盛期のメンバーで構成されるバンドの演奏も、タイトであると同時にベテランらしい深みを加えていて、聴き応えのある2時間だった。

1 レベッカ脱退後はRed Warriorsを結成。
2 たとえばプリンセス・プリンセスの歌詞世界が、どちらかといえばポジティブな雰囲気をまとっているのとは対照的に、NOKKOの歌詞はいつもどこかに翳がある。
3 たぶん、当時からレコーディングをサポートしていた是永巧一のプレイなのだと思うが、この曲のリリース時のメンバーだった古賀森男が弾いている可能性もある。
4 僕が所属していた音楽サークルがちょうど文学部キャンパス内でライブをしていた。体育館前の広場にステージが組まれているのを何気なく見ていたところ、ロートタムを使った特徴的なドラムセットを組んでいた。これは小田原豊のセットだと気づいて待っていたら、予想通りレベッカのシークレットライブが始まった。
5 当時そのままを期待したファンにはちょっと不満が残ったかもしれないけれど、昔のようなストレートな発声と、今の少し抑えたような歌い方が一曲の中でさえくるくると入れ替わって面白かった。

南三陸・女川旅行記(3)

5. シーパルピア女川とハマテラス

女川観光の中心は、シーパルピア女川とハマテラスだ。この二つは、名称が別れてはいるけれど、一体のものだと考えて差し支えないだろう。港から女川駅までの間を「レンガみち」という歩行者専用道でまっすぐつなぎ、その両側に飲食店、日用品、食品、お土産などを売る商店、クラフト、カルチャースクール、スポーツ関連などのアクティビティを体験できるお店がエリアを区切って並んでいる1)

レンガみちは広々としていて、周囲のお店を覗きながらぶらぶらと散歩するのは楽しい。お店は比較的早く閉まるので、午後早めの時間から散策するとゆっくり楽しめるはずだ。我々は到着が遅かったせいで、限られた範囲しか見ていないけれど、ハマテラス内にある「おかせい」という鮮魚店が楽しかった。60センチくらいありそうなシイラが500円で売っていたり、旬の獲れたてのサンマがトロ箱の中でギラギラと新鮮な光を放っていたりと、さすが港町の魚屋さん、どの海産物も見るからに新鮮で安い。食堂も隣接しているので、そこで夕食にする。海鮮丼、ほたて丼といった海鮮のどんぶりが何種類かある。たっぷりとしたアラ汁もついてくる。質・量ともに満足。

女川駅舎は女川温泉ゆぽっぽという温泉施設と一体化している。ゆぽっぽの背後には、トレーラーハウスを30棟以上配したホテル・エル・ファロがある。姪っ子ほか、インターンをしている大学生たちは、ここでルームシェアしながら、何週間かのプログラムをこなしているそうだ。エル・ファロはバーベキューや焚き火のできるスペースが設けてあったり、マリンスポーツやトレッキングといったアウトドアのプログラムが充実していたりして、人気の宿となっている。居心地が良さそうなので、泊まる予定のなかった我々も当日飛び込みで泊まろうとしたが、すでに満室であった。残念。

6. 震災遺構

東日本大震災から7年が経った。今回の旅行では、震災や復興というキーワードでものを見ないようにしよう、と思っていた。2011年とそのあと数年は、自分なりにできることをしたつもりではあるけれど、同時に、自ら現場に足を運んで手を動かしたわけではないという後ろめたさもどこかにある。南三陸町も女川町も、地震・津波で最も壊滅的な被害を受けた地域のひとつであり、7年もの時間が経ってから、のこのこと出かけて、こんなに復興が進んだんだなぁ、とひとごとのように眺めるべきではないと思っていた。だから、震災とは切り離して、姪の様子を見に来たついでに町を見て回るんだ、と彼女たちをだしに使って、言ってみれば自分の気持ちの逃げ場を作ったわけだ。

でも、南三陸町に着いてみてすぐに、震災と復興は、今も否応なく町の生活・経済の中心であって、そこには目を閉じて「観光だけ」するなど土台ムリな話なのだとわかった。ひとごとのように眺めてはいけない、などという僕の考えは、それこそ部外者の浅はかなセンチメンタリズムに過ぎなかった。地元で奮闘する人々にしてみれば、とにかく来て、知って、食べて、楽しんで、そして経済に貢献してくれ。それが復興につながるんだ、ということなのだと思う。女川町も全く同じだ。

南三陸町のさんさん商店街から八幡川を隔てた対岸に、鉄骨だけになった旧防災対策庁舎が見える。12メートルの屋上まで津波が達し、最後まで防災無線で避難を呼びかけた遠藤未希さんら多くの職員の方々が命を落とした場所だ。周囲の土地の嵩上げ工事が進み、防災庁舎はその谷間に埋もれるようにぽつんと立っている。さんさん商店街にある全てのお店も、今回泊まった下道荘も、みな元の建物は津波で破壊されたが、それでも地元で再起することを選び、努力している真っ只中だ。

南三陸町から398号線で女川町へ向かうちょうど中間地点には、旧大川小学校が残されている。ここで児童74人、先生10人が亡くなった。北上川河口から5キロの場所。こんなところにまで大津波は押し寄せた。裂くような痛ましさと行き場のない深い悲しみが沈殿した空間は重苦しく、言葉は飲み込まれて何も出てこない。ただただ手を合わせて祈った。

女川町のハマテラスから国道を隔てた海側には、横倒しになった交番がそのまま残されている。鉄筋コンクリート造りの建物が津波で倒壊した世界でも稀な例で、それほどまでに破壊的な津波が押し寄せ、町を壊滅させた。

姪たちがそれぞれ、「何か力になりたい」という若者らしい思いを抱いて、インターンに参加し町と繋がりを作ったことで、僕も少しそのおこぼれにあずかり、長年の勝手なセンチメンタリズムを脱することができたように思う。またぜひ近いうちに再訪したい。

1 デイリーポータルに女川でのホヤ体験ツアーの記事が出ている。

南三陸・女川旅行記(2)

3. 下道荘

今回の宿泊は、民宿「下道荘」(したみちそう、と読む)。これも姪っ子のオススメである。さんさん商店街のある志津川から小さな岬をひとつ隔てた東側、袖浜漁港を見下ろす高台にある。宿のウェブサイトによると、元の建物は津波で流され、高台に移転・再建して2012年2月に再オープンしたそうだ。宿の主人・若主人は漁師で、鮭、ホタテ、タコ、牡蠣、ホヤを始めとする自家採りの海の幸が食べられる。

南三陸域は日本一のホヤ産地だが、実は今までホヤというものを食べたことがなかった。そもそもあまり食べる機会もないけれど、周囲に聞いても、クセがあって苦手だという人ばかりで、積極的に食べようとしなかったこともある。でも今回は、ちょうどホヤのシーズン終盤でもあるし、心中ひそかに期待していた。夕食の膳には期待通りホヤの酢の物がのっている。おそるおそる口に運んでみる、と、貝のような食感に複雑な旨味がひろがる。ホヤ独特の風味は旨味の一部としてきっちりとあるのだけれど、よく言われる「臭み」や「クセ」という表現はあたらない。産地の新鮮なホヤだからこその美味しさなのだろう1)。お膳には、もちろん、ホヤ以外にも海の幸がたっぷりで、のばした箸の先がみな美味しい。こうなると牡蠣も食べたいが、シーズンにはわずかに早すぎて今回はおあずけ。

4. 女川町

二日目は、まずホテル観洋の立ち寄り湯へ。さんさん商店街からは、志津川湾沿いを南下してクルマでわずか3、4分。海沿いの断崖に立つホテルで、津波のときも直接の被害は免れたという。ここには温泉があって、宿泊していなくても820円で入浴できる。志津川湾を一望する露天風呂からの風景はすばらしく、遙か対岸にさんさん商店街のある志津川地区が見える。ゆっくりと温まってから、太平洋沿いの398号線を南下し、女川に向かう。1時間10分から20分くらいのドライブだが、くねくねとカーブが続き、上り下りの多い道なので、クルマに弱いひとは酔い止めを飲んでおくとよい。

女川には、たぶん30年以上前に一度来たことがある。経緯はすっかり忘れてしまったが、金華山神社に行くのに、女川から船に乗ったのだ。漁港を中心にそれを取り囲むように港町が広がっていたのをおぼろげに覚えている。震災で壊滅的被害を受けた女川町もまた復興途上にあるが、その方向性は南三陸町とは少し異なっているように見える。高い防潮堤を作らずに海への眺望を確保しつつ、住居区域は津波が到達しない高台に移し、商業地域は港に近い低地に集中させるという区分けが比較的はっきりしているのだ。

南三陸・女川旅行記(3)に続く。

1 ホヤの味については、さんさん商店街にある山内鮮魚店の熱いコラムが参考になる。

南三陸・女川旅行記(1)

1. 南三陸町

大学生の姪二人がそれぞれ南三陸町と女川町でこの夏インターンをしている。メールやチャットで時折、仕事や町の様子を知らせてくれるのだが、これがとても興味深い。インターンの仕事内容もさることながら、町での生活の様子が楽しそうなのだ。どちらの町も海の幸が豊富な港町で、牡蠣、ほや、たこ、さば、鮭、うにといった名物がずらりと並ぶ。これは二人が現地にいる間にぜひ案内してもらって、美味しいものを食べたい。

南三陸町は仙台から北東方向の太平洋岸、石巻と気仙沼のほぼ中間にある。志津川湾に臨む港町だ1)。首都圏から行く場合には、仙台まで新幹線、そこからクルマを借りて三陸自動車道経由で行くのがよいだろう。仙台からはおよそ90キロ、道中ほとんどが高速道路なので、1時間半から2時間弱の快適なドライブである。

2. 南三陸さんさん商店街

オクトパスくんがマスコット。

南三陸町の観光の中心は、「南三陸さんさん商店街」だ。2012年に仮設商店街としてオープンし、昨年2017年3月3日に、現在の場所(国道45号線と八幡川の間、志津川湾を一望する場所)に本設が完成。隈研吾監修のもと設計されたそうで、誰でも利用できるテーブルと椅子が広々と設置された「さんさんコート」を中心にして、その両側に山側と海側をつなぐように店舗が並ぶ。見通しのよい開放的な商店街で、天気の良い日には、周囲の飲食店からテイクアウトしたものを「さんさんコート」で食べるのも楽しい。

今回の一番のお目当ては「キラキラ秋旨丼」。これは南三陸産の海産物をたっぷり乗せたご当地ブランド「キラキラ丼」の秋バージョン。9月・10月の二ヶ月、町内十数店舗で食べることができる。みな「キラキラ丼」と名がついていても、その中身はお店ごとに違う。それぞれ工夫をこらして特長をだしているので、食べ比べを楽しむこともできる。今回は姪っ子のアドバイスに従い、弁慶鮨の秋旨丼を攻略しようと、11時開店前にお店に並んだ。ドンブリくらいで並ぶなど何をおおげさな、と思うかもしれぬが、週末のお昼時はどこも長蛇の列になるというインサイダー(姪っ子)情報を事前に得ていたのだ。ぬふふ、用意周到とはことことだ。兼好法師も「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」と申されている。

いざ席についてメニューをしげしげと眺めたところ、弁慶鮨の秋旨丼は、だしの効いた炊き込みご飯に、鮭といくらがこれでもかと乗った「はらこめし」で実に美味そうだ。が、しかし。うに、えび、ほたて、いくら、しゃけをはじめとする海鮮オールスターが乗った「海鮮丼」も捨てがたい。20秒ほど熟考熟慮の末、当初のお目当てから乗り換え、海鮮丼を注文した。だってメニューに「迷ったらこれ」って書いてあるのだもの。メニューの文句にうそいつわりはなく、海鮮丼は豊潤で端正で文句のつけようのない美味しさだった2)

さんさん商店街には、ほかにも素敵なものがたくさんある。ひとやすみしたい時には、「オーイング菓子工房 Ryo」の焼きたて「お山のマドレーヌ」と「NEWS STAND SATAKE」でハンドドリップの自家焙煎珈琲を。「ヤマウチ」の鮭の白子や牡蠣の燻製は、お土産にも宿に戻ってからの酒のつまみにも良い。

南三陸・女川旅行記(2)に続く。

1 改めて言うまでもないが、2011年3月11日の大地震では震度6弱を記録するとともに、10メートルを超える津波が襲い壊滅的な被害を受けた。
2 同行者が注文した秋旨丼を味見させてもらったところ、甲乙つけがたく美味しかった。

万平ホテル

高校の頃、家族旅行で遊びに行った軽井沢は、渋滞と人混みばかりで何がいいんだかさっぱりわからなかった。軽井沢銀座は、チープな土産物屋が並び、ぞろぞろと人が列をなして歩いていて、垢抜けた避暑地どころかかえって暑苦しくげんなりするようなところだった。今思えば、ハイシーズンの週末に日帰りで遊びに行っても、そりゃ混むばかりでさぞかしつまらなかったろうな、と当時の自分に同情する。軽井沢はオンシーズンなら平日、もしくはオフシーズンに、泊まりでのんびりしに行くところであって、「のんびり」とはまだ縁遠い元気のあり余った高校生が行くところじゃなかったのだ。

時は流れ、ああ、のんびりしたい!と心から希求するようになった中年男は、駅で見かけたJR東日本の「大人の休日倶楽部」のポスターに心惹かれて立ちどまる。そこには風雅な佇まいのホテルの部屋で、ひとり静かに本を読む吉永小百合が写っていた1)。覚えている人もきっと多いであろうこのポスターの撮影場所が万平ホテルだった。今調べてみたところ、2005年のキャンペーンなので、もう13、4年も前のことだ。以来、僕にとっては、ほとんど、軽井沢に行く=万平ホテルに泊まる、ということになっている。

万平ホテルは、江戸時代から長く続く旅籠「亀屋」を、九代目主人の初代万平が、外国人客の接待もできる宿にすべく、1894年に欧米風のホテルに改装し、名を「亀屋ホテル」へと改称したのがはじまり。日本一の避暑地とも言える軽井沢の、垢抜けた空気の中心となるホテルである。

吉永小百合が本を読んでいたのは1936年に建てられた本館アルプス館の一室。正面玄関のある建物がアルプス館で、入口右手にあるフロントの脇にある階段を昇ると客室に通じる。古い建物だけに、建具などは多少ガタついていて、中庭から虫やすきま風が入ってくることもあるが、そこは部屋全体の凛とした佇まいの前ではご愛嬌。障子の桟の文様や、丸い電灯がなんとも美しい。

バーもまた良い。小さくて一見地味だけれど、歴史と格式あるホテルのバーにふさわしい落ち着いたつくり。チーフバーテンダーの小澤さん2)は有名人で、彼と話をしたくて来るお客さんも多数。とはいえ、御本人は、常連でも、一見でも、若い人でも別け隔てなく接するプロフェッショナルだ。旧メルシャン・軽井沢蒸溜所が閉鎖されたとき、そこで作られていたシングルモルトウィスキーの一部を引き上げてきたらしく、今ではとても飲めないような長期熟成モノを何種類か飲ませてもらったことがある。

万平ホテルは、川奈と同じく「日本クラシックホテルの会」の構成メンバー。もう少し涼しくなったら、訪問したいと思っている。

1 このページの「長野県」のセクションを参照のこと。
2 追分にある「ささくら」と佐久にある「職人館」いう蕎麦屋は彼に教えてもらった。どちらも実に美味しい蕎麦が食べられ、佐久の花をはじめとする地酒を楽しむことができる。

Photograph (Nickelback)

ニッケルバックはカナダのバンドで、95年にチャド・クルーガー、マイク・クルーガー、ライアン・ピークの3人を中心に活動開始。99年にメジャーデビュー後、全世界で5,000万枚以上のアルバムセールスを誇る人気バンドではあるが、日本での人気はまだそれに見合ったスケールには達していないと思う。今年(2018年)のサマソニに出演したし、来年2月には久しぶりの単独来日公演も決まったようなので、遅ればせながら、ここに来て人気が盛り上がりつつあるのかもしれない。

「Photograph」は2005年の曲。僕が聞き始めたのもこの曲がきっかけで、チャドの野太いボーカル1)と美しいメロディが強く印象に残った。ポスト・グランジ、あるいはオルタナティブロックにカテゴリーされることが多いけれど、そこまでゴリゴリとエッジの立った、あるいは、荒削りなテイストではなく、叙情的ともいえる美しいサビのメロディとコーラスは誰にとっても聴きやすいロックだと思う。アメリカで言えば、むしろJourneyとかBon Joviに近いのではないか。とはいえ、グランジやオルタナティブに思い入れを持つ人には、その「わかりやすさ」が過剰な「売れ線」狙いに見えるようで、大量のアンチを生み出している2)のに加え、チャドが「炎上上等」的なコミュニケーションでそこで火に油を注ぐのも、もはやこのバンドの特色とさえいえる。

「売れ線」と言われようが、メロディの美しさとボーカルの力強さ、コーラスの美しさはこのバンド最大の魅力だろう。バンドサウンドはタイトで引き締まった音作りをしており、ギターもがっつり太いディストーションサウンドとアコースティックをうまく組み合わせている。でも、ギターソロやスリリングな掛け合いはほとんどないに等しく、80年代のハードロックファンとしては、そこがどうしても物足りない点であり、今ひとつのめりこめない原因でもある。

1 発声の仕方が、爆風スランプのサンプラザ中野にちょっと似てる。よくこの声の出し方で潰れないなと感心する。
2 Barksの記事によると、カナダの地方警察署が2016年のクリスマスに、「飲酒運転で捕まえたらバツとして刑務所に向かうクルマの中でニッケルバックを聴かせる」とFacebookに書き込んだりしたらしい。