階級闘争

高度経済成長時代に建設された、いわゆる「ニュータウン」という大規模団地群で育ったせいか、みんな同じ、みんな平等、という感覚をごく自然に吸収しつつ大人になった。周囲はみな、ほぼ同じ間取りに住む、同じような家族構成の、同じような収入の家で、土地に根付いた古くからのシガラミもない。新しい街、近代的な明るい生活、といった空気が満ちた平和なコミュニティであった。経済的には、我が家はかなりつましい生活の家ではあったけれど、世の中の「一億総中流」の流れに乗って、カネのあるなしもそれほど意識させられることもなかった。

長じてからも、そうして刷り込まれた感覚はあまり変わらず、普段は概ね心安らかに暮らしているわけだが、年に数度、「階級」の壁に直面する。そう、国際線の飛行機である。ご存知の通り、飛行機にはあからさまに「階級」が設けられており、待遇が天と地ほどに違う。個人で遊びに行くならともかく、出張なんだからビジネスクラスに乗せてくれよと思うが、なんだかんだと様々な条件があって、10回に9回はエコノミークラスでチケットを手配することになる。青雲の志に燃えた若い頃は、エコノミー大いに結構、海外出張というだけで鼻息も荒く、勇んで出かけたものだが、慣れと老いとは恐ろしいもので、もはや飛行機の中で満足に眠ることもできなくなり、4時間以上のフライトはもう苦行であって、飛行機を降りた時点ですでに疲労困憊、もはや仕事をする体力も気力も残っていない。

ごくたまに、何度も利用するエアラインだったりすると、どういう加減か、チェックインカウンターあるいは搭乗ゲートで、ピンポーンという軽やかなチャイムとともにエアラインの制服を着たにこやかな女神が現れ、アップグレードチケットに交換してくれるという僥倖に恵まれる。でも、ほとんどの場合何も起きず、ないとわかっていながら毎度アップグレードを期待してしまう自分の浅ましさに自己嫌悪を抱きつつ、ドナドナと長い列の後ろに並んで、狭苦しくむさ苦しい最後部セクションに誘導されることになる。

ビジネスとエコノミーのあからさまな待遇差は、もちろん機内だけではない。預け入れ荷物の個数、チェックインの順番、ラウンジ利用の可不可。仕事の場合、ラウンジが使えないのはときに致命的で、一度、ロンドン・ヒースローで天候不順のために乗るはずだった飛行機がずるずると遅れ、結局7時間も空港内を電源とWifiを求めて彷徨うハメになったこともある。こういう目に遭うと、カネ払いの問題だとわかってはいても、おかしいやないか、不平等やないか、と階級闘争に目覚めそうになる。

最近では、やっとわずかに「諦め」という名の「悟り」をひらき、以前よりは心安らかに飛行機移動の時間を過ごせるようになった。コツは、機内食は原則食べない、無理に眠ろうとしない、ことだ。機内は、読書と映画と音楽と書き物の時間と決めて、ジタバタしない。なんだったら瞑想を加えてもいい。ジェイソン・ボーンのシリーズ4作1)を一気に見ようとして眼精疲労で寝込むといった失敗をしつつも、このコツを何度か繰り返すと、だんだんそれが身について馴染んでくる。面白いことに、機中をわざと空腹で過ごすと、到着後も体調が良く、時差ボケも軽く済むことが多い。

1 スピンオフ的な位置づけの「ボーン・レガシー」(主演はマット・デイモンではなくジェレミー・レナー)を入れれば5作ある。

スイカ

子供の頃、スイカのタネを食べると盲腸になる、と言われた。消化されずに腸まで流れていったタネが盲腸にたまってお腹が痛くなるのだ、というもっともらしい理屈がついていたせいもあって、しばらくのあいだ何となく信じていた。

11歳のときのこと。週末に友達と遊んでいたところ、突然お腹が痛くなった。いつもの腹痛とはちょっと違う。慌てて家に帰ったが、次第に吐き気までしはじめた。しばらくうんうんとうなっていたけれど、状態はどんどん悪くなってゆく。普段はあまり病院に行けと言わない母親が、何かを察したのか、すぐに僕を病院に連れて行った。幸運なことに、家の近所に大きな総合病院があり、そこが休日診療をしていたのだ。

当直の医者は「これはまず間違いなく盲腸ですね」と言った。熱も高かったので、そのまま入院。手術をするには週末で準備が整わないので、週明けの月曜日に散らす1)か手術をするか最終的に決めましょう、ということになった。

月曜日に改めて診察をした別の医師は、実に軽い調子で「うん、切ろか」と大阪弁で言った。僕としては手術はコワいし避けたかったけれど、なにせ調子が悪すぎて抵抗する元気もなく、小学生では言われた通りに従うしか選択肢はない。

手術室はドラマで見たまんまのあのランプが沢山ついた照明が天井から下がっていた。全身麻酔で眠っているうちに終わるものだと思っていたら、「まぁ、5年生やったら我慢できるやろ」と腰椎麻酔2)をされた。これは今でも人生の中で最大の激痛として君臨している。下半身だけの麻酔なので、幸か不幸か意識ははっきりしている。「では始めます。」のあとに医者が「手術も久しぶりやな」とぼそりと言った。

手術中は腸がひっぱられるせいか、胃がひきつれる感じで苦しく、30分くらいで終わると言っていたものが、どういうわけか1時間以上かかって終了した。麻酔が切れたあとが最悪で、ベッドの上で七転八倒。最大量まで鎮痛薬を飲んだり打ったりしても、痛みは収まらず、とにかく苦しんだ。

それでも少しうとうとと眠ったのだろうか。ふと目を覚ますと、パジャマが湿っぽい。汗でもかいたのかと思ったが、それにしてはぐっしょりしている。毛布をめくってみると、お腹の右側から背中にかけて、真っ赤というよりどす黒く血が染みて滴らんばかり。うわ!とパニックしながら、ナースコールのボタンを押すと、看護婦さんが駆けつけ、すぐに例の医者が呼ばれた。医者は「あ~、やっぱりひと針足りんかったかな」とぶつぶつ言いながら、その場で手術針と糸を持ってこさせ、麻酔もなしに縫って去っていった。

翌日だったか2日後だったか、回診に来た医者が、「盲腸、見る?」と出し抜けに言った。ポケットから両側を糸で縛られたソーセージのようなものを取り出してブラブラさせながら、「盲腸って小指の先くらいの大きさやけど、それがこんなに腫れてた。あと半日遅かったら、破けて腹膜炎を起こしてたかもしれんな。ギリギリ助かってよかったなぁ。」とにこやかに言った。

切り取られた自分の盲腸がぶらぶら揺れるのをみながら、あの中にスイカのタネが詰まってたらオモロイな、と思ったけれど、口にする元気もなく、はぁと気の抜けた返事をした。

1 手術せずにクスリ(たぶん抗生物質)で治療することを「散らす」と言った。
2 今、腰椎麻酔をするときには予め腰椎付近に麻酔をかけてから、さらに腰椎に半身麻酔用の注射をするらしい。記憶違いかもしれないけれど、その予備の麻酔を打たれた覚えがない。背を丸めてひたすら我慢したが、本当に死ぬかと思うほど痛かった。

川奈ホテル

川奈といえばゴルフをする人には名門コースとしてお馴染みだろう。海沿いに富士コースと大島コースの二つがあり、富士コースはフジサンケイレディスクラシックが開催されるので名高い。でも、川奈ホテルは、ゴルフをしない人にとっても十分楽しめるよいホテルである。

このホテルは別エントリに書いた赤倉観光ホテルと同じく、大倉喜七郎が建てたホテルのひとつで、1936年に開業。やはり喜七郎の美学が色濃く残された格式あるクラシックホテルである。建築士も同じく高橋貞太郎1)。くすんだ赤い色の屋根に白い壁、リゾートでありながら、浮ついたところのない落ち着いた雰囲気が赤倉2)と共通している。ロビーやライブラリといった内部の佇まいも、両ホテルともに共通した静謐さと美しさを湛えている。2002年の経営破綻後は大倉直系を離れ、プリンスホテル傘下で運営されている。

2018年3月に海側の客室47室がリニューアルされた。今回は2日ほどぽっかりと空きができたのでふと思い立って、そのうちのひとつ、スーペリアツインに宿泊してみた。部屋は四階で、窓から外を見ると、ゴルフコースの木々の向こうに相模灘がいっぱいに広がり、大島がすぐ近くに見えて、東京湾を出入りする大型船が遠くに浮かんでいる。気分がゆったりと解きほぐされるような眺望だ。そういえば、前回は禁煙専用の部屋がなく、部屋の清掃消臭で対応していたとはいえ、やはりどことなくタバコ臭いと感じることがあったが、このリニューアルから禁煙室が設定されて、非喫煙者が安心して泊まれるようになった。

温泉施設(大浴場)のブリサ・マリナもよい。浴室は広くて清潔。室内、露天ともに大きな浴槽が備えられていて、ドライサウナ、水風呂もある。男性用が二階、女性用が三階で、日の出から夜中まで入ることができる3)

プールは屋外で夏季のみだが、手入れの行き届いた芝の庭に囲まれて、大中小と深さの異なる3つのプールがある。このホテルは、公営水道ではなく、赤城山からの水を引いて自家浄水して使っているそうで、普通のプールに比べて水がさらりとしていて透明度が高い(ような気がする)。何より平日であれば、それほど混まないので、時折水に入って体を冷やしつつ、プールサイドで本を読んでのんびりできる。

電車でのアクセスがよくないのは赤倉と同じ。これは高級リゾートとして、あえてそのように作られている。東京圏からクルマで行くと、小田原、熱海、伊東を抜ける135号線を使うことになるけれど、週末は渋滞することが多いのでそれを上手に避けたいところ。伊東の先から川奈までは道が急に細くなり、対向車とすれ違うのもやっとというところが何箇所かあるのでご注意。

ところで、このホテルは「日本クラシックホテルの会」に加盟する9つのホテルのひとつで、9つのうち4つに泊まるとペアの食事券、9つ全部に泊まるとペアの宿泊券がもらえる「クラシックホテルパスポート」というプログラムをやっている。この中の6つには行ったことがあるけれど、行ってみて損のない名門ホテルばかり。コンプリートするにはあと3つ。でもこれが東京から行くにはちょっと難度が高いロケーションにある。パスポート期限の3年以内になんとか訪れてみたいものだ。

1 僕が心惹かれる建物はこの人が設計しているものが多い。前田侯爵邸や学士会館などもこの人の作品。
2 赤倉観光ホテルのオリジナルの建物は1965年に焼失しており、現在のものはオリジナルを模して再建されたもの。
3 かけ流しなどではなく、泉質的には特筆すべきものはない。途中、午前11時から午後1時までの2時間はクローズ。

熱いうちに食べよ

有名な話だが、池波正太郎は、天ぷらについてこう言った。

てんぷらは、親の敵にでも会ったように、揚げるそばからかぶりつく。鮨の場合はそれほどでもないけど、てんぷらの場合はそれこそ、「揚げるそばから食べる……」のでなかったら、てんぷら屋なんかに行かないほうがいい。そうでないと職人が困っちゃうんだよ。(男の作法(新潮文庫))

実はピッツァも同じで、出てきたら熱いうちに脇目も振らずに食べるのが正しいのだ、とランチに行ったナポリピッツァのお店で教わった。ゆっくり会話でも愉しみながら、なんてチンタラされたんじゃ、せっかくの熱々ピッツァが駄目になっちまうぜ、とナポリっ子が江戸弁でまくしたてるくらいのものなのだそうだ。知らなかったが、そのお店の熱々のピザにかぶりつきながら聞くと、たしかにその通りだと思う。いつだったか「冷めたピザ」と揶揄された首相1)がいたけれど、冷たくなってチーズも生地も固くなりかかったピザなんて美味しくない。とろりとチーズが溶けている熱々のところを、薪のスモークが香る熱々の生地と食べたい。

今でこそ高級料理になっている天ぷらは、江戸前鮨と同様、もともと庶民の手軽な屋台メシで、できたてをさっさと食べるものだった。ナポリのピッツァも、薪窯で焼いた出来たてほやほやが真骨頂であって、でも薪窯なんて家にはないから、贔屓のお店に食べに行くものだそうだ。イタリアと日本では食材やその使い方、料理の考え方に似通ったところがあるなぁと常々思っていたけれど、こんなところでも立ち位置が似通っていて面白い。

いつも食べるスピードが速すぎると言われてばかりいるので、こういう食べ物はありがたい。速すぎると言われたら、いやいや、ピザってものはさぁ、とか、池波正太郎がね、などとエラそうに言えるではないか。いやもちろん、熱いうちに食べることと、早食いとは、似て非なるものだというのはわかっているけれど。

1 98年に、ニューヨーク・タイムズが橋本龍太郎の次の首相候補を報じる際、政治アナリストのJohn F. Neuffer 曰く、小渕恵三は “Obuchi has all the pizzazz of a cold pizza”(冷めたピザほどにも魅力がない)と評した、と記事にした。

凛とした人

今日は母の命日だ。61歳で亡くなったのは2001年だから今年でもう17年になる。仕事を引退し、新居に引っ越して、これから楽しい老後の時間をというタイミングで、あまりにも早かったと思う。先日のニュースによると、2017年は女性の平均寿命が87.26歳だったそうだ。平均と比べることに意味があるかどうかは別として、25年以上も短かい生涯だったことになる。早すぎたからなのかどうなのか、その存在感は、今もってなおまるで減ずることがない。墓参に行っても、あの母がこんな田舎の墓の中におとなしくしているわけもなく、忙しそうにあちらこちら出かけているに違いなく、いつも留守宅を訪問している気分になる。日々の暮らしの中でも、ふとしたときに、今日はふらりと我々の様子を見にきているのではないかという気配を感じたりもする。

病気がわかってから、入院するまでひと月あまり。今でも病名を告げられたときのことは昨日のことにようによく覚えている。カンファレンス室で医者が見せたレントゲン写真は、医学部の教科書にサンプルとして出てくるような、見事な末期がんの様相で、あってはならない白く輝く星が、肺一面に星座のように広がっていた。それでも、本人は、その深刻さを知ってか知らずか、少なくとも僕ら息子たちの前では、つねに前向きな姿勢を崩さず、泣き言めいたことも一切口にせず、どんなときも凛とした母親でいた。

亡くなる前々日、病院の向かいにあるホームセンターで、ちょっとした買い物をしているときに、酸素マスクをつけているはずの母から携帯電話がかかってきた。あわてて出ると、お世話になった看護婦さんたちにお礼がしたいので、プレゼント用のハンカチを買ってきてくれ、という。さっきまで痛み止めのモルヒネで眠っていたはずの人から、予想外のタイミングでの電話と頼みごとに、その時はつい笑ってしまった。今思えば、彼女は自分の死が近いことを悟っていたのだろう。たしか、買って帰ったハンカチをちゃんと自分で渡してお礼を言ったのではないかと思う。いつも自分のことより人のこと、何事もきちんとしたい人だったが、最後の最後までそれを貫き通した。

二日後の早朝に、母は静かにその生涯を閉じた。その年は、今年と同じ猛暑で、とにかく毎日暑かった。灼けつくような日差しの眩しさに、あの夏を思いだす。

困ったときのパンダ

出張の楽しみでもあり頭痛のタネでもあるのが食事だ。複数人いればいいけれど、一人で食事をしようと思うと、とくに欧米ではなかなかに苦労する。なぜ苦労するかといえば、おひとりさま向けにいいお店がないからである。

日本だと、たとえば寿司屋、天麩羅屋、蕎麦屋。おひとりさまでも堂々と入って、それなりの金額で、ある程度ゆっくりと食事を楽しむことができる選択肢がある。でも、たとえばアメリカにはそういう選択肢があまりない。ハンバーガーかピザのチェーン店1)でプラスチックのトレイを前にもぞもぞと食べる、あるいはテイクアウトしてホテルの部屋でもぞもぞするのがせいぜいであって、そうなると、我々の感覚では、食事というよりは単なるエネルギー補給といった趣になり、これが連続すると気持ちが荒み、世を儚んで仕事に行きたくなくなり、「咳をしても一人」などと尾崎放哉の句を諳んじ始めたりする。

ハンバーガーやピザがなぜ侘しいのかといえば、日本人にとってはあまり夕食の体をなしていないからだろう。夕食の期待値として、一汁三菜とまではいかなくてもせめて一汁二菜くらいはほしい。コメか麺は主食として確保したいし、そこに熱い汁物と湯気のたった(あるいはキュッと冷えた)おかずが一品か二品ほしい。この切なる欲求を、納得できる金額内で何とか叶えてくれるのは、アメリカではパンダなのであった。

パンダというのは、パンダの絵の入った丸いロゴでお馴染み「パンダ・エクスプレス」である。中堅以上の都市なら、デパートや商業施設のフードコートに必ずと言っていいほどある2)。仕組みは至ってシンプル。炒飯か焼そばを選んで、そこにおかずが2品または3品3)つく。おかずはカウンターで見て選べる。あとは、スチロール容器に盛り付けてもらうだけ。汁物が欲しい場合には、たいてい酸辣湯かコーンスープがある。まさに一汁二菜がここに確保されるわけだ。持ち帰ってもいいし、その場で食べてもよい。もちろんお手軽中華料理だから、味はそれなりだけれど、価格とのバランスを考えれば悪くない。

ニューヨークに限れば、最近では、大戸屋や一風堂、つるとんたんや牛角など、日本の人気店も進出していて人気だけれど、日本よりも高級路線をとるせいもあってドル建てのお値段は少々高めだ。さらにチップを払うので、トータルするとけっこうな金額になる。東京に戻れば、同じものが安く、いくらでも食べられるからなぁ、と思うと、さすがにちょっと躊躇する。

1 ニューヨークの場合には、徒歩で行ける小さなデリがほうぼうにあって、サラダやスープ、ご飯ものや麺なんかもテイクアウトできるのはありがたい。その他の都市ではなかなか難しい。
2 アメリカを中心に1,900店舗もあるらしい。日本にも2つあるようだ。
3 ひとつはパンダエクスプレス名物「オレンジチキン」を試してみることを勧める。けっこう美味しい。

Who’s Crying Now (Journey)

ニール・ショーンは、僕がエレキギターおよびハードロックにどっぷりとハマるきっかけとなったギタリストのひとりだ。初めて聴いたのは高校生の頃、81年の世界的ヒットアルバム「エスケイプ」。「オープン・アームズ」1)や「ドント・ストップ・ビリーヴィン」2)など今も演奏される名曲満載のアルバムだが、この中に収録されている「時の流れに」(Still They Ride)のギターソロを聴いて、おお!なんだこりゃ!と引き込まれた。

世界的な人気を獲得した「エスケイプ」とそれに続く「フロンティアーズ」の成功は、しかしながら、皮肉なことに多くの「アンチ」も生み出すことになり、売れ線すぎるだの産業ロックだのとその後長々と批判されることになった3)。そんな中でも、ニール・ショーンのギタープレイは、今に至るまで全くブレることなく、美しいオーバードライブサウンド、楽曲の鍵となる印象的なスローフレーズと時折繰り出される超高速の速弾きの組み合わせ、ドライブ感あふれるバッキング・リフとボーカルの合間に挿入される格好いいオブリガートを聴かせてくれる。

「クライング・ナウ」(Who’s Crying Now) は、雰囲気のあるピアノのイントロで始まるミディアム/スローテンポの曲。ギターソロは曲の終わりにアウトロとして出てくる。ソロの最初の繰り返しフレーズがとても印象的で、曲名は知らなくても聴けばわかる人も多いのではないだろうか。スタジオ録音ではかなり抑えたプレイが収録されているが、ライブでは自由奔放に指の走るままに弾きまくっていて格好いい。

ジャーニー、とくに「エスケイプ」以降のアルバムでのプレイは、バンドサウンドでのギターの役割を相当意識していて、「俺のギターを聴け」的に突出しないように注意を払っている印象がある。けれど、15歳でサンタナに見出されてプロデビューした才能はダテではなく、音楽的な引き出しの広さと深さは驚異的で、ラテンっぽいノリから、ブルージーなもの、ハードロックの王道的なもの、さらにはジャズ・フュージョン的なアプローチまで何でもできる上、全て「ニール・ショーン節」に溢れているのがスゴイ4)

当日配布していたカイロ。ベタすぎるダジャレに脱力。

2017年2月7日に武道館で行われた特別公演(『エスケイプ』『フロンティアーズ』の全曲演奏)に行ったが、予想以上に素晴らしい演奏5)でビックリした。ニール・ショーンのいわゆる「手くせ」のような速弾きフレーズもほぼ完璧に再現していて、あー適当に弾いたわけじゃないのね、と今更ながら感心。現ボーカルのアーネル・ピネダは、スティーヴ・ペリーを忠実になぞって原曲の雰囲気を損なわないようにしつつも、若さ6)ならではのパワーが加わり、文句のつけようのない出来だったと思う。

1 マライア・キャリーもカバーした。
2 映画化もされたブロードウェイ・ミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」はこの曲が主題になっている。
3 「産業ロック」という言葉は渋谷陽一が使った悪口だが、アメリカでもロックバンドとしてはなかなか正当に評価されなかった。しかし、ついに昨年(2017年)ロックの殿堂入りを果たした。
4 ジャーニー以外では、サミー・ヘイガーとのプロジェクトで、HSAS名義で作ったアルバム(『炎の饗宴』原題:Through the Fire)、ヤン・ハマーとのソロアルバムなどがオススメ。またヘヴィメタル版「ウィ・アー・ザ・ワールド」とも言える「Hear’n Aid」でのギタープレイも貫禄に溢れている。
5 ドラムにスティーブ・スミスが復帰して、Voのアーネル・ピネダ以外はアルバム発売時のオリジナルメンバー。
6 まぁ、若いって言ってもアーネルももう50歳。ジャーニーに加入して早くも10年が経つ。

レ・ミゼラブル

子供の頃から長い間、ミュージカルに無関心というより積極的に敬遠してきた。大げさな衣装とメイク、大仰な振り付けとヘンに物語調の歌詞。あんな気恥ずかしいものを見るヤツの気がしれぬ、と思っていた。

ところが、20代の終わりにニューヨーク・ブロードウェイで「レ・ミゼラブル」を見て、うわ、何だこれ、すごい!と目からうろこが落ちた。ごっそりと落ちた。ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」1)(Les Misérables)を原作に、キャメロン・マッキントッシュが制作、クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルのコンビが作曲・作詞を手がけた傑作ミュージカルだ2)。ちなみに、2012年にヒュー・ジャックマンが主演した映画「レ・ミゼラブル」は、オープニングの設定など細かいところに多少の違いはあるが、このミュージカルの映画版である。

物語の主人公は、ジャン・バルジャン。19年の服役から仮釈放されたものの、前科者として世間から受ける冷たい仕打ちに耐えかねて、彼は教会から銀の食器を盗んでしまう。再び憲兵に捕らえられるが、教会の司教は「食器は彼に与えたものだ」と嘘をついて庇い、さらに2本の銀の燭台も彼に与え「この銀の燭台であなたの魂を神のために買ったのです」と諭す。バルジャンは司祭の気持ちに打たれ、真人間として生きていくことを決意する。そのバルジャンを執拗に追うジャヴェール警部。そこに、フォンティーヌ、その娘コゼット、テナルディエ夫妻とその娘エポニーヌ、マリウスや社会正義に燃えて革命に立ち上がろうとする若い貴族達が交差し、人が生きる意味、愛、情熱、階級と社会、成功と没落、神との対話など深淵なテーマを扱う大河のごとき物語が展開する。ユゴーの原作は、あまりに長く、飽きずに読み通すのは至難の業だと思うけれど、ミュージカルはそのエッセンスをうまく抽出して全く飽きさせない。

舞台装置やその転換の妙、演出の巧みさなど語ればキリがないけれど、何よりも素晴らしいのはその楽曲だ。メロディのシンプルな美しさは見事で、いくつかの共通のモチーフが、まったく異なるシーンで、調やアレンジを変えて何度も現れ、全体の統一感と変化をうまくバランスさせ、場面の意味づけを際立たせる。

94年にブロードウェイで初めて見てから、ブロードウェイで15回以上、ロンドンで5、6回、日本で1回、合わせて20数回はこのミュージカルを見たことになる。これだけ繰り返し見ても、全く飽きることがない。ほぼ全編諳んじて歌えるくらい全ての場面を詳細に覚えているにもかかわらず、いまだに、見ていると何度かじわっと涙ぐむ。まさにパブロフの犬である。あるシーンになると決まって涙が溢れて舞台が霞んで見える。メロドラマを見て毎度毎度泣くおばさんをバカにしてきたが、人のことは笑えない。涙をながすこと、とりわけ自分のことでなく他人のことで涙を流すというのは、経験してみると、なかなかに気持ちのよいものだということがわかる。

好みで言えば、ロンドン公演のほうがブロードウェイ公演よりもよいと思う。ブロードウェイでは、細かな演出や出演者の演じ方・歌い方が、なんというかアメリカ的にストレートすぎて翳がない3)。やはり原作がフランスの物語だけあって、ヨーロッパがその歴史の中で宿命的に抱え込んだ屈折や暗さがこのミュージカルには欠かせない薬味になっていて、ロンドン公演の出演者や演出は、その効き具合が絶妙である4)

1 古くは黒岩涙香の「あゝ無情」の翻案で認知されていたように思うが、最近はすべてこのカタカナ書きになっている。
2 英語版の制作より前に1980年に原型となるミュージカルがパリで初演されているようだ。ロンドン・ウェストエンドでは85年に初演、ニューヨーク・ブロードウェイが87年。
3 同じ制作陣がつくった「ミス・サイゴン」はベトナム戦争をテーマにした物語のせいか、ブロードウェイのほうが良かった。こちらも楽曲が素晴らしい。
4 2012年の映画版はヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウというオーストラリアの二大スターをキャスティングしている。本格的に歌える俳優の選択肢が限られるということもあるだろうけれど、英連邦出身の役者を使ったところは興味深い。

お好み焼き in ロンドン

4、5年前のロンドン出張のときのこと。夕方早めの時間に仕事がすべて終わり、大英博物館近くのホテルの部屋に戻ってきた。出張の最終日ということもあって、もう社内外の人と会う約束もなく、ひさしぶりに一人でのんびりできる時間ができた。さて、今夜は何を食べようかな、と思案する。

アメリカも含めた西欧圏への出張で悩ましいのは、ちょっといいものを食べよう、いいレストランに行こう、と思っても、一人で行くのは事実上困難ということである1)。ディナーという「社交」の場は、基本は二人連れかそれ以上の人数、というのがお約束。テーブルクロスのかかっているようないいお店で、男一人で食事をしている姿なんてまず見ない。そのため、いきおい、一人の食事は、ホテル内のレストランとかルームサービス、あるいはデリとかそのへんのテイクアウト系のお店でピザなんかを買ってくることになり、部屋でひとりPCの画面を眺めながらもそもそ食べるという、傍から見ると、寂しき中年男みたいなことになる。

ホテルのルームサービスはもう散々食べたし、その晩はまだ時間が早いこともあって、外に出たかった。和食なら一人でも別段おかしくないだろう、ということで、日本食系統のお店をつらつらと検索していたところ、歩いてほんの数分というところにお好み焼き屋がある。おおこれはよさそうじゃないの、と喜んで早速出かけてみた。

お店はすぐにわかった。小さな入口の脇に赤いちょうちんがかかっている。ディナータイムに店を開けたばかりだったようだ。応対に出てきてくれたうら若い可愛らしい女性に、予約ないんだけど入れるかな、と聞いてみると、ちょっと困ったような顔でお待ち下さい、と一旦奥に引っ込んだ。戻ってくると、今から1時間だけでよければ、と言う。聞けば、バレンタインの予約でいっぱいだそうな。そうか、今日は2月14日、バレンタインデーだったか。

もちろん1時間もあれば十分なので、ビールを頼み、お好み焼きを頼んだ。お好み焼きはなんと麺の入った広島風のちゃんとしたもののようで、広島でお好み焼き屋をやっていた人がお店のオーナーらしい。応対してくれた女性は、英語のアクセントからすると地元の大学生という感じで、いま日本語を勉強中だそうだ。

ビールが一本空いたくらいのタイミングで、熱々のお好み焼きが運ばれてきた。ソースとかつお節のいい香りが鼻孔をくすぐる。和食が恋しくなりかけていたタイミングだったのもあって、なんとも美味しそうだ。件の女の子が「マヨネーズかけますか?」と聞いた。もちろん「お願いします」と答える。すると、彼女はにっこり笑って、白いマヨネーズのチューブを絞った。

ハートマーク♡

秋葉原のメイド喫茶かなんかの情報が、間違ってはるばるロンドンまで伝わってるんじゃなければいいな、と思いつつも、どこかほっこりと心温まるバレンタイン・ディナーだった。

1 日本でもフレンチやイタリアンの高級店にオトコ一人でいくということはないけれども、寿司屋とか蕎麦屋なら一人でも問題ないと思う。

四万六千日分の功徳

7月9日、10日は浅草寺の「四万六千日」という縁日だ。本尊である観世音菩薩の縁日には「功徳日」といわれる特別な日があり、その日に参拝すると、100日分、1,000日分などの功徳が得られるとされている。7月の功徳日はそのうちでも群を抜いて「特別」で、この日にお参りをすると、4万6000日分の功徳があるらしい。126年分である。根拠は知らぬが1)盛り過ぎだろう。ここまでくると、あまりのいい加減さおおらかさに、マナジリを釣り上げて「どういうこと?」と問い詰める気も起きない。室町時代に始まったというから、かれこれ600年ほど前のマーケティングにいまだにうかうかと乗せられ、あーあと気の抜けた半笑いを浮かべつつ、つい行ってしまう。もう何度か行っているから、多分、400年分近い功徳を積んだはずなのだが、まだその威力を実感するには至っていない。

本堂で30分おきくらいに行われる、15分ほどの読経に行くと、お堂のそこここに、真剣な表情で一心に祈る人、頭を下げ目を閉じてお経に聞き入る人がいる。高齢の人も、中高年も、若い人もいる。きっとみな、僕らと同じく、日々働き慎ましく暮らす人々で、暮らしの中の小さな悩みや願い、あるいは感謝を心に浮かべているのだろう。功徳4万6000日分の大盤振る舞いという滑稽さの一方には、庶民のささやかでまじめな祈りが込められていて、なんというか、人の温もりや地に足の着いた生活感のようなものも、そこには同時に漂っているのだった。

この両日、境内では、ほおずき市がたつ。ほおずきの鉢植えが所狭しとならべられ、鮮やかなオレンジと緑が参道を彩って夏らしい風情になる。

1 米一升が46,000粒だとか諸説あるようだが、そもそもなぜ米一升分なのかなど謎が増える。