空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
角幡唯介 著(集英社)

ツアンポー峡谷はネパールの東隣のブータンから更に北東方向に300キロあまり、チベット高原を流れる大河ツアンポー川がヒマラヤ山脈を突きぬけるときに削られ穿たれたチベット東部の険しい峡谷地帯のこと1)。グランドキャニオンを遥かに凌ぐ規模の大峡谷だが、チベットの奥深く、中印国境の政治的にデリケートな位置にある。「空白の5マイル」というのは、1924年に英国のフランク・キングドン=ウオードによる探検以降、この峡谷部に残された人跡未踏の空白部となっている5マイルを指す。著者は、2002年と2009年の2度に渡って、この5マイルのほとんどを踏査するが、2009年には、生死の境での選択を迫られる極限的状況を経験することになる。

生と死の境界線上に立たされた時、私は比較的冷静に事態を受け入れ、混乱せずに対応できる自信があった。しかしそんな自信など噓だった。本当に死ぬかもしれない……。そう言葉に出してつぶやいた時、私は思わず泣きそうになっていた。(第2部 第3章 24日目)

僕自身は、死の危険を伴う「冒険」をしてみたいという欲求を感じたことはない。でも、本書のような大自然に挑む冒険譚を読みたいという気持ちは強い。自分にないものに対する興味かもしれないし、あるいは、ひりひりとした極限状況を読むことで擬似的に隠された冒険への欲求を満たそうとしているのかもしれない。

現実的には別々のかたちをとりつつも、本質的に求めているものは同じだ。いい人生。死が人間にとって最大の リスクなのは、そうした人生のすべてを奪ってしまうからだ。その死のリスクを覚悟してわざわざ危険な行為をしている冒険者は、命がすり切れそうなその瞬間の中にこそ生きることの象徴的な意味があることを嗅ぎ取っている。(エピローグ)

著者も言うように、何をもって「いい人生」だと考えるかは人それぞれで、それに従って「リスク」の取り方も変わる。リスクのとり方というのは、多少皮肉めいた表現をすれば、何を持ってアドレナリンが出て気持ちよくなるか、だろうと思っている。博打、違法薬物、アルコールは言うに及ばず、異性との危うい関係や破産するかもしれないビジネスを回すことでアドレナリンが出る人もいるだろう。冒険家は、(主に)厳しい自然環境に身をおいて、直接的な命の危険を感じることで脳内にアドレナリンが放出され、生の実感を得るタイプなのだと思う。そのプロセスが、何万年に渡る経験を通じてヒトのDNAに深く刻み込まれた「自然」への畏怖・対峙に共鳴するからこそ、こうした冒険が広く読者の興味と共感を呼ぶのだ。

1 ツアンポー川は、グーグルマップでは「雅魯蔵布江」で表示されるようだ。著者が最後にたどり着いた集落はここだと思われる。