ドレイクホテル:シカゴ旅行記 4

アル・カポネが実際にスイートを所有して住んでいたレキシントン・ホテルはすでに取り壊されて残っていない。映画の中でデ・ニーロ演じるカポネが、豪奢なホテルで贅沢三昧に暮らす様子は、シカゴシアター(Chicago Theatre)やルーズベルト大学(Roosevelt University)などで撮影されたらしい。

当時の雰囲気を色濃く残しつつ今も残っているホテルに、コングレスプラザホテル(Congress Plaza Hotel)とザ・ドレイク(The Drake)がある。コングレスホテルは、往時には、大統領や有力政治家がよく宿泊する高級ホテルだった。カポネに繋がりのある裏社会の大物も多く住んでいたらしく、カポネもよく訪れ、頻繁に打ち合わせや晩餐会などを開いたらしい。そのために、犯罪や惨劇と結び付けられることになり、幽霊・亡霊の目撃譚も数多く、今では「シカゴ一呪われたホテル」の異名をもつ1)。ニューヨークのチェルシーホテル以来、この手のホテルに泊まるのは懲りたので、ドレイクの方に2泊ほど泊まってみた。

背景に見える黒いビルがジョン・ハンコック・センター

ドレイクも当時の超高級ホテルで、いまもイタリアルネッサンス様式の荘厳な作りは健在だ。1920年に開業、現在はヒルトン傘下となっている。フーバー、アイゼンハワー、フォード、レーガンといった大統領や、チャーチル、チャールズ皇太子、ダイアナ元妃といったヨーロッパの賓客、そのほか多くの芸能人が宿泊した。マフィア絡みだと、アル・カポネを継いでイタリア系犯罪組織を牛耳ったフランク・ニッティ2)が1930年代から40年代にかけてスイートルームをオフィスに使っていた。シカゴ随一のショッピング街「マグニフィセントマイル」の北端に位置し、シカゴの高層ビルの中でも有名なジョン・ハンコック・センターからわずか2ブロックのところだ。ホテル北側に41号線(ノースレイクショアドライブ)を挟んで、ミシガン湖のオークストリートビーチに面していて、部屋の向きによっては眺めがとても良い。

泊まってみると、全盛期の華やかさを残してはいるものの、衰えは隠しようがない。でもそれは悪いという意味ではなく、歴史の証人として避けがたい運命のようなもので、だからこそ魅力があり、泊まってみたいと思ったわけだ。ロビーや調度品などは丁寧に保守されていて荘厳な建物に見合った威厳のようなものをしっかり守っている。

ところで、泊まっているときには全く知らなかったのだが、このドレイクも、実はコングレスプラザに劣らぬ「心霊ホテル」だったようで、赤いドレスや黒いドレスの幽霊やら何やらが現れるそうだ3)。これを知ってしまった今では、次にシカゴに行く機会があったとして、あえてドレイクにもう一度泊まるかと言われると、うーむと考えざるを得ない。

1 441号室はとくによく「出る」部屋と言われている。このサイトに詳しい。
2 映画では白いスーツの殺し屋役でビルから転落して死ぬが、実際のニッティはカポネの右腕として後を継ぎ、シカゴ・アウトフィットと呼ばれる犯罪シンジケートを組織して暗躍。55歳で自殺した。
3 まぁ、古いホテルには何かしらそういうハナシはあるけれど。このサイトに詳しい。

ミシガンアベニューブリッジ:シカゴ旅行記 3

ネスがマローンに初めて出会うのは、ミシガン通りがシカゴ川を越える橋の上。ネスが就任早々に意気込んでガサ入れした密造酒工場は、事前に情報が漏れてもぬけの殻。新聞に「哀れな蝶々夫人」と揶揄されて意気消沈するネスと、汚職がはびこるシカゴ警察にいながら法を守り執行することを信条にする硬骨の警官マローンが、人通りもない夜のミシガンアベニューブリッジ1)で出会う。

Wikipedia(英語版)によると、橋の建設が開始されたのは1918年。1920年に利用が開始されたが、装飾などが完了したのは1928年とある。映画「アンタッチャブル」は禁酒法時代の終わり、1930年から33年頃ごろの設定と思われるので、装飾工事が完了して間もない頃ということになる。映画では注意して見ないとわからないが、この橋は上下2層構造になっており、二人が出会っているのは下の層だ。

ネスがシカゴ川に紙屑(奥さんがランチを包んだ紙。夫への励ましのひとことが書いてある)を投げ捨てたところを、マローンが見咎めて注意する。自分の失敗に苛立って刺々しく絡むネスに、「一日の勤務を終えたら、無事に生きて家に帰ること。これがシカゴの警官の教訓その一だ。」とマローンが語るところで出会いのシーンは終わる。

シカゴ川を「ト」の字に例えるなら、ここは横棒の真ん中。観光客に人気のショッピング街「マグニフィセント・マイル」の南端にあたり、交通量がとても多い。すぐそばには、2009年に竣工した92階建てのトランプ・インターナショナル・ホテルや、1925年竣工のトリビューンタワー2)、1924年竣工のリグレービル3)などシカゴ高層建築の歴史的、代表的なビル群がそびえている。(シカゴ旅行記 4 に続く)

1 正式にはDuSable Bridgeという名前がついている。
2 元々はシカゴ・トリビューンという新聞などを発行するトリビューンメディアの本社だった。2020年までにオフィスからコンドミニアムに改装されるらしい。
3 ガム会社のリグレー本社。

ユニオン・ステーション:シカゴ旅行記 2

ユニオン・ステーション

映画「アンタッチャブル」のハイライトのひとつが、ユニオン・ステーションでの銃撃戦のシーン。駅の入口からホールに繋がる広い階段で、脱税の証拠を握る帳簿係を隠そう(列車で逃がそう)とするマフィアと、それを阻止しようとするネス(ケビン・コスナー)とストーン(アンディ・ガルシア)の間で銃撃戦となる。そこに赤ん坊を乗せた乳母車が階段から落ちてゆく動きが絡んで、スリリングな名場面となった。アンディ・ガルシアの最高の見せ場である。

シカゴは街中をシカゴ川がちょうどカタカナの「ト」の字を描いて流れている。「ト」の横棒の右端はミシガン湖に接続している。川はミシガン湖から流れ出て西に(つまり横棒を右から左へ)2キロほど進み、そこで南北に分かれる。分岐点から川の西側を800メートルくらい南にすすんだ地点にユニオン・ステーションがある。

 

1913年着工、1925年竣工。現在ではシカゴを発着するアムトラック(長距離列車)は全てこの駅を使い、中西部への一大ハブ拠点となっている。ヘッドハウス(The headhouse)と呼ばれる重厚な駅建物の中に、グレートホール(Great Hall)と名づけられた大理石造りの大きな待合ホールがある。「グレート」に恥じない美しい大きなホールで、駅の待合室と呼ぶにはいささか不釣り合いな荘厳さがある。このグレートホール東側、カナル・ストリート(Canal Street)入り口からの大きな階段が、銃撃戦の撮影現場だ。

映像から想像していたより実物のほうがすこし小さいかな、という印象。でも紛うことなきあの階段である。映画では入り口ドアの上に大きな時計がかかっていたが、それは見当たらない。でも、ネスが立っていた階段脇の一段高くなったスペースに同じように立って、入り口ドアから出入りする人を眺めていると、今にも人相の悪い、ロングコートのマフィア一味が入ってきそうな気がする。現場のちからというのはすごいもので、この階段を乳母車が落ちてゆき、階段の踊り場で、帳簿係を人質にとって逃げようとしたマフィアを、ストーンが見事な射撃で仕留めたシーンが、まるで本当に起きたことのようにリアリティをもってよみがえる。(シカゴ旅行記 3 に続く)

アンタッチャブルの街:シカゴ旅行記 1

アンタッチャブル

それほど映画を観る方ではないけれど、好きな映画をあげろとなれば、「ゴッドファーザー」(とくに第一作と第二作)、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」といった、「マフィア」を扱った映画がいくつか入ってくる。単にこの手の映画によく出てくる役者が好きなのか、あるいは時代の暗さとダンディズムの組み合わせに何か惹かれるものがあるのか。

中でも「アンタッチャブル」(The Untouchables)は良い。1987年公開だから、僕が大学生の頃だ。当時ビデオまで買って繰り返し見た。主人公エリオット・ネスにケビン・コスナー、アル・カポネ役にロバート・デ・ニーロ、ネスを助ける老警官マローンにショーン・コネリーという豪華な俳優陣。アンディ・ガルシアは、射撃に秀でた若き警官・ジョージ・ストーン役で、ハリウッド俳優としての成功の第一歩を踏み出した。監督はブライアン・デ・パルマ。女性の登場人物はネスの奥さんくらいで、全体にエラく男っぽい映画である。

主演はケビン・コスナーだとはいえ、これはショーン・コネリーの映画である。いや、正確にはショーン・コネリーとロバート・デ・ニーロの映画だ1)。キャラクターの存在感、深さ、狂気、滑稽さ、弱さ、強さといったものを、この二人がそれぞれに遺憾なく発揮していて見飽きることがない。アルマーニによる衣装がまた見事だ。みなダークスーツに中折れ帽。スーツ(あるいはジャケット)の着こなしの格好良さでは、ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドといい勝負だと思う。

「アンタッチャブル」の舞台は禁酒法時代のシカゴ。2年ほど前(2016年)に、シカゴに出張する機会があったので、撮影に使われた場所をいくつか訪ねてみた。(シカゴ旅行記 2 に続く)

1 もうひとり、フランク・ニッティという白いスーツの殺し屋がいて、ビリー・ドラゴが演じている。この人もコスナー以上の存在感を放っている。

MOVE(上原ひろみ・ザ・トリオ・プロジェクト)

ジャズ、それもギターの入っていないジャズにはほとんど興味を惹かれることはないのだが、このトリオだけは別。なんせドラムがサイモン・フィリップス御大なのだ。サイモン・フィリップスといえば、ロック、ハードロック分野のビッグネームとの共演で広く知られている。ジェフ・ベック、マイケル・シェンカー、ゲイリー・ムーア、ジューダス・プリースト、ホワイトスネイク、ミック・ジャガーなどなど挙げればキリがない。セッション以外では、急逝したジェフ・ポーカロの後任としてTOTOのドラムを2014年まで20年に渡って担当。ジェフ・ポーカロの、端正で繊細なドラムにとって代われるとしたら、サイモンしかいない、とファンの誰もが納得の人選だった。

この人が叩くと何かが違う。ドラミングの切れ、タイトさ、グルーブ。曲とバンドをもうひとつ上のレベルに押し上げる何かがある。常人離れした技術1)を持ちつつ、でも同時に、そのドラミングはどこまでもストレートで、出しゃばりすぎることなく、余韻と余裕を残している。

そのサイモン・フィリップスをドラムに、アンソニー・ジャクソンをベースに配した上原ひろみのプロジェクトがザ・トリオ・プロジェクト。このトリオのライブを国際フォーラムとブルーノート東京で観たことがあるけれど、もう圧巻の一言。上原ひろみのピアノは、若さのパワーが漲っていて、アタックの効いた強い音から、優しく繊細な音まで表現の幅が広い。それを円熟のおっさん二人が盛りたて、いなし、煽り、押さえながら、それぞれが超絶プレイで応える。ジャズらしい変拍子がくるくると入れ替わる曲2)も、一瞬たりともグルーヴが途切れることなく、大きなうねりが会場を包み込む。ジャズというより、ロック的なグルーヴに近いかもしれない3)

コンサートを観に行くと、自信過剰にも、僕も死ぬほど練習すればこのくらい演奏できるようになるかな、などとぼんやり考えたりすることがある。でも、この3人の場合、同じ「ヒト」の地平にいるとはとても思えず、どう逆立ちしてもこのレベルに到達することなど想像すらできない。

1 一応右利きのようだが、左でハイハットを操るオープンスタイル。ツーバスも左右両方で魔法のように複雑なビートを刻むので、プレイを見ていてもどこを叩いて音が出てきているのかわからず手品を見ている気分になる。
2 あれだけの変拍子の中で、ソロやアドリブパートの終わりに、とくに拍子を数えてる様子もなく、どんぴしゃで3人が合わせられるというのが神業で、もう何がどうなっているのやら。
3 かつてTOTOのギタリスト、スティーブ・ルカサーが「ジャズのセンスでロックする」と言ったが、このトリオでは「ロックのセンスでジャズをする」だと思う。

赤倉観光ホテル

由緒、歴史のあるホテルというのは魅力的なもので、開業当時の時代や世相を今に伝え、また、創業者の哲学や考え方といったものが色濃く残されていることが多い。軽井沢の万平ホテル、日光金屋ホテル、箱根の富士屋ホテルなどが典型だ。赤倉観光ホテルもそんなホテルのひとつで、創建したのは、帝国ホテル、ホテルオークラ、川奈ホテルなどを作った大倉喜七郎である1)

大倉喜七郎が建てたホテルは、そのほとんどに彼のダンディズムが色濃く受け継がれているように見える。大倉財閥二代目として、何一つ不自由なく育ち、英国で教育を受けた彼の、コンプレックスと無縁の品の良さ、美意識、スケール感が今も生きている。

赤倉観光ホテルは1937年創業。新潟県と長野県の境にある妙高山の中腹にあり、高原リゾートの草分け的存在とされている。本館のロビーやライブラリも歴史を感じる素晴らしいつくりなのだが、泊まるには2009年に建てられたSPA&SUITE棟がおすすめだ2)。部屋のテラスに源泉かけ流しの温泉が備え付けられていて、野尻湖を望む絶景を眺めながら24時間温泉に浸かることができる。夜は満天の星空。ここに行くと、バーにちょこっとウイスキーを飲みに行く以外にはほとんど部屋を出ることもなく、買ってきたつまみや弁当を食べ、風呂に浸かり、ベッドで大の字になって本を読み、うたた寝をし、また風呂に浸かり、と、以下好きなだけ繰り返しているうちあっという間に時間が過ぎてゆく。

この日はちょっと曇って雨まじり。

本館からSPA&SUITE棟に入ったところにある展望ロビーも、水盤の使い方が素晴らしく、時間帯ごとに違った表情を見せてくれるので、どれだけいても飽きることがない。この水盤モチーフはそのまま部屋の作りに生かされていて、テラスの浴槽の向こうにも水が満たされており、夏は涼し気な、春・秋は季節の移ろいを感じさせてくれる3)

1 赤倉、川奈ともに2004年に大倉系列から売却されている。赤倉の現オーナーは、米国で持ち帰りずしチェーンAFC Corpを興して成功した日本人経営者。
2 赤倉オリジナルの雰囲気を損なわず、全体としての格調を保っている。2016年にはプレミアム棟もオープン。こちらも良い。
3 冬はSPA&SUITE棟の眼の前の広大な斜面がスキーゲレンデになるようだが、冬は混んでいるので行ったことがない。

Tonight Tonight Tonight (Genesis)

ジェネシスは活動期間が非常に長く、デビューは1969年。乱暴に分けるなら、ピーター・ガブリエル在籍時のプログレ色の濃い時期と、その脱退後、フィル・コリンズがボーカルも兼任するようになってからのポップ路線に分けられるように思う。

86年発売の「インビジブル・タッチ」(Invisible Touch)は後者の代表的アルバム。バンド最大のヒットで、メンバーは、フィル・コリンズ(Vo&Dr)、トニー・バンクス(Key)、マイク・ラザフォード(G&B)の3人編成。プログレバンドの「ポップ化」では最大の成功例とも言えるかもしれない。このアルバムからは何曲もシングルヒットが出ているが、一番有名なのは、「混迷の地」(Land of Confusion)だろう。イギリスのTV番組で有名なパペット(人形)を使って、当時のレーガン大統領やナンシー夫人、カダフィ大佐やら東西の政治家が登場する、イギリスらしい悪意たっぷりのビデオを覚えている人も多いのではないか。

僕がジェネシスを熱心に聴いたのはまさにこの時期で、「インビジブル・タッチ」とその後に出た「ウィ・キャント・ダンス」はよく聴いた。当時ニューヨークにいたので、「ウィ・キャント・ダンス」ツアーは、ニュージャージーのフットボールスタジアムまで観に行ったりした。

「トゥナイト・トゥナイト・トゥナイト」(Tonight Tonight Tonight)はアルバムの2曲めに収録された、プログレっぽい匂いを残した曲で、9分ちかくある大作。中間部のインストパートが長めだがまるで飽きさせない。打楽器のフィルイン、キーボードのアルペジオから壮大なメロディ、そしてギターがオーバードライブでバッキングに入るブリッジ部に繋がるところが何とも格好いい。フィル・コリンズが「Get me out of here!」とシャウトするところもまさに魂の叫びで鳥肌モノである。ギター・ソロのパートはないが、アーミングを使った効果音的なコードの入れ方や、後半のドライブ感溢れるリフなど、ハードロック好きにも勉強になる。

マンダリン・オリエンタル・シンガポール

数年前のインド出張のとき、チームのインド人がビリヤニ(Biryani)の美味しいお店に連れて行ってくれた。ビリヤニというのは、インド(あるいはパキスタン)の炊き込みご飯のようなもので、本格的なものは調理に相当な手間がかかるらしい。一見すると長粒米のカレー風ヤキメシまたは炒飯のようにも見えるので、お手軽料理とつい侮りがちであるが、両者は似て非なる、というか全くの別物。一度本格的な美味しいビリヤニを食べてごらんなさい。コメの炊け具合、肉の火の通り、スパイスの深みと複雑さに陶然となる。

マンダリン・オリエンタルのハナシをしようというのに、いきなりビリヤニについて熱く語っているのにはわけがある。このホテルのMelt Cafeというカフェで食べられるビリヤニが美味いのだ。「Signature Chef Santosh Murgh Biryani」といってホテルのインド料理を統括しているマスターシェフ直々のビリヤニだそうだ。去年泊まったとき、二晩連続で食べに行ったら、そのマスターシェフ御本人がわざわざテーブルまで来て挨拶をしてくれた。給仕をしてくれた若いインド人のウェイターもとても喜んで、隣にあるブッフェコーナーからタンドリーチキンやらマトンカレーやらをサービスだと言って持ってきてくれたので、テーブルの上は、私ひとりだというのに、ビリヤニを真ん中にしてインド料理のフルコース状態1)になり、食べきるのに一苦労だった。

これは朝の風景

マンダリン・オリエンタルはラッフルズアベニューを挟んでマリーナ湾に面している2)ので、そちら側の部屋を指定するとよい。窓からマリーナ湾、観覧車、マリナーベイサンズの三連の建物が見える。特にネオンにライトアップされる夜景を部屋から眺められるのはとても良い。ホテルは中央が大きく吹き抜けになった三角形のつくりで、ロビーから見上げると、レストラン、バー、各客室へと上に向けて視界が広がる立体的な動線になっている。部屋は高級感のある落ち着いた色調で、ベッドの硬さもちょうどよく安眠できる。ホテルのスタッフは、皆フレンドリーでいながら礼儀正しい。何度も泊まっているが、滞在中にイヤな思いをしたことは一度もない。

1 シンガポールにはインド人も多く、大きなコミュニティもあるので、インド料理はハイレベルだ。
2 隣にマリーナ・マンダリン・シンガポールという別のホテルがあってややこしい。タクシーの運転手には「マンダリン・オリエンタルだぞ」と念押ししておいたほうがよい。

ザ・キタノ

世界の北野武、のハナシではない。ニューヨークにあるホテルの名前である。

メットライフビルとグランドセントラル駅の入口

はじめてニューヨークに行ったのは1993年。当時勤めていた会社のニューヨーク支社に1年ほど赴任することになったときだ。JFK国際空港から、妙にサスペンションがゆさゆさと緩いイエローキャブに乗ってマンハッタンに向かった。クルマがクイーンズボロブリッジに差し掛かると、フロントガラス越しに、摩天楼そびえるマンハッタン島が見えてくる。あぁ、とうとうニューヨークに来たんだ、と怖いような楽しみなような複雑な気持ちで見つめたのを今でもはっきりと覚えている。

クルマが向かった先は、38丁目とパークアベニューの角にあるキタノホテルだった。オフィスに近いこのホテルを会社が予約しておいてくれたのだ。まだ20代の若造には少々もったいなかったかもしれない。玄関を出て左を見るとメットライフビル1)の威容が迫り、下に目を移すと42丁目に面してグランドセントラル駅への入口が見える。ここに2泊か3泊して前任者と引き継ぎをし、その後社宅として借り上げていた31丁目のアパートメントに移った。このときからずっと、ニューヨークに出張や旅行に行く機会には、なるべくここに泊まれるよう算段している。

ロビーで出迎えるフェルナンド・ボテロの彫刻

93年当時、このキタノと57丁目・セントラルパークのそばにあったホテル日航2)の二つが日系だったと思う。ホテル日航は、98年ごろ、日本航空の経営危機に伴って売却され、それ以来、キタノはニューヨーク唯一の日系ホテルとして、高品質な「日本的」サービスを提供し続けている。このホテルのよいところは、1. 落ち着いた静かなロビーと部屋 2. トイレがウォシュレット 3. シャワーの水圧がしっかりしていて、お湯もふんだんに出る 4. 部屋の清潔さ 5. レストラン・ルームサービスともに和食のレベルが高い、だろう。いずれも東京のシティホテルなら「当たり前」だけれど、アメリカ・ヨーロッパのホテルでは、5はともかくとして、たとえ高級ホテルでも意外と難しい。とくに2と3はほぼ期待できない3)

南西方向・窓からエンパイアステートビルが見える

キタノホテルは、42丁目を中心とした「ミッドタウン」と呼ばれるエリア4)のほぼ真ん中という便利な立地だ。僕にとっては若い頃に馴染んだ地域でもあり、ここにいると安心する。サラダ、スープ、ピザ、サンドイッチなどお好みのものを重さで必要な分だけ購入できる「デリ」が多く、ひとりで軽い食事をとるのに便利だし、アジア系レストランの多いエンパイアステートビル界隈にも近い。

1 当時はまだパンナムビル
2 The Essex Houseという超高級ホテルだった。
3 他方、ソウル、台北、シンガポールなどアジアの高級ホテルは概ね合格点。
4 42丁目を中心に、上はセントラルパークの南端(57丁目あたり)、下は30丁目付近(広く取る場合には14丁目付近)までが、「ミッドタウン」と呼ばれる。最新の「エッジの効いた」エリア(チェルシーやSOHOの縁端部、ワールド・トレード・センター跡地の再開発エリア、ハーレムやブロンクスの一部)はみなミッドタウンの外側にある。

ホテル・チェルシー

ホテル・チェルシー(Hotel Chelsea)は、1884年の開業以来1)、有名作家、アーティスト、ミュージシャン、俳優、コメディアンが長期短期を問わず多く滞在するいわゆる「尖った」ホテルだった。とくにアメリカ文学のビート・ジェネレーションの作家(ウィリアム・バロウズ、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ等)がここを住処としたことで、世を外れたアウトロー的創作者たちが集まる場としての引力を獲得し、時代の象徴として明暗様々な話題を提供してきた。「暗」で最も有名なのは、セックス・ピストルズのベーシストだったシド・ビシャスが恋人のナンシー・スパンゲンを殺したとされる事件だろう。二人はこのホテルでドラッグ三昧の日々を過ごしていたが、1978年10月13日、ナンシーが部屋のバスタブで刺殺体で見つかる。凶器のナイフがシド・ビシャスの持ち物だったため彼は殺人の疑いで逮捕される2)が、保釈中にヘロインの過剰摂取で後を追うように死亡。この事件は「シドアンドナンシー」として映画化されている。

この有名なホテルに、僕は2000年ごろに泊まったことがある。当時ニューヨークはホテル料金が高騰していて、ちょっとまともなホテルに泊まろうと思うと一泊4万円くらいは覚悟せねばならなかった。なんとか2万円台で収まるところはないかと探したところ、ここに行き着いたのだ。場所は、ニューヨーク・マンハッタンの23rd Streetの南側、7thアベニューと8thアベニューの間にある3)

ホテルの前でタクシーを降り、正面のガラス戸を押して中に入る。途端にえもいわれぬ違和感に襲われる。エントランスホールはそこそこの広さがあり、格式ある古い建物の残り香のようなものは感じられる。でも、思いつくままに追加されたようなユニークな絵や彫刻、その他デコレーションのせいで、よく言えば個性的、普通に表現すれば、アブナイ雰囲気を醸し出していた。チェックインカウンターの向こうはあちこちに古い紙束が積まれて雑然としており、安宿の帳場といった方がふさわしい。背面の壁には部屋ごとに小さく区切られた棚。カウンターにいる崩れた感じの中年男は、くたびれたスーツにだらしなくネクタイを締め、愛想のかけらもない。チェックイン用紙に名前を書いていると、どこからか、体に食い込む網目シャツに革パンツというボンデージ・ファッションのような格好をした男が、子牛くらいありそうな真っ黒なドーベルマンを連れて歩いてきたので、目が点になった。

泊まった部屋の番号はもう忘れてしまった。吹き抜けのエレベータホールから格子扉の古いエレベータに乗った記憶があるので、たぶん3階か4階だったように思う。ドアを開けた途端、なんとも落ち着かない色の壁、殺風景でいてどこか雑然とした調度品、どんよりと淀んでねばつくような空気。リラックスして長旅の疲れを癒やすどころではなく、部屋にいると気が滅入る。何か雰囲気を変えるものでも買おうと外に出ると、街はちょうどハロウィンのお祭り。そこでプラスチックでできた陽気そうなハロウィンかぼちゃの入れ物と、なるべく明るい色の花束を買って部屋に帰り、テーブルの上に飾ってみたところ、部屋が余計に毒々しくなるという悲しい悪循環。

夜ベッドに入っても、ホテルのどこかで変な音はするわ、悪夢を見るわで、全く安眠なんてできなかった。僕に霊感なんてないけれど、あのホテルには、なにか禍々しいものが、長い年月をかけて建物の隅々まで染み付き実体化していたんだと思う。結局、二晩で音を上げ、大枚はたいてミッドタウンの「普通の」チェーン系ホテルに逃げ出した。

2011年からリノベーションのためにホテルは休業状態に入ったが、その間、長期入居者やテナントとの調整がうまくいかないなどのため、所有者が何度か変わったようだ。いくつかの記事によると、どうやら今年(2018年)にブティックホテルとして再オープンを予定しているらしい。かつてこのホテルに住み、今はホームレスの男性が、リノベーションのために外され廃棄された部屋のドアを集め、誰が泊まった部屋なのかを調べ上げたそうだ。ドアはオークションにかけられるという4)

 

1 当初はホテルというよりコーポラティブ(co-operatives)として運営されたようだ。ホテルとしての開業は1905年。
2 ナンシーが殺された時間、シドはドラッグで昏倒しており、犯人は別にいるという説が根強い。
3 マンハッタンを、42丁目と5thアベニューを上下左右の真ん中とする長方形のストライクゾーンに例えるなら、右打者に対して真ん中より若干外角低めあたりの位置。余計わかりにくいか。
4 参考:AFPの記事、ニューヨーク・タイムズの記事