味覚の自由

年齢とともに衰えるものは数知れないが、味覚はその例外かもしれない。いわゆる世の珍味といわれるものの多くは、少年にはどこが美味いのかちっとも理解できないが、歳をとってみるとしみじみ味わい深い。子供の頃、親父が烏賊の塩辛をご飯の上にこんもりと盛って、わしわしと嬉しそうにかきこんでいる姿を何度も見た。それがあまりに美味しそうだったので、真似してみたのだが、なんでこんな生臭塩辛苦いものがよいのか全く理解できなかった1)。似たようなものはほかにいくつもあって、例えば、カラスミ、うに、かにみそ、いぶりがっこ、一部のチーズ、などなど。いずれも年齢を経てはじめてその味わいに気づいた。いわば、遅れてきた口福である。

甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛いの5つにうま味をくわえた6つが味の基本というが、この「遅れてきた口福」は、そのどこにも上手くはまらない。あえて言えば、うま味が最大公約数だろうけれど、その中に何種類もの微妙な味が絡み合っていて、「複雑!」とビックリマークをつけるようなアタマの悪い表現しか思いつかない。あ、違うな。ハンバーグだって、ラーメンだって、その美味しさは、単に六つの味で表現できるわけではないのだけれど、この「遅れてきた」連中の味わいは、子供の頃から美味しいと思ってきたものの延長線上ではなく、どこか別の相にある、ということだ。

小さい頃は糖分、青少年期はタンパク質、のように、ヒトはその成長段階に必要な栄養素を摂取したくなるように味覚を変化させるのだとすれば、そういった「必要性」のくびきから解放された味覚が、ついに自由を獲得したということなのかもしれない。ビバ、自由。こうして人は、だんだん得体の知れないツマミで酒を呑むようになるのだな。

 

1 時たま、そこに牛乳をかける、という所業に及んでいたが、そこは今に至るも理解不能である。