しょうがシロップ

生姜シロップを作ってみた。きかっけは、シャンディガフである。ビールとジンジャエールを1:1で割ったもので、夏の夕方、まだ日の残っている時間に飲むのがちょうどよい。でも、家で作ろうとすると、どうしてもジンジャエールが余る。そうだ、生姜シロップがあれば、いつでも量を気にせず、かつ、お好みの甘さで作れるではないか。さらに、最近は、もっぱらノンアルコールビール(ただし、オールフリーに限る)を愛飲しているのだが、普通のビールよりも早く飽きが来る。ジンジャーシロップを入れたら、目先も変わるしさぞ美味しかろう、とヒラメいたのだ。

一晩おいて煮詰めているところ

レシピは「ほぼ日」で公開されているものを参考に、というか量だけ半分にして、あとはそのまま。最新レシピはVersion 3 のようだが、Version 2 で作ってみた。出来上がってみると、これが素晴らしい出来である。きび砂糖のコクのある甘みが生姜の辛味と刺激をやわらかく包み込み、そこにシナモンやカルダモンなど一緒に入れたスパイス類がほのかに効いて複雑な味わいを演出している。お湯で薄めただけでも相当に美味しい。さすがに糸井さんがこだわって改良を続けたレシピだけのことはある。オールフリーにティースプーン2杯くらいを入れると、予想通り、ジンジャエールで割ったのとは別次元のシャンディガフが出来上がった。もちろんソーダで割れば、誰もがおいしいと喜ぶ手作りジンジャエールになる。

と、いうわけで出来にはたいへん満足なのだが、課題は量とコストである。生姜って意外と高いのね。普段、薬味としてひとかけくらいの用途だから値段を気にすることってないと思うけど、500グラムくらいスーパーで買うと、レジで「お?」となるくらいのお値段。あと、ごつごつした形のせいで、皮むきがなかなかの手間。さらに濃さにもよるけれど、500グラムの生姜からせいぜい小さな瓶ふたつ程度の量しかできない。なるほど、市販されているシロップがそれなりのお値段1)なわけだ。作ってみる前は、ちょっと高いな、と思っていたけれど、作ってみると、うむ、これくらいはするよね、と納得できる。事業化する場合は良い生姜を安く仕入れることと、皮むきとスライスの自動化がカギであろう。AIで生姜の皮むきはできないのか2)

1 「ほぼ日」版で450グラム、2,160円。ほかにもいくつか見てみたけれど、概ね200ミリリットルで1,000円から1,500円くらい。
2 何でもAIといえばいいってもんではない。

さくら 2018

東京では桜の開花が3月17日、満開が24日。満開日は例年より10日ほど早いとのこと。今年は久しぶりにしっかりと寒い冬だったが、3月半ばからぐっと気温があがる日が増え、東京の桜は開花スイッチが早めに入ったようだ。ここ数年、花が満々と開いたと思ったら、雨や嵐が早々に散らしてしまうことが続いていたように思うが、今年は穏やかな日が続いて、存分に花見を楽しむことができる。都心だと、中目黒から代官山近辺までの目黒川沿い、千鳥ヶ淵、靖国神社から市ヶ谷の靖国通り、四谷あたりは、桜並木が霞のように薄紅色に染まってため息が出るほど美しい。

目黒川沿いの桜

僕の桜の記憶は、小学校の入学式や新学年と一緒に始まっている。春の空と桜を見上げながら、学校の門を抜け、新しい教室に入る。不安と緊張と期待が入り混じったあの何とも言えない特別な気持ちをを、今でもはっきりと思い出すことができる。僕が小学校に入った年の満開日は4月5日、中学入学の年は4月10日1)だから、今より10日から2週間ほど遅かった。開花が早まった今はきっと、卒業式や終業式の思い出とともに桜を見る子どもたちが多いのだろう。そして大人になって、友達や好きだった子と離れ離れになるちょっと甘酸っぱい風景とともに桜を思い出すわけだ。春と人生の節目を桜が彩るというのは、悪くない文化だよね。

1 気象庁の「さくらの満開日」データによる。

Bark at the Moon (Ozzy Osbourne)

オジーのギタリストといえばランディ・ローズ。飛行機事故で夭折した才能あふれるギタリストであり、クラッシクギターあるいはクラッシク音楽の要素をハードロックに取り入れたパイオニアの一人。ギターソロだけで曲として成り立ちそうなくらいドラマチックな展開と考え抜かれたフレージング、それを支える正確なプレイ。端正で優しげなルックスと相まって「伝説」となったギタリストだ。そのランディ・ローズに代わるギタリストとしてプレイするのは誰にとっても至難の業だっただろう。

ジェイク・E・リーは、83年に発売されたオジー3枚目のアルバム「月に吠える」(原題 Bark at the Moon)から参加。アルバムタイトルにもなっている「月に吠える」はロック史に残る名曲だと思う。イントロのリフから疾走感溢れるバッキング、大きな展開のブリッジ、そしてギターソロ。ランディ・ローズのソロ構成に似て、叙情的な大きなメロディとメカニカルなスケール速弾きの組み合わせ。アウトロではスリリングな16分音符の繰り返し上昇フレーズ。技術的にとても高度な演奏だけれど、全体としてこれ以外ありえない、という完成度でとにかく格好いい。

ライブ映像を見るとわかるが、ランディ時代の曲も見事に弾きこなしていて、まったく遜色がない。自己流に変えてしまうことなく、オリジナルを尊重し忠実になぞりながら、それでいて自分の個性を出せるのが凄い。天の配剤というべきか、オジーはこれ以上ない後任を得たわけだ。ところが、ジェイクとオジーの関係は加入当初から悪かったようで1)、1986年発表の4枚目のアルバム「罪と罰」(原題 The Ultimate Sin)とそのツアーを終えた段階でジェイクは脱退してしまう。その後、Badlandsを結成して活動するも、商業的には成功せず、今に至るも余り活躍の場がないのは残念。

1 作った曲の著作権・クレジット等、加入にあたって非常に不利な契約を結ばされていたらしい。

焼きたて

フランスの冷凍食品ブランド「ピカール」(綴りはPicard)が近くにあるので、ちょくちょく利用する。買うのはもっぱらパン生地である。パン生地は、クロワッサン、パン・オ・ショコラ、パン・オ・レザンの小ぶりなもので、一袋に10個入っていて700円くらい。焼き方は至って簡単で、オーブンを180度に予熱し、食べる分だけオーブン皿に並べて入れ、18分から20分待つだけ。ミニカーくらいの大きさの生地が、だんだんふくらんで、ブラウンの焼き色がついて、香ばしく焼き上がる様子を眺めて喜んでいる。待っている時間は湯を沸かしてコーヒーを淹れるのにちょうどよい。

小さなクロワッサンひとつあたり70円だから安くはないかもしれないけれど、ちょっとしたこだわりパン屋で買えばひとつ150円とか200円くらいするから、まぁ許容範囲だろう。何より焼きたてのパンは美味いのだ。外は香ばしくパリッと、内はふわりとしている。考えてみれば、焼きたては何でもウマい。縁日で食べる焼きそばやお好み焼き、ベビーカステラなんて、安価な材料で作っていて、冷めたら食べられたもんではないけれど、屋台で焼きたて熱々を買って食べるからよい。焼きたては七難隠すのである。

たとえ冷凍食品でも、朝にクロワッサンなんか焼いてインスタに上げてみたりすると、急に「余裕」や「充実」といった雰囲気が醸し出される。「ていねいな生活」みたいなフレーズも脳裏に浮かんだりする。同じ手作りでも、朝から蕎麦をこねて伸ばしたりしていると、「偏屈」とか「隠遁」みたいな雰囲気になるのとはいい対照である。今度は蕎麦に挑戦してみよう。

Shot in the Dark (Vow Wow)

Bow Wowは76年デビュー。84年のメンバーチェンジとともにバンド名の綴りをVow Wowに変える。オリジナル・メンバーとして、日本人HR/HMギタリストとしてラウドネスの高崎晃と双璧をなす山本恭司を擁していたバンドは、人見元基(Vo)と厚見玲衣(Key)が加入したことで、「和製」という形容詞不要の、世界レベルのバンドに変貌を遂げた。86年から数年は英国をベースに活動しており、ニール・マーレイ(ベース。ホワイトスネイク、ゲイリー・ムーアバンドなど)が加入したり、4枚目のアルバム「V」にはエイジアのジョン・ウェットンが参加したりしている。

Shot in the Darkは、Vow Wow名義になってから三枚目のアルバム「III」(86年発売)の2曲めに収録。このバンドを予備知識なしで初めて聴いたときは、日本のバンドだとわからなかった。それほど人見元基のボーカルは日本人離れしていた。低音域から普通なら裏声でか細くなりそうな高音域までパワーが落ちずに自在に繋がり、鳥肌モノのシャウト1)がここぞというところで炸裂する。英語詞の音の乗せ方も見事。さすが東京外語大卒というべきか。厚見玲衣のキーボードは、ギター、ボーカルと渡り合う主役級の存在感。シンセやオルガンの分厚い音の壁、印象的なアルペジオや効果音、バラードでみせる繊細でダイナミックなピアノなど、Vow Wowサウンドの基本色を形作っている2)。このキーボードを得て、山本恭司のギターは、推進力溢れるリフから、トリッキーなアーミングやライトハンドを取り入れたソロやオブリガード3)まで、より自由に動き回れるようになったのではないか。とはいえ、各楽器、ボーカルのバランスは絶妙に保たれていて、バンドアンサンブルが崩れたりすることはない。

このメンバーでの活動は、6枚目のアルバム「MOUNTAIN TOP」をもって残念ながら1990年に終了してしまった。2010年12月25日、26日にシークレットに近いかたちで再結成ライブを行っており、その様子はノーカットでBlu-Rayディスク版として発売されている。

1 Love Walks、Don’t Leave Me Nowなどをぜひ聞いてみてほしい。
2 アナログ・シンセやハモンドなど名器のコレクターとしても知られる。
3 Gソロそのものよりもボーカルの裏でパート間を繋ぐように入るちょっとしたフレーズが実に格好良い。

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白
小田嶋隆 著 (ミシマ社)

かれこれ25年くらい親しくしていた友人が、この十年あまりアルコール依存症に苦しんでいた。アル中は「否認の病」と本書にもある通り、周囲から指摘されても、本人はそれを強く否定して言うことを聞かなかった時期が長く続いた。久しぶりに会ったときに、治療とセラピーに行ってすっかり状態がよくなった、と初めて自分から話してくれたのだが、それから二ヶ月くらいして急死してしまった1)。昨年末のことだ。

日経ビジネスオンラインに掲載されている著者のコラム「ア・ピース・オブ・警句」をときどき読んでいる。世代的に近いせいなのか、80年代後半から90年代のPC黎明期からの業界周辺の経験値が近いせいなのか、共感することも多いし、思わぬ角度からのものの見方になるほどと思わせられることもある。その著者が20代から30代にかけてアルコール依存症であったという告白であるから、読む。まして、友人のことがあった直後だけに読まねばならぬ。タイトルは明らかに滑っているけれど。

アルコールを媒介に手に入るものがないわけではありません。しかし、それらはいずれ揮発します。なくなるだけなら良いのですが、手の中から消えていくものは、多くの場合喪失感を残していきます。で、それがまた次に飲む理由になったりします。グラスの底には何もありません。グラスの底に何もないこともまた飲む理由になりますが、飲む理由になるすべてのことは、酒を遠ざけるため理由になります。どうか素面のまま夜明けを待つことをためしてみてください。(七日目 アル中予備軍たちへ)

自分は一般的な「依存傾向」は少ない方なのではないか、と長年自己分析してきたが、はっとさせられた一節。

(前略)そうやって自分の時間をすべて情報収集に費やしてしまう過ごし方は、これは、実のところ、アイデンティティの危機なんです。なぜなら、情報収集している間、人は頭を使わないからです。というよりも、スマホを眺めている人間は、自発的な思索をやめてしまっているわけで、外部に情報を求めるということは、自分の頭で考えないことそのものだからです。(八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威 何かに依存するということ)

こうして読んだ本の備忘録を書き始めたひとつの理由が、まさに、情報を消費するばかりで自分で何かを生み出すことのないアンバランスさに気づいたことにある。「自発的な思索」が自分でも気付かないうちになくなっていたのだと思う。本書は著者の「告白」(あるいは「対話」)から書き起こされている形式なので、非常に読みやすい。アルコールに限らず広く「依存」への視点を新たにするきっかけも含まれている。

1 事件性はないようだが、死因は不明。

頭髪以外

運動不足の解消に、週3、4回ジムに行く。ジムのパウダールーム1)というのか洗面スペースというのか、洗面台と鏡、ヘアドライヤーを備えた台が並んでいるスペースというのは、他の男性がどんなふうに身繕いをするのかが垣間見えて面白い。男子はトイレで化粧を直したりといった経験がないので、他人のそういった「プライベートな」姿を見る機会というのはほとんどないのだ。

そのパウダールームに「ドライヤーは髪の毛以外には使わないでください」という貼り紙がしてある。はて、どういう意味だろう、とそれとなく周囲を観察してみたところ、たちまち疑問は解けた。髪を乾かしたあと、陰毛にぶおーと温風を当てる人がけっこういるのである2)。甚だしきに至っては、スキンヘッドのムキムキとした男がドライヤーをむんずと掴むと、温風を頭にそよがせることもなく、一直線にぶおーと陰毛を乾かしたりしている。せめて数秒でも頭を乾かしたあと、ついでに、という程度なら、まあ仕方がない、とも思うが、主目的が「髪の毛以外」というのがあからさまだと、若干もやもやした気分が残る。

面白いので、その後、施設を利用するたびに観察していたのだが、ある仮説にたどりついた。髪の毛以外への利用頻度は、髪の毛の残存量に反比例するのではないか。つまり、頭髪がふさふさと豊かな人は頭髪以外を乾かすことはほとんどなく、毛量が減少傾向にある人、またはスキンヘッドを含む坊主刈りに近い人は陰毛方向への利用がちょくちょく見られるのだ。これは、ドライヤーを使う標準的な時間はどんな人でも概ね一定で、上の方の時間がかからない人は、その余り時間を下の方に使う、ということで説明できる。「ドライヤー利用時間一定の法則」とでも呼びたい。

似た法則はもう一つあって、これを「毛量一定の法則」と呼んでいる。もうおわかりの通り、頭髪が減少した人は、それを補うかのようにヒゲを伸ばしがち、という法則だ。これは過去20年に渡る観察から発見された。概ね観察対象が出版業界なので、他業界ではもしかすると違うかもしれない。

1 パウダールームという言葉を男性用に使うと少々気持ちがわるい。Websterの辞書にも「a restroom for women」とあるし。
2 もしかすると貼り紙に関するジム側の意図とは違うかもしれないが、ここでは陰毛が問題なのだということにしておく。

コーヒーの科学

コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか
旦部幸博 著 講談社(ブルーバックス)

ここ10年ほどコーヒーを以前より飲むようになった。美味しいと評判のお店を訪ねてみたり、自分でいろいろ豆を買ってきて試したりしている。喫茶店もコーヒー豆もいろいろ。酒、葉巻といった嗜好品と同様、奥の深い世界が垣間見える。

著者は、コーヒーに関する老舗ブログ「百珈苑」を開設しているが、本職は基礎医学の研究者である。さすが理科系のプロフェッショナル研究者だけあって、本書もコーヒーにまつわる多くの「なぜ」に、科学的、理論的なアプローチで迫る。数多くの先行研究をベースに、現時点でわかっている事実やさらなる研究が待たれる点など網羅的にカバーされており、僕のように理屈で理解したいタイプにはとても参考になる。

やはりそうかと納得したのは、日本のコーヒー文化、あるいはコーヒー技術は、欧米とは若干異なる独自の発展をしつつ、世界をリードしうる高水準にあるということだろう。

日本のコーヒー本のほとんどでは、ドリップ式を抽出の章の最初で解説しており、「最初に少量のお湯で蒸らして」とか「お湯を細くして」「のの字を描くように注ぐ」などうまく 淹れるコツもいろいろ紹介されています。ただ、こうしたまるで「お作法」のような、お湯の注ぎ方へのこだわりは日本特有のようです。台湾、中国、韓国には日本のスタイルが伝わっていますが、欧米では割と無頓着で、どばっと一度に注ぐことも少なくありません。
(中略)
日本と欧米、どちらのドリップ観が正しいかで争うつもりはありませんが、少なくとも湯の注ぎ方が味に大きく影響することは事実です。お湯を一度に注ぐときと、3~4回に分けて注ぐとき、点滴のように一滴一滴注ぐときでは、それぞれ同じコーヒーとは思えないほど味が変わります。お湯の流れが速すぎると理論段数が小さく(=成分の分離が悪く)なるか、お湯を継ぎ足す速さと濾過速度との兼ね合いで、出る量に比べて注ぐ量が多くなると、内部にお湯が貯留して理論段数が小さくなる……(第7章 コーヒーの抽出)

アメリカの「サードウェーブコーヒー」の代表格、ブルーボトルコーヒーは、日本の喫茶店文化に影響を受けたと創始者ジェームズ・フリーマン自らが語っている1)。ブルックリンのお店を数年前に訪ねたことがあるが、一杯ずつ人がペーパーフィルターで淹れるスタイルは同じだけれど、湯の注ぎ方はまさに「割と無頓着で、どばっと一度に注ぐ」感じで面白かった。日本のスタイルが、お湯を細く丁寧に注ぐ「茶道的」で繊細なスタイルなのに対して、ブルーボトルはいくつも並べたポットに同時にざーっ速く湯を注ぐスタイル。アメリカのコーヒーは、日本に比べて苦味を嫌った浅煎りが多いので、この淹れ方が理に適っていることは、本書を読んだ今はわかるが2)、現地での第一印象は「ナンジャコレハ?」だった。どちらかといえば深煎り好きなので、日本のブルーボトルは行ったことがないんだけど、今度淹れ方を見に行こうと思う。

1 日経トレンディ参考記事
2 逆に、日本では中深煎り、深煎りが多いので、お湯をフィルターの中であまり貯留させないスタイルが多い。

味覚の自由

年齢とともに衰えるものは数知れないが、味覚はその例外かもしれない。いわゆる世の珍味といわれるものの多くは、少年にはどこが美味いのかちっとも理解できないが、歳をとってみるとしみじみ味わい深い。子供の頃、親父が烏賊の塩辛をご飯の上にこんもりと盛って、わしわしと嬉しそうにかきこんでいる姿を何度も見た。それがあまりに美味しそうだったので、真似してみたのだが、なんでこんな生臭塩辛苦いものがよいのか全く理解できなかった1)。似たようなものはほかにいくつもあって、例えば、カラスミ、うに、かにみそ、いぶりがっこ、一部のチーズ、などなど。いずれも年齢を経てはじめてその味わいに気づいた。いわば、遅れてきた口福である。

甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛いの5つにうま味をくわえた6つが味の基本というが、この「遅れてきた口福」は、そのどこにも上手くはまらない。あえて言えば、うま味が最大公約数だろうけれど、その中に何種類もの微妙な味が絡み合っていて、「複雑!」とビックリマークをつけるようなアタマの悪い表現しか思いつかない。あ、違うな。ハンバーグだって、ラーメンだって、その美味しさは、単に六つの味で表現できるわけではないのだけれど、この「遅れてきた」連中の味わいは、子供の頃から美味しいと思ってきたものの延長線上ではなく、どこか別の相にある、ということだ。

小さい頃は糖分、青少年期はタンパク質、のように、ヒトはその成長段階に必要な栄養素を摂取したくなるように味覚を変化させるのだとすれば、そういった「必要性」のくびきから解放された味覚が、ついに自由を獲得したということなのかもしれない。ビバ、自由。こうして人は、だんだん得体の知れないツマミで酒を呑むようになるのだな。

 

1 時たま、そこに牛乳をかける、という所業に及んでいたが、そこは今に至るも理解不能である。

極太字の万年筆

万年筆が好きだ。万年筆を持つと、何かいい言葉、気の利いた表現、ステキな文章が書けそうな気がする。まぁ、現実には、気がするだけで、実際に書けるかといえば、それはまた別のハナシだ。でも、なんとなくいっぱしの表現者になったような気分になるだけでも楽しい。ただし、極太字の万年筆に限る。細字は、ちいさな手帳にちまちまとした細かいことを書くためのもの、という感じで、全くワクワクさせてくれない。あくまで極太字でなくてはならないのである。

極太字の原体験は、大学を出て最初に就職した会社の上司だった1)。まだ電子メールやイントラネットが普及する前の話だ。その人はいつも穏やかでダンディで、声を荒げたり、酒席で乱れたりした様子を見た覚えがない。部下に指示をしたり、伝言を残すときは、いつもウォーターマンの万年筆で薄黄色のメモパッドに2、3行、丸い丁寧な文字でメモを残した。メモの最後には必ずイニシャルを2文字。極太字の万年筆で書かれたその文字が、スマートでどこか温かみがあって、僕は好きだった。僕が一年くらいで転職したために、その上司とはそれきりお会いする機会もなく、もうずいぶんな年月が経つけれど、今でもたまにメモ書きの文字を思い出したりする。

トリムがシルバーなのがよい。

今、愛用しているのはペリカンのM405。大井町にあったフルハルターという小さな(でも万年筆愛好者の間ではとても有名な)お店で購入した2)。ここは店主の森山さんが、顧客ひとりひとりの手、ペンの持ち方や書き癖に合わせてペン先を研磨調整してくれるという稀有なお店。森山さんに調整してもらったペンは、受け取って紙の上にペン先を置いた瞬間から、何年もかけて馴らしたペンのように、何の引っ掛かりもなくインクが滑り出る。万年筆がひとりでに動き出すような感覚。書くことそのものが気持ちよくて、ずっと書いていたくなって、余計なことまで書いてしまうという「弊害」すらある。とはいえ、メールやチャットが仕事のみならず日常のコミュニケーションの大半を占める現代では、万年筆の出番はそれほど多くない。なんとか出場機会を増やすにはどうしたものかと頭を悩ませている。

1 万年筆そのものへの憧れは、小学生の頃、旺文社の学年雑誌についていた付録がきっかけだったと思う。
2 2018年2月末で大井町の店舗は閉鎖してしまったようだ。4月か5月に我孫子に移って再開とのこと。