ホバート旅行記 5 蒸留所めぐり – Sullivans Cove

 Sullivans Coveはホバート空港からほど近いケンブリッジという街にある。ホバート市街からは、タスマンハイウェイ(A3)で空港方面に走って20分くらい。この蒸留所のフレンチオーク樽熟成のウィスキーが2014年AAWのモルトウィスキー最高賞を受賞した。ここでは朝10時から夕方4時までの間、蒸留所見学ができる。

Sullivan's Cove タスマンハイウェイをB31出口で出て、ケンブリッジロードをハイウェイ沿いに少し戻るように走ると左手に看板が見えてくる。ラークに比べれば大きいとはいえ、それでも小さな蒸留所だ。ビル・ラークが何かのインタビューで、蒸留所見学に来る人は、森と清流の中にあるロマンチックな蒸留所をイメージして来る人が多いけれど、タスマニアの蒸留所はどちらかというとみんなただの工場(こうば)みたいなとこだよ、と笑っていたが、まさにそのとおりの場所である。

  見学は樽の違いを体験する飲み比べも含めて1時間くらい。ビル・ラークによるタスマニアウィスキーの再興から、現在の状況、タスマニア産モルトからウォッシュ(Wash)1)を作り、それをこの蒸留所で二度蒸留後、樽詰めして寝かせ、ボトル詰めするまで、若くてハンサムな従業員が丁寧に説明してくれる。タスマニアウィスキーが世界から認められ、注目されることに対する誇りや仕事への熱意が端々に感じられる。一体に、酒造りの現場の人たちというのは、自分達の仕事に対する愛や熱量が大きな人が多いイメージがあるが、ここもまさにその例に漏れない。僕らに説明をしてくれた彼も、自分が高校のころに仕込まれたウィスキーをいま自分たちが世に送り出してることがすごく嬉しいんだ、と話していた。

 Sullivans Coveでは、当初、小さな樽を使って寝かせ(エイジングし)ていたそうだ。小さな樽のほうがウィスキーが樽に触れる面積の割合が高く熟成が早いことと、資金繰りのため樽単位で事前に販売していた2)のがその理由。今ではビジネスも安定し、大きな樽でのエイジングに切り替えたため、小さな樽では作っていない。出荷前の最後のプロセスである瓶詰めは今でも手作業。瓶詰めの担当者がひとつひとつ楽しそうにラベルを貼っていた姿が印象に残っている。

Sullivans Cove Potstill
ポットスチル(蒸留釜)と熟成樽
一番左はHobert No. 4というジン

 ダブルカスク、フレンチオーク、アメリカンオークの三種類を作っている3)。フレンチオークはポート樽、アメリカンオークはバーボン樽をつかってエイジング。ダブルカスクはその2つをブレンドしたもの。ラークでもそうだったように、どれもピートの煙っぽさはほとんど感じない。マイルドで優しく、同時に複雑さも深さも備えたウィスキーである。迷った末、フレンチオークを購入。結構お値段は張るものの、やはりいちばん美味しかったのだ。ついでにウィスキーロールという革製のボトルケースも購入。ボトルとウィスキーグラスが4つ入る。

 ロビーで面白い本を見つけた。「Kudelka and First Dog’s Spiritual Journey」。オーストラリアの風刺(政治)コミック作家のJon KudelkaとFirst Dog on the Moonの二人が、電動自転車でタスマニアのウィスキー蒸留所をめぐった道中記だ。コミックと文章が半々くらい。Kudelkaはタスマニア出身で、彼のほとばしる郷土愛4)に、First Dogが皮肉をいれる内容がなんとも面白い。クラウドファンディングで発行されたのも興味深い。Amazon等では取扱がないが、Kudelka本人のサイトから購入できる。

 

1 水と麦芽糖と酵素からできた甘い麦汁(ウォート)にイーストを加えて発酵させたもの。ビールの親戚のようなものとも言える。
2 出荷時に蒸留所で買い戻したりもしていた。
3 もうひとつSpecial Caskというのもあるが、一般には買えない。詳しくはウェブサイト参照。
4 ローカルすぎてよくわからないネタも多い。

ホバート旅行記 4 蒸留所めぐり – Lark Distillery

Lark Distillery Barrel

 タスマニアのウィスキーづくりはビル・ラーク(Bill Lark)から始まった。測量技師だった彼は、ある日マス釣りをしながらこう思う「タスマニアにはいい水があって、大麦があって、ピート(泥炭)があって、冷涼な気候がある。なんで誰もウィスキー作ってないんだろう?」そこで中古のポットスチル(蒸留釜)を買って、さてちょっくら作ってみるか、となったとき法律の壁にぶつかった。オーストラリアには1901年に採択された古い法律があり、そこで定められた蒸留量の下限が大きすぎて、事実上小規模生産が不可能だったのだ。彼は地元の議員にはたらきかけて、法律を改正することに成功し、92年に正式に蒸留所として認可される。ここにタスマニアのウィスキー作りの新たな歴史がスタートすることになる。

 彼の蒸留所Lark DistilleryのCellar & Barがホバート市内にある。(蒸留所もすぐ裏手にあるらしいが、現在は見学を中止しているようだ。)もしニッカの余市蒸留所や、サントリーの白州蒸留所などを見学したことがあるなら、そのイメージは一旦脇に置いておこう。ここは小さな蒸留所。大きさで言えば、余市で見学が始まる前に時間待ちする待合室くらいの大きさに全てが入ってしまいそうだ。それくらい本当にこじんまりした手作り感溢れる施設なのである。 

 

 ここ数年のウィスキーブームで小規模生産の蒸留所ばかりのタスマニア・ウィスキーは在庫がすっかり払底状態1)。このCellar & Barでもポケットサイズのボトルが1種類購入できるだけだったが、バーカウンターでは、年度違いやカスク違いをいくつか飲み比べることができる。英連邦としてのスコットランドとのつながりや、地元でピートがとれることから、ピートの効いた(煙っぽい)アイラっぽいテイスト2)かな、と思っていたら全く違った。ピートっぽさは全くない、クセの少ない優しい香りと味わいのウィスキーなのだった。

1 大規模生産者であるニッカでさえ、ウィスキーブームで需要があまりに高まり、余市、竹鶴などの原酒が払底するくらいなので、タスマニア・ウィスキーが手にはいらないのもむべなるかな、である。
2 大麦を乾燥させる過程で熱源に泥炭を使うと、その匂いがウィスキーに移る。煙い感じの独特なニオイで最初はぎょっとするが、慣れるとこれがないと物足りなくなる。スコットランドのアイラ島周辺で生産されるウィスキーはこのピート臭が強いものが多い。日本だとニッカの「余市」が比較的強い。

火事始末記(3)

現場今回の火事、火元は隣家であり、ウチは類焼で損害を被ったのだから、その損害は隣家が補償してくれるはず、と思いきや、実はそう簡単な話ではない。火事に関する法律(失火責任法)では、火元に重い過失がないかぎり、類焼によって生じた損害の賠償責任は負わないことになっている1)。この失火責任法は明治時代にできた法律で、当時は家といえばペラペラの木造、それがみっちりと密集して建っていたのだから、火事となれば一軒だけですむはずもなく、隣近所に類焼は避けられない。今のように保険が発達していたわけでもなく、火元だって財産みんな燃えちゃったとくれば、類焼の損害賠償は火元の家の能力をはるかに超えるのは必定。というわけで、よっぽど馬鹿なことをして火を出したのでない限り、補償の責任は負わなくて良い、ということになったらしい2)

火が出たとき隣にはお爺さんが一人。当人が亡くなってしまっているだけに原因がはっきりしない。寝タバコなのか、お湯を沸かしてるうちに眠ってしまったのか、ガス漏れか漏電か。消防署からもとくに「重過失」を疑わせる説明はない。重過失だ、として裁判に訴えるという手はあるけれど、裁判費用と実際にとれる(かもしれない)金額が見合うとも思えない。結局、隣家から受け取ったものは、お詫びに来たときに先方が持ってきた菓子折り一つだった。

 

1 「民法第709条 の規定は失火の場合にはこれを適用せず。但し失火者に重大なる過失ありたるときはこの限りにあらず」 (失火責任法)
2 今の時代にそれでいいのか、という議論はもちろんあっていいのだろうが、自分の家が燃えた政治家でなければ、この法律を改正しよう、という動機はなかろう。

ホバート旅行記 3 グランド・ビュー・ホテル

ホテル外観

 グランド・ビュー・ホテル(Grande Vue Private Hotel)は1906年に建てられたクィーン・アン様式の屋敷をリノベーションした小さなアパートメントホテルだ。クルマはホテルの前に路上駐車する。(駐車許可証をホテルが用意してくれる。)アンティークなドアをぎいと開けると廊下左手に暖炉を備えた居心地の良さそうなラウンジ。廊下右奥にあるフロント代わりの小さなカウンターでジョンさんが出迎えてくれる。ジョンさんは品の良いイギリス老紳士といった趣で、このホテルのオーナーだ。部屋は階段を昇った2階の奥の3号室。エレベータはないので、大きなスーツケースをよっこらしょと抱えて運び上げる

 ドアをあけた瞬間、部屋の窓いっぱいにホバートの港と大きく広がるサンディー湾が広がっている。湾にはヨットがあちこちに浮かんで、穏やかな波に揺れている。海のように見えるが、ここはまだ海ではなく、タスマニアの東側を南に向かってながれるダーウェント川 (River Derwent) の河口に近い場所で、ここからさらに数キロ流れてブルーニー島の北側で海に注ぐ。

グランドビューホテル
窓いっぱいにサンディー湾が広がる

 室内は青灰色の壁にアンティークのカーテン、クローゼット、ベッド。色ガラスの嵌った窓や建具もおそらく建設当時のものなのだろう。とても温かな雰囲気だ。シャワー、トイレ、ミニキッチンは新しいものが使われている。

マフィン
4時になるとできたてのマフィンが届く

毎夕4時になるとジョンさんの奥さん、アネットさんが手作りする、できたての香ばしいマフィンが部屋に届けられる。普段あまりマフィンって食べないのだが、夕方を心待ちにするくらい美味しかった。

一度、死んでみましたが

book cover
神足裕司著(集英社)

高次脳機能障害。この言葉を知ったのはおよそ2年前。親しい人が事故で脳に損傷を受けて記憶などに障害が残った。脳梗塞の後で半身不随というのはよく見聞きするが、外からは見えにくい脳機能の障害にはなかなか思いがいたらない。

人気コラムニストの神足裕司は、2011年9月に広島から東京への機内で重いクモ膜下出血を起こす。生死の境を彷徨う重篤な状態だったが、何とか一命をとりとめた。要介護5の障害が残るも家族や友人に支えられつつリハビリ中とのこと。自分で体を動かすことができず、話すことができない。記憶が混濁したり、短期の記憶を保持できなかったりする。でも書くことはできるのだ。ここに高次脳機能障害の複雑な側面を見ることができる。話すことができなくても、書ける。カラオケで昔の歌も歌える。でも、書いたものを覚えていることは難しく、自分の書いたものを見て、その都度記憶を再構築せねばならない。健常者はまったく意識することなく行っている日々の当たり前のこと(会話する、食事する、買い物をする、電車に乗る等々)がいかに複雑な脳のマルチタスクを必要とするかに気付かされる。それらが一箇所でも不具合を起こすと、当たり前は当たり前でなくなるのだ。

前にも書いたかもしれないが、ボクは何もわからないのではない。みんなの言っていることは、理解しているつもりだ。健常者に比べれば、ヘンなところがあるかもしれない。だが、すぐに思っていることが話せないだけだ。話したくても、言葉が出ない。病気になった人間には一人ひとりに人格があって、当たり前のことだけど、生きている。言葉は出なくても、しゃべれなくても、待っていてほしい。待てない人は、早合点しないで、そのままにしておいてほしい。先回りして何かを、「こうですよね!」なんて、勝手に決めてほしくない。(p.107 第2章 リハビリの日常)

エッセイで書かれる著者の等身大の日常に、僕らが普段の生活では気づかない視点をもらい、垣間見える家族の絆に温かな気持ちになる。彼にとって書き続けることがすなわち生きること。その足跡は本書だけでなく、いくつかのWeb媒体でも追いかけることができる。

コータリさんからの手紙(みんなの介護)

コータリンは要介護5(朝日新聞)

神足裕司 車椅子からのVRコラム(PANORA)

ホバート旅行記 2 空港からホテルへ

 タスマニア入りにはいくつかルートがあるが、今回はメルボルン経由でホバート (Hobart) に入る。ホバートはタスマニア州の州都であり最大の都市だ。最大といっても近郊も含めたエリアの人口は20万人ほど。タスマニア州は全体の人口でも50万人しかいないので、およそ半分がホバートに住んでいることになる。ちなみにメルボルンとシドニーがともに人口500万人くらいだから、タスマニアがいかにこじんまりした州なのかがわかる。日本で同じくらいの規模の市といえば島根県の松江市、東京でいえば台東区が該当する。

AIR 吉野家
空の上でもおなじみのオレンジ

 10月20日午前11時発の日本航空JL773便で成田を発ちメルボルンに向かう。飛行時間はおよそ10時間。日本発のJALは機内食に「吉野家」が出る。これが意外と美味しい。持ち込んだタブレットでジェイソン・ボーンのシリーズを立て続けに見て時間をやり過ごす。アルティメイタムが一番いいな。メルボルンと東京は時差が2時間1)あるので、メルボルン到着は夜11時。空港近くのホテルで一泊して、翌21日の12時40分発のカンタス航空QF1503便でホバートまで1時間15分。

 南半球のオーストラリアは初夏。ホバート空港は小さな空港だが木々や芝生の緑が鮮やかだ。飛行機を出るとタラップを降り滑走路脇を歩いてターミナルに向かい預け入れた荷物を受取る。空港で手配していたレンタカーに荷物を積み込み、いざ出発。オーストラリアは日本と同じく左側通行なので運転がラクだ。

Qantas Link
Qantas Linkというシャトル便。座席配置は3列-2列

 空港パーキングを出てA3号線・タスマンハイウェイに乗る。空港からホバート市内まではおよそ30分。タスマンブリッジ (Tasman Bridge) を渡ると長い坂道の先にホバートの港とダウンタウンの街並みが見えてくる。オフィスが集まる一角を抜け、波止場沿いの道を走ってバッテリーポイント (Battery Point) へ。バッテリーポイントは、19世紀にホバートが開かれた当初から入植者が住んだエリアで、今では港を望む高級住宅地だ。ところどころに古いビクトリア様式の邸宅が建っている。どの家もよく丹精された庭があり、春の花を咲かせた庭木が美しい。

1 オーストラリアが夏時間 (Daylight Saving Time) の場合。

ホバート旅行記 1 タスマニアへ

タスマニアの位置

 タスマニアはオーストラリアの南東の端っこにぶら下がるように位置する島である。日本で地図を眺めているときはそれほど大きくは見えない。2,3日もあればクルマで一周できるんじゃないかくらいの感じだ。でも実際には北海道の8割ほどの大きさだからかなり大きな島だ。

 多くの日本人にとってタスマニアといえば、タスマニアンデビルという恐ろしげな名前の動物のイメージだろう。世代によっては「タスマニア物語」という映画を思い浮かべるかもしれない。田中邦衛と薬師丸ひろ子が出ていた1990年の映画だ1)

 僕も旅行に行こうと思い立つまでタスマニアのことなど何一つ知らなかった。パタゴニアと混同していたくらいだ。(カタカナ5文字と南半球くらいの共通点しかない。)2017年秋のある日、日比谷線六本木駅に続く地下道で、「JALメルボルン線開設」と阿部寛がにっこり微笑む大きな広告ボードをたまたま目にしたのをきっかけに、そうだ、メルボルン行こう、と思い立った。そうだ、京都行こう、みたいなノリで。地図でメルボルンを眺めてみると、タスマニア島がいやでも目に入る。ほう、タスマニアね。面白そうだからちょっと足でも伸ばしてみるかな。

 調べてみるといろいろと面白い島だということがわかってくる。中でも興味深いのは、タスマニアでは近年ウィスキーづくりが盛んで、それもシングルモルトウィスキーを作っているということだ。シングルモルトウィスキーといえばスコットランドあるいは日本というのが定番で、オーストラリアのウィスキーなんて寡聞にして聞いたことがない。でも、2014年にタスマニアのSullivans CoveというウィスキーがWorld Whiskies Awards (WWA) のシングルモルト部門で最高賞を受賞している2)。ウィスキーブームに乗って世界的にも人気が高まっているが、各蒸溜所とも生産量が限られていて現地以外ではなかなか手に入らないらしい。うむ、これはウィスキー好きとして行かねばなるまい。

 

1 主人公が一流企業を辞めて絶滅したタスマニアンタイガーを探しに行くという陳腐な話らしい。制作はフジテレビ。
2 同年のブレンデッドモルトウィスキー部門ではニッカ「竹鶴」17年が最高賞である。

火事始末記(2)

二階はおおかた燃えてしまっているのに対し、一階は比較的いろんなものが残っていた。不思議なのは火元に最も近い一階の仏間がほとんど無傷だったことだ。雨戸が閉まっていたのが幸いしたのだろう。仏壇にある母の位牌もいつもと変わらぬ様子でそこに鎮座していた。母は生前から物事に動じない人であったが、位牌でもそれは変わらないようだ。

消防署の人がやってきて実況見分が始まった。父から出火時の様子を聞き取り記録書類を作っている。ろうきんの火災保険担当者がやってきて、御見舞を述べた後、同じように実況見分をする。全てが焼け落ちた「全焼」ではないが、今後の使用には耐えない「全損」という見立てで、保険金は満額支払われる1)はずだ、と言う。

火元の隣家に一人暮らしをしていたお爺さんがうず高く積もった残灰の中から遺体で発見された。昨晩から連絡がとれず「行方不明」になっていたが、逃げ遅れて家の中で亡くなったのだ。よく火事のニュースで「火元の家に住む誰々さんと連絡がとれなくなっています」と報道されるが、きっと大半はこういったケースなのだろう。半年ほど前に奥さんを亡くし、一人で暮らしていたらしい。どうにも気の毒でいたたまれない気持ちになる。

ずっと旅館にいるわけにもいかないので、まずは仮住まいを手配せねばならない。こういう時にインターネットの不動産情報は役に立つ。駅のそばにすぐに入居できる手頃な賃料のアパートが見つかった。ちょっと狭いが当座の寝起きには十分だろう。

並行して消防署に対して「り災申告書」の作成をする。被害額を確定し、その後の罹災証明の元になる書類だそうだ。動産、不動産に分けて詳細に情報を記入する。火事に気付いてすぐに屋外に逃げた父は、何を思ったか、周囲が止めるのも聞かずに家の中に取って返し、不動産や保険書類、預金通帳や印鑑といった貴重品が入ったバックを持ち出していた。怪我一つしなかったので今では笑い話で済むが、一歩間違えれば「行方不明」がもう一人増えていた可能性もあったわけで、決して褒められた話ではない。しかし、結果として、この書類のお陰でり災申告書の不動産部分の作成は比較的スムーズに進んだ。動産は記憶を頼りに金額が高そうなものからリストを作る。現金、冷蔵庫、テレビ、カメラ、貴金属、着物などなど。

父は退職後に鉄道模型趣味にどっぷりとはまり、二階の一部屋は複雑に分岐したNゲージ線路で埋め尽くされ、数え切れないほどの電車・機関車が走り回っていた。これら模型類はほぼ全てが灰と化しているので、被害額を記入する必要があるのだが、父はごにょごにょと言を左右にしてはっきり数字を言わない。よくよく問い詰めてみたところ、年金暮らしの身分でありながら、なんとン百万も使っていたらしい。まったく困った老人である。

火災現場
かつて鉄道模型が走り回っていた部屋

1 よく柱一本でも残っていれば「全焼」扱いにならず、保険金が大幅に減額されると言われるが、それは昔の話で、今ではより現実に沿った査定がなされるらしい。

Still Loving You (Scorpions)

大学1年のときに組んでいたバンドでライブ用の曲を決めているとき、ベーシストがぼそりと言った。「『Still Loving You』やろうよ。俺、別れた彼女ライブに呼びたいんだけど…」

いや~、どうなん、それ。あまりにベタなんとちゃう?と出かかった言葉を何とか飲み込み、何食わぬ顔で「あ、別にいいけど歌える奴いるかなぁ?」と答えた記憶がある。

スコーピオンズの84年発表のアルバム「禁断の刺青」(原題 Love at First Sting)1)の最後に収録されているバラードである。ルドルフ・シェンカー(リズムギター&作曲)とクラウス・マイネ(ボーカル)を中心として、おそらくアメリカ市場で大成功した唯一のジャーマン・メタルバンドだろう。ただ、僕の周りには、ルドルフの弟のバンド、マイケル・シェンカー・グループ(MSG)とセットで認知していたやつが多かったように思う。二人とも白黒に塗り分けたGibsonのフライングVを愛器としていたが、弟マイケルが技術的に難度の高いソロを繰り出すギターヒーローで日本では「神」と崇められていたのに対し、兄ルドルフはカッティングとリフに時折鋭さを見せるものの、ギタープレイより曲作りにその才能を発揮していた2)

その一方で、MSGがことごとくボーカリストに恵まれなかった3)のに比べ、クラウス・マイネのどこまでも伸びるハイトーンボーカル4)は圧巻で、男子大学生ではまるで歯が立たないのであった。当時のアマチュアバンドの曲決めは、a. ギタリストがコピーできる5) b. 男子ボーカルが歌える6)、の a x b で決まったが、スコーピオンズでbを満たすのは甚だ難しかった。結果として、MSGの曲はライブをやれば必ずどこかのバンドがプレイしていたが、スコーピオンズをコピーするバンドはほとんど見なかったように思う。

Still Loving Youは、多少甘ったるくてベタではあるけれど、今聞いても美しいバラードだ。でもやはりbを満たすボーカリストはおらず、結局当時の僕もやはりプレイしなかった。その後、ベーシストが別れた彼女とよりを戻したという話は聞いていない。

 

1 もちろん「一目惚れ」の意味の Love at first sight とサソリが刺す sting を掛けたタイトル。日本語タイトルの「禁断の刺青」ってなんだよ。まぁ、アルバムカバーのイメージにひっかけたんだろうけれど、それにしてもヒドい。
2 リードギタリストのマティアス・ヤプスはけっこう上手いのに、何故か全くギターヒーロー扱いされない。このあたりの扱いがBon Joviのリッチー・サンボラに似てる。
3 有名どころはグラハム・ボネットくらいだが、バンドの歴史を通じてろくなボーカルがひとりもいないというのは珍しい。
4 HR/HMボーカリストによくあるように裏声を表みたいにパワーをかけて発声するのではなく、ナチュラルに高音まで伸びるような声。歳を取って多少高域が落ちた感はあるが、もうすぐ70歳にならんとする今も健在である。
5 完コピを目指す心意気くらいは必要…たとえできなくても。
6 女子が歌うのは不可だった。

あなたの体は9割が細菌

私たちは微生物に宣戦布告した日に、そうとは知らず、微生物と数千世代にわたって結んできた共進化と共同生活の約束を一方的に破棄してしまった – あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた アランナ・コリン著 矢野真千子 訳 (河出書房新社)

書籍カバー

ヒトの遺伝子の数は21,000個。イネの半分、ミジンコより少ない。ではなぜこれだけ複雑で高度なからだを維持し動かせるのか。それは、数多くの重要な機能を、体内に共生する100兆個もの細菌に「アウトソース」しているからだ。アウトソースすることにより、自身が突然変異によってその機能を獲得するのを待つよりも遥かに早く「実装」できる。

体内に共生する微生物共同体(マイクロバイオーム)の重要性が注目されるようになったのはごく最近のことらしい。例えば、虫垂(盲腸)は、長いこと、ヒトの進化の過程で不要になったでっぱりだと思われていたが、微生物の隠れ家であり、免疫系の育成を担っているらしい。(え?11歳のときに取っちゃったんだけど…1)。)

アトピー性皮膚炎、喘息、食物アレルギーから鬱、自閉症に至るまで、現代病と言われるものの多くがマイクロバイオームのダメージと密接に関わっていることがわかってきた。1940年代を境に、抗生物質によって、天然痘、ポリオ、結核といった致命的な病気が治療できるようになり、平均寿命が急速に伸びた一方で、抗生物質の濫用2)によって体内の微生物共同体もまた大きく傷つき新たな病気を生み出していたのは皮肉なことだ。

本書は、現代の先進国で「健康」でいるために、マイクロバイオームも含めたトータルな「からだ」のバランスを維持することの重要性について認識を新たにさせてくれる。

1 虫垂炎自体も現代病らしい。
2 耐性菌の出現によって、抗生物質の濫用については問題意識が高まりつつあるが、人間だけでなく家畜にも大量に投与されており、人間の医療現場の問題に限定されるわけではない。