一度、死んでみましたが

book cover
神足裕司著(集英社)

高次脳機能障害。この言葉を知ったのはおよそ2年前。親しい人が事故で脳に損傷を受けて記憶などに障害が残った。脳梗塞の後で半身不随というのはよく見聞きするが、外からは見えにくい脳機能の障害にはなかなか思いがいたらない。

人気コラムニストの神足裕司は、2011年9月に広島から東京への機内で重いクモ膜下出血を起こす。生死の境を彷徨う重篤な状態だったが、何とか一命をとりとめた。要介護5の障害が残るも家族や友人に支えられつつリハビリ中とのこと。自分で体を動かすことができず、話すことができない。記憶が混濁したり、短期の記憶を保持できなかったりする。でも書くことはできるのだ。ここに高次脳機能障害の複雑な側面を見ることができる。話すことができなくても、書ける。カラオケで昔の歌も歌える。でも、書いたものを覚えていることは難しく、自分の書いたものを見て、その都度記憶を再構築せねばならない。健常者はまったく意識することなく行っている日々の当たり前のこと(会話する、食事する、買い物をする、電車に乗る等々)がいかに複雑な脳のマルチタスクを必要とするかに気付かされる。それらが一箇所でも不具合を起こすと、当たり前は当たり前でなくなるのだ。

前にも書いたかもしれないが、ボクは何もわからないのではない。みんなの言っていることは、理解しているつもりだ。健常者に比べれば、ヘンなところがあるかもしれない。だが、すぐに思っていることが話せないだけだ。話したくても、言葉が出ない。病気になった人間には一人ひとりに人格があって、当たり前のことだけど、生きている。言葉は出なくても、しゃべれなくても、待っていてほしい。待てない人は、早合点しないで、そのままにしておいてほしい。先回りして何かを、「こうですよね!」なんて、勝手に決めてほしくない。(p.107 第2章 リハビリの日常)

エッセイで書かれる著者の等身大の日常に、僕らが普段の生活では気づかない視点をもらい、垣間見える家族の絆に温かな気持ちになる。彼にとって書き続けることがすなわち生きること。その足跡は本書だけでなく、いくつかのWeb媒体でも追いかけることができる。

コータリさんからの手紙(みんなの介護)

コータリンは要介護5(朝日新聞)

神足裕司 車椅子からのVRコラム(PANORA)