Wanted Dead or Alive (Bon Jovi)

1984年にSuper Rock in Japanで初来日したBon Joviの記事を音楽雑誌で読んだのを覚えている。MSG、スコーピオンズ、ホワイトスネイクといったヘッドライナー級バンドのサポートといった扱いだったが、「若獅子」といった表現でとても好意的に書かれていた。そこから86年リリースの「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」(原題: Slippery When Wet)と88年の「ニュージャージー」(原題:New Jersey)で幾多の大御所バンドを飛び越えて、世界的スターダムに上り詰めるまであっという間だった。

殆どの曲は、ボーカルのジョン・ボンジョヴィとギターのリッチー・サンボラの共作で、この二人の組み合わせがこのバンドの全てといっていい1)。とくにリッチーのコーラスは、ボーカリストが二人いるといっていいほど強力で、他のHR/HMバンドを圧倒する魅力を見せる。ギタリストとしても、アコースティックからエレクトリック、バッキングから印象的なソロまで、どこをとってもハイレベルだと思うが、どういうわけか、ギターヒーロー扱いされない。確かに、技術的難度の高いソロをこれでもか、と繰り出すタイプではないけれど、若干気の毒である2)。「Wanted Dead or Alive」はそのトータルな実力を存分に発揮した曲で、12弦ギターのイントロから、サビのコーラス、ドライブサウンドに変わったあとのギターソロからアウトロまで、リッチーなしでは成立しない曲だ3)

リッチーは2013年頃からバンドを離れてしまったようだ4)。それ以前から、離婚や女性問題、アルコール依存症とその治療だとか、いろいろと身辺が騒がしくなっていたようでもあり、心身ともに無理がたたったのか、なんとなく予兆めいたものを感じていたファンも多いのではないだろうか。オールドファンとしては、できればいつか、もう一度オリジナルメンバーでのライブが見たい。

1 テレビへのゲスト出演やインタビューもこの二人だけ、ということも多い。
2 本人がどう思っているかはさておき、YouTubeのコメント欄を見ても、one of most underrated…というコメントがたくさん並んでいる。ソロアルバムではBon Joviよりずっとブルーズ寄りのプレイを聴くことができる。
3 時期によってコーラスの入り方や二人のパートの歌い分け方が少しずつ違うので、YouTubeでチェックしてみると楽しい。
4 公式なアナウンスはない。

Key West 旅行記 2 – 海上ハイウェイとセブンマイルブリッジ

seven mile bridgeマナティ湾を過ぎると1号線はキー・ラーゴ(Key Largo)に接続する。ここからフロリダ・キーズの島々を結ぶおよそ180キロが海上ハイウェイ(Overseas Highway)だ。もともとは鉄道が走っていたが、1935年のハリケーンで破壊されて廃線となったあと、用地と残った橋がフロリダ州に売却された。1940年代から旧道路からの付け替え、拡幅、現代的な橋へ架け替える工事などを経て1980年代にほぼ現在の姿になった。

ところでフロリダ・キーズ(Florida Keys)の keysは「島」を意味しているが、もともとは「小さな島」を表すスペイン語 cayo から転じた1)。島が「鍵」みたいに見えた、みたいな言い伝えがあるわけではなさそうである。島と島の間では海の上にハイウェイが伸び視界がぱっと開ける。大きめの島に入ると海は見えなくなり、両側にはスーパーやガソリンスタンド、レストランやマリンスポーツの店が点々と並び、どちらかと言えば退屈な風景がしばらく続く。それを交互に繰り返しつつ、クルマは順調に進む。

seven mile bridge
青い海と空を分けるようにまっすぐに橋が伸びる

海上ハイウェイのハイライトとも言えるセブンマイルブリッジは、ナイツ・キー(Knight’s Key)とリトル・ダック・キー(Little Duck Key)を結ぶ6.79マイル(10.93キロ)の橋だ。キー・ラーゴで海上ハイウェイに入ってから約60マイル、マラソン市(Marathon)を抜けたところに現れる。ゆりやかな上りと下りが連続し、真っ直ぐに海の彼方に伸びてゆく橋、左右は見渡す限りの海。噂に違わぬ絶景だ。もし可能ならオープンカーで幌を全開にして走りたい2)。世代によっては、鈴木英人やわたせせいぞうのイラスト3)をイメージするかもしれない。橋の終わりに、駐車場と公園があって、今走ってきた橋をクルマを降りてゆっくりと眺めることができる。

 

1 アメリカ人にとってもKeyが島を表すのは、耳慣れない用法のようである。どこかの質問サイトに「なぜFlorida Isles と言わないのか」という質問があった。
2 残念ながら僕はルーフも開かないミニバンだった。
3 二人ともフロリダをテーマにしたイラストはあるようだが、セブンマイルブリッジそのものを描いたものがあるかどうかは知らない。

Key West 旅行記 1 – Key Westへ

Sunset beach

2017年5月。オハイオ州にいる弟ファミリーを訪ねる用事があり、ついでに、フロリダまで足を伸ばしてみようと思いたった。地図を眺めてみると、フロリダ州は、アメリカを長方形とすれば右下の隅に位置する大きな半島で先端はキューバに近い。その半島の先に、抜き忘れた毛のように西に向かって小さな島々がひょろりと連なっている、その先端がキーウエスト。アメリカ本土最南端だ。キーウエストといえば、海の上をまっすぐ伸びていくハイウェイ、アメリカ最南端、常夏のマリンリゾート、ヘミングウェイ、といったキーワードが浮かぶ。5月末という時期も本格的な夏を迎える前でちょうどよさそうだ。うん、行ってみよう。

オーランドで数日過ごした後、キーウエストに向けてクルマで出発。予定走行距離620キロ。東京から西に向かえば岡山の手前、北に向かえば八戸の手前くらい距離だ。むむむ、そう考えると遠いな。それに海の上のハイウェイを走るのだから、景色を楽しめる時間に通過せねばならぬ。暗くなってから、みてごらんいま海の上だよー、と言っても冷たい沈黙が車内を支配するであろう。急ごう、急ごう。というわけでオーランドを早朝に発って一路南へ、フロリダターンパイクをひたすら南下する。フロリダターンパイクはマイアミ近郊とフロリダ州中央部および南部をつなぐ大動脈。道幅も広く快適なドライブを楽しめる。

途中、PGA本部1)のあるパームビーチガーデンズ(Palm Beach Gardens)を右手に見ながら進み、デルレイビーチ(Delray Beach)方面の看板を通り過ぎる。2007年に、当時18歳、ランキング244位の錦織圭が、アメリカプロツアーにおける衝撃的な初優勝を飾った場所だ。高級避寒地フォートローダーデール近郊をすぎると、道はマイアミ市内を避けるようにゆるやかに西に進路をとり更に南下する。お昼を過ぎたので、一般道に降りてマイアミ国際大学そばの中華料理屋でランチ。この大学も、アメリカの大学がほとんどそうであるように、キャンパスが広大で気持ちが良い。調べてみたところ、俳優のアンディ・ガルシアが卒業生だそうだ。彼もこの中華料理屋で大盛り天津丼を食べただろうか2)

ホームステッド(Homestead)という町のはずれで道はインターステート1号線と合流。間もなくマイアミ半島を離れ、いよいよフロリダ・キーズ(Florida Keys)とよばれる小さな島々をつなぐ海上ハイウェイに入る。この1号線の最果てがキーウエストだ。

1 ゴルフをする人にはおなじみ。
2 たぶん食べてない。

Still of the Night (Whitesnake)

1987年の「白蛇の紋章〜サーペンス・アルバス」1)を聞いたときの衝撃は鮮明に覚えている。全編、息苦しさを覚えるほどの緊張感と疾走感が続き、ふと気が緩む「捨て曲」みたいなものがない。デイヴィッド・カヴァデールのボーカルは、ブルージーな哀愁を漂わせつつ、圧倒的パワーで魂を鷲掴みにする。ジョン・サイクスのギターは、凍てつく冬のような暗さを湛えて、どこまでもうねり疾走する。聞いた瞬間に、ああこれは歴史に残る名作になるんだろうな、と確信するアルバムだった。

ハードロックバンドには、ボーカルとギターの間にバチバチと火花が散るくらいの緊張感が欲しい。強力なボーカリストには、それに見合うだけのパワーを持ったギタリストが必要だ。その点、カヴァーデルとサイクスはいい組み合わせだった。もちろん両者の力が拮抗すればするほどバランスは微妙になり、結果として短命に終わることが多いけれど(そして事実この組み合わせもそうなったけれど)、それでもその緊張2)だけが生み出せる音楽があるのだと思う。

と、こぶしを握りしめて力説しているそばから、金髪グラマーなお姐さんが出てきて意味不明に踊ったりしているPVはどういうわけだろうか。ホワイトスネイクのビデオの大半はこんな感じで赤面ものなのだが、どうにかならんものか。演奏シーン3)だけで十分格好いいのに。

1 例によって意味不明な日本語タイトルがついている。アメリカ版が「Whitesnake」、ヨーロッパ版は「1987」。
2 2000年代以降(とくにダグ・アルドリッチが抜けてから)は、こういう緊張感はすっかりなくなってしまった。きっと若いギタリストにとってはカヴァーデルが大御所になりすぎ、彼自身も、自分を脅かすほどのギタリストを抱え込むパワーがなくなっているのだろう。
3 「Still of the Night」のPVに出ている面々は、カヴァーデル以外はこのアルバムのレコーディングには参加していない(ヴァンデンバーグは「Is This Love」のGソロで参加)。僕としてはこちらのビデオのメンバーが一番良かったように思う。

Don’t Look Back (Boston)

トム・ショルツには、マサチューセッツ工科大学(MIT)卒業、という肩書がつねについて回る。でもそれは、単に、ロックの世界では相当珍しいバックグラウンドである1)というだけでなく、彼の音楽を正しく形容しているとも言える。

1976年のデビュー・アルバム「幻想飛行」(原題 Boston)の元になったデモテープは、ほとんど彼一人で制作され、信じられないほどのクオリティだったのは有名な話だが、その後のアルバムもほぼ同様で、ボーカルパート以外は彼一人で作っている。完全アナログの時代にあって2)、何重にも音を重ねて重ねて、あの1ミリの隙もない壮大なボストン・サウンドを作り上げるところなど、まさにオタクの極みであって、「MIT」という肩書が実にしっくり来るのである3)

Don’t Look Backは2枚めのアルバムとして1978年リリース。製作期間が短かったせいか、一枚目ほどの緻密さは感じないけれど、アコースティックからハードなディストーションまで全編トム・ショルツサウンドは変わらない。曲の中盤から盛り上がりにかけてヘヴィなギター中心に壮大なオーケストレーションで迫ってくる。特筆すべきはメロディラインの美しさ。ブラッド・デルプ4)の透明で、同時に必要なところではしっかりパワーも出るボーカルとコーラスがそれを見事に活かしている。

日本でボストンのコピーバンドっていままで一度も見たことがない。まずトム・ショルツの音5)を再現するのが一苦労。加えて、Dr、B、G2台、Key(二人?)、ハイトーンボーカル、コーラスと編成が大きくなるから、メンバー揃えるのは至難の業だろう。

1 ブライアン・メイの天体物理学博士と並ぶ。この二人が共通して、緻密なオーケストレーション好きで、機材自作好きというのは偶然ではなかろう。
2 もちろんPro Toolsなんてまだない。
3 2014年10月の来日公演で、MITのロゴ入りTシャツ着てたし。
4 残念ながら2007年3月に自殺でこの世を去ってしまった。
5 エフェクター類もほとんど自作している。昔、Rockmanというブランドで彼の設計したエフェクターやプリアンプなどが販売されていた。使ってみたことがあるが、いきなりあの音が出て驚いた。

ホバート旅行記 6 ボノロング野生動物保護施設

Bonorong Wildlife Sanctuary

タスマニアと言えばもちろんタスマニアデビル。この恐ろしげな名前の動物を見ずにタスマニアに行ってきましたとは言えぬ。写真を見ると、小型犬くらいの、真っ黒い、クマのような風貌の、やや恐ろしげな雰囲気の動物である。タスマニアの固有種とはいえ、タスマニアに行けば、どこでも見られる、というわけではない。タスマニアデビルは絶滅危惧種に指定されており野生の個体数は急速に減少している。夜行性で、死んだ動物の肉を食べる習性があるため1)、クルマに轢かれて死んだワラビーなどの動物を食べようと道路に出てきて、自分も轢かれてしまうという事故が多いらしい。また、20年ほど前から、デビル顔面腫瘍性疾患(Devil Facial Tumour Disease, DFTD)という伝染性の癌が急速に広がっていて、個体数の減少に拍車をかけている2)

ボノロング野生動物保護施設は、動物園ではない。タスマニアデビルをはじめ、ウォンバット、ハリモグラなどタスマニア、オーストラリアの固有種(おおくは有袋類)を救助、保護、リハビリ、そして可能な限り野生に帰すプログラムを行う保護施設だ。自由に施設内を見学できるほか、職員による説明付きツアーなどもある。ここには十数匹のタスマニアデビルが保護されていて、タイミングによっては間近で見ることができる。

餌につられて出てきた

ちょうど餌やりのタイミングにぶつかったようで、職員の女性が餌を入れたバケツを持って区画に入ると、横穴からにゅっと黒い動物が現れた。餌につられて穴の外に出てくるけれど、肉片をくわえてすぐに穴の中に戻ろうとする。夜行性なので昼間はあまり外に出たくないのかもしれない。気まぐれにあちこち動き回ると、まもなく穴に戻っていった。デビルの年齢や、健康状態に応じて、いくつか区画わけがされていて、それぞれに何頭かのデビルがいるようだ。

ダンボールが大好き

デビル以上に見学者に人気だったのはウォンバット。コアラをずんぐりの樽型にしてふかふかの毛皮をかぶせて木の上から地上におろしたような、なんともかわいらしい姿3)。人間に撫でられたり抱っこされるのがどういうわけか大好きのようだ4)。フォレスターカンガルーは園内いたるところにいて、餌やりができる(というより餌をもっているとぬ~っと向こうから寄ってくる)。100歳を越えたオウムや、ヘビ、ハリモグラも見ることができるので、動物好きなら、半日くらいは時間をとってぜひ訪ねたい施設である。

1 この屍肉を食べる習性とその鳴き声からデビルの名がついたとも言われている
2 2016年8月31日付けAFP記事によると、タスマニアデビルは、非常に急速な遺伝子進化を通して絶滅の危機から立ち直りつつあるとみられるとの驚くべき研究結果が30日、発表された、とある
3 コアラに一番近い親戚らしい
4 この施設ではないが、撫でてもらえなくて鬱になったウォンバットが話題になったこともある

More (アースシェイカー)

ギターもそこそこ弾けるようになってきたところで、よし、バンド組もう。メンバーも皆、技術的には同じようなレベルだ。さて、何をやろうか。となったとき、80年代後半のバンドマン(HR/HMバンド)にはピアノでいう「バイエル」1)とも言える選択肢が用意されていた。洋モノならディープ・パープルのSmoke On the Water か Highway Star、和モノならアースシェイカーのMoreである。

80年代は多くの和製メタルバンドがデビューし、人気を博した。その中でも横綱級がラウドネス、Vow Wow、そしてアースシェイカーだったように思う。いずれのバンドも強力な看板ギタリストを擁していたが、その中でもアースシェイカーの石原慎一郎は、メロディアスな泣きのソロと堅実かつ印象的なリフで、ビギナーでも何とかついていけるんじゃないかと思わせるプレイスタイルだった。(ラウドネスの高崎晃は、速弾きとライトハンド奏法を駆使したトリッキーなソロで初心者には弾ける気がしなかったし、Vow Wowの山本恭司はフロイドローズならではの大胆なアーミングと速弾きでこれまたハードルが高かった。)

学園祭に行くと、どこかから必ずこの曲が聞こえてくるくらい、誰もが知っている曲だった。ギター単独で始まる、短調の半音階で下がっていく印象的なイントロはギタリストなら一度は演奏したいと思わせるカッコよさだし、「人を憎む弱さを見た」で始まる歌も、どこかモノクロームの映画の始まりのような雰囲気があった。アースシェイカーの曲は総じて、ゴリゴリのヘヴィメタルよりは、もっと耳馴染みの良いメロディに甘さ切なさをのせた感じで、メタル原理主義に走りがちな当時の若者の中には毛嫌いする奴もいたけれど、そういうケツノアナの小さいやつは放っておけばよろしい。99年に再結成後、オリジナルメンバーで活動している。今年は機会があればライブ行ってみたい。

1 易しい、というよりそれなりにサマになるレベルで演奏できそう、という意味で。

Jump (Van Halen)

エドワード・ヴァン・ヘイレンは、80年代はじめにはもうすでに、無条件にすごい!ということになっていて、そこに疑問を差し挟むことは不可能な存在だった。いわゆる「ライトハンド奏法」であったり、部品をあちこちから調達して自分で組み上げた「フランケンシュタイン」という名のギターであったり、盛大に歪んでいるようでいて粒立ちのはっきりした一聴してわかる音作りであったり、独特のタイム感であったりと、その高い評価はすっかり確立し、ギター雑誌で語られない号はなかった。

僕の周囲のヴァン・ヘイレン好きは総じてキーボードの入ったHR/HMバンドを「軟弱」呼ばわりし、エディのギターがあればキーボなんて邪魔、みたいなことを言っていた。そこにアルバム「1984」とシングルカット曲「Jump」が登場する。当の御大が、にこやかにシンセサイザーを弾き倒す1)ミュージックビデオが連日流れたのだから、あらビックリである。

僕はと言えば、この「1984」とそれに続くサミー・ヘイガー時代になって、はじめてヴァン・ヘイレンっていいなと思うようになった。それまでは正直あまりピンとこなかったけれど、世間の(というかサークルだとかバンド仲間の)高評価に阿るように一応聴いてます、みたいな立ち位置だったのだ。今思うと、単純にデヴィッド・リー・ロスのボーカルがあまり好きじゃなかっただけで、「1984」の前も後もエディのギターは変わらず格好いいのだが。

ところで、デヴィッド・リー・ロスが復帰した2013年の武道館公演に行って驚いた。まぁよく声が出てうまいのなんの。加えて、KONISHIKIをフィーチャーした10分近い時代劇風寸劇ビデオみたいなものまでつくって観客を楽しませていた2)。彼は初めから、ロックボーカリストというより、エンターテナーだったのだと思い知った一夜であった。

1 ビデオではギターソロの後に続くキーボードソロで楽しそうに弾いている。それにしても弾いてるシンセがホコリだらけで妙にきたないのが面白い。撮影時に誰か気づかなかったのか。
2 あと、妙に日本語が上手い。真偽は定かではないが、活発に活動していなかった時期には日本にしばらく滞在したりしてたらしい。

もたない男

もたない男書影
中崎タツヤ著 新潮文庫

いつの頃からか、身の回りのものを大幅に減らしてすっきりさせたいなぁ、と思い始めた。「立って半畳寝て一畳」的ミニマリズムへの憧れなのだろうか。そこでいわゆる「断捨離」、「ミニマリズム」みたいな本をいくつか手にとってみたのだが、なんだろう、どうにもダメだ。しゃらくさい美学とか生き方みたいなものが鼻について、素直に読めない。どこか違うんだよな~という感がつきまとう。

そこにやってきたのがこの本だった。で、わかった。しゃらくさいのは、己自身であった。もたない男、中崎タツヤは、その「どこか違うんだよな~」などと言う私の小理屈を粉砕して通り過ぎていってしまった。

ものを捨てることは、私にとって主義でも美学でもありません。捨てることが主義・美学だったら、自分の「したぞ」「やったよ」という達成感、カタルシスみたいなものがあるかもしれないけれども、私がものをすてることと、そういう感覚とは全然関係がありません。無駄が嫌いなんです。スッキリしたいだけだと思うんです。(P.69 第二章 なぜすてるのか)

歳をとってものを捨てたいといっている人たちの多くは、捨てたいのではなくて、整理したいんだと思うんです。(P.136 第三章 もたない生活)

いま、捨てたくても捨てられない人たちのための本が売れているようですが、私は、捨てずにはいられないんです。(P.168 第四章 もたない人生)

究極の、あるいは生まれながらの、もたない男の前では、私は頭を垂れて、理屈をこねまわしていた己を恥じる。ぐだぐだ言っている暇があったら、まずは机の上のしばらく触ってもいないもの1)から捨てねばならぬ。

1 ほとんど全て

火事始末記(4)

年末までおよそひと月をかけて、仮住まいのアパートで必要最低限の寝具家具を揃え、保険金の支払い・税金の減免手続きなど各種手続きをすませ、父はなんとか生活のリズムを取り戻した。しかし、まだ後処理の大物が残っている。燃えた家の解体である。よく人が住まなくなった空き家はあっという間に傷むというが、焼け跡はそれに輪をかけて、まるで時間を早回ししているかのように朽ちていく。残された窓枠は歪んで風に吹かれてギイギイと音を立て、燃え残ったカーテンがお化け屋敷のように垂れ下がり、一階に残った家電にはあっというまにサビが広がり、雨風とともに家中が灰と炭と砂に覆われてモノクロームの中に沈んでゆく。こんなものが近所にいつまでもあったのでは周囲の家はたまったものではない。なるべく早く解体撤去せねばならない。

いざやってみてわかったが、家の解体、撤去というのは、思いのほかお金がかかる。建坪に解体単価をかけて基本的な費用が算出されるが、そこに廃材や家の中に残されたもの撤去・処理、庭の植木の撤去・処理、盛り土やスロープの処理、場合によっては浄化槽や下水配管の処理などが加わる。重機の搬入の難易によっても費用が変わる。さらに複数の業者が競争するというより地域によって縄張りを分けているようで、相見積もりをとって安いところを、なんて、ヨドバシかビックかみたいなことも難しい。我が家の場合、建坪が比較的大きかったり、中途半端に燃え残ったものが多かったりしたせいで費用が膨らみ、ン百万の出費となった。

land pic
何もなくなると妙に広い

解体撤去は年が明けた1月半ばに始まり、およそ一週間で焼け跡は更地に戻った。更地に戻ってみると土地は思いのほか広く、キャッチボールでもして遊べそうな様子である。何もなくなった敷地を眺めながら、やれやれという安堵、すっきり片付いた喜び、そこに一抹の寂しさが入り混じった複雑な気持ちを味わった。